1944年3月22日、第32軍 (沖縄守備軍) の創設
- 1944年3月22日 大本営が第32軍 (沖縄守備軍)を創設。25日、福岡で編制開始され、軍司令官に渡邉中将、参謀長に北川少将。
それは米軍が沖縄上陸前の組織的な爆撃を沖縄全域で開始する1年と1日前のことである。創設当初、軍の司令部は那覇市安里の養蚕試験場内に置かれた。
沖縄本島を中心とした南西諸島における航空基地の守備を主任務とする第32軍が新設されたのは昭和19年 (1944年) 3月22日付けの大本営命令による。海軍も陸軍の動向に呼応して沖縄方面根拠地隊と第4海上護衛隊を編成した。
米国海兵隊; Group picture of the staff of the Japanese Thirty-second Army at Okinawa taken in February 1945 prior to the American assault.
1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀
1944年4月22日 「津嘉山司令部壕」の建設開始
- 1944年4月22日 津嘉山司令部壕の構築開始
- 1944年7月7日 緊急閣議で南西諸島の老幼婦女子10万人の疎開計画
- 1944年8月10日 牛島満中将、第32軍司令官に着任。
- 1944年10月10日 十・十空襲
- 1944年12月3日 第32軍司令部、軍司令部の首里変更を決定。
当時の人口が40余万であった沖縄県に投入された日本兵は約10万人。島に軍隊が配備されたことで、食糧や物資も不足し始める。そのためすぐに閣議決定で老幼婦女子10万人の強制疎開を決定、沖縄を要塞化するための足手まといを排除するためだった。
1944年夏ごろから10月10日まで、住民や学徒も徴用し、南風原町津嘉山に総延長2キロもの県内最大級の手掘り壕群の司令部を完成させた。
1944年夏頃から南部地域の住民を徴用し、壕掘り作業を開始した。壕掘り作業は24時間体制で、ツルハシやスコップを使用して行われた。司令部壕は、一本の主抗に数本の副抗がつながっていた。
伊是名島から津嘉山壕の構築に徴用された男性の証言
あそこは土壌がジャーガルですからしばしば落盤にあって死傷者も多く出たようです。あの壕はぜんぶ徴用で掘ったものですよ。私らは壕入口の擬装の作業でわりと楽な方でしたが、他町村の人たちは落盤事故などでずいぶんやられています。陣地作業は各班に分かれてやっていました。
後に司令部壕は首里に移されたため、津嘉山壕群には、経理部・兵器部・法務部・軍医部の一部が残った。第32軍が沖縄に持ち込んだものは兵士と軍装備品ばかりではなかった。数多くの慰安所が建設され、経理部は避妊用品を支給した。
今年3月発行の『南風原町史9巻』は、「コンドームは医薬品と共伴して出土している。その出土状況はひとかたまりになっていることから、他の医薬品と同様、木箱に梱包された状態で壕内に保管されていたと思われる」と記録、軍の支給品と見ています。
宮城県出身の独立混成第旅団第2歩兵隊兵士の証言
沖縄「不沈空母」構想 - 飛行場の建設
沖縄に建設された日本軍の飛行場
1942年6月、ミッドウェー海戦で多くの航空母艦を失った日本海軍は、島々に飛行場を建設し地上基地から航空作戦を展開する構想をたてた。それは沖縄の島々と人々をもろとも「不沈空母」として利用するものだった*1。
その後、各方面に配置されていた日本軍の部隊が続々と沖縄入りし、南西諸島の各所で土地を強制接収し、基地建設を始めた。
その次の日には飛行場建設予定区域内の地主名簿が届けられました。わたしたちが全く知らないうちに軍部と役所で測量がなされ、地主が調べられ、名薄までつくられていたわけです。
強制接収で痩せた土地に立ち退きさせられ、戦争マラリアで消滅する集落さえあった。
昭和十八年の九月当時、現在の宮古飛行場一帯には、三つの部落があり、平和な農業を営んでおりました。西の方から七原(ナナバリ)、屋原(ヤーバリ)、クイズの三つの部落がそれで、百数十家族が住んでいました。この地に海軍飛行場が建設されることにな先ず、主滑走路に当る七原、屋原に立ち退き命令が出されました。
そうして軍は、住民を総動員し基地建設を始める。島を基地化するとはどういうことなのか、それが最終的にどのような「戦 (いくさ)」をもたらすのか。その時は知る由もなかった。
昭和18年 (1943年) 暮れ頃から、飛行場設営部隊が沖縄に移駐し、各地で日本軍の飛行場建設工事が本格的に開始された。昭和19年 (1944年) 1月には郷土防衛のために召集が実施され、第32軍沖縄守備軍が創設された2ヵ月ほど前から、兵役法に基づく郷土防衛部隊「特設警備隊」が編成されはじめた。任務は、飛行場建設だけではなく、海岸、原野、山林、墓、自然洞窟なども利用した陣地構築や軍事訓練なども行っていた。
それまでは連隊区司令部と中城湾、西表島の要塞しか軍組織がなかった沖縄で、次々に配備される部隊に、県民は驚きつつも受け入れに追われた。
1944年11月17日 「第九師団」の転出
その後、大本営は、1944年11月17日、米軍上陸に備えるどころか、沖縄守備軍第32軍の主戦力「最強師団」第九師団を台湾に転出させ、その補充もしなかった。
私は師団司令部の暗号担当でしたので、その時の様子を窺い知ることが出来たのです。参謀本部から電報で「最強師団を抽出して台湾に移駐させよ」という内容だったと思います。第32軍では、「一兵も出さぬ、沖縄を見捨てるのか。(参謀が卓を叩いていた ) 」という強い返電だったと記憶しています。軍と参謀本部だか第十方面軍 (台湾軍)との電報の応酬だったか、結局は参謀本部の命令に従わなければならなかった。
軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)「幸運の武兵団第九師団 (沖縄・台湾)」 pdf
こうして沖縄の第32軍は、本土決戦を先延ばしにするためだけの、作戦参謀八原のいうところの「寝技戦法」、その土俵として、あるいは生きた砦として、沖縄の土地と住民とを利用することになる。
沖縄でアメリカ軍に出血を強要しできるだけ長く戦わせる、これが八原のねらいであった。沖縄を、いわば本土決戦のための「捨石」にしようとしたのである。
こうして、沖縄に多大なる負担を強いたこれらの飛行場建設はほとんどその本来の目的を果たすことなく、米軍の激しい攻撃対象となった末に接収され、幾つかは現在も米軍基地となったままである。作戦参謀八原はこう記す。
従来の太平洋の戦いでは一生懸命に多数の飛行場を造ったが、わが方がこれを使用するに先立ってアメリカ軍に占領される場合が多い。まるで敵 (米軍) に献上するために、地上部隊は汗水垂らして飛行場造りをやった感が深い。しかも一度敵に占領されると、今度は敵に使用されぬために、わが地上軍は奪還攻撃を強行し、多大の犠牲を払い、玉砕する始末であった。
こうして、ほぼ無血で米軍に接収された読谷飛行場と嘉手納飛行場を奪還するため、大本営は特攻作戦を延々と続け、明らかに無謀で持続性がないと思われる逆上陸計画に執着し、おびただしい兵と住民を投入し続けた。
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明日の予告
1945年3月23日 「首里司令部壕」に移る - 〜シリーズ沖縄戦〜
第32軍司令部壕の内部。補強されているが、風化が進む。