米軍の動向
南進する米軍
5月7日、米第24軍団長のホッジ少将は、第10軍の共同作戦の予備作戦として、進撃を続行し、8日の夕暮れまでには、安謝ー沢岻ー我謝の線を確保せよ、との命令を下した。(324頁)
部隊交替と海兵隊の南下: 第6海兵師団
第22海兵連隊は一足先に展開していた第1海兵師団第7海兵連隊と交代で、安謝川を望むことができる高い絶壁の上へ移動した。
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 55頁より》
屋富祖(やふそ)・勢理客(じっちゃく)
第2大隊は、60高地に対して二度目の攻撃を試みたが、これも前日と同じく失敗だった。米軍はこの攻撃で野砲4個大隊や艦砲射撃、81ミリ、61ミリ迫撃砲で集中砲撃をくわえたが、それでも頂上の海兵隊を、日本軍の集中砲火のもとから救うことはできなかった。米軍は一度、陣地を奪われ、また奪い返した。こうして、はげしい争奪戦がくりかえされたが、ついにナン高地反対側の丘腹から撃ちつづけてくる日本軍の猛砲火が決定的要因となって、海兵隊は8名の戦死、37名の負傷者を出して、午後5時、引き揚げざるを得なかった。
60高地の戦闘
ATTACKS ON HILL 60 by marines developed into a tank, flame, and demolitions battle. Marines await result of a blasting charge, prepared to pick off any Japanese who might attempt escape.
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]
幸地(こうち)
ここでは第7師団は、軍団長から、もっと強烈な攻撃をしろ、ときびしい命令をうけていた。そこで、副師団長のジョセフ・L・レディ准将は、第17連隊長のバッチラー大佐に、7日にゼブラ高地を攻略せよ、との命令を下した。
…第3大隊では、戦車隊と歩兵との共同作戦で、…幸地村落めざして突進した。目標はゼブラ高地と幸地丘陵のあいだにある道路の切り通しに構えている日本軍陣地であった。… 火炎砲戦車は火を吐き、弾丸を撃ち込んだ。それから弾薬補給に引き返そうとするところを、丘陵第4陣地から日本軍の猛烈な砲火をうけた。ここで昼過ぎまで、砲撃戦が展開されたが、ついに第3大隊は退却せざるをえなくなった。…7日の午後になって、雨が降りはじめた。雨は翌日まで降りつづいたが、第17連隊の兵士は疲労していたにもかかわらず、意気軒昂、攻撃の手をゆるめようともしなかった。
前線へ向かう第7歩兵師団のシャーマン戦車(1945年5月7日撮影)
General Sherman Tanks of the 7th Infantry Division, roll along an Okinawa road on the way to the front lines.
我謝
米第7師団の第184歩兵連隊は、…西原村我謝丘陵を…5月7日にきわめて簡単に占領した。約1小隊の偵察隊が、まず我謝のほうに沿って、あちこち確かめたのち、第3大隊の歩兵が、小那覇の南西にある平坦地に隊形をとって進撃し、1時間後には、丘陵に沿って散兵線をしいた。この米軍のあまりの進撃ぶりの速さに、日本軍は驚いたが、野砲を2、3発むくいただけで、別に小銃や機関銃で応戦するということもなかった。
後方で進む基地建設
嘉手納飛行場とその周辺
米国海兵隊 A corsair fighter plane of the 2nd MAW comes in for a landing on Kadena airfield on Okinawa, with a native well in foreground.
海兵隊第2師団のコルセア戦闘機が嘉手納飛行場に到着。前方は井戸 (嘉手納町 1945年 5月7日)
道路建設に使われる石灰岩をトラックに積む第71海軍建設大隊の掘削機(1945年5月7日撮影)
A drag line, operated by the 71st Naval Construction Bn., loads a truck with coral to be used in the construction of roads on Okinawa.
第32軍の動向
軍司令部、部隊再編・再配置
壊滅的な総攻撃の失敗で兵力の60%を喪失した第32軍は、部隊を再編した。
牛島中将に課された任務は、いまやいかにして首里防衛線を張り、そのためには、いかにして前線に十分な戦闘力をもった部隊を配置するかということであった。ところが、正規の歩兵では足りない。中将は、5月7日、歩兵以外の兵種の部隊も、歩兵として使用することにした。他の兵種を正規の歩兵と一緒にすることによって、最高の効果をねらったのだ。そして、命令が出された。
「兵は10名のうち1名だけが軍務につき、他の9名は対戦車訓練に、没頭すべし」と。
日本兵の慎重さは、さんざんにやられた第24師団の第32連隊を再編するとき、もっともよく現れた。連隊本部は捜索第24連隊から5名をとり、第1大隊は残存兵に加えて、第2大隊の生き残り全員と第7船舶から20名、捜索第24連隊から90名、船舶工兵第26連隊から9名というぐあいに兵をあつめた。一方、第2大隊は、全面的に独立歩兵第29大隊と他の部隊で再編され、第3大隊も第1大隊と同じような方法で再編された。
こうして各部隊をかき集め、結合することによって、陸軍第32軍は、たとえその構成軍の元の部隊は、あるいは全滅し、あるいは兵力半減したとはいえ、沖縄の守備軍としての戦闘能力は、維持することができたのだ。
… 日本軍の再編された戦線はだいたい次のようになっていた。東方では、独立2個大隊をふくんだ第24師団が、第89連隊を東側に、第22連隊を中央に、そして、第32連隊を西にして、首里までの戦線を張っていた。痛撃をうけた第62師団の残存部隊は、首里の北からほとんど西海岸におよぶ戦線の3分の1をしめていた。安謝川付近には、河口に沿って、独立混成第44旅団の1個大隊が守っていた。
第24師団とアイヌ兵士
北海道の旭川で編成された第24師団は、5月4日の総攻撃命令をはじめとして、多くの戦死者をだした。沖縄戦において、北海道出身の戦死者の数は沖縄県に次いで多い。
日本軍の主力部隊として最前線に立った「陸軍第24師団」は、北海道出身者を中心とした部隊で、徹底した持久戦を命じられた。アメリカ軍との戦いで敗北が決定的になってもなお、“最後の一兵に至るまで”戦い続けることを求められた。9割の将兵が戦死した沖縄戦とは、どのような戦いだったのか。
第24師団には多くのアイヌの人たちも兵士として召集されていた。日本軍の中で、アイヌの兵士に対しての差別は、また、朝鮮人軍夫や沖縄人に対する差別とならび、軍内の重層的な差別構造を構成していたと思われる。
糸満市真栄平の「南北の塔」には、第24師団の通称名・山部隊にちなみ「キムンウタリ(山の同胞)」の文字が刻まれている。
沖縄戦に詳しい元沖縄県平和祈念財団理事の大城藤六さん(90)は「アイヌ民族の犠牲者も三十数人分が納められていた」と話す。現在、遺骨はすべて、国立沖縄戦没者墓苑に移されている。南北之塔の建立に協力したのが、沖縄戦を生き延びたアイヌ民族の元兵士、弟子(てし)豊治さん(故人)だった。北海道弟子屈町出身の弟子さんは、従軍生活を通じて地元の人たちと親しく付き合った。戦後、沖縄を再訪して塔の建立計画を知り、寄付金を贈るなど援助した。「北も南もなく、戦争で命を失った人すべてを追悼しよう」。弟子さんの提案もあり、「南北」が碑銘につけられたという。塔の側面には、北海道出身の兵士が多かった第24師団(通称・山部隊)にちなみ、「キムンウタリ(山の同胞)」の文字が刻まれている。
2009年頃、一部地元住民で構成される「南北の塔を考える会」(代表・大城藤六) など、この「南北の塔」でのアイヌのイチャルパ (先祖供養の儀式) を排除しようとする試みがあった *1。
北海道旭川市の川村アイヌ民族記念館館長で旭川アイヌ協議会会長の川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん(68)は「私たちは言葉と文化を奪い取られ、琉球の人とほとんど同じ扱いを受けた。これからもずっと南北之塔で慰霊を続けていきたい」と話した。
東部〜中央戦線、棚原からの撤退
5月4日の無謀な総攻撃計画で、唯一、棚原へ突破した伊藤大隊は、支援もなく撤退を余儀なくされた。
棚原高地から退却: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)
7日午前3時、伊東大隊は第1中隊を先頭に前進を開始した。多くの負傷者が続く。…第1中隊は114高地の東裾の敵に突っ込み、ぐんぐん進んで姿が見えなくなった。…
…掩護物なしで伊東たちは敵前を通り抜けた。…伊東大隊はともかく120高地東側谷地を突破して、146高地南300メートルに位置する歩兵第22聨隊の第一線後方に帰還した。先に敵中へ突入して連絡が途絶えていた第1中隊も無事に帰還していた。
5月6日に伊藤大隊は棚原から退却した。
… F中隊は棚原高地を迫撃砲で砲撃してから、西部から攻め立て、すばやく頂上を占領した。丘の上の塹壕には、日本軍の死体が散乱し、その多くは米軍の81ミリ迫撃砲でやられたものであった。丘の上で発見された日米両軍の武器量を見て、日本軍が、なぜこうも頑強に戦えたかということが、よくわかった。放棄された彼らの兵器のなかには、75ミリ迫撃砲とその弾薬、重機2梃軽機6梃、その他の砲2門、地雷3個、その他、多量の弾薬があった。このほかに、日本軍は捕獲した米軍兵器も使用していた。軽機1梃、ブローニング自動小銃2梃、カービン銃3梃、トミーガン3梃が発見された。棚原高地での3日間の戦闘で、日本軍の戦死者は462名をかぞえ、そのほとんどは、丘腹でやられ、また残りは、前線を後退しようとするところをやられたのである。
The north and west sides of the escarpment, where Company F, 17th, regained the hill 7 May
米軍が再び占領した棚原高地 (北西斜面)
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]
そのとき、住民は・・・
慶良間諸島の収容所
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2] に加筆
座間味島
- 3月26日 「集団自決」
- 4月上旬 赤松隊による住民2人と兵士2人の処刑
座間味部落と古座間味は、沖縄本島攻略の拠点として使用され、「集団自決」を生きのびた住民はいったん村役場に収容された後、阿真地区に収容された。しかしまだ多くの住民が壕に隠れ、必ず日本軍の反撃があるといわれていた天長節をまっていた。
とはいえ、どんなに頑張ってはみても、さすがに限界がきていた。日本軍は反撃に出るどころか、住民のつくっ た食糧をスキをついて盗んでいくという状況で、… すっかり諦めきった住民たち は、スピーカーからのよびかけに誘われるままに、4月29日のその日を境に、白旗を掲げて米軍の元へと降り ていった。… そして阿真の民家に、一軒七、八世帯 ほどの割合で座間味、阿佐、阿真、それに屋嘉比島の鉱山の従業員の家族も合流したため、 ひしめきあった生活が営まれるようになった。
《座間味村史 (上巻) 1989年 373-374頁》
座間味島南西部の阿真の町でよく見られる光景。洗濯をする女性と遊ぶ子ども。(1945年5月7日撮影)
General scenes in Ama Town, southwest Zamami Shima, Ryukyu Retto. Women washing clothes while children play.
座間味島南西部の阿真の町でよく見られる光景。地元の子ども。(1945年5月7日撮影)
General scenes in Ama Town, southwest Zamami Shima, Ryukyu Retto. Native children.
慶留間島
5月7日、基地化される伊江島から住民450名が慶留間島に強制収容された。
また一方の慶留間部落では、座間味同様、生き残った住民は保護されて、女がウスク下の家に、男が金網を張 りめぐらしたカニクの屋敷に収容された。米軍上陸から 二週間くらいでほとんどが部落に下りてきており、焼け残った家屋に親戚同士で共同生活をはじめた。ところが、5月7日に伊江島住民450名が連れてこられ、さらに、6月下旬には、阿嘉の住民300人余りも収容されたため、慶留間部落は、本来の人口の十倍近くもの人たちが集まっ た。ただですら食糧難という状況だが、この時期の慶留間部落民にとって、伊江島、阿嘉住民がいることは、むしろ精神的な支えにすらなっていた。あの、あまりにも 悲惨な肉親同士の殺し合い”の後でもあり、にぎやに生活をすることで、ずいぶん気持ちが救われたものだっ た。その頃の阿嘉住民の約80人は、まだ山の中にたてこもり、日本兵との"食糧戦争〟を続けていた。
《座間味村史 (上巻) 1989年 373-374頁》
石川学園: 収容所の青空学校
石川収容所: 米軍は、戦前は一農村だった美里村石川に収容所を設けた。
第六海兵師団は、四月三日に石川地峡に到達、四月四日には東恩納も確保した。美里村石川に住民が収容されたのは四月三日頃のことで、『石川市史』には次のように記されている。
米軍は石川を避難民収容となし、読谷、北谷方面その他の避難民を続々と収容し始めた。しかし部落内の人はほとんど石川岳の奥の谷間俗称カーラン小に避難していたから避難民収容所になっていることも知らず、たまたま食糧を取りに来てみると我が家は見ず知らずの難民に占拠されている。(途中省略)難民収容所となった石川は安全地帯として続々避難民が送り込まれてきて、たちまちのうちに万余の人口となった。一番多いのは那覇、読谷、北谷方面の人であった。《『石川市史 改訂版』828頁)》
数万人が収容されたことで、子ども達の扱いには策を講じる必要があった。そのため米軍は、収容された教育者や教育経験者たちに学校の設置を命じた。
1945年5月。アメリカ軍の上陸からおよそ一か月、このときすでに本島中北部各地にはアメリカ軍による戦争難民収容所が作られていました。そのうち、石川地区の収容所ではきょう5月7日、子どもたちを集めて初等教育が始まりました。
うるま市の城前小学校に残る教育発祥の地の石碑には「校舎はおろか、机や腰かけ、教科書もない青空教室で子どもたちは砂の上に指で文字を書き勉強を始めた」と当時の様子が記されています。
浦添から那覇と、南部一帯では日本の勝利を信じ続ける住民と最後の抵抗を続ける日本軍が泥沼の戦いに突き進む中、アメリカ軍はすでに戦後を見越し、子どもたちへの教育を開始していたのです。
収容所で頻発する米兵による性暴力から身を守るため、若い女性は民家の天井裏に身を隠していた。また日本軍の報復の恐怖もあった。
石川学園の校長となった山内繁茂氏の証言:
その日その日の作業員をあてにするわけにもいかず、山内氏は本職の教師さがしを始めたが、これが難渋を極めた。米軍を恐れてかくれていた女教師には、二世軍人をつれていって、彼の口から「あなたの生命は絶対保障する」と言って説いて、やっと天井裏から連れ出した。日本軍の報復を恐れていた男教師には、「アメリカの子供を教育しようというのではない。自分たち沖縄の子供を守ろうというのだ。もし、私たちのやることがアメリカの利益になるということなら、その責任は私たち家族-中略-がとろう。あなたはただ私に頼まれたと言えばいいではないか」と言った。当時身内の者が日本兵に斬殺されて、怯えきっていたその人は「あの時の、家族ぐるみの命をかけた山内校長の言葉には、私はもはや固辞できなかった」と述懐した。
曽根信一「まだ銃声が聞こえる中で始められた戦後最初の学校一石川学園の記録」『琉球の文化』第5号、1974年5月、pp.42-43.
石川の運動場にいる子供と先生Children and school teacher in the playground at Ishikawa.
「…収容所内では多勢の子どもの扱いにみんなが手を焼いていた。うえた子供たちは、ギブミー・ガムと叫んで米兵にたかる。しかも、車がとまるごとに車にもたかる。事故が心配のタネだった。ミシガン州出身の製粉会社の社長だというアーレン大尉が二世の小谷通訳を通じて「子どもを管理してくれないか」と申し入れてきた。私は子どもの姿を見るにつけ、何とかしなければならないと考えていたが、言下にことわった」
「私のことわった理由は、私は子どもの教育者であっても、子どもの管理人ではない、というにある。アーレンはさすが社長さんだけあってものわかりがよく、すべてをまかせると率直だった。ほんとのところは、米軍が行動するのに子どもがウロチョロして、死傷事故でも起こしたらめんどうと考えたのだろう。これも、実務家としての社長らしいところだ」
「教員の身分を隠す人が多かったときだから、先生になりてがなくて困った。そこで教員の経験がある私と妻と長女に加えて甥も仲間入りさせ、400人の子どもを集めた。5月7日が開校だ」
「…先生の数も少しずつふえて行った。アーレン大尉が一切干渉しなかったのはさすがだった。だが、元気のいい先生がいて、子どもたちを号令一下、一糸乱れず動かしていた。これを遠くから双眼鏡で監視していたMPが文句をつけてきた。さすがのアーレンもこれには弱ったらしくて、「これはやめてくれ」といってきた。それからもうひとつ、こういうことがあった。明治天皇の御製「あさみどりすみわたりたる大空の広さをおのが心ともがな」を毎日朗誦していた。「あれは何だ」「えらい人の御製だ」「御製て何だ?」「えらい人の立派な詩作品だ」「えらい人ってのはだれだ?」「明治天皇だ」「そいつは困る。やめてくれ」。こんなわけで、やめたのはこの二点だけだった。」
「これが戦後沖縄教育の原点といわれる、石川学園のはじまりです」
《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 36-37頁より》
なかなか抜けない軍隊式教育
新敷地に移って職員の陣容も揃ってくると、体育主任格の教師も出て、全校の集合、解散などにも、大きな号令をかけて子供をしつけた。例の通訳兼務の二世が「まずいなまずいな」というのを、茶飲み話でも聞いているような態度で聞き流していた。それでもその号令教師は、いや気がさして他の作業場に行って失った(ママ)。
曽根信一「まだ銃声が聞こえる中で始められた戦後最初の学校一石川学園の記録」『琉球の文化』第5号、1974年5月、pp.45.
「…みんなの子をみんなで育てようと思って一生懸命だった。文字通りの青空学校だったが、校舎も手づくりでつくった。二間×三間の一棟二戸という規格住宅もつくった。もちろんかやぶきだ、紙やエンピツがないから、地面に数字や絵をかいた。すべて手づくりだった。生徒はふえるばかり、先生60人に生徒4000人にのぼった。10月、石川学園を三分した。伊波城跡の城前初等学校(小学校)、旧石川之宮の近くの宮森初等学校、石川高等学校(中学校)がそれだ。宮、城の文字をふくませたのは、宮城=皇居という考えをしのばせたものだ」
《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 36-37頁より》
それについて山内氏は、「学校の名称については、私の進言が採用されましたが、実を言うと皇居の宮城の頭文字を取り入れたもので、皇国民を教育するという忠誠がその下心でした」と回想する。その深層部分に、依然として、「戦前」の天皇制下の「臣民意識」があったというところに極めて微妙な心理状況、換言すれば、一貫して連続した意識が内在していたと考えられよう。
阿波根直誠「「戦後」沖縄教育開始時の一動向に関する試論的考察-『石川学園日誌』及び『記録簿』を中心に」琉球大学教育学部音楽科論集(2),1997-02
本校は,戦後沖縄に於ける学校教育発祥の地である。
戦争の苦しみの中にあっても,なお教育を守りぬこうとする住民の熱意がもりあがり,昭和20年5月7日 沖縄戦まだたけなわの頃,開校の実現を見たのである。全島が戦場化し,各地から難を避けて当地に集まった住民子弟のうち児童790名を集め,校長山内繁茂氏外職員20名,給仕1名,小使い2名,理髪師1名の人員をもって開校したのであるが,校舎はもちろん机,腰掛け,教科書,学用品など一物もなく,砂の上に指で字を書かせるということから教育が始まったのである。石川市教育委員会
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