1945年 6月24日 『敵は米軍ではなく友軍だ』

掃討作戦

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夜間の敵の反撃を防ぐために日没直前に張り巡らされた有刺鉄線。これが敵の狙撃手の侵入を困難にさせる。(1945年6月24日撮影)

The rolls of barbed wire, strung up shortly before dusk, will help prevent an enemy counterattack during the night. The wire will make it difficult for infiltrating snipers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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第505高射砲大隊のD中隊の周りに張り巡らされた有刺鉄線の防御システム。後方に見えるのは機関銃。(1945年6月24日撮影)

A barbed wire defense system has been erected around D Battery, 505th AAA Bn. The machine gun is in the background.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

  

そのとき、住民は・・・

轟の壕

沖縄県知事の島田叡と警察部長の荒井退造が6月中旬までいた轟の壕には、まだ多くの避難民と残された県庁や警察職員がいた。そこへ日本兵たちが入ってきた。

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轟壕(とどろきごう) | たびらい

『…陸軍の大塚曹長を隊長とする15、6人の日本兵の一団がなだれ込んだ。全員、きちんとした軍服、銃剣などで武装しており、避難民は一瞬、自分たちや壕を守ってくれるのでは・・・と期待したが、それは大いなる錯覚だった

兵らは避難民を全員、川下の湿地帯に追いやり、自分たちは川上の居心地の良い乾燥地帯に陣取った。さらに民間人の居る場所との境に石や木でバリケードを築き、出入口近くに歩哨を立て、だれも壕外へ出ないよう厳重に見張った。民間人が壕を出て米軍の捕虜になった時、軍人が壕内に居ることがわかるのを恐れたのである。避難民の受難が始まった。』(380頁)

県警察部の女性職員の証言:

『「友軍の兵隊が避難民のところへ、食糧あさりに来るのです。住民は皆、虎の子の食糧を小さな包みにして持っていましたが、銃剣で脅して、それを取り上げて行くのです。おまけに住民はイモやサトウキビすら取りに出られなくなり、飢えに苦しみました

糸満のオバア(お婆さんの庶民的な呼び方)が上は7歳、下は4歳ぐらいの2人の男の孫を連れて川下にいました。孫は『ハーメー、サーターカムン(お婆ちゃん、黒砂糖が欲しい)』と言って泣いていました。オバアは手ぬぐいにくるんでいた命の綱の黒砂糖を少しずつ孫に与えていたのですが、食べてしまうと『ナーヒンカムン(もっと欲しい)』と泣くのです。すると、兵隊がやって来て『泣かすなッ。この壕に人が居るのが敵に知られてしまうじゃないか。今度、泣かしたら撃つぞッ』と脅しました。気配を察した子供は、その時だけは黙るのですが、また泣く。兵隊が再びやって来て『いくら言っても分からんのかッ。なぜ泣かすのだッ』と言い、理由がわかるとオバアの黒砂糖を取り上げました。その時、下の子が『これは僕らのだ』と言って兵隊に飛びかかったのです。兵隊はこの子を銃で撃ち殺しました。オバアは目の前で孫が殺されても、恐ろしくて声を出して泣くことも出来ない。回りの人たちも皆、シーンと静まり返っていました」

「それからは赤ちゃんが泣いても、周囲の人たちが『子供を泣かすなッ』と母親をしかるのです。泣かすなと言われても、赤子は泣きます。よく泣いていた赤ちゃんが急に静かになったな、と不思議に思っていたら、『たまりかねた母親が口におしめを押し込んだ』というヒソヒソ話が伝わって来ました。この時から私たちは敵は米軍でなく、友軍だと思うようになりました。県民はありったけの協力をした揚げ句、土壇場で裏切られたのです。私が豊見城の海軍外科壕からこの壕へ向かっていた時、逆に南から北上して来る避難民に会いました。『なぜ敵の居る方へ行くの?』と聞くと『友軍に銃を突きつけられ、わずかな持ち物を取り上げられ、壕を追い出された。ウッター(あいつら)に殺されるより、自分の屋敷で艦砲にでも当たった方がまし』と吐き捨てた言葉が忘れられません」』(380-381頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 380、380-381頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail38_img.jpg

沖縄戦の絵】「赤ちゃんを泣かすな!」

『昭和20年6月、壕の中で目にした光景。壕の中には40~50人の避難住民がじっと身を潜めていた。外から米兵の英語の話し声が聞こえてきた時のこと。すぐ上まで迫る米兵に壕の中が緊迫した。「赤ちゃんを泣かすな」。赤ん坊を抱えた母親に向かって男の人が言った。責められた母親はどうすることもできず、子どもの口を手でふさいだ。』

『赤ちゃんを泣かすな!』 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『…島田知事は6月15日に沖縄県庁の活動を停止し、職員の自由行動を許すと決定した。それから3日後の18日から、この轟の壕は米軍の「馬乗り攻撃」をうけることになった。その攻撃をうけることは、もはや夜中であっても壕の外へは出られなくなるということである。4、5百人の避難民の食糧は底をつき、数日後に餓死者が続出し始めた。

…馬乗りして米兵は小銃や小型爆弾で執拗に壕内に向かって攻撃していたが、小川のある北側の壕の入口は岩壁が扇のようになっていたので、初めのうちは弾は壕内に届かなかったが、3日程して入口の岩壁は爆破されて大穴が開いてしまった。

敵の手榴弾等が壕内で炸裂するようになったが、いちばん厄介なのは、ドラム缶の攻撃だった。

ガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けたのを落とし込む。炸裂と共に点火したガソリンが辺り一面に飛び散る。それを浴びて兵や住民たちが火傷し死傷した。全身焼け爛れた若い兵が痛さに耐えかねて川の中を這い廻り乍ら、『班長殿!班長』と、泣き叫んでいた。川縁には既に幾人かの屍体が転がった儘である。

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 154-156頁にある「隈崎俊武遺稿『手記ー沖縄戦と島田知事』(昭和47年9月20日記述、自家本)の内容より》

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轟壕 | 糸満市

『…壕の狭い通路に、6、7歳位の男の子が、丸裸で、顔から体中泥だらけになって立って居た。…盲児らしかった。耳も聞こえないのか、声をかけても返事しない。あるいは気力さえ失っていたのかも知れない。まるで放心したように身動きせずに立っている。其の足許に男の死体が横たわっていた。死体の側から離れようとせぬのは、此の児の父親なのだろうか。泥だらけの顔も、泥にまみれた手で、なきじゃくった為でもあろうか。…其の児も次の日には足許の死体に折り重なるように死んで居た

弱々しい声で泣き続けていた嬰児の声も、何時のまにやら途絶えて居た。ボロに包まれた嬰児の死体が置き去られて、一緒に居たという、若い母親の姿はなかった。乳房の枯れた母親は、飢えて死んだ愛児の側にいたたまれなかったであろう。』(154-156頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 154-156頁にある「隈崎俊武遺稿『手記ー沖縄戦と島田知事』(昭和47年9月20日記述、自家本)の内容より》

http://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0006247/kiji2Img.jpg?uid=20170624115947

轟壕(とどろきごう) | たびらい

『暗く、じめじめした壕内に閉じ込められた避難民は、食糧もなくなり、餓死する者、に倒れる者が続出した。当初はやかましい程だった子供の泣き声もしなくなり、壕内はシーンと静まりかえった。このままでは全員が死に絶えるのは時間の問題だった。大塚曹長に「女、子供だけでも出して頂きたい」と交渉した。大塚は「出たい奴は出せ。後ろから軽機(関銃)で撃ってやる」と頑として応じず、…「貴様たちは、それでも日本人か」と怒鳴りつけた。…「泥を食ってでも生きろ

馬乗りされてから1週間が過ぎた。…県と警察職員はほかに出口を開けようと決心、…しかし、適当な個所は見つからない、で結局、この計画は実らなかった。』(383頁)

中頭郡地方事務所長の証言:

『いよいよ友軍との持久戦だ。…低いうなり声。水、水をくれ、とかすかな声が暗闇の中から聞こえる。水をのむために、やっと水辺にきてうつぶせになって死んでいる者。水の中に頭を突っ込んでこと切れている者。水をのみにはい出してきて死んだ母親の乳房にすがりついて、ぐったりしている赤ん坊。水中にうつぶせになった女の長い髪の毛が、ゆらゆらと生きもののように水中にゆれていた。壕の中は刻々と腐臭がみなぎっていた。腐肉とウジと血と糞便がどろどろに溶け合った泥水が、岩間を伝って下の方へ流れていた。

その時、パッと強い光が壕内に入りこんで来た。懐中電灯だった。いよいよ米軍がきたのだ。われわれは殺される、と一瞬恐怖におののいた。『私は宮城…だ。みんな壕の外に出なさい。出てもちっとも危険はない。米軍がみなさんを救いにきたのだ』と聞き覚えのある声がした」』(384頁)

『…宮城は青年時代から…空手の達人、夫人はハワイで生まれ育った泳ぎの名手というスポーツマン夫婦であったことが、土壇場の脱出・救出劇で少なからず役に立ったようだ。』(384頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 383、384頁より》

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壕から出てくる地元民であふれる壕入り口の全景。この壕には500人ほどの人が隠れ、日本兵に拘束されていた。頂上付近にいる米海兵隊員は地元民と一緒に出てくる可能性のある日本兵を注意深く見張っている。(1945年6月24日撮影)

Overall view of pit with civilians emerging from cave, where some 500 were found hiding and held by Jap soldiers. Marines around crest keep a watchful eye for Jap Soldiers that might come out also.

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夫婦で轟の壕から脱出に成功した沖特陸浜野部隊の宮城上等曹長の証言:

『「私たちは最初、親しくしていた特高課長の佐藤さんらと一緒に地下2階の壕に居ましたが、米軍の馬乗り攻撃の気配が強まったので地下3階へ降りました。その時、佐藤さんを熱心に誘ったのですが、『島田知事から託された重要書類や機密費数万円(現在の数千万円に相当)を内務省に届ける密命を帯びているので、出やすい地下2階にいる』と頑として応じませんでした。仕方なく私たちは下へ降り、知事や警察部長が居られた所より、うんと川上の方に居ましたが、陸軍の奴らに閉じ込められてしまった。これでは野垂れ死ぬばかりだと、1週間ほど経ったころ、私たちは壕内の川を必死でさかのぼりました。梅雨末期の豪雨で川は水かさが増し、背が立たない。何度も潜って泳いで行ったら、突然といった形で伊敷の共同井戸に出ました」』(384-385頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 384-385頁より》

『「…そこにも米兵がいて、捕まった家内がアチラ語でペラペラやったので、収容所へ連れて行かれた。」』(161頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 161頁にある「隈崎俊武遺稿『手記ー沖縄戦と島田知事』(昭和47年9月20日記述、自家本)の内容より》

『「妻が手なれた英語で『壕内に何百人もの避難住民が閉じ込められています。助けてやって』と必死に訴えますと、私たちは師団の情報将校ジェイムス・ジェファーソン中尉の前に連れて行かれた。中尉は『あの壕に日本兵が立てこもっているのは分かっている。いまダイナマイトで爆破する準備を進めているが、住民を巻き添えにしては可哀相だ。もし君が壕へ引き返し、連れ出すのなら、待つ』と言ってくれました。…その場で承諾し、決死の覚悟でまた壕へ引き返したのです。陸軍の奴らが撃つなら撃て、の心境でした。1日目は地下1、2階に居た人たちを出し、2日目は地下3階へ入りました。幸い大塚曹長ら陸兵は何処へ行ったのか姿はなかった。出入口付近に近づくなり『海軍上曹・宮城…は死んだ。皆さん、出て来なさい』と叫びました。私は軍人としては死んだも同然だが、一県民として救いに来た、との思いを込めたのです」』(385頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 385頁より》

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壕から安全な場所へ出てくるよう491人の沖縄の民間人に働きかける助けとなった5人の人々。(1945年6月24日撮影)

These five people were instrumental in influencing the 491 Okinawan civilians to come out of cave to safety.

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『米軍は6月24日、25日の両日にかけ、避難民約600人を救出した。』(385頁)

後方指導挺身隊・佐敷分遣隊にいた県庁職員の証言:

『「米軍は女、子供から先に出し、衰弱の激しい者はトラックに積んで病院へ運びました。比較的元気な者は、…壕の出入口階段付近に集められました。そこへアメリカの将校がやって来て、片言の日本語で話しかけました。『下ニ日本ノ兵隊イマスカ?』。大勢の年寄りや母親が口々に『たくさんいる、たくさんいる』と答えました。すると、そのアメリカ将校は『日本ノ兵隊 生カシマスカ 殺シマスカ?』と聞いたのです。『殺せ!殺せ!』が一斉に、すかさず出た答えでした。皆が憎んだのはアメリカ兵より、日本兵だったのです。私も憎かった。しかし、日本人の口から、友軍の兵隊を『殺せ!殺せ!』という言葉が、敵兵に対して放たれる恐ろしさに気付いて、呆然としました」』(386頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 385、386頁より》

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海兵隊に助けられながら傾斜地を登って壕からでてくる沖縄の民間人。沖縄が(米軍に)占領されたとき、491人の民間人は日本軍によって刻み込まれていた米軍に対する恐怖心を捨て、壕からでてきた。多くの人々が病気で、怪我をしていた。(1945年6月24日撮影)

Okinawan civilians being assisted up steep hill from cave by Marines. After Okinawa was secured, 491 civilians abandoned their fright of the Americans impressed upon them by the Japs, and started a march out of this cave. Many were ill and wounded.

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避難民の証言:

『「…殺されるという恐怖のなかでガマを出ました。2週間も暗い洞窟にいたので、外の輝いている太陽のもとに出て頭がクラクラしました。たくさんの避難民がフラフラしながら壕から出るので、ゆっくりしかあがれません。それで、少しは目が慣れました。米兵が私たちを引っぱりあげてくれるのですが、はじめてアメリカ兵を見たとき、これは鬼だと思いました。なにしろ上半身裸で、見たこともないような胸毛がいっぱいで、猿のように手まで毛が生えていたのです。私たちはアメリカ兵を恐怖の目で見ていたはずです。

壕から出る直前、若い女は顔に鍋のススを塗れと誰かが指示しました。すると、綺麗な人は強姦されるという思いから、できるだけたくさん鍋のススを塗っていたのが印象的でした。』(192頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 192頁より》

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深い壕の中から地元民を連れ出す海兵隊(1945年6月24日撮影)

Marines removed civilians from a deep cave.

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(1945年6月24日撮影)

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中頭郡地方事務所長の証言:

『「米兵は、日本兵が壕内に残っておるようだが、爆雷で殺していいかとみんなに諮ったのです。みんなは『いいですよ』と答えました。飲み物や食べ物をあてがわれたあと、われわれは車を3、4台連ねて北へ向かいました。トラックが伊敷から糸満街道におりるとき、ババーンという爆発音が、いま出てきた方向から聞こえました。『やったなぁー」と思いました。でも壕内であれほどいじめられていますから、何とも思わなかったです」』(386-387頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 386-387頁より》

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隠れ家である大きな壕を出て投降した491人の沖縄の民間人の一部。手前は小さなやかんから水を飲む子供。 (1945年6月24日撮影)

Part of the 491 civilians on Okinawa who surrendered from their hiding place in huge cave. In foreground, small child takes drink from little metal teapot.

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『…米軍は、轟の壕の内情を宮城…夫妻から聞いていたので、あえて住民に日本軍部隊の扱いについて尋ねたようである。避難民がいっせいに「ころせ、ころせ!」と叫んだ。「クルセー」を標準語に直訳すると「殺せ」になるが、沖縄では普通「痛めつけろ」という意味で日常的に軽く使われている言葉である。したがって、この場合は「ころせ!」をどっちの意味で使用したのか特定はできない。』(194-195頁)

中頭郡地方事務所長の証言:

『「壕内では、親が死んで、子どもがその母親の腹の上で生きているということがあり、米兵がどんどんそれらを運び出し、衰弱の激しい者はすぐトラックに乗せられて行きました。私らは壕から上に上がったら倒れ込んでいたが、それほど弱ってはいませんでした。』(195頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 194-195、195頁より》

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(1945年6月24日撮影)

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『何百人もの避難民を死に追いやった大塚曹長日本兵の一団は、この爆破で全滅したと思われていたが、ずる賢くも別の出口から脱出して米軍の捕虜になっていた。…石川収容所へ行ったら、大塚は何食わぬ顔で米軍の宣撫班員になりすまし、戦中、大分県別府市から沖縄へ出稼ぎに来ていた芸者と夫婦気取りだったという。』(387頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 385頁より》

 

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