〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年4月29日 『それぞれの天長節』

ニードルロック / 捕虜の労働 / 天長節 / 愛楽園の爆撃

 

米軍の動向

特攻機対応と被害

真珠湾以降、何度も神風特攻隊や急降下爆撃からの絶え間ない攻撃を潜り抜けてきた駆逐艦ヘイゼルウッドはこの日、二機の神風の攻撃で77人の戦死者をだすが、なんとか維持し帰還航行を開始した。

f:id:neverforget1945:20200428184305p:plain

USS HAZELWOOD(DD531) survives two Jap Kamikaze planes off northeast coast of Okinawa on evening of 29 April 1945. Ship lies dead and smoking in the water as her crew fight courageously to save their ship.

2機の特攻機の攻撃から逃れた駆逐艦ヘイゼルウッド(DD-531)。沖縄本島北東沖。1945年4月29日夜。機能停止状態となって、海上で煙を上げている様子。乗組員は勇敢に同艦を救おうとしている。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍、前田高地の戦い

 首里の攻防 第2線: 城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地  

「ありったけの地獄を一つにまとめた」とよばれる前田高地の戦い。

f:id:neverforget1945:20210427041716p:plain

Chapter 07 | Our World War II Veterans

前田: 浦添丘陵

f:id:neverforget1945:20210427192511p:plain

US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

http://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0006243/kiji1Img.jpg?uid=20170429212706

石柱のような「為朝岩」(米軍名「ニードルロック」)

首里軍司令部から北東に約4キロ。標高約120~140メートルの「前田高地」は第2防衛線主陣地帯の核心で、首里地区防衛においてことさら重要な地区だった。米軍にとってもこのエリアを奪取することが、首里攻略ひいては日本本土進攻への第一歩として位置づけられていた。そのため、昭和20年(1945)4月26日からおよそ15日間に渡り激しい戦闘が繰り広げられ、日本軍計3000人あまりの犠牲者を出した後、米軍によって攻略された。

長期戦の背景にあったのはその独特な地形。石柱のような「為朝岩」(米軍名「ニードルロック」)が象徴的にそびえ立つ北斜面は、歩兵部隊でさえ縄ばしごを必要とするほどの絶壁。その東約200メートルには高さ130メートルの閉鎖曲線高地、さらにその南東250メートルには高さ135メートルの高地が連なっていた。いずれも戦車の動きづらい地形であった。

前田高地 | たびらい

4月29日の未明から朝にかけて、日本軍は、第96師団前線の全面にかけて総反撃に出た。午前5時15分、第383連隊の第2大隊は、榴弾や槍をもった日本軍の強襲をうけ、G中隊の一小隊などは、この戦闘で30名から9名になってしまった。とはいえ、第383連隊では2回にわたる日本軍への猛反撃で、およそ265名の日本兵を倒し、またその日の午後の戦闘では、戦車隊や火炎砲装甲車を先頭に、200名以上の日本軍をやっつけたのである。

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291頁より》

4月29日、師団左翼では怒濤のように進撃して、首里に近い突出した岩山を攻略しようと、軍団前線のどの部隊よりも先のほうに出た。138高地の峰は、ふたたび血なまぐさい肉弾戦ののち、第383連隊のL中隊の手中にはいった。この戦闘でシャペー1等兵は、あたかも日本軍の〝バンザイ突撃〟を地でいくような行動に出た。手に手榴弾1個を握り、峰上の機関銃陣地めがけてまっしぐらに突進すると、5名の日本兵のまん中にとびこんで、わが身もろとも爆破して相手を殺し、機関銃陣地を破壊したのである。戦車隊は高地の頂上ちかくを攻撃し、ここで47ミリ対戦車砲と砲火をまじえた。沖縄戦がはじまって1カ月、1キロ半ほどしか離れていない日本軍の首里に、ようやく直撃をあびせることができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291頁より》

北側 (嘉数) からの前田高地の地形

f:id:neverforget1945:20210424041412p:plain

Above: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

Below: 広報うらそえ6月号

第307連隊が、4月29日、浦添丘陵分水嶺に達してみて驚いたことは、ニードル・ロックのてっぺんは、幅60センチそこそこの広さしかないということだった。丘陵の南側は削られたように急に落ち、高さは北側ほどではなかったが、日本軍が洞窟を掘り、トンネルを通したのは、まぎれもなくここである。(292頁) … 第307連隊のクーニー中佐率いる第1大隊が、ニードル・ロック攻撃を開始してからじつに5日、しかも10回の攻撃で、やっとその頂上を確保することができたのである。(293頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 287、292、293頁より》

4月29日に、第77師団の第307歩兵連隊は、第381連隊の作戦区域内の丘陵をとり、つぎの朝、第306連隊は、第96師団の左翼で、第383連隊と交替した。(291頁) … 米軍は、4月29日に前線を交替するまでに、第381連隊は戦闘能力40パーセントに激減し、損害じつに1201名にのぼった。そのうちの536名は、前田丘陵における4日間の戦闘でなくしたものであった。また、小隊の中には、わずか5名ないし6名しか残らないところもあった。兵の多くは消耗しきっていて、彼らを後方に運ぶため、丘の下でトラックが待っているにもかかわらず、彼らは、そこまで兵器を携えていく気力さえも失っていた。(292頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 291、292頁より》

前田丘陵に、はげしい争奪戦がくりひろげられた。いくたびか攻め、いくたびか攻められた。手榴弾が飛びかい、洞窟やタコ壺壕には弾薬が投げ込まれ、夜は夜で、双方とも敵のいつくるともしれぬ夜襲におびえていた。米軍は地上軍に加えて、空からも応援をたのみ、爆弾やナパーム弾が毎日のように投下された。戦車と装甲車は南東の方向から猛烈に攻め立てたが、丘の頂はいまなお頑強な日本軍の手中にあって、兵隊の言葉をかりていえば、「ありったけの地獄を一つにまとめた」ようなものであった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 293頁より》

 

幸地 (こうち): 第17連隊

f:id:neverforget1945:20210427043032p:plain

激しい日本軍の攻撃をうけ続け、前進を阻まれていたことから前日28日に撤退。損害が激しく、29日の前進、攻撃も中止に追い込まれた。

米軍はついに4月29日まで攻撃を中止せざるを得なくなった。どの地域でも、わずかの進撃を試みても、日本軍は12門から18門の迫撃砲で集中砲撃を加え、米軍の進出を許さなかった。そればかりか、味方の150ミリ野砲が12発とも照準をあやまって幸地丘陵東側のG中隊の真中におちるという事件がおきて、1小隊で5名が戦死、18名が負傷、近くにいた他の小隊が12名しか残らないという悲劇を演じた。この死傷者に加えて18名が、脳震盪やショックをうけるというしまつで、いまやG中隊の小銃小隊にはわずか27名しか残っていなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 283頁より》

 

沖縄の基地化 - 後方で進む基地建設

 

貯油施設の建設 (現・陸軍貯油施設) は上陸直後から開始された。

嘉手納飛行場につながるパイプライン(1945年4月29日撮影)

Views of the pipeline that services Kadena airfield.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊江島飛行場

日本軍から接収した伊江島飛行場は整備・拡張され、本格的な本土空爆のための米空軍戦闘機部隊の準備が整う。

f:id:neverforget1945:20200413095502p:plain
米空軍: Equipment of the 318th Fighter Group rolls ashore on Ie Shima, Ryukyu Retto from an LSM (Landing Ships, Mechanized). Driving jeep Cpl. Giles N. Ragsdale, Malden, Missouri, 19th Fighter Squadron, 318th Fighter Group.

伊江島に着いた装甲揚陸艇から降ろされる第318戦闘機群の機材。ジープを運転するのは第318戦闘機群第19戦闘機中隊ラグズデール伍長。(1945年4月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米国空軍: Commanding Officer of the 364th Service Group and Deputy Commander of the 318th Fighter Group, conferring over map.
【和訳】 地図を広げて話し合う第364サービス群部隊指揮官と第318戦闘機群副司令官。左より、コックス中佐及びマスグレイヴ中佐。伊江島。1945年 4月29日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

捕虜収容所 - 不発弾処理

捕虜の労働力は基地建設に欠かせないものだった。米軍の多くの軍作業を捕虜が担い、10代半ばの学徒兵も労働が課せられた。下記の写真は不発弾処理。

f:id:neverforget1945:20200413100140p:plain

Along came some Jap civilians, prisoners and they were put to work digging. We see the men from bomb disposal leaning on their shovels. Watching these Japs do their work. The Japs are happy to do it because the U. S. Government pays them 10 Yen (one dollar) a week. Where as the Japs employed most of the civilians of Okinawa for 5 to 7 Yens (50 to 70 cents) a week.

やってきたのは日本人民間人と捕虜。彼らは掘る作業を割り当てられた。シャベルにもたれかかっている不発弾処理班の海兵隊員。日本人が作業しているのを眺めている。日本人の雇い主は沖縄の民間人に週に5〜7円(50〜70セント)支払うが、合衆国政府は週に10円 (1ドル)支払う (注) ので、日本人は喜んで働く。(1945年4月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

Fact Check: 沖縄は1945年4月1日のミニッツ宣言から約1年間「無通貨経済」であった。

食糧、衣類等は米軍によって無償で支給される一方、労働可能な住民は収容所の建設、米軍施設の雑役、沖縄戦の後かたづけ等の「軍作業」に駆り出された。住民はこれを無償配給時代と呼んでいるが、そこでは通貨は流通せず、すべてが現物で支給または交換される物々交換の経済を営んでいた。」

《牧野浩隆『戦後沖縄の通貨 上』おきなわ文庫 (2014) 》

日本軍の捕虜施設と異なり、沖縄や南洋やアメリカ本土の収容所に収容された戦争捕虜は基本的に人道的に扱われていたが、現金の支払いはなく、物資交換などが通貨の代わりとなっていた。一部、ウィスコンシン州のフォート・マッコイ収容所*1 では日給25セントの支払いがあったようだが、ハワイの捕虜収容所でも日給の支払いがなかったことは一中学徒兵だった安里祥徳も語っている*2

米国海兵隊: Natives weighing out rations.

配給を計量する地元の人々。1945年 4月29日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

捕虜収容所の設営

米国海兵隊: A stockade of captured Jap wire fencing is being erected by Okinawan men for the military government Hqs under the direction of Oscar A. Clerk, a member of the Military Government personnel.
軍政府職員であるクラークの指示のもと、軍政本部内の日本人捕虜営倉の柵作りをする沖縄人男性 1945年4月29日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向、天長節の朝

4月29日は昭和天皇裕仁の誕生日。日本は1948年まで天皇誕生日を「天長節」と呼んでいた。人々は神風が吹くことを待ち望んでいた。

4月29日、日本軍は、第一線で天長節を迎えた。前線の兵士たちは、おそらくこの天長節を期して、敵の息の根を止める航空攻撃が行われるだろうと、首をながくしていたが、沖縄の兵士たちの前には、そのような多数の味方機は現れなかった。』(238頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 238頁より》

戦前、天皇の写真は「御真影」と呼ばれました。戦前の教育では、天皇は神様であり、国民の命よりも大切なものと教えこまれました。

Qプラスリポート 御真影守った男性の思い – QAB NEWS Headline

 

揺れる第32軍司令部 - 再びの総攻撃計画

第32軍司令官 牛島 満 (うしじま・みつる) 陸軍中将 / 第32軍参謀長 長勇 (ちょう・いさむ) 陸軍中将 / 第32軍高級参謀 八原 博通 (やはら・ひろみち) 陸軍大佐

4月末の苦戦により第32軍司令部のなかに動揺がおきた。このまま持久戦を続けるよりも余力のあるうちに攻勢に出ようという意見がにわかに台頭してきた。中心は参謀長の長勇中将である。彼は若ころ桜会急進派で10月事件(1931年のクーデター計画)に関与し、また南京攻略戦の際は捕虜殺害の命令をくだすなど、気性の激しい猪突猛進型の軍人であった。長参謀長は作戦主任八原大佐の反対をおさえ、まだ無傷に近い第24師団の全力を投入して東部戦線(中街道以東)で攻勢に出ることを決定した。第32軍司令官牛島満中将も参謀長の意見に賛成した。牛島は1937年12月、大虐殺をひきおこした南京包囲戦に第36旅団長(熊本の第6師団所属)として参加して、猛烈な追撃戦を指導した人物である。彼も「死中に活を求める」派手な作戦の誘惑にまけた。

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 83頁より》

敵の砲爆撃もじかに司令部壕に迫り、坑道内に硝煙が侵入し壕内の将兵が「ガス攻撃だ!」と防毒面をつける事態も見られるようになった。戦局の緊迫化が、壕内の将兵このまま受身に立って敗北と死を待つのは耐えきれぬ、という思いをいだかせた。しかも「攻勢は最良の防禦」という日頃からの攻勢至上の訓練も影響して攻勢に出れば勝利を物にし、「玉砕」を免れうると判断せしめるにいたった。しかし、こうした動きは八原作戦参謀にいわしめると、一種の悲観論か「呪うべき盲目的主観に基づく迷妄な結論」でしかなかった。だが、大勢は攻勢案を支持し、その急先鋒たる長参謀長は、4月29日の早朝、洗面中の八原作戦参謀の手をとり「一緒に死のう」と言って涙を流しながら攻勢案への同意を求めた

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 119頁より》

八原高級参謀の回想:

4月29日朝まだき、わずかばかりの水で洗面をすました私の前に、参謀長が突如として姿を現された。思い詰めた態度で私の手を握り、真に熱烈な口調で、「八原君!君と僕とは常に難局にばかり指し向けられてきた。そしてとうとうこの沖縄で、二人は最後の関頭に立たされてしまった。君にも幾多の考えがあるだろうが、一緒に死のう。どうか今度の攻勢には、心よく同意してくれ」と申され、はらはらと落涙された。あまりの突然さに、私はぎょっとしたが、握った将軍の手の温みが伝ってくるとともに、私もまた心動かずにはおられなかった。私は司令部内唯一人、大勢を押し切って、曲りなりにも過去一か月、軍を戦略持久の線に引っ張ってきた。私もまた人の子である。今や、ともすれば心弱くなり、もはやこれ以上、周囲の力に抗し難いと思う折から、参謀長が至誠を披瀝して自らの部下である私に攻勢を懇請されたのだ。攻勢の失敗はあまりにも明瞭であるが、私は感動し、心弱くなるまま、参謀長に「承知しました」と答えたのである。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 265-266頁より》

 

北部戦線: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

4月中旬に八重岳の陣地から退却、多野岳を目指して山中を移動した約千人の兵隊や学徒らは、幾度も米軍の攻撃を受けながらも、団体で行動していた。攻撃を受けるたびに多くの死傷者を出すも、それらに対応することはなく置き去りにして再び新たな拠点を求めて行ったり来たりしていた。

29日、部隊は辺土名を目指して落ちて行った。多野岳まできた時、山本中尉は悲痛な声で「安和海岸には、食糧を積んだ日本の機帆船が着いたそうですから、急いで自分がいって、食糧の補給を講じます」と云い残して、姿を晦ました。彼は再び帰って来なかった。真部山の陣地構築の時、構築作業が進まぬといって、出動した労務者達を牛馬のようにこき使った激しい気性の彼は、宇土大佐の煮え切らぬ態度に居た堪らず、独りで自由な行動を決したのである。多野岳には、米軍の使ったいろいろな遺棄品が転がっていた。数日前まで、米軍が駐屯した証拠であった。これを発見して、米軍部隊が近くにいる、と察した宇土将兵達は、前進を諦め、福地又にまたも引返した。ここでは、弱り切った宇土大佐が、とうとう山本中尉の主張した「分散行動」を採用したので、一班を約25人ずつで構成し、今後は全部隊将兵が、山中に自治を求めてあてどもなく分散することになった。宇土大佐は、宮城、上地両兵長を含む地理に明るい沖縄人の兵隊を本部にまとめた。「時機到来までは、できるだけゲリラ戦で敵に当り、自給自足しよう」と敗残の将兵達は、島の北端、東、久志、大宜味の各村山中へ移動を開始した。(316-317頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 316-317頁より》

 

中南部戦線

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

4月29日、天長節。この日は朝から雲ひとつない晴天だった。… 9時頃、伊東が大隊本部の監視口から見ていると、敵戦車の群れが砂塵をあげて東の海岸道を南下し、右前方の小波津集落に入ってくる。ここからは2000メートルほど離れているが、手に取るように見えた。1両、2両・・・すでに7両が集落に入り、あとにも続いている。やがて集落の西端に先頭の戦車が姿を現し始めた。友軍砲兵の弾丸が伊東の頭上をかすめ、先頭戦車の傍らで破裂する。…ついに友軍の砲弾が先頭戦車に命中した。… 砲弾が次々と戦車に命中し、1両ずつ草地へ打ちのめしていく。そのうち地雷に引っかかる戦車も出てきて、敵戦車群の前進は阻止された。… なおも敵戦車2両が陣地直前まで侵入したが、擲弾筒の射撃に慌てて逃げて行った。この日、敵の集中砲火はなかった。歩兵の攻撃もなかった。…敵は今日、一転して多量の戦車を投入し戦況の打開を試みた。しかしそれも失敗に終わり、戦車群の攻撃は完全に大山隊の陣前で破砕された。この日、大山隊の損害は無きに等しかった。… 陣地がない中で、大砲、擲弾筒、煙幕、地雷と、使えるものはすべて使った。それによって、第1線は頑強に持ちこたえたのだ。』(145-146頁) … 夕刻、師団司令部から命令がきた。「首里北側に転進せよ。2400を期し、任務を歩兵第89聨隊第1大隊に引き続くべし」師団の態勢整理の必要からだった。(147頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 145-146、147頁より》

f:id:neverforget1945:20200428184605p:plain

翁長を通り幸地へと前進する途中で攻撃を受け擱座した米戦車(4月29日)

Attempting to reach Kochi through Onaga, south of Skyline Ridge, these tanks were lost 29 April when the American lead tank blocked the road forward.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

 

蚊蛇平(がじゃんびら)台地・小禄(おろく)飛行場付近: 独立高射砲第27大隊第1中隊

通信班・陸軍二等兵の回想:

4月29日天長節である。

沖縄第32軍はこの日を期して総攻撃を開始することになった。いままでの持久戦から一転、反撃に出ようというもので、この作戦に先立ち27大隊の大隊本部が動員された。大隊長以下本部総員は27日、首里南東3キロの宮城へ出撃して行き、あとに一中隊だけが残った。このとき、通信班に与えられていた軽機も大隊本部に返納させられて、私たちにわか機関銃手はほっとした反面、そぞろ心細さを覚えずにはいられなかった。夜になって、通信班は大隊本部の去った壕へ移転するよう命令が出た。中隊長と将校だけの壕に同居するのは、班長はじめみんな気が進まなかったが、命令とあればいたし方ない。私たちは千早城をあとにした。本部の壕は、1ヵ月にわたる作業のおかげで、壕の床には大隊本部の残してくれた筵が敷いてあった。… 壕は完全に太陽から遮断されて、真っ暗だった。その上、空気が通わず息苦しかった。周囲の岩壁には一面厚い苔が生え、雨が降ると入口付近の汚物が雨水と一緒に流れ込んで来る。壕内の灯りには、飛行場から徴発してきたドラム缶のガソリンをビール瓶に詰めた布に浸して燃やした。驚いたことに、大隊長の愛人…らは、大隊本部と一緒に宮城の前線へお伴をして行ったということであった。…うるさい大隊長や大隊指揮班がいなくなって、中隊長は上機嫌だった。

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 83-84頁より》

 

そのとき、住民は・・・

金武の収容所。金武大川 (きんうっかがー)

米国海兵隊: A little Okinawa girl carrying a baby on her back, used her feet to wash the laundry in the community pool, while little sister holds more clothes.
赤ん坊を背中におぶり、共同貯水池で洗濯をする沖縄の少女。妹は汚れた洗濯物を抱えている。1945年 4月29日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

天長節の失望

4月29日天長節の佳節に当たり、日本軍が何らかの行動に出ると噂されていた待望の日である。からりと晴れ上がった上天気の日であった。われわれの手持食糧はぎりぎりのところまで来ており、いくらきり詰めても後一週間あるかなしかのところだった。とに角、海岸線に出るまでの食糧があればよい、後は途々藷を掘って食べよう。こう話が決ったので、出発することになった。戦争の終局が目前に迫っていることを、固く信じ切ったわれわれには、も早、飢じさも米軍の斥候も問題ではなく、一気に頂上の林道に出た。

喜如嘉(きじょか)山のあたりで、米軍の架設した電話線を発見した。米軍陣地に踏み込んだのではないかと不安に駈られ、大急ぎで通り越そうとあせったが、その樹々に架けられた不気味な数条の電話線は、高く低く、われわれの向う先々、どこまでも続いているかに見られた。三叉路のところで、われわれは思わず立ちすくんで了った。すぐ目の前に真赤な血を含んだ止血帯が捨てられてある。血の色合からして使用後間もないらしい。そこから約十間位行くと、そこに小銃の薬莢が散乱していた。緊張の裡に更に二十間位進んだとき、われわれはそこに恐るべきものを目撃した。路のすぐ側に、1人の兵隊が戦死していた。俯伏せの姿勢で両脚をきちんとつけて真直に伸し、右手を斜下に置き、左手を頭の上にかざし、頭の周辺の叢にはどす黒い血潮がかかっていた。初めて見る戦死者の姿である。こんな森林の中にたった独りで死ぬなんてー

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 361-362頁より》

わたしは一晩かけて首里の石嶺まで行き、その日から1カ月ほど墓の中で寝泊まりしました。天長節の4月29日には、日本軍が反撃すると期待していましたが、何もなく、逆に米軍の砲撃が激しくなり、島尻方面に逃げました。壕はどこも人でいっぱいでしたが、南風原の津嘉山にあった壕に何とか入ることができました。途中、同郷の上地幸安さんと小禄出身の赤嶺喜作さんと出会い、行動を共にすることになりました。そこには約1カ月いましたが、ある日米兵を見つけ、その日の夕方にはさらに南部に逃げました。南部は悲惨な出来事だらけでした。至る所に死体があり、死んでいる母親のおっぱいを吸っている赤ちゃんもいました。あの時は「鉄砲玉に当たって楽に死にたい」と考えていました。

<未来に伝える沖縄戦>軍の命令で南部に 松田栄喜さん(94)〈下〉 - 琉球新報

家族と首里末吉の亀甲墓を壕にしていた15歳少女の体験談:

… 悪夢は「天長節」の29日夕方に起きた。…「姉の子どもたちと一緒に天長節の歌を歌った」ので日付を覚えている。騒々しかった爆音がやみ、…母と2人で壕入り口に作られているカマドで夕食のしたくに取りかかっていた。墓石をどけたその付近は、2人がようやく座れるほど。もう何日も暗い中で生活しているので、子どもたちの顔色は良くなったが、外で小用を済ませ、入り口より30センチほど下がっている墓の中に一人ずつピョンと入って行った。直後、ドスンという弾の落ちる音が響いた。…外に向いて働いていたので、初め艦砲射撃が自分たちのいる墓の真上に落ちたことに気付かなったという。すると、「アンマー」と母親を呼ぶ弱々しい姉…の声がする。2人がビックリして振り向くやいなや二発目の弾が同じ所に落ちた。この時はものすごい爆風で目も開けられないほど。…カマドの上にも土が覆いかぶさってしまった。

墓は落盤し、中にいた家族の姿は見えない。二発目の弾でみんな生き埋めになってしまったのだ。…青ざめている母親と大声で姉たちの名を呼んだが、反応がなかった。どうしていいか分からず、近くの壕にいる親類たちに助けを求めた。おじさんたちが鍬やショベルで救出しようとしたら、たまたま一緒にいた日本軍の曹長が制止した。

「あれだけの土がかぶさっては生きられない。安心して作業ができるのならともかく、ほかの人の安全のためにもこのままにしておこう」と曹長。…「まだ生きているのに違いない。早く掘り起こしてあげたいのに・・・」と思いつつも、逆らうことはできない。一度に8人の肉親を失った母親はただ泣き叫ぶだけだった

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 302-303頁より》

 

愛楽園

米軍は4月21日に屋我地島に侵攻、23日頃には愛楽園が療養施設であることを確認し攻撃対象から外した。

f:id:neverforget1945:20210710041254p:plain

1938年に開園し、国が隔離政策ハンセン病患者を収容した沖縄愛楽園には、1944年の日本軍の一斉収容で沖縄全域から900人あまりの患者が集められました。

そして、当時の早田園長の指揮のもと、体の不自由な人も含め、入所者たちが昼夜を問わず壕堀り作業を続けました。

壕がほぼ完成した10月10日、大空襲が園を襲い、その後もアメリカ軍は断続的に爆撃。3月には再び大規模な空襲を浴びせます。そして4月下旬、アメリカ軍は愛楽園のある屋我地島に上陸。軍はそのとき初めてこの場所が療養所だと知り、爆撃をやめさせ、誤爆を謝ったということです。

アメリカ軍が執拗に愛楽園を襲ったのは、対岸の運天港に日本軍の魚雷艇の秘密基地があり、愛楽園がその兵舎と思われたためと言われています。爆撃による犠牲者はでませんでしたが、マラリアや栄養失調で毎日のように入所者たちが死亡し、1年間で289人が亡くなりました。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月29日

入所者インタヴューから

<B> … 三十何名か、四十何名かというふうにしてですね、二百名余りの方が亡くなっちゃったんですよ。それがですよ、おもしろいことに、早田園長が、ぼくは救ライに大きな功績を残した、何故かというと救ライということはライを撲滅させることだから、思者を一人でも多く殺すことは救ライにつながっているんだと。だから自分はその最初の園長、第一代園長はその二か年か三か年の在任中で三、四十名しか殺さなかったけど、ぼくは任期中に百何名か殺したと。だからこれが戦後、金鵄勲章もんだといってですね、いばるんですよね。それを聞いたときには、われわれには人権はないのか、ということですよね。

<A> 冗談だったんでしょうけども、自分たちにはどうもー。きつく響いたですね。

<B> … まだもっとありますね。ここは病院だといって赤十字のマークをつけたら爆弾が落ちないんですよ。で、それ進言したわけですよ。赤い赤十字をたてるといったらですね、ここに爆弾を集中させておけば、軍人のほうは軽くすむんじゃないか、だからあんた方はこれで耐えておけと。爆弾をたくさん落さしておけば、それで儲けものだと、それだけ軍隊のほうに落ちないからいいんじゃないかとー。

<A> そのことについてはね、あの頃は総務部、自治会の総務ですよ、高嶺さんという方が総務でした。その方に、わたし相談したんですよ。グランドがちょうど、今二階延てがあるでしょう、あれの一番北あたりでしたね、相当大きなグランドがありましたから、そこに何か表示しましょうか、と。そうだな、やろう、と言うんでー石灰つくってましたね、その石炭でどうにか表示しましょう、といって。することになっていたんですがね。ところが当日は、園長先生の祝いか何か知りませんが、やめようと。表示したためにここに爆弾が落ちなくなることはいいことだけれども、しかし戦っている兵隊さんたちに対して済まないじゃないか、やめようといってやめたんですがね。

 《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》 

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■