〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月3日 『攻撃を受けた疎開民』

引き裂かれた家族の再会尖閣諸島戦時遭難事件

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 泡瀬飛行場

米軍は4月1日に読谷と嘉手納の基地を占領し、日本軍の飛行基地を礎にして更なる基地拡大を進めた。1945年の沖縄戦で米軍は11の飛行場20の小飛行場を建設し、そのほか数多くの軍事施設を構築した。

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沖縄戦証言 中頭郡 - Battle of Okinawa

泡瀬飛行場: 米軍は泡瀬周辺をシモバルとよび、6000人以上の民間人を収容していた。その後さらに住民を移動させ、5月1日から飛行場建設を開始、7月に完成した。現在は米海軍の泡瀬通信施設として残っている。

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第14海兵航空群が使用する泡瀬飛行場運用区域の全景。沖縄本島にて。(1945年7月3日撮影)

Panorama of Awase Airstrip operating field for MAG-14 on Okinawa in the Ryukyus. MAG-14-017-8

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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物資の受取と荷下ろしをする補給部のクラスII,クラスIVのコンベヤラインとプラットホーム。(1945年7月3日撮影)

Receiving and unloading platform with conveyor line, Class II and IV, Ordnance section.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦利品

日本刀などの武器や日の丸は人気のある戦利品で、箱詰めして郷里に送った。

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Okinawa-Capt Equip & Mat. Japanese.

捕獲された日本軍兵器(1945年7月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Okinawa-Div. 96th Inf. O/S.
第96歩兵師団(1945年7月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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沖縄戦での戦利品を見せるボーウェン上等兵とデービットソン上等兵。二人とも第96師団第383歩兵部隊、K中隊所属。(1945年7月3日撮影)

Pfc. Walter E. Bowen, 632 Parc Road, Washington, D. C., and Pfc. James C. Davidson, 159 Hill Ave., Portsmouth, Va., display their souvenirs of the Okinawa Campaign. They are both members of Company K, 383rd Inf., 96th Division.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

第一護郷隊 - 国境で引き裂かれた兄弟

日本軍が学徒を召集し戦場に送りだしていることを把握していた米軍は、皮肉にも沖縄県立第三中学 (現・名護高校) を「軍事学校 (士官学校) 」と記している。

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Entrance to the 87th Field Hospital, most of which is established in a former Japanese Military School.

第87野戦病院玄関。これらの建物のほとんどは旧日本軍の兵舎跡に建てられた。(建物は沖縄県立第3中学校図書館(1945年7月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

14歳で三中鉄血勤皇隊で第一護郷隊に召集された東江平之は兄東江康治と家族と共にやんばるに身を潜めていた。

(兄の東江康治さんとともに)、戦後まもなくアメリカに留学し、兄弟そろって大学で教授や学長を歴任しながら、社会心理学の研究をリードしてきた。東江さんも護郷隊の少年兵だった。… 東江さんは家族を探し、戦場の山をさまよった。6月に入り、兄・康治さんと再会する。康治さんはアメリカ兵と銃撃戦となり、胸からわきの下まで貫通する大怪我をしていた。傷は膿み、熱を持ち、危険な状態だった。

NHK『少年ゲリラ兵の告白―陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊―』新潮文庫

長男の東江盛勇は兵隊にとられないようアメリカに送られ、後にフランク東と改名。そこで日系人として収容され、MIS (米陸軍情報部) の語学兵となり沖縄に派兵される。

当時、宜保さん (ブログ註・元県立博物館館長宜保榮治郎)12歳。現在の名護市屋部で野生化した小豚を捕らえるため友人と追い掛けていたら、1台のジープが来て米軍の軍服を着た2世らしい人が名護の言葉で「いぇー、うまりかーに、名護んちゅや うらんなー(おい、この辺に名護の人はいないか)」と話し掛けてきた。榮治郎少年は名護くぅとぅばに親しみを覚え、いろんな人を伝って盛勇さん (フランク・東) の弟の康治 (東江康治・元琉球大学学長) さんは名護岳の山中にいることを突き止めた。

【アメリカ】68年ぶり再会 終戦直後、名護で交流 - 琉球新報

東江さんより12歳上で、アメリカ国籍を持つ次兄フランク・ヒガシさんが、アメリカ兵として近くにやってきていたのだ。フランクさんは、家族を戦禍から守るため、アメリカ軍に志願入隊し、来日。捕虜の通訳などを担当しながら、名護市周辺を探しまわっていた。「日本人のようなアメリカ兵がいる」そんな噂が山中に広まると、父はアメリカ在住の息子だと直感した。

NHK『少年ゲリラ兵の告白―陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊―』新潮文庫

東江家の7男で三中勤皇隊で護郷隊に所属した東江平之の証言

6月23日の沖縄戦終結(日本軍の組織的な抵抗終了)のあとというのは、アメリカは、そろそろ北部の掃討戦が始められるという時期になってるんですね。7月1日あたりがこのピークなんですね。ドッとその、山から避難民が下りていくのがですね。何もこの公の情報がないんですけどね、なんとなくみんな気が付いて。うちの家族のことに限りますと、だいたい6月の19日か20日ぐらいに、うちのおやじの友達のところから、友達がわざわざうちの避難小屋に来て、「お宅の息子がアメリカの兵隊で来てるみたいだよ」と言われるわけですね。(当時、米国にいた兄は)2人いるから、どっちか分かんなかったんですけど。おやじは、友達が帰ったあと、「息子に会いに行く」と言うんですね。「どんなして会いに行く」って。アメリカの軍隊に囲まれてるのに。おやじは本当に死を覚悟してですね、腰に弁当ひとつぶら下げて、そして朝、結局、向こうは前線張って守ってるわけですね。そこに白旗も何も揚げないでのこのこ下りて行ってるんですよ。たぶんあの連中も望遠鏡かなんかで見ていたんでしょうね。63歳でしたからね、ボロボロの服着て。だから撃たなかったんですね。そしたら近づいて話しかけたらおやじから、おやじも15年ぐらいアメリカにいましたからね。忘れかけた英語で「息子に会いに来た」と言ったらね、聞き覚えのあることだというんで、すぐ無線電話で連絡したら、うん、該当者がいるからそこに待っとけと言われて。しばらくしたらうちの兄貴がそこに来てるんですね。そこで感動の対面が起こって。そのときの、おやじとこの兄貴で2人で家族を山から下ろすということ決めてるんですけどね。

東江 平之さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

米軍の写真記録にある東江親子の再会。

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ヒガシが彼の父と再開する。沖縄。6月21日。

James C McNaughton, Nisei Linguists: Japanese Americans in the Military Intelligence Service During World War II (2007/3/1)

【訳】東盛勇はカリフォルニアで生まれたが沖縄で育った。1937年に中学校を卒業すると、彼はロサンゼルスに戻り、それ以来父親に会っていなかった。彼らは6月21日那覇で再会し、喜ばしい写真が全米中の新聞に掲載された。

James C McNaughton, Nisei Linguists: Japanese Americans in the Military Intelligence Service During World War II (2007/3/1)

父と子の再会は7月にやんばるから避難民が投降し収容されるひとつの契機になる。

この決め手になったのが、ひとつは沖縄の戦争ほとんど終わってるよと、もうひとつは近いうちにやんばるの山も掃討戦が始まるよと。この2つにはさすがのおやじも説得されたんじゃないかなと思う。山の中入ってきた時には、おやじも兄貴も家族を下山することを勧めるという立場になってるんですね。

東江 平之さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

米兵を案内する父。

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米国陸軍通信隊: Major Bass with an interpreter nearing a hill top where Higashi's family lives.
ヒガシの家族が住む丘の頂上に通訳官と共に近づくバース少佐。1945年 6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

弟は米軍の手当てで一命を取り留めた。

「東江兄弟」の番組上映 沖縄戦、奇跡の再会に涙 - 琉球新報

護郷隊であった14歳の東江平之は捕虜収容所の方に移送される。

そしたらフランクは僕より12(歳)上なんですけどね。「そうだなあ、もうしょうがないから君も一緒に下りよう」と言われまして。さすがに14歳の未熟さだったかなあと思うし、特に反対できなくなってしまって。下りたのはいいんですげど、一晩だけ家族と一緒に寝てね、翌朝すぐ収容所の管理本部に出頭して、その日から川上のカンパン(収容所・米軍部隊構内の宿舎)のほうにぶち込まれて。 

東江 平之さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

屋嘉収容所 - 捕虜になった日本兵

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投降した日本人捕虜を身体検査する海兵隊員。

Marines search a Jap prisoner who surrendered.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

船舶工兵第23聯隊に所属した兵士の体験談:

沖縄戦では中部嘉手納の比謝川(製糖工場)から南部まで銃火に追われ、聯隊が大里村仲程から嶺井の線で全滅した後は南部を転々とさまよっているうちに6月30日ごろ、喜屋武岬よりの米須の海岸で5人が捕虜になった。…一列隊になり手をあげて米兵に向かって歩いて行くと彼等は後ずさりしながら自動小銃を向け発砲の構えをしていた。…身体検査を終えると水呑み場に連れていき、腹一杯水を飲まし、菓子などを呉れた。彼等はどの兵隊も赤ら顔をして盛んに英語で話しかけてきた。どの兵隊も同じ顔に見え、…片言の英語が通じ大変嬉しかった。

水呑み場は道路に面していて、時折り戦車が通りすぎ、日本兵が褌一本で投降してくるものもおり、その数は次第に増してきた。われわれは最初豊見城伊良波に連行された後、簡単に職業等のじん問をうけた。そこで軍人、一般民間人によりわけられた。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 80頁より》

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前線の収容所で最初に配給された水を口にする日本兵捕虜。

Jap POW's in forward stockade drinking their first ration of water.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

じん問をうけたとき私は学生だと答えた。するとハワイ帰りと称する50歳がらみの背の低いヘルメットを被った男に裸になれといわれ、着物をとると顔を一発ぶたれた。「君は防衛隊だ」と一方的に決めつけられてそのグループの中に入れられた。その日に同村与根に移され、1日は終わった。

その夜は近くで日本の敗残兵と米軍の交戦があり、間だんなく銃声がきこえて、曳光弾が尾を引いて何度も頭上をかすめていった。2世の米兵が日本語で絶対に頭をあげるなといっていた。生きた心地はしなかった。

7月3日ごろ、行き先を知らされないまま屋嘉収容所に着いた。驚いたことに周囲を有刺鉄線で囲われ、その中に夥しい人の群れがうごめいているのが見えた。車から降りると男達が右往左往し、頭髪、ひげは伸びほうだい、目はくぼみ、頬はこけ、軍服、着物を着るもの、つっ立っているもの、坐っているもの等々異様な光景であった。

…折からの7月の陽光はギラギラと輝き、熱砂の照り返しと相俟ってうだるような暑さだった。屋敷跡の井戸があちこちにあって人々は水を求めてうろついていた。食事に配られたレーションの空箱(紙)を丁寧に延ばし、それを頭にのっけて紐で顎に結わえて猛暑を避けた。夜になると収容所の周囲を取り巻いていた戦車が一斉にライトをつけた。収容所はその騒音に混じってまるで真昼のようであった。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 80頁より》

 

そのとき、住民は・・・

一心丸・友福丸事件 - 遭難した石垣島疎開

石垣島の日本軍は、組織的な日本軍の戦闘が終わり海域が米軍監視下にあるなかに、住民に台湾への疎開を進め、疎開船を送りだした。

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アメリカ軍機の乗員が撮影した攻撃を受けつつある友福丸(第一千早丸)と一心丸(第五千早丸)。

海の沖縄戦展

先島群島周辺海域をいつものように巡回する際、見たところ先島諸島から与那国島に 19:00の方向に約5ノットの速度で向かうラガー2隻を、ビーミス中尉は公海にて奇襲した。 この2隻は黄麻布の大袋と大きな鉄製のドラム 缶を大量に積んでいた。ビーミス中尉はこの2 隻を、真横に3回、後方に1回、立て続けに計 4回攻撃した。爆撃し、機銃掃射する航程があ り、最後は機銃掃射のみで終わった。1隻は、 船体中央部、前方ウェルに普通爆弾があたり、 バラバラに吹き飛び、ほぼ即時に沈んだ。もう1隻は焼夷弾の攻撃を貨物に受け、発火した。 この作戦の最後、この損壊と船から離れ水中を泳ぎ回る12-15名の日本人を写真におさめるため、ビーミス中尉は写真を撮りながら特別航行するが、運悪く、カメラにフィルムは残っておらず、その試みは無駄に終わった。この海域 を一掃する前に、乗組員はまだ燃えている2隻 目の船が海中深く沈むのを見届け、絶対にこの船が救出されることのないようにした。それ から、われわれの軍機は巡回を続けた。

「沖縄県立公文書館 常設展特別企画   米海軍資料に見る海の沖縄戦展」における「戦闘終結後も続いた悲劇」の「与那国沖航行中の船舶に対する攻撃報告書の作戦報告書 翻訳」より》

 当時、一心丸の機関長だった金城珍吉さん(64)の話によると、「7月2日午後7時ごろ、舟浮港を出て、1回目と同じ航路(尖閣諸島経由)を取って7月3日午後5時ごろ、基隆港に入る予定」だった。波もなく、風も静かで、疎開者の中からは楽しそうな歌声も聞こえてきたという。 ところが、入港予定間近の3日午後2時ごろ、2隻の疎開船は米軍機に捕捉される。B24といわれている。

 老父母と親類の老女3人を伴って一心丸に乗り込んでいた石垣市大川の宮良当智さん(当時59歳、故人)の手記(県史第10巻)は攻撃のもようを生々しく伝えている。

 「大洋の真っただ中、防空壕もなければ身を隠す草むらもない。九死に一生の望みも薄く一同は絶望のふちに沈む。爆音が大きく聞こえたと同時に機銃が乱射され、右側の老婆が一声叫んだままうち伏してしまい、左側の子がやられ、前の人が重傷を負いうなり出した。無意識に船倉をとび出し、デッキに出ると、そこにも息を乱して絶命している者、手首をとられてうめきもだえている者などがあちこちにいた」

 B24は繰り返し攻撃した。一心丸は火災を起こし、逃げ遅れた者は生きながら焼かれた。火から逃れようと次々に海へ飛び込んだ。

尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」 - Battle of Okinawa

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沖縄戦の絵】「尖閣諸島近海  疎開船への攻撃」

石垣島から台湾への最後の疎開船・第一千早丸に家族で乗っていた時の体験。よく晴れた日、魚釣島近海にさしかかった時、米軍戦闘機が現れて同じ船団の第五千早丸を攻撃、船は炎上して沈没した。戦闘機はその後、第一千早丸の上を何度も旋回して機銃攻撃を繰り返し、機関室は破損、船底も破壊された。女性や子どもなど約90人が乗船していた船内は、叫びやうめき声で騒然となった。…頭の左側に弾がかすり、血が噴き出した。姉が海へ飛び込もうと言ったが、「死ぬなら家族一緒」と考えた母親は、末の子のおぶいひもを家族8人全員にくくりつけ船内に留まった。船はその後、魚釣島に着いたが、50日間食糧はなく餓死寸前に陥った。その後家族は全員石垣島に戻ることができたが、7人きょうだいのうち下の2人は栄養不足などがたたってまもなく亡くなった。

尖閣諸島近海 疎開船への攻撃 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局 

 

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