〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月23日 『第1防衛線の崩壊』

第1防衛線の崩壊戦時報道伊江島の「集団自決」

 

米軍の動向

南進する米軍 - 第1防衛線の崩壊

第一防衛線 城間-伊祖-嘉数-我如古-西原-千原-和宇慶

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

城間 (ぐすくま):「アイテム・ポケット」

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アイテム・ポケット攻略図(1945年4月22〜25日)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

前日に城間一帯の偵察を強化した米軍は、得た情報をもとに作戦計画をたてた。計画は、日本軍の陣地を攻撃しながら城間南西に位置する牧港飛行場まで進撃するものであり、その作戦を遂行するために特別攻撃部隊を組織した。

23日の朝早く、ルイス曹長分隊をひきつれ、…ふもとの平地に出た。これを、一日本兵が目ざとくみつけ、迫撃砲を撃ちまくった。ルイス曹長は目標をさだめ、そこに兵を走らせた。…岩から岩へ、…丘陵のけわしい先端をよじ登って、日本軍の迫撃砲陣地のおよそ40メートルのところまできた。ここで手榴弾雨あられのように降りだし、分隊はもうこれ以上の進撃はできなくなった。…分隊は40メートル離れている友軍の砲兵隊に合図した。

…残りの部隊は…待機していたが、長距離から日本軍陣地に砲撃を加え、日本軍の機関銃や迫撃砲もこれに応戦した。彼我の砲弾入りみだれ、アイテム・ポケットはいまや炸裂する砲弾、小銃、機関銃でまるで地獄の様相を呈していた。…ルイス曹長は、負傷した兵をつれて引き退がれ、との命令をうけた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 226-228頁より》

伊祖(いそ)

22日に伊祖村落一帯に敷設された地雷を撤去し、伊祖村落への道を進撃することができた第106連隊の第1大隊は、大隊の再編成をした東の第105連隊と相呼応するため550メートルほど後方に退いた。

4月23日、第105連隊の第2大隊と交替した第1大隊の先攻2個中隊は、第2大隊が20日に行ったのと同じ戦法で丘陵頂上に到達し、日本軍に奇襲攻撃を加えた。C中隊は、東の峰の端にある丘陵頂上まで達したが、いつのまにか日本軍のまん中にいることに気づいた。ここで激しい白兵戦が展開され、銃剣や手榴弾だけでなく棍棒まで使用しての肉弾戦となった。

ここでの1時間あまりの戦闘で、日本軍は100名以上が戦死したが、ジョンソン曹長のごときは、1人で30名以上の日本へを倒すという、はなばなしい奮闘ぶりを演じた。ある時は、彼は地面にとび降りたところ、まわりに12名もの日本兵がいるのを発見し、自動小銃で8名をうち倒し、銃床で4名を殴殺するという奮闘ぶりだった。

浦添丘陵の西の峰の戦いは、4月23日の夜、突然、終わった。夜半になるちょうど1時間前、前日まで、昼でも夜でもたびたび合図のラッパを吹いていた日本軍のラッパ手が、集中ラッパを吹くや、30名からなる日本兵が、〝バンザイ〟を叫びながら、壕の中から飛び出し、まっすぐ伊祖の南に塹壕を掘っていた第106歩兵連隊の第1大隊の前線に突貫してきて、この日本軍はついに全滅したのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 267-268頁より》

嘉数 (かかず)

22日に米軍は、嘉数陣地の日本軍を一気につぶすための特攻隊を編成した。

この部隊は、第27師団副師団長ブラッドフォード准将の指揮下におかれた。いわゆるブラッドフォード特攻隊である。23日に作戦準備はすべて完了し、部隊は位置につき、翌日の攻撃にそなえた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 272頁より》

我如古(がねこ)浦添西原

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

21日に西原村落の占領を任された部隊が苦戦し兵力が半減したため、米軍は、別の部隊と交替させた。交替で入ってきた部隊は、被害の少なかった部隊と共に22日、中隊2個が西原村落の占領することに成功し、143高地に対面する高台も奪取した。しかし、別の中隊2個は日本軍の猛攻にあい前進できないでいた。

4月23日、装備したブルドーザーがきて谷間を埋めたので、はじめて第763戦車大隊B中隊の中型戦車がここを渡り、丘に登り、棚原丘陵に直弾をあびせることができた。攻撃には火炎放戦車隊装甲車が、かなりの成果を収めたにもかかわらず、歩兵の進撃はあまりかんばしくなかった。高台の日本軍は、頑強に陣地を固守して、米軍の進撃にたいしては、手榴弾爆雷を抱えての、決死的な反撃でのぞんだ。… 4月23日の夜、西原ー棚原戦線は突破できそうだということが明らかとなった。4個大隊がいまや稜線上にあり、高台という高台を全部占領した。あとはただ棚原丘陵と、嘉数の向かいにある西原丘陵最西端だけが残っているだけだった。だが、これも日本軍のほとんどが南のほうへ撤退したため、難なく占領することができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 259頁より》

千原 (せんばる)

…B中隊はついに兵力つき、これにかわって第17歩兵連隊第1大隊の残存部隊が、4月23日、ふたたびあらゆる兵器をつかい、火炎砲戦車が焼きつくしてから攻撃に出た。今度はほとんど抵抗がなかった。千原の岩山は、午前10時30分、ついに米軍の手におちた。しかし、その代償は高かった。4日間の戦闘で、第184連隊の第3大隊は186名の犠牲を出し、第17連隊B中隊は2日間で57名の犠牲---合計243名の将兵が戦死したのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 252頁より》

和宇慶 (わうけ):「スカイライン丘陵」

22日の夜から23日にかけては、スカイライン丘陵には日本軍の砲撃がはげしかった。第32連隊は、23日、丘の北西部丘腹に残留したまま、ときどき偵察隊を出したり洞窟を埋めたりしていた。… 日本軍の独立歩兵第11大隊は、…4月22日の夜から23日にかけて、兵力わずか300となり、ついに第22連隊と代わった。この第22連隊は第24師団の所属で、ここではじめて戦線に姿をみせたのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 248、248-249頁より》

 

第32軍の動向

おびただしいいのちが海に沈んだ。

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Beach at Motobu Peninsula, showing wreckage from Jap planes.

本部半島の海岸にて、日本軍機の残骸。(1945年4月23日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

北部戦線 - 多野岳から更に北へ

包囲される多野岳

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史叢書第011巻 沖縄方面陸軍作戦 - 防衛研究所

宇土大佐の国頭支隊運天港の海軍部隊は、拠点としていた八重岳や本部半島一帯を米軍に占領された4月中旬、ゲリラ戦に特化した第3遊撃隊(別称:第1護郷隊)の拠点、多野岳へと後退した。

4月23日頃には、本部半島から撤退した部隊運天港の海軍部隊がタニュー岳に合流し、混雑をきわめていた。彼らは食糧を持たないで撤退したため、避難民の食糧を奪う事が何度も起こった。

《結成50周年記念「恩納村民の戦時物語」(恩納村遺族會) 112頁より》

23日朝から、トンボが、盛んに多野頂上上空を低く飛び、爆撃が繰り返され、迫撃砲弾が射ち込まれた。迫撃砲や艦砲が射ち込まれるたびに、山中の樹々は、裂け飛び、散髪されたように、幹や枝を払われ、山腹の陣地小屋は、上空に露出してしまった。

第3遊撃隊本部の山小舎は吹っ飛び、残った常鎮(既教育兵をそう呼んだ)が、銃と、手榴弾と、竹槍を携げて斬込みにでかけた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 312-313頁より》

さらに北へ

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沖縄防衛局 北部訓練場(28) 過半返還に伴う支障除去措置に係る資料等調査資料等調査報告書 (平成29年12月)

多野の頂上には、しだいに米軍の陣地ができ始めた。山中は昼になると、けたたましい銃砲声が轟きわたり、思わぬ近距離から、機銃弾がほとばしった。…この騒ぎの中に、宇土大佐は、多野岳を抜け、もっと北へ退がろうときめていた。各隊からは、「固まらずに、隊別に行動した方がよい」という意見が出たが、宇土大佐はこれを押えた。…(中略)… 頂上では、戦闘が行われ、日本軍は、わずかに、擲弾筒で応じた。死傷者が続出した。夜になると、残余の兵力をまとめて、各隊は整列をおえた。重傷者は、山中に残すことになっていた。宮城兵長経理部の機密書類を焼き、公金を谷間に埋めた。部隊が整列しようとすると、死体が足に絡まった。死体は、整列の場所をあけるため、抱えて藪の中に投じられた。兵隊達が持ち切れぬために捨てた米が、谷川の底に白くうずまった。谷をふるわせて、手榴弾の炸裂する音がきこえた。「何だ、敵襲かァ」「違います。重傷者が手榴弾で自爆しました」これらの声が密林にうつろに響いた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 314頁より》

 

中南部戦線 - 第1防衛線・中央戦線からの撤退

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4月19日のアメリカ軍総攻撃以降、首里防衛線の最前線では、連日一進一退の激闘が繰り広げられていました。沖縄守備軍は、圧倒的に兵力・兵器の勝るアメリカ軍を相手に、嘉数、西原、棚原などを必死に守っていましたが、そのうちに伊祖、和宇慶がほぼ占領され、前線部隊の全滅が危ぶまれるようになりました。

悩みぬいた司令部の参謀長は、戦線の整理を決意。司令部の後方で控えていた第24師団など2部隊を北上させることにしました。しかも戦闘が続いている最前線ではなく、その後方の前田高地周辺に配備。

また、激戦を続けていた、嘉数などを撤退。24日までに、城間から小波津を中心とした次なる防衛線に移行しました。

しかし、前田から首里の司令部まではわずか3キロ。力で全面から押し寄せてくるアメリカ軍を前に、守備軍の戦いはただ消耗していくばかりでした。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月23日

 

東部戦線 - 第24師団第22連隊

軍司令部

米軍は、沖縄本島南部の知念半島沖から上陸を試みるそぶりを見せる「陽動作戦」を繰り返していたため、軍司令部は南部一帯に布陣する部隊を前線に配備してこなかった。しかし、第1防衛線での死闘が続き、兵力を補う必要が生じた。米軍が南部から上陸することはないと判断した軍司令部は、4月22日、南部にいた部隊を北上させる命を出した。

第32軍は、…4月23日夜、第1線で損害の大きい第62師団を嘉数東西の主陣地から前田以西の地区に撤退させるとともに、第24師団を島尻地区から転進させ、城間-仲間-前田-幸地-翁長-小波津-我謝の線に陣地を敷き、迎撃態勢を整えるべく指令を出したのであった。

《「私の沖縄戦記 前田高地・ 60年目の証言」(外間守善/角川学芸出版) 62頁より》

首里の存亡を賭けて日米両軍の正面からの激突は、まさに始まろうとしていた。ところが、守備軍首脳のあいだでは、全軍を挙げて総反撃に打って出るか、それとも北上させた部隊を「戦略持久」のために第2線に布陣せしめるかをめぐって、意見の対立がおこった。

長参謀長や若手参謀たちは、全軍を投入して総反撃に転じる機は熟したとして極力、攻勢に出ることを主張した。ところが、作戦参謀の八原大佐は「さいごまで持久戦をつづけるべきだ」という持論をのべて譲らず、何度目かの対立をみせた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 118-119頁より》

第24師団の援軍

4月23日、日本軍第24師団の第22連隊が首里防衛線の東部を奪還して、第62師団と連絡をとった。それまで三週間にわたって米軍の猛攻をうけていた第62師団にもついに救援がきたのだ。同師団の兵力は減る一方で、残存兵力も少なくなっていたので、第22連隊の進撃はまことに救いの神であった。

日本軍の第24師団と第62師団の境界戦は、いまや第62師団が前線の西半分に集結したので、だいたい首里北方から西原村の幸地と棚原の線までのびていた。第32軍のこの両師団は、だいたい宜野湾街道を境にしてそれぞれ兵を配置した。前線の部隊配置がえ4月23日の午前11時を期して行われた。第24師団の新たな展開を指示した命令は、「とくに幸地近くの第62師団との連絡部隊は強固に守らなければならぬ」と述べてあった。

日本軍の第22連隊の防衛線は、東海岸から北西の方向へ我謝、小波津、翁長、幸地村落を通っていた。第24師団の残りの部隊は予備軍として、首里の北東方や小禄一帯に配属されていた。第22連隊は…4月13日にその一部が反撃戦に出た以外はまだ姿をあらわしていなかったのだが、ついに、幸地とその東、海岸よりのほうで、米第7師団と対決することになった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 280頁より》

 

真実を伝えない日本メディア

沖縄本島に無血上陸した米軍。その三週間後には、中北部地域を手中に収めていた。しかし、4月23日に放映されたニュース映画「日本ニュース」は、沖縄戦の状況をつぎのように伝えた。

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敵艦載機、沖縄島に来襲。3月中旬、有力なる敵機動部隊、南西海域に遊弋して、沖縄上陸の企図はいよいよ明らか。カーチス・ヘルダイバー、はるか慶良間列島を臨む我が飛行場施設を攻撃。がぜん、アメリカはその全艦隊を挙げて、まず慶良間列島に来襲。4月1日、沖縄本島南部地区に、また7日、北部に上陸。1400の敵艦船蝟集する沖縄の戦局。沖縄こそ、決戦場。ここに全力を傾倒する敵兵力を一挙にたたく神機は来た。南西海域へ、敵機動部隊の撃滅。陸軍特別攻撃隊の若武者たちは、軍神加藤少将の像の前に、敵撃滅を誓って陸続、南海へ進発。

まこと、沖縄こそ決戦場。我が特攻隊の怒りは敵艦隊の頭上に炸裂する。敵艦船轟沈、既に数百隻。しかも敵の戦意はなお熾烈。国運を懸ける沖縄決戦に、我が精鋭は敵殲滅の大攻防戦を展開しつつあり。

ニュース映像 第250号|ニュース映像|NHK 戦争証言アーカイブス

実際は・・・。

鹵獲した日本兵の日記を細かく解析している米軍は、次のように記録している。

4月23日までに日本軍の防衛戦はあっちで敗れ、こっちでくずれ、ついに多くの崩壊線を出し、しかも残った陣地の痛手はひどく、まったく使用にたえなくなったため、こういう陣地に永らくたてこもっても不得策だと思って、… 撤退した。… 前線の日本軍将兵がいかに落胆し、また何に望みを託していたかは、嘉数ー西原戦線で戦った日本軍の一兵隊のつぎの日記によっても明らかにされている。4月23日、米軍が最後の攻撃を試みた日、彼はつぎのように綴っている。

「敵上陸以来、すでに一と月になんなんとするも、熾烈なる戦闘まだ昼夜を分かたず。敵の物量は驚くべきほどなり。わが軍一発撃てば、敵は少なくとも十発をもって報いること必定なり。友軍機ついに一機も機影を見せず。もし飛行機われにあらば、たちまちにして勝利を収めん。ああ飛行機!」

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 274頁より》

 

そのとき、住民は・・・

前線に取り残される子どもたち

米国陸軍通信隊: Two Jap children as they were found in a tomb about 50 yards from the front lines. 前線から約50ヤードの墓で発見された2人の日本人の子ども。1945年4月23日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

今帰仁(なきじん)

ある女性の体験談:

…部落の人は皆山に避難を始めた。私達も非常食として日頃準備しておいた乾燥御飯や、米、黒砂糖、それにハッタイ粉などをまとめ再び戻る事を祈りつつ山へと家を後にした。…弾の下をくぐるようにして山奥へ進んだ。水を頼って谷に下りると、もう先に来た人達は小屋を作っていた。…日が暮れると里へ食物取りに下りて牛や豚などをつぶしてきて、その頃まではぜいたくな程食べ物はあった。…そのうち、米兵が山にも上ぼるようになり、男は皆奥山に避難し、益々不安になった。ときどき友軍が食べ物を貰いにくる。友軍ということもあって惜しみなく分けてあげた。然し、里から上がってくる人々の話によると、誰かは友軍に切られたとか、誰かは連れて行かれて戻らないとか、気になる話を聞かされる。米軍が敵かと思えば、同胞が尚恐ろしい敵になっているとはどうしたことか。… 4月23日、里では米兵と日本兵との激しい射ち合いがあった。日本兵が幾人か戦死したという。その日、山手の姉の家も焼かれ姑と姉が米兵の弾に倒れた。一日に2人の肉親を失い、口惜しさと悲しさに唯オロオロするばかり。戦争が憎い、涙がとめどもなく流れるのをどうすることも出来ない。いずれ私達も逝くのだ、母と姉は一足先に逝ったまでのことだ・・・。と思った時、悲しみも薄らいだ。

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 74-75頁より》

 

収容所生活

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第130建設大隊のキャンプ近くで働く地元住民。沖縄本島にて。米のもみ殻を除く作業をしている老婦人。手織りの籠を回転させたり、上下させるという、きわめて原始的なやり方で、米ともみ殻を分けている様子。(1945年4月23日撮影)

Okinawans at work near 130th CB camp at Okinawa, Ryukyu Islands. Grandmother at her task of winnowing rice. The grain is sifted from the chaff with a rotating and up and down movement in hand-woven baskets in the most primitive of methods.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

田井等収容所

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米国海軍 Jap civilians shown at outskirts of village of Taira, Okinawa, Ryukyu Islands. Showing Jap children returning from the hills after US Marines had taken village. Note transportation of household goods. CL-62#61.

沖縄本島田井等の村の外れで撮影された民間人。海兵隊が村を占領した後、避難していた山から帰ってきた子ども。生活用品を運んでいる方法に注目。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

伊江島の集団自決

軍と民間人が混じる伊江島の壕では、連続して集団死がおこっていった。日本軍兵士が住民に「自決」を強要するため地元で徴用した防衛隊員を利用し強制するという構図は渡嘉敷島の「集団自決」にも共通するものである。

一ツ岸ガマの「集団自決」

生存者の証言:

それでも23日の日に米兵がきてですね、…「民間人は出て来なさい」と言われたわけですよ。そこでですね、出たら大変ということ、出たら日本兵にやられるから、日本兵にまたやられる。だから出ることができないわけですよ。そしてですね、ちょっと割れた穴があるんですけど、こっちから煙弾2個投げられたんですよ。

「こっちに固まりなさい」と言って防衛隊が呼び出したわけですよ。そしてこっちにみんな固まったわけですよね。そして私の父と島袋さんといって、この人は私の門中ではないけど、この方は入らなくて、この24名の中に入らなくて。みんなで26名いたので。この2人はちょっと側で座っていたんですよ。煙弾投げられたものだから、爆雷2つ準備して1つを爆発させたんですよ。

大城 安信さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

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沖縄戦の絵】伊江島「集団自決」

4月23日、壕の外に出てくるよう呼びかける米兵の声が聞こえてきた。しかし「捕虜になればみんな殺される」と聞かされていた壕の中の人たちは、出て行くことができなかった。真ん中に立っている防衛隊員の男性が「皆で一緒に死のう」と呼びかけ、壕の中の人々は男性のもとに集まった(1枚目の絵)。この直後、男性が爆弾を爆発させ、22人が一瞬のうちに命を落とした(2枚目の絵)。母に抱かれ…爆発で崩れた岩に首まで埋まったが一命を取り留め、助け出された。 …「集団自決」の真相を知ってほしいとの思いから、自決直前の壕の中で肩を寄せ合う親せきたち1人1人の様子を絵にした。

伊江島「集団自決」 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

ユナパチク壕の「集団自決」

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この井戸の下には日本軍によって掘られた地下15メートル、長さ50メートルの陣地壕があり、沖縄戦当時、住民たちも軍とともに身を寄せていました。その壕は住民から「ユナパチク壕」と呼ばれていました。1945年4月。伊江島に上陸したアメリカ軍の猛攻を受け、逃げ場を失い追い詰められた住民およそ80人は、このユナパチク壕で日本軍から渡された手りゅう弾を爆発させ、命を絶ちました。

多くの命が失われたこの出来事は、並里さんが語り始めるまで、ほとんど知られていませんでした。あまりにも壮絶な体験だったため並里さんは、心にずっと秘めてきたのです。並里さん「何かのはずみにパッと戦争の頃の記憶がぱっとくるんですよ。とても複雑ですよ。大変ですよ。言葉では言えませんよ。話したくない絶対に話したくない」戦争のことを思い出すだけで下痢や嘔吐を繰り返す並里さん。50代後半から沖縄戦のトラウマに悩まされ苦しんできました。

Q+リポート 慰霊碑建立願い続けた女性 – QAB NEWS Headline

日本兵に暗い壕の中で赤ん坊殺しを命じられ防衛隊員が殴られる。防衛隊員として徴用された地元の青年と実際に自分の赤ん坊に手をかけてしまった母親にとって、戦後はさらに続く地獄だった。

暗い壕のなかでの赤ちゃん殺し - 生存者の証言

日本兵は余計、いらついているはずですからね。自分では撃たないで、隣の、義勇軍になった、幾つぐらいになられたのかね、あの人は、二十歳くらいじゃなかったかと思うんだけど、「貴様、撃て」と言ったのですが、撃てなかった、という状態なんです。だから、あの緊張感、あの空気の中というのは、言葉で話せないです。文字にもなりません。その状況の中で、母は殺してしまったんです。… 赤ちゃんでもすごい抵抗があったって。だからそれがたまらなくて、どんなに母は… 、それから抜けられませんよね。… 薄暗いところですから。静まったとき。うちの母がやったのは、上官は見ていたんじゃないのかな。静かになったんですよ。なにか、このお兄さんも随分殴られていましたけどね。

あのお兄ちゃんはまだ顔見知りでもあったし、お付き合いもあったから、やっぱりできなかった。えらかったと思うんですよ。だけどこの人ね、サンザタ壕なんかでは話を聞いてみたら、傷ついた人はドンドン殺したって、鉄砲で撃って。殺すように…。あの人はなにか非常に…。生きておられましたからね、まだ。4、5年前に亡くなられたようですよ。結局、あの人の心の変わったのもそれだと思うんですよ。うちの事件で。清純だった少年の心がね、なにか傷ついたのは、苦しめないで殺せというような軍の、あったんじゃないでしょうかね、そういうのが。あのお兄さんも非常に、聞くところによると、だというような…。あの人も戦後生きていくのに大変だったと思いますけどね。そういうふうに戦争って心が変わってしまうんですよ。殺すというのが戦争ですからね、やっぱり。あの人に殺されたという人なんかもおりますからね。壕の中ではなくて、外のほうで傷ついている人もみんな殺したっていう。鬼だという悪口をたたかれたみたいですからね。なんだかこれを聞いても、私は非常に胸が痛かったです。

ユナパチク壕で渡された手榴弾、その時、伊江島で何がおこったのか

 

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