〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月3日 『沖縄人のための野戦病院』

敗残兵の夏東恩納博物館胡屋野戦病院

米軍の動向

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END OF THE FIGHTING FOR NEWLY-WON OKINAWA--Okinawa didn't bring the last of the bad weather, as this picture of a deeply bogged bulldozer will attest

勝利で終わった沖縄戦。ぬかるみに深くはまったブルドーザーの写真が示すように沖縄では天気の悪い日が続いている。(1945年8月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 泡瀬飛行場

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泡瀬通信施設の南側 (赤色) の部分は1983年に返還。

沖縄戦証言 中頭郡 - Battle of Okinawa

泡瀬飛行場と通信施設 - 泡瀬飛行場は戦後使用されなくなり、米空・海軍の通信施設として継続、1974年に空軍施設側にICBM (大陸間弾道ミサイル) 用のレーダーが建設されていたことが判明し、1983年までには空軍側の敷地のみが返還された。

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This radar for searchlights was ready to track Japanese planes if they came over Awase Airfield area on Okinawa, Ryukyu Retto. The operator of the SCR 268 radar is at the scope checking the equipment. The 800 million candlepower searchlight can be seen in the background ready to spring into action, throwing its carbon arc beam 30,000 feet.

このサーチライト・レーダーは泡瀬飛行場上空に飛来した日本軍機を追跡する準備ができている。SCR268レーダーの技師は設備のチェックをしている。8億燭光のサーチライトは3万フィートのカーボンアーク・ビームを投げかけ、いつでも作動できるようになっている。(1945年8月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

歩兵第32連隊 - ある歩兵中隊長の死

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。敗北が決定的となった後も、日本軍は戦いを続け、さらなる悲劇を生む。

沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~|NHK 戦争証言アーカイブス

国吉台地に潜む敗残兵たちは終わりなき戦いを戦っていた。

伊東の友人だった砲兵中隊長は、観測班と共に壕の中にいた。… 彼は乱戦によって部下の砲隊と遮断され、手元の兵を次から次へと伝令に出し、最後の兵も出したが、いずれも戻らなかった。孤独に苦しみ、2か月にわたる陰湿な洞窟生活がそれに拍車をかけ、とうとう熱病にかかってしまった。

「おい、貴様も身体を大事にしろよ」と、伊東に向かって時おり、不気味な笑みを浮かべながら話しかける。

「わかった、わかった」と答えるものの、伊東とて我が身を大切にする何らの手立てもない。

彼につけた当番兵は心配し、米軍の食糧や民家から拾ってきた味噌などで、懸命に食事の準備をしたが、なお不満そうだった。大隊長である伊東さえ、味噌など一口もありついていない。そのうち、味噌汁を勧めてもひと口も飲まなくなった。まれに熱が下がって気分が良さそうなときには、

「俺も永くないよ」と、決まって言うようになった。頬はこけ、エヘエヘと不気味に笑う。不思議と眼は大きく開いていたが、瞳は力を失っていた。うわ言で母親や、最後に出した伝令の名を呼ぶこともあった。伊東が水浴に出かけている間に、彼は死んだ。胸が締め付けられる思いだった。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 263-264頁より》

  

そのとき、住民は・・・

東恩納博物館

沖縄戦では多くの文物が焼失し、また戦利品として海外に持ち去られた。そんな中、東恩納の小さな民家が展示館としてスタートし、沖縄県立博物館の母体となる。

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沖縄の歴史的建物が“シロアリ”“老朽化”で取り壊しへ…【沖縄発】

東恩納博物館は、米軍人・軍属に沖縄の文化・民俗を理解させることを目的として、当時の米軍政府教育担当のハンナ少佐が焼け跡から蒐集した戦前の陶器、彫刻、織物、漆器などを展示し、1945(昭和20)年8月、東恩納に開設されました。当初は「東恩納陳列館」という名称でしたが、1946(昭和21)年4月、同じく東恩納に設立された沖縄民政府の発足に伴い「東恩納博物館」と改名されました。1953(昭和28)年、首里郷土博物館と統合されて「首里博物館」となり、これが現在の沖縄県立博物館の母体となっています。博物館の建物は、米軍政府のコンセットが建ちならぶ中に、戦災にあわずに残っていた瓦葺きの家屋を修理し、その並びにもう一軒増築して使用していました。屋敷は粟石で囲い、その一角に池を掘り、日本風の庭を造ったといわれています。

うるま市指定の文化財 うるま市

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文化施設/創立当初の東恩納博物館 : 那覇市歴史博物館

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1945年8月、沖縄を占領したアメリカ軍のウイラード・ハンナ少佐は、沖縄の文化の高さをアメリカ兵やその家族に知ってもらおうと、戦災を逃れた文化財を集め、東恩名の民家を改造し「沖縄陳列館」を開館させました。後にその名を「東恩名博物館」と改めた博物館には、沖縄の伝統的な漆器や仏像などが展示され、現在の県立博物館の前身となりました。沖縄の文化を今に伝えたこの建物は市の文化財となりましたが、県や市からの特別な補助はなく、家主がひっそりと守り続けています。 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月3日(金)

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A BELL FOR OKINAWA, Ryukyu Retto - Famous in Okinawa's history which connects the past with the present is this huge bell which hangs in the courtyard at the Ishikawa Exhibit on the north central part of the island. Believed to have been cast by the Japanese, the bell was placed in the Enkakuji Temple at the foot of Shuri Castle in 1945 where it was used twice daily to give a report of the times and remained until the spring of 1945. In style the bell is heavily studded, embossed and engraved. The bell is a favorite with Okinawan children in the Ishikawa Village, who keep the area around it clean at all times.
今と昔を結ぶ沖縄の歴史において有名な石川展示場(東恩納博物館)の中庭に掛かる大きな鐘(円覚寺前鐘)。日本人によって鋳造されたとと思われるこの鐘は1945年には首里城ふもとの円覚寺に設置され、その年の春まで日に2回時を告げるために使われていた。地元の子供たちは装飾や浮き彫り、彫刻がなされたその鐘がお気に入りで、いつでも周りをきれいにしている。撮影地: 石川 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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事実は、『オキナワ イグジビット』という英語の名前でしたから『沖縄展示場』程度のものですよね… 戦争で破壊されたところから残ったものを見つけて持ってくる…、あるいは破壊されないようなところ、例えば金武のお寺から仏像を持ってきたりとか、そういうところから集めて展示した。
沖縄戦で多くの寺社建造物が消失した中、戦火を免れた金武観音寺。本堂に佇む4体の仏像は戦後しばらくの間、東恩納博物館に移されていた。当時、貴重な文化財戦利品として沖縄から持ち出されたケースは少なくなかった。しかし東恩納博物館に移された事で破壊や流出が免れたのだ。

沖縄の歴史的建物が“シロアリ”“老朽化”で取り壊しへ…【沖縄発】

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米空軍: AIRMAN HEARS STORY OF GODDESS OF MERCY - Sergeant Phil C. Geraci, of Frederick, Maryland, a photographer assigned to the 1st Air Division, sits in front of a Buddhist temple in the Ishikawa Exhibit house and listens while an Okinawan guide explains that the temple was constructed of ”daigo”, a very light weight local wood, by a famous Japanese artist named Kumakai who disappeared in Okinawa during the war. The figure represents Kwannon, the Goddess of Mercy. Other objects of Okinawan culture are seen on the altar. Okinawa, Ryukyu Retto.
石川展示場(東恩納博物館)内仏教寺の前に座り沖縄人案内の説明に耳を傾ける第1空軍カメラマン、ゲラーシ三等軍曹。この寺はとても軽いデイゴの木で造られており作者は戦争中行方不明になった有名な日本人芸術家クマカイである。像は慈悲の女神観音様である。祭壇には沖縄文化を象徴するその他のものが見られる。石川 1948年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

沖縄人のための野戦病院

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久志の米軍野戦病院

… 私が入院した米軍の第13病院は、久志村豊原と辺野古の中間、より正確に言うと辺野古坂寄りに建っていた。私はそこで三カ月余の入院生活を送ることになる。(105頁)

... この病院は、島尻(沖縄島南部)の激戦地から送られてくる沖縄人負傷者のために急遽設置された「C13海軍病院」だと聞かされた…。(106頁)

... 病院のスタッフは、海軍軍医大尉を院長に10人内外の看護兵が、ABCDの4つの大型テントで、百四、五十名ほどの負傷者の治療に当たった。各テントには村の娘さんたちが看護婦見習いとして、4、5人配置されていた。軍作業のハシリであろう。そのほかに炊事場で働く10人ほどの婦人たちがいた。炊事場には活気があった。歌声が流れていた。体内の鉄片を取り出して人心地がついた私は、歌声の明るさに、なかば驚きを覚えていた。疲労困憊した心身に、にわかに射し込んできた陽光に似ていた。病院の広場で米兵と子どもたちが、笑い、叫びながら走り回っている。看護婦見習いの娘さんたちも米兵からアメリカの歌を習っている。米兵に恐怖や憎しみの目を向けるものはいない。ここでは米兵は、もはや〝敵〟ではなかった。(107頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 105、106、107頁より》

 

胡屋野戦病院

4月4日、胡屋十字路、コザ・マリンキャンプに隣接して設置された胡屋野戦病院は、やがて現在の沖縄県中部病院の前身となる。

7月19日に知念半島の収容所で敗残兵に襲撃され重傷となった3人は久手堅収容所から胡屋の野戦病院に送られた。

敗残兵に襲撃され7月20日から11月まで胡屋野戦病院にいた男性の証言

私たち夫婦に両親伯母の五人がアンブランスで玉城村の百名のテントの仮収容所へ運ばれていった。そのとき米兵の看護人が肉厚の白い大きいコーヒー碗にあついコーヒーを入れてのませてくれた。足は副木を当てたままで繃帯されたがどす黒く血がへばりついて固くなっていた。翌朝私たち夫婦と伯母が重症だったのでアンブランスでゴヤ十字路附近の民家に設営された陸軍病院へ移されてここで11月まで5ヶ月間この病院に入院生活を送ることになった。

病院といってもゴヤの部落の中で残存家屋を使った越来村の役場附近の畑の中に兵隊のテントが張られたりして大きな野戦病院だった。私たちがいる間、南部戦線からたくさんの負傷者が送りこまれてきた。壕から直接かつぎこまれた病人もいたが、その人たちはあくる日は埋葬のため運び出されていった。アメーバ赤痢のおじさんが運ばれて私のベッドのそばに一晩いたが、夜中看護婦たちがヒソヒソ話をして注射をしていたようだが、翌朝は動かなくなりとうとう死んでいた。そしてその人がもってきた行季はあけられ看護婦たちが持ち出していった。

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米海軍: Civilian burial on Okinawa in Ryukyus. Military Government hospital personnel at Koza burry civilians according to native customs, if relatives. If not, burials were simple.
沖縄本島で行われた民間人の埋葬。コザの軍政府病院の職員が、地元の慣習に従って、親類のいる民間人を埋葬しているところ。親類がいない場合には、簡素に行われた。  コザ 1945年 5月 20日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米海軍: R. H. Winters, PhM3/c, examining the throat of a small boy at Koza, Okinawa.
小さな男の子の喉を検査するウィンターズ衛生兵。沖縄本島のコザにて。 コザ 1945年 8月4日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

上の写真は民家と石垣の様子から、コザの孤児院ではないかと思われる。写真左側に設置されたマスに小さな子どもたちが何人も入れられている状態が確認できる。

敗残兵に襲撃され7月20日から11月まで胡屋野戦病院にいた男性の証言

となりのテントには、2-3才位の子どもたちがひろわれてきて収容されていたが、やせこけた体で裸にされ寝台にねて、泣いていた。三〇名位いた、この子どもたちも次々埋葬のため運び出されていった。大きな台風があり私たちは瓦ぶきの民家にテントが立つまでそこのウラ座にいた。

その台風のときズブ濡れの米兵が夜中から入りこんできたのでびっくりした。17才位の少女が高熱におかされて入院していたが米兵におかされるのをすぐ枕元のテントでみていた。看護婦もアレヨアレヨとさわぎ立てたがとうとうどうすることもできなかった彼女は二、三日後に高熱のためとうとう帰らぬ人となった。私たち目撃者はあれから夜も安心してねられなかったまた黒人におそわれたある島の中年婦人は骨折で入院していたが顔も傷だらけだった。

戦争証言証言編 (第2版) 』南城市 (2021年) - Battle of Okinawa 

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米国海軍 G-6 hospital 61 at Koza, Okinawa, Ryukyu Islands. ComPhibPac #264.
Primitive laundry.
コザにあるG-6区第61病院。原始的な洗濯施設。 コザ  1945年5月15日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

また、「基地軍隊を許さない行動する女たち」がまとめた「米兵による戦後沖縄の女性に対する犯罪」リストには、宜野座野戦病院に収容された重傷の女性を MP が強姦するのを沖縄人労働者が目撃している。参照

  

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その時、本土は

海上封鎖の打開策は松ヤニ増産? 1945年8月3日はこんな日

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 「米兵による戦後沖縄の女性に対する犯罪」archive