〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年3月23日 「首里司令部壕」に移る

 

1944年3月22日  『第32軍 (沖縄守備軍) の創設』

沖縄戦が始まる一年前、第32軍 (沖縄守備軍) が創設される。

それは沖縄を守備する軍ではなく、沖縄で守備する軍であった。

  • 1944年4月22日 「津嘉山司令部壕」の建設開始
  • 1944年11月17日 「第九師団」の転出
  • 1944年12月3日 第32軍司令部、軍司令部の首里変更を決定。
  • 1944年12月9日 首里城地下に司令部壕構築を開始。

 


1945年3月23日 「首里司令部壕」に移る

1945年3月23日、米軍の先行爆撃が始まったこの日、第32軍司令部が、首里の地下司令部壕に入る*1

 

米国海兵隊: Group picture of the staff of the Japanese Thirty-second Army at Okinawa taken in February 1945 prior to the American assault.
【和訳】 1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

首里城には当時、沖縄県教育会附設の郷土博物館が設置され、博物館として資料収集や所蔵品展示がなされていたが、博物館側が軍に首里城所蔵物の本土疎開を陳情するも許されなかった。

 

城西小学校敷地斜面に第1・第2・第3坑口、第4坑口は金城町石畳の始まる道向い、第5坑口は県立芸大敷地の南側斜面、換気塔を兼ねた縦坑は2カ所あった。壕の全長は約500㍍。首里城の地下15~35㍍に掘られた約1・8㍍角の湿気に満ちた急ごしらえのものであった。

沖縄戦の戦争遺跡 保存・公開の意味|建築探訪PartⅡ①|沖縄タイムス

 

第32軍司令部壕の保存・公開を求める会

第32軍司令部壕の保存・公開を求める会

 

全長1000m以上にも及ぶコンクリートで固められた巨大な人工壕の第32軍司令部壕跡は、沖縄守備軍の戦闘指令所の跡である。沖縄守備軍は、1944年3月に創設され当初は安里にあったが、1945年1月首里城内に移動した。米軍上陸後、首里城は攻防戦の中心となり、壕内には軍首脳以下、約1000人が生活し、司令官室・参謀長室・作戦室・無線室の他に兵隊のベッドや炊事場、浴室にトイレまで完備されていた。壕内は米軍の爆破による崩落が激しく現在は入り口のみ見学ができ、坑口はフェンスなどで閉鎖されているため入ることはできない。この司令部壕ではたくさんの戦死体が収容されている。

第32軍司令部壕跡 | 那覇市観光資源データベース

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第32軍司令部壕の内部。補強されているが、風化が進む。

<調査同行ルポ>風化進む32軍壕 首里城地下 - 琉球新報

 

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*1:沖縄県文化振興会「第5回 第32軍司令部壕保存・公開検討委員会・文献調査最終報告」PDF  (令和4年3月28日