〜シリーズ沖縄戦〜

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1944年3月22日 『第32軍 (沖縄守備軍) の創設』

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南風原町勢要覧 「第32軍司令部 津嘉山壕群」より

 

第32軍 (沖縄守備軍) の創設

1944年3月22日大本営は第32軍 (沖縄守備軍)を創設した。くしくもそれは、米軍が沖縄上陸前の組織的な爆撃を沖縄全域で開始する1年と1日前のことである。

3月22日、南西諸島に第32軍創設する

沖縄戦の概要:沖縄戦関係資料閲覧室 - 内閣府

 

なぜ大本営は第32軍を創設したのか。 

1944年2月17、18日に「絶対国防圏の要の一角であり、連合艦隊の拠点である内南洋のトラック環礁が突如、米機動部隊の砲撃に曝され」、大日本帝国の艦船40余隻が沈没、飛行機270機が損害を受けたことで、「大本営の中に、この分では遠からずマリアナカロリン諸島が襲われ、奄美、沖縄など南西諸島まで侵攻して来るのでは・・・との懸念が生まれた」

《『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』田村洋三/光人社NF文庫 308頁) 》

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読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦

 

石垣、宮古、沖縄島、随所での飛行場建設

その後、各方面に配置されていた日本軍の部隊が続々と沖縄入り。伊江島も日本軍が土地を強制収容。島の住民「総動員」飛行場建設を始める。 

それまでは連隊区司令部と中城湾、西表島の要塞しか軍組織がなかった沖縄で、次々に配備される部隊に、県民は驚きつつも受け入れに追われた。

《『証言 沖縄「集団自決」ー慶良間諸島で何が起きたか』謝花直美 / 岩波新書 (5頁) 》

 

日本軍が構築した15の飛行場

沖縄島に日本軍が構築した9の飛行場と慰安所の場所

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沖縄戦場の記憶と「慰安所」 [ 洪ゆん伸 ]

 

しかし・・・、沖縄島の日本軍基地の多くがそのまま米軍基地となった。

 

沖縄本島

  • (1) 伊江島飛行場伊江島東・中・西飛行場を一括)→ 伊江島補助飛行場
  • (2) 陸軍沖縄北飛行場(読谷飛行場) → 読谷補助飛行場へ → 返還(民有地)
  • (3) 陸軍沖縄中飛行場嘉手納飛行場・屋良飛行場)→ 嘉手納基地
  • (4) 陸軍沖縄南飛行場(仲西飛行場・城間飛行場)→ 牧港補給地区(キャンプキンザー)
  • (5) 陸軍沖縄東飛行場(西原飛行場・小那覇飛行場)→ 与那原飛行場 返還
  • (6) 陸軍首里秘密飛行場(石嶺飛行場)
  • (7) 海軍小禄飛行場(海軍那覇飛行場)→ 米軍那覇空港航空自衛隊那覇基地
  • (8) 海軍糸満秘密飛行場(海軍与根飛行場)

南大東島

宮古島

  • (10) 海軍宮古島飛行場(海軍飛行場)→ 宮古空港・国有地
  • (11) 陸軍宮古島中飛行場(陸軍中飛行場)→ 国有地・民有地
  • (12) 陸軍宮古島西飛行場(陸軍西飛行場)→ 国有地・民有地

石垣島

参考 沖縄県「旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」

 

津嘉山の司令部壕建設

当時の人口が40余万であった沖縄県に投入された日本兵約10万人。軍隊が配備されたことで、食糧や物資も不足し始める。

南風原町津嘉山には、1944年夏ごろから10月10日まで、住民や学徒も徴用し、総延長2キロもの県内最大級の手掘り壕群の司令部を完成させた。数か月で完成。どれほどの「総動員」だったのか、想像もつかない。また大勢の朝鮮人軍夫も厳しい強制労働を強いられた。

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南風原町津嘉山にたたずむ小高い丘。この丘の中に総延長およそ2キロに及ぶ、巨大な人口地下壕がありました。旧日本軍の後方陣地だった「津嘉山壕」です。戦後、入り口が埋まり、正確な位置がわからなくなっていましたが、平成16年、道路建設に伴う発掘調査で、初めて確認されました。もともと軍の司令部としてつくられ、およそ3千人もの兵士らが配属されていた津嘉山壕。そこに16人のひめゆり学徒も動員されていました。町並みが変わりゆく中、わずかな痕跡さえも残していない津嘉山壕。しかし、その記憶をとどめる人たちの手で平和への願いが受け継がれています。

津嘉山壕(南風原町)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

1944年10月10日の空襲後、司令部壕を首里城地下に構築し移設

同年の米軍による「十・十空襲」後、第32軍は、北側にある首里城地下に司令部壕を構築して、作戦の指揮の中枢は首里へと移設された。そのため津嘉山壕群には、経理部・兵器部・法務部・軍医部の一部が残ることとなった。

 

全長1000m以上にも及ぶコンクリートで固められた巨大な人工壕の第32軍司令部壕跡は、沖縄守備軍の戦闘指令所の跡である。

沖縄守備軍は、1944年3月に創設され当初は安里にあったが、1945年1月に首里城内に移動した。米軍上陸後、首里城は攻防戦の中心となり、壕内には軍首脳以下、約1000人が生活し、司令官室・参謀長室・作戦室・無線室の他に兵隊のベッドや炊事場、浴室にトイレまで完備されていた。

壕内は米軍の爆破による崩落が激しく現在は入り口のみ見学ができ、坑口はフェンスなどで閉鎖されているため入ることはできない。この司令部壕ではたくさんの戦死体が収容されている。

第32軍司令部壕跡 | 那覇市観光資源データベース

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<調査同行ルポ>風化進む32軍壕 首里城地下 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

慰安所の建設

第32軍が持ち込んだものは兵士と軍装備品ばかりではなかった。

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「うむ、これは」

 

 2005年12月から09年5月にかけて行われた同町津嘉山地区に広がる32軍司令部地下壕など旧軍施設の発掘調査を担当した南風原文化センターの学芸員、上地克哉さんは土中から姿を現した遺物に思わずつぶやきました。「避妊具(コンドーム)だ」

 

 泥にまみれ、戦時中の米軍の火炎放射攻撃で焼かれ、すすだらけになりながら、かろうじて原形をとどめていたのです。11本の壕跡から127個が出土しました。

 

 今年3月発行の『南風原町史9巻』は、「コンドームは医薬品と共伴して出土している。その出土状況はひとかたまりになっていることから、他の医薬品と同様、木箱に梱包(こんぽう)された状態で壕内に保管されていたと思われる」と記録、軍の支給品と見ています。

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(写真)32軍司令部壕跡などがあった高津嘉山(左のトンネル部分)と旧軍施設壕群が埋まっていた区画整理地区(手前の交差点周辺)=19日、沖縄県南風原町

 

 発掘作業は、沖縄県による国道507号改良工事、南風原町による土地区画整理事業にともなう埋蔵文化財発掘調査でした。

 

 同町には32軍司令部壕など多数の旧軍施設があり、沖縄戦では住民の4割(3505人)が地上戦に巻き込まれるなどで戦死した「戦場の村」です。

 

 町は1990年に沖縄戦の悲惨な歴史を後世に伝えるとして南風原陸軍病院壕を全国初の戦争遺跡「文化財」に指定しています。

 

 これら旧軍施設の周辺には3カ所の日本軍「慰安所」の存在も確認されています。慰安所は「旧日本軍直属の管理売春施設のこと」(沖縄大百科事典)。

 

 町教育委員会の呼びかけによる南風原町沖縄戦戦災調査(88年)の報告書「津嘉山が語る沖縄戦」には慰安所の影響についてこう記しています。

 

 「日曜日にもなると東花城の門まで兵隊が並んでいたという。使い捨てられたサック(避妊具)を付近の子どもたちが膨らませて風船遊びをしていたため、字の役員がかけあってサックの処理をきちっとさせたこともあった」

社会リポート/沖縄 旧日本軍司令部など地下壕跡/大量の避妊具出土/周辺に軍専用の「慰安所」 - ライブドアニュース

 

第32軍「沖縄守備軍」は、なにを守る軍だったのか

1944年

7月7日 サイパン陥落

7月19日 「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令

8月22日 疎開船対馬丸が米軍の攻撃を受け沈没

10月10日 十・十空襲で大規模な被害、多くの死傷者を出した。この大空襲の後、司令部を首里に移した。南風原の地盤的なもろさが理由とみられる。

1945年

1月20日 大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」をまとめた。 

『大綱では「皇土防衛のための縦深作戦遂行上の前縁は南千島小笠原諸島沖縄本島以南の南西諸島、台湾及び上海付近とし之を確保す。右前縁地帯の一部に於いて状況真に止むを得ず敵の上陸を見る場合に於いても極力敵の出血消耗を図り且つ敵航空基盤造成を妨害す」とされ、沖縄での作戦は、本土防衛のために敵の出血消耗を図るという位置付けだった。つまり、本土決戦の準備のために一日でも時間を稼ぐ「持久戦」が求められたのだ。』

《「NHKスペシャル 沖縄戦全記録」NHKスペシャル取材班/新日本出版社 48頁) 》

 

第32軍は「沖縄守備軍」とも呼ばれている。しかし、沖縄守備軍の任務は「沖縄と沖縄県民の守備」ではなく、沖縄を砦にした「皇土防衛」のための本土を守る軍であった。

 

沖縄戦は1945年3月26日に始まり6月23日に終わった、といわれているが、実際には沖縄戦を主導した第32軍沖縄守備軍が「降伏」したのは9月7日である。それは日本の降伏(8月15日) よりもずいぶん遅い。それこそが象徴的な沖縄戦の実相である。

 

今も終わらない沖縄戦

しかし、どうだろうか。それで本当に沖縄戦は「終わった」のだろうか。

 

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「南西諸島防衛 自衛隊配備に揺れる国境の島」(時論公論) | 時論公論 | 解説アーカイブス | NHK 解説委員室

 

沖縄の米軍基地

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沖縄の米軍基地 - Wikipedia

 

軍は何を守るのか。戦争はそれほど昔にあったことではない。軍は「その時」どのような理由でどのような動きをするものなのか。軍と住民との利害はどのように食い違うのか。

 

自衛隊や米軍基地が「守る」と言うとき、それは住民が「守ってもらいたい」とおもう対象と、どれほど一致し、あるいはどれほど食い違うものなのか。

 

いったい軍とは何なのか。

 

私たちは、今に生きるものとして、大人として、最低限でも知っておかなければならない歴史がある。

 

知らなかった、では済まないからだ。

 

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当クラブでは、明日から連日、1945年3月23日から9月7日まで「今日の沖縄戦」を SNS で配信する予定です。

170日間の沖縄戦シリーズはじまります。基地を作るとはどういうことか、戦争とはなになのか、年を重ねながらじっくり考える 170日間。今年もお付きあいくださいますよう、よろしくお願いいたします。

 

okinawa1945.hatenablog.com