〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月29日 『疎開と望郷』

台湾疎開

 

降伏文書調印式までの動向

読谷飛行場

マッカーサーは日本への進駐の途中、昭和20年8月29日に読谷山村内の飛行場に降り立っている。これらは、戦後の読谷を暗示する出来事であった。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 読谷山(北)飛行場の建設 玉城栄祐

日本本土への進駐 ③

『…29日は到着する飛行機はない。先遣隊の将兵も基地からは出なかった。30日のマッカーサーと総司令部、進駐軍本体の受け入れ準備の仕上げに忙殺される1日であった

…砂利を撒いて固める誘導路の作業も、この日午後には終了した。

ただ要求された乗用車、バスが集まり始めたのはこの日の午後であった。日本には乗用車もバス、トラックも修理しなければ提供できない事情の車が多かった。…それでもトラックは陸海軍、軍需工場等で台数はかなりあったが、日本で少ないのはバス、乗用車であった。さらに乗用車があっても、それを運転し厚木基地に赴いてアメリカ軍の下で働くことに抵抗があり、拒否したり逃げ出す運転手が多かったのである。当時運転できる人は少ない。新しく探し厚木行きを説得する、これも政府関係者にとって大変な作業であった。

乗用車50台、バス50台、トラック400台が、どうにか揃いだしたのは夕方であった。』(208-209頁)

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 208-209頁より》 

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ATSUGI AIR BASE

 

琉球列島の「降伏」 ③

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。

8月29日午前3時、徳之島の高田利貞将軍から最初の返事が入った。「8月28日午後8時無線通信を確立したいとの連絡を受ける栄誉にあずかる。こちらは5090キロサイクルの周波数を使う」とのことだった。次に、徳之島無線連絡基地は「与論、喜界、奄美、沖永良部、南大東に連絡中と伝えてきた。スティルウェル将軍は奄美群島と先島群島の指揮官に、降伏の手続きのための代表を飛行機で派遣するよう指示した。同時に、軍隊、航空機、船舶、潜水艦すべての所在地に関する正確な情報を提供するよう指示した。高田将軍は次のように返事を送った。

「この件については上官の横山勇中将に連絡中。指示のあり次第、そちらに連絡する。こちらには航空機なし。船舶もなし

宮古と石垣の日本軍からは連絡がない。そこで、今度は強い調子のメッセージを航空機から落としたところ、ようやく8月29日午後8時40分宮古島から連絡が入った。「指示を待つ」という旨の連絡だった。10分後に、宮古島28師団司令官納見敏郎中将からのメッセージが入ってきた。納見中将は先島群島、大東島を含む沖縄諸島の陸軍および海軍を代表して休戦条約を結ぶ権限を備えもつ、というものであった。代表を派遣せよ、との指示については、9月2日に出発できるが、台湾軍から航空機を確保して後、機種について知らせるということだった。ところで、2人の将軍には連合軍の捕虜に関する情報を送るよう要請していたが、先島群島には捕虜はなく、先に捕虜にしたアメリカ兵はすべて沖縄か台湾に送ったと連絡してきた。

徳之島ではフランク・コリンズ少佐とG・W・マカドウ少尉の2人の捕虜を保護していると高田将軍が連絡してきた。2機の連絡機が徳之島飛行場の調査のため飛びたつことになった。飛行場の状態に支障がなければ、C-47輸送機が2人の捕虜を運ぶことになった。』(226-227頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 226-227頁より》

 

米軍の動向

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《AIによるカラー処理》Boeing B-29 ”Superfortress” coming in for a landing on Kadena Strip.

嘉手納飛行場に着陸するボーイングB-29スーパーフォートレス。(1945年8月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

Okinawa, Ryukyu Retto. Kadena Airstrip. Troops of the 11th Airborne Division practicing loading a Douglas C-54 ”Skymaster” prior to their take-off to Atsugi Airstrip, Japan. Each plane carried forty men.

厚木飛行場への離陸前に、ダグラスC-54スカイマスターへの搭乗訓練を行う第11空挺師団の兵士。嘉手納飛行場。定員は40人。(1945年8月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Troops of the 187th Para-Glider Regiment, 11th Airborne Division loading into trucks at bivouac area from Kadena Airstrip to board Douglas C-54's. Okinawa, Ryukyu Retto.

ダグラスC-54に乗るため、嘉手納飛行場の野営地でトラックに乗り込む第11空挺師団第187パラグライダー連隊の兵士。(1945年8月29日撮影)写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Douglas C-54 ”Skymaster” parked on Kadena strip preparing to load the 187th Para-glider Troops. Okinawa, Ryukyu Retto.

第187パラグライダー部隊を乗せるため、嘉手納飛行場に駐機中のダグラスC-54スカイマスター。(1945年8月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

疎開と望郷 - 戻れない疎開

疎開した人々は、米軍占領下にある沖縄になかなか帰還することができなかった。

学童疎開ヤーサン ヒーサン シカラーサン」

 太平洋戦争末期、戦況が悪化していく中、ついにサイパン島の失陥が確定的となり、政府は1944年7月7日の緊急閣議により南西諸島から老幼婦女学童九州へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を疎開させる計画を決定しました。実際には、九州各県及び台湾へ約7万人が疎開したといわれています。< 中略 > 学童疎開の内訳は、宮崎県疎開学童と関係者(訓導、寮母、世話人など)をあわせて3,120人、熊本県へ3,056人(注 3,059人とする資料も)、大分県へ389人の6,565人が疎開したと言われています。

総務省|一般戦災死没者の追悼|沖縄県における戦災の状況(沖縄県)

 「せいぜい2、3カ月」と聞かされていたため、持ってきたのは夏服数枚。あまりの寒さに、自分で上着の袖を切って半ズボンに縫い付け長ズボンに作り替えたほどだ。

 南国の子どもたちは霜焼けに悩まされた。「寒さで足指が赤く腫れ上がり、かゆくなってさすっていると皮膚が裂け膿(うみ)が出た。10本の指すべてから」。その足でズックを履き、痛みをこらえて学校へ通わなければならなかった。

 与那原国民学校の第1次集団学童疎開は、1944年8月21日、和浦丸に乗って那覇港から九州へと向かった。船団を組んで出航した疎開船の一隻が米潜水艦の攻撃を受けて沈没した対馬丸だった。

 対馬丸に乗りかけたが、いっぱいで次の船に回されたという。「船は魚雷を避けるためジグザグに走り、爆発音にがたがた揺れた。もう駄目だという感じがずっと続いた」

 < 中略>

 「ヤーサン ヒーサン シカラーサン(ひもじい 寒い 寂しい)」

 親元から引き離され、異郷の地での苦しい体験がこの言葉に集約される。中でも一番の痛みは食べるものがなかったこと。長引く戦時体制で食糧事情は極端に悪く、子どもたちは飢餓状態にあった。

 日奈久に疎開した新垣さんも、道端のごみ箱を開けてミカンの皮を拾いちぎって食べたりした。あぜ道に生える熟していない大豆を口に入れたこともあった。「熊本で、お正月だからとおいしいものを食べた記憶がない。ただただひもじくて、寒かった。二度とあのような経験はしたくないし、子や孫にもしてほしくない」

 新垣さんは47年1月に沖縄へ戻る。その時、父親はすでに他界していた。母親は息子のためにと服を用意し出迎えたが、ぶかぶかで着られなかった。疎開していた約2年半の間、身長がまったく伸びていなかったのだ。

 先月28日に亡くなった俳優の菅原文太さんが、死の直前、沖縄を訪れ遺言のように語った言葉が忘れられない。「政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせないこと。もう一つは絶対に戦争をしないこと」

 戦争末期、国策として強いられた学童疎開。飢えと寒さと寂しさとの闘いは、子どもたちにとって戦争そのものだった。疎開生活を送ったお年寄りの中には、今も霜焼けの痕が残る人がいる。戦争が残した心の傷は消えることがない。

社説[地に刻む沖縄戦 学童疎開]「ヤーサン ヒーサン」 | 沖縄タイムス

 

県外疎開と島内疎開

島内の疎開では米軍の収容所の壁に阻まれ郷里に戻ることはできなかった。基地建設の都合で、人々は収容所から収容所へと転々とした生活を強いられた。

 三男・繁さんが疎開先に送った唯一の手紙も残っている。10・10空襲で変わり果てた那覇をこう話している。「灰燼那覇!!文字通りの灰燼廃虚と化したわが故郷の土を踏んで感慨無量でありました。思い出のあの町、あの家、あの路も今は思い出すよすがもありません。先日若狭町の家に行きましたが懐かしいわが家も塀を残しては見る影もなくうずたかいガレキの中に中学時代の剣道の面や見おぼえのあるお椀の破片等を見出して■(注・米?)鬼への噴逆の血が逆流するのを禁じ得ませんでした」その繁さんも米軍上陸のあとは南部まで追い詰められ、20年6月、具志頭村仲座東方の台上の壕で自決した。周囲を米軍の戦車隊に包囲され、自らも足をやられて歩ける状態になかったため、ピストルによる死を選んだという。
 戦後、戦死公報とともに小さい木ぎれの入った白木の箱が厚生省から送られた時、母・エミさんは怒った。「なんで沖縄で死んだのがヤマトゥから送られて来るんだビルマで死んだ巌さんの遺骨収集はかなわずとも、沖縄で死んだ繁さんの遺骨は「なんとしても…」という母親の執念は十数年も南部の激戦地へと通わせている。四男・昭さんは「17、8年ぐらい毎日のように遺骨捜しが続いたと思う。カマス一杯になった遺骨をどれほど魂魄之塔にまつったことか」と言う。
 証言者捜しも難しく、わずかな手掛かりを少しずつたどっていくことは容易でない。一度は間違いないと碑まで建てたが違っていた。やっと当時壕の中で炊事をやっている女性が見つかり、収骨することができた。「お袋は壕の中の遺骨を一つずつ手に取って、その中の一つを指して『これに間違いない。歯並びが繁だ』と自信を持って言っていた」と昭さんは母親の戦後の区切りとなった当時を話していた。
 沖縄戦ではまた父親の哲雄さんも真壁村真壁の壕内で自決の道を選んだ。致死量をはるかに超えるというヘロイン5グラムを服毒したが、米軍に発見されたのが早く一命を取り留めた。長女の※※民子さんはこう言う。「父は典型的な軍国主義だったのだが、米軍に助けられて戦後はだいぶ変わった」南部で避難の途中、哲雄さんは日本軍の横暴を見て考えを大きく変えさせられている。壕の中に避難している時に、日本兵らが入って来た。「民間人は出て行け。ここは軍が使う」。怒った哲雄さんは「民間人を守るのが務めではないか」と言い、聞く耳を持たぬ日本兵たちに「私の息子は陸軍中尉と少尉だぞ!」と続けた。だが、返って来た言葉は「何言っているんだクソじじい」だった。「父はそのことをいつも持ち出して『あれでは戦争に負ける。人間がなってない』と言っていた。軍人を尊敬していた父にとってはよほどショックだったのでしょう」と民子さん。軍医の2人に加えて、四男・昭さんが陸軍航空整備学校、五男・宏さんが海軍飛行予科練習生へと進んでおり、※※家は“軍国一家”だった。疎開地から送られて来た手紙で一つだけ残ったものがある。哲雄さんらが親代わりとして育てたおいの※※成健一さん(当時11歳)の手紙だった。
 「(略)あのにくい米英のやつらが沖縄を空襲したためたべ物がないと聞いて『よし沖縄の仇はかならず僕らがやると心できめました』。お父ちゃんも安心してください。宏兄さんも入隊しましたので家がからっぽになりました。いまでは、わが『特別攻撃隊』がめざましい働きをしています。僕たちもそのいきで沖縄の仇をうつつもりです。お父さんもおからだを御だいじに。」
 民子さんが「小さい時から飛行機が好きで、整備学校に決まった時は“操縦士でない”とこぼしていた」という昭さんは「兄2人が医者になっていたので、父からは小さいころから何やってもいいと言われていた。当時は軍人となるのが一番の奉公。志願して入った」と言う。「だが、新聞に米軍の慶良間上陸が報じられた時、何にもやる気がなくなった。上官の命令も聞かない。すべてをテーゲー(いいかげん)に―。家族も何も私らに守るべきものはなくなったのだから…」と話す。

《「疎開地からの手紙」 (1984年) 琉球新報「戦果を掘る」》

 

台湾疎開と「琉球難民」

台湾では激しい戦闘は行われないまま終戦を迎えましたが、統治していた立場から一変、「敗戦国民」となった日本人に、占領権を得た当時の中華民国は早く引き揚げるよう迫ります。ところが。宮城さん「アメリカが沖縄を占領していますから、簡単に入れないんですよ。長いこと台湾に留め置かれました。」

本土出身者が次々に引き揚げる中、沖縄の人だけは、アメリカ・GHQの受け入れ体制が整わず、当時の台湾総督府(集中営)に集められたまま引き揚げを待つことに。しかし、物資は少なくなり、病人が出るなど、困窮していく日々。

慰霊の日リポート(1) 台湾で県人が体験した戦争 – QAB NEWS Headline

終戦当時の在台湾の日本人は、軍人16万6000余人を含めて、およそ48万8000余人であった。そのうち沖縄県人は、軍人・軍属、台湾疎開者の1万4000人や敗戦により南方から引揚げてきた人も加えると約3万人にのぼるといわれる。< 中略 > 「沖縄への復員帰還のため、軍命令によって基隆に集結(約2千人)したのでありますが、沖縄本島を占領した米国軍政府からの入国許可が得られないために、基隆に滞在しました。(途中略)ところが、数十万人にも及ぶ邦人の計画輸送がほぼ完了した昭和21年4月末になっても、米国軍政府からの沖縄籍軍人の沖縄本島への帰還の許可が得られず・・・

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第五節 海外での戦争体験

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太平洋戦争末期の1944(昭和9)年後半から、石垣島宮古島など「先島」と呼ばれる 地域を中心とする沖縄の住民約1万人が台湾へ疎開した。生活費や食糧の確保など疎開者に対する公的な援助は、終戦が近付くにつれて機能しなくなり、戦後、疎開者たちは棄民化していく。台湾では、少なくとも、1945年12月から1946年9月までの間、中華民国の当局者が引き揚げを待つ疎開者たちのことを琉球難民」と呼んでいた。疎開者の難民化である。 台湾疎開の人々が完全に帰還を終了したのはおおむね1946年5月。本書の題名にある。 「1年1カ月」というのは、台湾疎開を決めた緊急閣議が開かれた1944年7月から、帰還終了までを意味している。

だが、疎開者の中には、島へ引き揚げることができないまま亡くなった人も少なくない。石垣島から台湾へ疎開していた石堂ミツ(1927年生)は、終戦から引き揚げまでの間を振り返り、「生きるか死ぬかも分からん。「ものを食べないでいると、死ぬよ」ということさえ、 分からなかった」と語った。戦後、棄民状態に置かれた疎開者たちが台湾から引き揚げてくる までの足取りを追うと、あきらめかけていた「生」の縁からぎりぎりで帰還してきた「琉球難 民」の姿が見えてきた。
松田 良孝『台湾疎開琉球難民」の1年11カ月』 南山舎 (2010) p.

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沖縄からの疎開者たちが暮らしていたという建物。今は空き家が多いが、バロック風の装飾は日本統治時代のままだ=台南市佳里区

日本が太平洋戦争に敗れるより前、台湾は長らく「日本」であった。1944年の夏以降、この地は九州と共に沖縄からの疎開先とされ、石垣島宮古島から1万人を超える人々が身を寄せた。避難生活は戦況の悪化につれて悲惨なものとなり、終戦後も一時台湾に留め置かれた疎開者は「琉球難民」とも呼ばれた。台湾の人々の記憶の中に、彼らの姿を尋ねた。

危険を知らず

 台湾南部の街「佳里」は北回帰線の南30キロに位置する熱帯の農村である。日本統治時代は明治製糖の工場が置かれ、周囲にサトウキビ畑が広がった。今は台南市編入され佳里区となっているが、街で一番にぎやかな通りだった「中山路」沿いには、かつて疎開した人たちが暮らした建物がそのまま残されていた。

「このあたり。女の人とお年寄り、子どもが何人かずつね」黄棖旺さん(89)は沖縄の人々のことを台湾語で「リュウキュウレン(琉球人)」と呼んだ。当時、すぐ近くの「佳里医院」の薬局に住み込みで働いていた。「そのころはもう空襲が激しくて、台湾人はもっと田舎の方に疎開してたから、空き家だった」。戦火を逃れるため台湾に渡った子どもたちやお年寄りは、地元の人々が危険を感じて立ち去った場所に、それとは知らず、身を寄せたことになる。

「かわいそう」

佳里医院の呉新栄院長(1907-67)は当時の街の様子を日記に書き留めていた。呉院長は台南では著名な文筆家でもあった。1944年9月5日付にこうあった。「琉球から疎開民二百余名佳里に割り当てられたので、明日から来るとのことである」疎開時期がほぼ特定できる。この年の1月12日には「台湾南部初空襲」との記述。疎開8カ月前、すでに空襲は始まっていたのだ。

呉院長は病院に隣接した敷地に四つの防空壕をつくり、うち二つを家族用、残りは患者と沖縄からの疎開者に開放していた。黄さんも、疎開者と一緒に何度も防空壕に逃げ込んだ。当時19歳。疎開者とは年齢差もあり、それ以上の濃厚な接触はなかった、という。誰もが自分が生き抜くことに必死な時代だった。「でもね、覚えてる。琉球人の生活は苦しかった。われわれより貧しい。とにかくね。かわいそうだった。気の毒だった」

死亡率は1割

台湾疎開の全容を知ることは容易ではない。だが台湾の国史館台湾文献館には手がかりとなる「沖縄県疎開者調」という資料が現存した。それによると、45年9月末時点の沖縄からの疎開者は計1万2939人で、このうち親族など頼る先がなく集団疎開した「無縁故」疎開者は8570人。多くが宮古島石垣島など先島諸島の出身だった。台湾での疎開先は佳里などの「台南」が2564人で最も多かった。

 台湾総督府疎開者1人当たり1日50銭の支給を約束していたが支援はやがて滞った。「着物を芋と換えて生活していた」「子どもを姑(しゅうとめ)にあずけて台湾人の農家に日雇いに出た」。沖縄県読谷村読谷村史・戦時記録上巻に疎開者の証言が残る。親類縁者から切り離された暮らしは、自給自足が可能な台湾の農家より格段に貧しく、衰弱したお年寄りや幼い子はマラリアなどの病に命を奪われた。

 郷土史家の詹評仁氏によると、44年11月~45年12月、佳里の隣町、麻豆(台南市麻豆区)では、沖縄からの疎開321人のうち33人が死亡している。死亡率は1割という高率。黄さんの記憶とも重なる、疎開者の悲惨である。

子どもが犠牲

 終戦は台湾疎開の終わりを意味しなかった。日本の敗戦で沖縄は米軍に占領された。一方、台湾は中華民国の統治下に置かれる。同じ日本だった沖縄と台湾の分断。疎開者たちは沖縄に戻れなくなる

 45年11月1日には、台湾から宮古島へ向かった密航船「栄丸」が座礁沈没し、100人以上が亡くなっている。自力で引き揚げようとした疎開者たちだった。

 台湾の沖縄出身者で組織した沖縄同郷会連合会は翌12月、疎開者はマラリアなどで「死亡者1162人に達し悲惨見るに忍びざる実情」として台湾当局に早期送還を要請している。当局の公文書に「琉球難民」の文字が見えるのはこの頃のことだ。引き揚げの完了は、翌46年末を待たなければならなかった。

 呉新栄院長の日記の研究でも知られる真理大学台湾文学資料館(台南市)名誉館長の張良沢さん(75)は言う。「沖縄も台湾も、外来勢力に翻弄(ほんろう)され、過酷な歴史を歩んだ。それは『戦後』の一言では片付けられない。そして最大の犠牲者はいつも、逃げ場のない子どもだった」

※参考文献…松田良孝「台湾疎開」(南山舎)

「琉球難民」台湾で生活苦 終戦後も一時留め置かれ|【西日本新聞ニュース】

 

台湾疎開「琉球難民」の1年11ヶ月[本/雑誌] (単行本・ムック) / 松田 良孝

疎開者たちは、言葉も分からない慣れない土地で工場や学校などの施設に身を寄せましたが、戦況の悪化に伴って生活費や食料の支給が滞り苦境に立たされました。劣悪な衛生環境でマラリアコレラも流行し、病気や飢餓そして空襲で多くの命が失われました。

迎えた終戦疎開者たちはさらなる苦難に直面します。沖縄への引き揚げです。敗戦で日本ではなくなった台湾は、政府が周辺の航行を制限し、引き揚げは困難を極めました。船に乗れずに何か月も待たされる日々。その間にも栄養失調や病気で、死者が相次ぎました。当局の目をかいくぐって航行するにわか仕立ての“ヤミ船”も相次ぐ中、終戦から2か月後には、一刻も早く故郷に帰りたいという宮古島の出身者らを乗せた「栄丸」が難破し、100人超の犠牲者を出す惨事も起きました。
状況を打開したのは、沖縄出身者自身でした。当時、台湾当局に雇用されていた川平朝申らが、「沖縄同郷会連合会」を立ち上げて、台湾や米国に窮状を訴え、終戦年の1946年、宮古八重山の引き揚げ船の運航が始まったのです。ただ、戦争で破壊しつくされた沖縄本島への引き揚げにはさらに時間がかかり、完了した時に終戦から1年以上が経っていました。 

BS-TBS ドキュメントJ - RBC 琉球放送『琉球難民 ~証言と記録でたどる台湾疎開』

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観光客もよく訪れる台北市内の南門市場の裏手に、屋根の一部が崩れ落ちた2階建ての廃屋がある。自動車はほとんどすれ違えない細い路地に挟まれ、そこから歩いていけるところにある中正紀念堂の壮大なスケールとの落差がはなはだしい。アジア太平洋戦争が終結した後、この建物は台湾にいた沖縄出身者が県人会の事務所代わりに使い、沖縄への引き揚げに向けて話し合いを持った場所である。

ドキュメント「琉球難民」にみる台湾疎開 - shiraike’s blog

 

1945年10月開設インヌミ収容所 (キャステロ海外引揚民収容所)

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中でも興味を引くのは「インヌミ収容所」。今はもう誰も知らない名前でしょうが、これは戦後に沖縄へ帰ってきた人々をいったん収容した施設の名前。正式名称は「キャステロ海外引き揚げ民収容所」といいますが、収容所を作った場所の昔からの地名である、「インヌミ(=犬の目)」が通称となったそうです。

9/25 島人ぬ宝「沖縄市の移民史企画展」 | RBC 琉球放送

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インヌミ引き上げ眠収容所跡。正式名称はキャステロ海外引揚民収容所。1945年10月ごろ南洋からの引き上げが開始されると米軍は高原周辺にインヌミ収容所を臨時開設する。46年7月に公式開所した。49年7月にグロリア台風で打撃を受けた後、閉所した。国内外からの引揚者数は1949年までに約17万人に上るとされるが、その多くがインヌミを経由して故郷に帰った。写真、1946年美里村高原周辺 (沖縄市提供)

沖縄戦70年 戦場をたどる 本島を分断 収容所を開設 琉球新報 (2015年9月10日)

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インヌミ収容所のようす(『琉球人引揚げ計画の最終報告書』より)

戦争が終わると、移民や兵役、疎開などで県外・海外にいた人々が沖縄へ引き揚げてきます。その数17万人。その多くは中城村久場崎で船を降り、トラックでインヌミ収容所に運ばれます。収容所で名簿の確認と帰村手続きを受けて帰村を待ちますが、1日~数日のうちに収容所を出てそれぞれの地域に帰ることができた人もい れば、1ヵ月待つ人もいるなどさまざまです。

広報おきなわ 8月号(No.506)

(2016年11月か12月頃)

 船が那覇の港に着くと、降りる乗客を迎える人々が港にたくさん来ているので、私は誰か家族の安否を知っている人がいるかもしれないと、船の甲板に立って下を眺めていました。下には迎えのトラックが何台か止まっていて、その近くに弟の同級生がいたのです。当山※※という同郷の人でした。私は「当山※※さーん!」と船の上から大きな声で呼びかけました。私は兄貴が生きていれば家族は皆無事なんじゃないかと思い、「えー!わったー兄貴、生きてるかー」と聞きました。すると※※が「ああ、元気で生きてるよー!」と答えてくれたので、私は安心して船を降りたのです。
 インヌミ収容所で、世話部の名簿に家族の居所が書いてないかと調べるのですが、記載がありません。それで、係りの人に聞いてみると「ああ、お前の兄さんは羽地にいたよ」と教えてくれました。私は「アッサミヨー、せっかく沖縄に帰ったと思ったら、また山原に行くのかー」と思いました。
 トラックはやんばるに行く途中、石川の収容所で停まりました。石川の収容所の人達の中には、自分の家族がこのトラックに乗ってないかなと見に来る人もいました。実は石川の収容所には私の父親が居たのですが、私も石川にいるとは知らないし、父親の方も私が生きて帰るとは思ってなかったのか、お互いに気づかずにトラックは石川を出発していました。私は石川を越え、やんばるの羽地に到着しました。
 羽地でトラックを降り、駐在所で「読谷の人がここら辺にいますか」と尋ねると、私の兄の家を教えてくれて、私は兄と再会しました。とても嬉しかったのですが、その後に家族の安否を聞くと、母と兄の子供が戦争で亡くなったと聞かされてつらい思いをしました。
 母は久志で米兵に射殺されて亡くなったそうです。家族と、あと何人かのグループで行動していたそうですが、米軍に囲まれてしまったそうです。母は、長男も防衛隊にとられ、私も弟も兵隊にとられていたので、ここ沖縄で残った家族が全員死んでしまったら、息子たちを迎える者がいなくなると思ったのでしょう、一人でグループを飛び出したそうです。それで、次女で十五歳だった※※も従姉妹と二人で母を追ってグループを出ました。母はその時に撃たれて亡くなったようです。道で倒れて亡くなっていたのを発見され、首に下げていた財布で身元が分かったそうです。しかし、母を追って飛び出していった※※たちは、そのまま行方知れずになってしまったそうです。兄は私に「どこに骨があるか分からん」と言いました。海で死んだのか、山で死んだのか、それも分からないということでした。行方不明は本当に悲しいです。私が沖縄を出る時には※※はまだ子供だったのに、もう死んでしまったのかと本当に可哀想でした。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 男性の証言

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  1. 総務省|一般戦災死没者の追悼|沖縄県における戦災の状況(沖縄県)
  2. 読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争