〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月3日 『攻撃を受けた疎開民』

日米に引き裂かれた兄弟の再会 / やんばる、井澤隊の住民虐殺 / 沖縄人捕虜の尋問 / 尖閣諸島戦時遭難事件

 

米軍の動向

戦利品

日本刀などの武器や日の丸は人気のある戦利品で、箱詰めして郷里に送った。

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Okinawa-Capt Equip & Mat. Japanese.【訳】捕獲された日本軍兵器(1945年7月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Okinawa-Div. 96th Inf. O/S.【訳】第96歩兵師団(1945年7月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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... display their souvenirs of the Okinawa Campaign. They are both members of Company K, 383rd Inf., 96th Division.【訳】二人とも第96師団第383歩兵部隊、K中隊所属。(1945年7月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

三中勤皇隊 - 戦争で引き裂かれた兄弟

1944年7月、日本軍は名護の沖縄県立第三中学の校舎を接収し、学徒は外で軍事教練をうけた。1945年4月8日に米軍が名護に侵攻し校舎を接収。野戦病院となった。米軍は、皮肉にも三中を「軍事学 (士官学校) 」と記しているが、実際、三中の学徒は鉄血勤皇隊・通信隊として、一部は護郷隊に編入され、今も終わらぬ戦争を生きていた。

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Entrance to the 87th Field Hospital, most of which is established in a former Japanese Military School.【訳】第87野戦病院玄関。これらの建物のほとんどは旧日本軍の兵舎跡に建てられた。(建物は沖縄県立第3中学校図書館(1945年7月3日撮影)

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14歳の三中鉄血勤皇隊で第一護郷隊に召集された東江平之は兄東江康治と家族と共にやんばるに身を潜めていた。

東江さんも護郷隊の少年兵だった。… 東江さんは家族を探し、戦場の山をさまよった。6月に入り、兄・康治さんと再会する。康治さんはアメリカ兵と銃撃戦となり、胸からわきの下まで貫通する大怪我をしていた。傷は膿み、熱を持ち、危険な状態だった。

NHK『少年ゲリラ兵の告白―陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊―』新潮文庫

一方、長男の東江盛勇は兵隊にとられないようアメリカに送られ、後にフランク東と改名。そこで日系人として収容され、MIS (米陸軍情報部) 語学兵となり沖縄に派兵される。

当時、宜保さん (ブログ註・元県立博物館館長 宜保榮治郎) 12歳。現在の名護市屋部で野生化した小豚を捕らえるため友人と追い掛けていたら、1台のジープが来て米軍の軍服を着た2世らしい人が名護の言葉でいぇー、うまりかーに、名護んちゅや うらんなー(おい、この辺に名護の人はいないか)」と話し掛けてきた。榮治郎少年は名護くぅとぅばに親しみを覚え、いろんな人を伝って盛勇さん (フランク東) の弟の康治 (東江康治・元琉球大学学長) さんが名護岳の山中にいることを突き止めた。

【アメリカ】68年ぶり再会 終戦直後、名護で交流 - 琉球新報

【訳】ヒガシ真珠湾攻撃の数か月後にアメリカ陸軍に入隊した。日系アメリカ人二世として、彼は「二世」兵士の一人であり、日本軍からは軽蔑されながらも、アメリカの同胞からの偏見や疑惑に耐えながら、戦争で最も勲章を受けた英雄の一人となった勇敢な軍人であった。ヒガシは、軍の沖縄侵攻計画にとって極めて重要な任務のため、フォート・スネリングで(語学兵として)特別訓練を受け、首席で卒業した。東さんは幼少期を島で育ったおかげで、日本語ではない沖縄の言葉を習得していた。そのため、彼は3か月にわたる沖縄戦の間、軍事情報局の10人からなる部隊の通訳として配属された。

Okinawan-born Veteran Played Critical Role in Victory over Japan in WWII – The Canby Current

東江さんより12歳上で、アメリカ国籍を持つ次兄フランク・ヒガシさんが、アメリカ兵として近くにやってきていたのだ。フランクさんは、家族を戦禍から守るため、アメリカ軍に志願入隊し、来日。捕虜の通訳などを担当しながら、名護市周辺を探しまわっていた。「日本人のようなアメリカ兵がいる」そんな噂が山中に広まると、父はアメリカ在住の息子だと直感した。

NHK『少年ゲリラ兵の告白―陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊―』新潮文庫

東江家の7男で三中勤皇隊で護郷隊に所属した東江平之の証言

6月23日の沖縄戦終結(日本軍の組織的な抵抗終了)のあとというのは、アメリカは、そろそろ北部の掃討戦が始められるという時期になってるんですね。7月1日あたりがこのピークなんですね。ドッとその、山から避難民が下りていくのがですね。何もこの公の情報がないんですけどね、なんとなくみんな気が付いて。うちの家族のことに限りますと、だいたい6月の19日か20日ぐらいに、うちのおやじの友達のところから、友達がわざわざうちの避難小屋に来て、「お宅の息子がアメリカの兵隊で来てるみたいだよ」と言われるわけですね。(当時、米国にいた兄は)2人いるから、どっちか分かんなかったんですけど。おやじは、友達が帰ったあと、「息子に会いに行く」と言うんですね。「どんなして会いに行く」って。アメリカの軍隊に囲まれてるのに。おやじは本当に死を覚悟してですね、腰に弁当ひとつぶら下げて、そして朝、結局、向こうは前線張って守ってるわけですね。そこに白旗も何も揚げないでのこのこ下りて行ってるんですよ。たぶんあの連中も望遠鏡かなんかで見ていたんでしょうね。63歳でしたからね、ボロボロの服着て。だから撃たなかったんですね。そしたら近づいて話しかけたらおやじから、おやじも15年ぐらいアメリカにいましたからね。忘れかけた英語で「息子に会いに来た」と言ったらね、聞き覚えのあることだというんで、すぐ無線電話で連絡したら、うん、該当者がいるからそこに待っとけと言われて。しばらくしたらうちの兄貴がそこに来てるんですね。そこで感動の対面が起こって。そのときの、おやじとこの兄貴で2人で家族を山から下ろすということ決めてるんですけどね。

東江 平之さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

米軍の写真記録にある東江親子の再会。全米の新聞数十社がこの写真を報じたという。

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【訳】東盛勇はカリフォルニアで生まれたが沖縄で育った。1937年に中学校を卒業すると、彼はロサンゼルスに戻り、それ以来父親に会っていなかった。彼らは6月21日那覇で再会し、喜ばしい写真が全米中の新聞に掲載された。

James C McNaughton, Nisei Linguists: Japanese Americans in the Military Intelligence Service During World War II (2007/3/1)

父と子の再会は7月やんばるから避難民が投降し収容されるひとつの契機になる。

この決め手になったのが、ひとつは沖縄の戦争ほとんど終わってるよと、もうひとつは近いうちにやんばるの山も掃討戦が始まるよと。この2つにはさすがのおやじも説得されたんじゃないかなと思う。山の中入ってきた時には、おやじも兄貴も家族を下山することを勧めるという立場になってるんですね。

東江 平之さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

米兵を案内する父。

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米陸軍: Major Bass with an interpreter nearing a hill top where Higashi's family lives.【訳】ヒガシの家族が住む丘の頂上に通訳官と共に近づくバース少佐。1945年 6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

弟(康治)は米軍の手当てで一命を取り留めた

「東江兄弟」の番組上映 沖縄戦、奇跡の再会に涙 - 琉球新報

三中勤皇隊・護郷隊であった14歳の東江平之は捕虜収容所に移送される。

そしたらフランクは僕より12(歳)上なんですけどね。「そうだなあ、もうしょうがないから君も一緒に下りよう」と言われまして。さすがに14歳の未熟さだったかなあと思うし、特に反対できなくなってしまって。下りたのはいいんですげど、一晩だけ家族と一緒に寝てね、翌朝すぐ収容所の管理本部に出頭して、その日から川上のカンパン(名護・田井等収容所地区内の捕虜収容所)のほうにぶち込まれて。 

東江平之さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

当時14歳だった東江さんは、名護の田井等収容地区内の「労働収容所」、いわゆる「川上カンパン」に収容され、45年6月から11月まで、終戦を知らされることなく働かされた。収容者の中には、逃げようと試みて米軍に殺害された人もいたという。 

終戦を知らされず基地建設...沖縄の住民らが動員された「労働収容所」 当時14歳が見たもの - 琉球新報

 

やんばる、喜如嘉の住民虐殺

大宜味村喜如嘉の周辺では、連続して紫雲隊の井澤らによる住民虐殺が起こっている。特に上記のように7月になってやんばるから下山し収容所に入る動きが始まる7月から連続して住民の虐殺を引き起こす。

  • 1945年7月3日、喜如嘉の巡査、知名定一の虐殺
  • 1945年7月4日、宜名真・辺戸住民斬殺事での住民4人の虐殺
  • 1945年7月16日、与那嶺静行とその妻、弟静正の虐殺

… 当時喜如嘉部落の俗称当山という山林内には、一般部落民から食糧の供出を強要し生活をしていた元日本軍の敗残兵紫雲隊と称する十五名内外の兵隊達が山林内に立てこもっておりました。夫は、部落民に対し、捕虜収容中に得た上記情報を部落民に話し、山から早く下山するよう勧めたところ、彼等は、スパイ行為であると曲解し、昭和二十年七月二日の夕方、紫雲隊所属の伊沢曹長(ママ)以下数名が夫の住家へ来て、スパイ行為をしていると称し山へ連行しようとしたので、夫は軍機に触れる行動はしていないと釈明したようですが聞き入れず、目隠しをなし、両手を後手に縛りつけ、銃剣で刺殺し山林内へ埋めた事実。

『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 国頭村 - Battle of Okinawa

井澤隊は食糧を住民に依存し、スパイとみなす住民リストを持ち歩いて特定の住民を脅迫、住民の下山を許さなかった。

知名巡査の処刑直後に井澤は村のリーダーたちの会合にやって来て「挙動不審につき知名巡査を只今処刑してきた」とわざわざ報告したという。それは明らかに軍を裏切る者は処刑するという見せしめであったと福地さんは見ている。そしてもう一つの虐殺事例が、七月四日、収容所から解放されて家に戻る途中の、国頭村の辺土名と宜名真の住民の一団が伊地にさしかかったところ、後ろから追いかけてきた井澤ら敗残兵に襲われ男性四人が殺された。死体はそのままになっていたという。井澤らが言うには、収容所に入ったものはみなスパイということだった、と『村と戦争』に書かれている。
三上智恵『証言沖縄スパイ戦史』(集英社) 536頁》

 

屋嘉収容所 - 沖縄人捕虜の尋問

伊良波収容所で振り分けられ、

船舶工兵第23聯隊に所属した沖縄人の体験談:

沖縄戦では中部嘉手納の比謝川(製糖工場)から南部まで銃火に追われ、聯隊が大里村仲程から嶺井の線で全滅した後は南部を転々とさまよっているうちに6月30日ごろ、喜屋武岬よりの米須の海岸で5人が捕虜になった。…一列隊になり手をあげて米兵に向かって歩いて行くと彼等は後ずさりしながら自動小銃を向け発砲の構えをしていた。…身体検査を終えると水呑み場に連れていき、腹一杯水を飲まし、菓子などを呉れた。彼等はどの兵隊も赤ら顔をして盛んに英語で話しかけてきた。どの兵隊も同じ顔に見え、…片言の英語が通じ大変嬉しかった。

水呑み場は道路に面していて、時折り戦車が通りすぎ、日本兵が褌一本で投降してくるものもおり、その数は次第に増してきた。われわれは最初豊見城伊良波に連行された後、簡単に職業等のじん問をうけた。そこで軍人、一般民間人によりわけられた。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 80頁より》

米陸軍: Processing of prisoners of war by the Military Police Fingerprint Section. 【訳】憲兵の指紋部による捕虜の指紋採取。1945年6月5日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

屋嘉収容所に収容される。

じん問をうけたとき私は学生だと答えた。するとハワイ帰りと称する50歳がらみの背の低いヘルメットを被った男に裸になれといわれ、着物をとると顔を一発ぶたれた。「君は防衛隊だ」と一方的に決めつけられてそのグループの中に入れられた。その日に同村与根に移され、1日は終わった。その夜は近くで日本の敗残兵と米軍の交戦があり、間だんなく銃声がきこえて、曳光弾が尾を引いて何度も頭上をかすめていった。2世の米兵が日本語で絶対に頭をあげるなといっていた。生きた心地はしなかった。

7月3日ごろ、行き先を知らされないまま屋嘉収容所に着いた。驚いたことに周囲を有刺鉄線で囲われ、その中に夥しい人の群れがうごめいているのが見えた。車から降りると男達が右往左往し、頭髪、ひげは伸びほうだい、目はくぼみ、頬はこけ、軍服、着物を着るもの、つっ立っているもの、坐っているもの等々異様な光景であった。

… 折からの7月の陽光はギラギラと輝き、熱砂の照り返しと相俟ってうだるような暑さだった。屋敷跡の井戸があちこちにあって人々は水を求めてうろついていた。食事に配られたレーションの空箱(紙)を丁寧に延ばし、それを頭にのっけて紐で顎に結わえて猛暑を避けた。夜になると収容所の周囲を取り巻いていた戦車が一斉にライトをつけた。収容所はその騒音に混じってまるで真昼のようであった。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 80頁より》

また、7月3日頃、朝鮮人軍夫と将兵、沖縄人の防衛隊員と学徒兵ら1500人がハワイの収容所に移送された (三期目) 。その中には沖縄師範鉄血勤皇隊の古堅実吉さんもいた。地獄船とよばれる劣悪な輸送船の船倉につめこまれた。

古堅さんが米軍の移送船に乗せられ、沖縄を離れたのは45年7月3日ごろ。5日が16歳の誕生日だった。数ある移送船のうち、古堅さんたちを乗せた船は環境が最も劣悪な「地獄船」だった。到着までの約20日間、蒸し暑い船倉に押し込められた。バケツに入った食事は1日2回。手のひらを食器代わりにした。白米を先に載せ、その上に主菜を盛り付けると汁気がこぼれずにすんだ。顔をうずめ、家畜のように食べた。 

 古堅実吉さん証言 ハワイの捕虜収容所に送られたウチナーンチュ - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

一心丸・友福丸事件 - 遭難した石垣島疎開

八重山の日本軍は、組織的な日本軍の戦闘が終わり、八重山群島全域が米英艦隊によって封鎖されているなか、住民の台湾疎開を進め疎開船を送りだした。石垣島8千人の将兵で逼迫する島の食糧を少しでも軍が確保するためだと考えられる。

沖縄本島での戦況がほとんど米軍の一方的な進撃と変わり、日本軍の敗北が決定的となった五月から六月にかけて、逆に八重山では避難命令や疎開命令が出され、住民は戦況の進展はいっさい知らされず、最後の決戦がやってくるとおびえながらその準備にあわただしく動いていた。

「尖閣列島遭難」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 八重山 ( 3 ) - Battle of Okinawa

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沖縄戦の絵】「尖閣諸島近海  疎開船への攻撃」

石垣島から台湾への最後の疎開船・第一千早丸に家族で乗っていた時の体験。よく晴れた日、魚釣島近海にさしかかった時、米軍戦闘機が現れて同じ船団の第五千早丸を攻撃、船は炎上して沈没した。戦闘機はその後、第一千早丸の上を何度も旋回して機銃攻撃を繰り返し、機関室は破損、船底も破壊された。女性や子どもなど約90人が乗船していた船内は、叫びやうめき声で騒然となった。…頭の左側に弾がかすり、血が噴き出した。姉が海へ飛び込もうと言ったが、「死ぬなら家族一緒」と考えた母親は、末の子のおぶいひもを家族8人全員にくくりつけ船内に留まった。船はその後、魚釣島に着いたが、50日間食糧はなく餓死寸前に陥った。その後家族は全員石垣島に戻ることができたが、7人きょうだいのうち下の2人は栄養不足などがたたってまもなく亡くなった。

尖閣諸島近海 疎開船への攻撃 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局 

船は、第一千早丸(一心丸)第五千早丸(友福丸)で、180名ほどの疎開で、そのほとんどが老人、婦人、子どもで、その外に台湾人、朝鮮人が乗っていました。

『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 八重山 ( 3 ) - Battle of Okinawa

日本軍が石垣島から送り出した住民は、米軍の標的となる。

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アメリカ軍機の乗員が撮影した攻撃を受けつつある友福丸(第一千早丸)と一心丸(第五千早丸)。

海の沖縄戦展

ピーミス中尉に女性や子どもたちの姿は見えなかったのか、本当にカメラのフィルムはなかったのか。生き残った人々は翌日に魚釣島に上陸するが、そこでも米軍機は連日飛来し機銃掃射を行う。

与那国沖航行中の船舶に対する攻撃報告書の作戦報告書

【訳】先島群島周辺海域をいつものように巡回する際、見たところ先島諸島から与那国島に 19:00の方向に約5ノットの速度で向かうラガー2隻を、ビーミス中尉は公海にて奇襲した。 この2隻は黄麻布の大袋と大きな鉄製のドラム缶を大量に積んでいた。ビーミス中尉はこの2 隻を、真横に3回、後方に1回、立て続けに計 4回攻撃した。爆撃し、機銃掃射する航程があ り、最後は機銃掃射のみで終わった。1隻は、 船体中央部、前方ウェルに普通爆弾があたり、 バラバラに吹き飛び、ほぼ即時に沈んだ。もう1隻は焼夷弾の攻撃を貨物に受け、発火した。 この作戦の最後、この損壊と船から離れ水中を泳ぎ回る12-15名の日本人を写真におさめるため、ビーミス中尉は写真を撮りながら特別航行するが、運悪く、カメラにフィルムは残っておらず、その試みは無駄に終わった。この海域 を一掃する前に、乗組員はまだ燃えている2隻目の船が海中深く沈むのを見届け、絶対にこの船が救出されることのないようにした。それから、われわれの軍機は巡回を続けた。

《「沖縄県公文書館 常設展特別企画   米海軍資料に見る海の沖縄戦展」pdf より》

当時、一心丸の機関長だった金城珍吉さん(64)の話によると、「7月2日午後7時ごろ、舟浮港を出て、1回目と同じ航路(尖閣諸島経由)を取って7月3日午後5時ごろ、基隆港に入る予定」だった。波もなく、風も静かで、疎開者の中からは楽しそうな歌声も聞こえてきたという。 ところが、入港予定間近の3日午後2時ごろ、2隻の疎開船は米軍機に捕捉される。B24といわれている。…

B-24は繰り返し攻撃した。一心丸は火災を起こし、逃げ遅れた者は生きながら焼かれた。火から逃れようと次々に海へ飛び込んだ。

尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」 - Battle of Okinawa

魚釣島から住民が救出されたのは8月19日。さらに取り残された数名が救出されたのは11月になってからのことだった。

なぜ救助船が出なかったか疑問を持ち続けている。行政側の救助の動きもあったというが実際には何カ月もたって、しかも台湾漁船による救助。

尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」 - Battle of Okinawa

 

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