〜シリーズ沖縄戦〜

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1944年10月10日 『十・十空襲』

第32軍の酒宴 / 試験的焼夷攻撃 / 住民スパイ説の萌芽

 

1944年10月10日 『十・十空襲』

 『十・十空襲』とは

日米で20万人以上のいのちを奪った沖縄戦。そのうちの6割以上 (約12万2000人) が沖縄県住民だったが、その戦争の始まりは、1944年10月10日の「十・十空襲」であった。奄美大島から八重山群島まで、米軍はのべ1,396機の艦載機で、日本軍の軍事施設から市街地まで広範囲に徹底した爆撃と機銃掃射を加え、少なくとも668人が死亡768人が負傷した*1。この「十・十空襲」を始点として、その後も空襲が繰り返され、ついに翌年1945年3月26日からアメリカ軍の上陸が始まる。

沖縄戦の絵】 『10・10空襲 戦火の集落と防空壕

那覇市大嶺…の集落近くには日本軍の飛行場があり、昭和19年10月10日の10・10空襲では、爆弾や機銃掃射を雨あられと浴びせられ、住宅地域も被災した。

10・10空襲 戦火の集落と防空壕 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

米軍 - 空爆の目的

午前6時40分の第一次攻撃から午後3時45分第五次攻撃まで9時間にわたる波状的空襲が行われました。のべ1,396機の米軍艦載機が縦横無尽に爆弾や焼夷弾を投下しました。後に日本政府は、那覇無差別爆撃は国際法規違反であると抗議しました*2。この空襲には米軍の情報収集という側面もありました。米軍が沖縄戦で用いた作戦計画書「アイスバーグ作戦」*3の計画立案に必要な地形情報を得るため、空爆を行う一方で艦載機から写真を撮影し、この空中写真をもとに作戦地図を作成しました。

1944年10月10日 10・10空襲 – 沖縄県公文書館

米陸軍公刊戦史から

アメリカの諜報機関によって作成されたターゲットマップは、島の地形と開発された施設について知られているすべてを表していた。この地図、縮尺1:25,000は、1944年9月29日と10月10日に取得された航空写真に基づいており、1945年3月1日頃に配備された。

US Army: Okinawa: The Last Battle [Chapter 1 p. 14] 

沖縄上陸作戦に先駆け、1945年2月28日にリリースされた米海軍報告書沖縄群島における日本軍施設の詳細にわたる解析を含む。下は4月1日の米軍上陸地点となった読谷の北飛行場と嘉手納の中飛行場周辺の解析。

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CINCPAC-CINCPOA 報告 第53-45 (1945年2月28日) - Basically Okinawa

 

 『十・十空襲』の影響

日本軍の軍施設を的確に破壊

空爆で第一の標的となった日本軍が建設中の飛行場や港湾は壊滅的被害を受け、飛行機や戦艦、魚雷などが多数破壊され、甚大な損失をもたらした。

 

日本軍の責任転嫁 - 住民スパイ説の萌芽

米軍は詳細な調査に基づき、運天港の秘匿基地などを的確に破壊した。一方、日本軍は後に見るように、酒宴の翌朝であったということもあり、台風の後追いで接近した米軍艦載機の攻撃に無防備であり、各部隊の幹部が不在のまま、連絡網も混乱し、警戒警報も機能を果たさなかった。

こうした明らかな不手際を転嫁するかのように、沖縄守備隊第32軍は、甚大な被害は住民の内通者 (スパイ) にその原因があるとする疑念に傾倒していくようになり*4、空襲後に県民に対する軍機取り締まりが強化される*5

第32軍はスパイ防止策として1944年11月、「極秘 報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」を 作成。「民共生共死の一体化を具現化するため県民の思想動向を調査し、米軍のスパイ活動を封殺する」ことに重点を置いてきた。 同要綱に基づき、住民の情報を収集するため、軍はたえず各部隊、憲兵隊や県と密接に連絡して、「行動不審者の発見」「防諜違反者の取締」を強化してきた。

沖縄戦新聞(琉球新報) 4月21日「第32軍 方言使えばスパイ 極秘の住民監視隊設置」 - 歴史の記録

実際には、米軍はターゲットマップ作成に関して時間と技術をかけてじっくりと資料を集め、また多くの情報を南洋での日本兵の通信、書類、手帳の解読や聴取から得ていたにもかかわらず、日本軍は住民がスパイをしていると疑い、住民の取り締まりを強化。住民が米軍の捕虜になることを警戒し、のちに、住民の「自決」(強制集団死) や、、また負傷兵の「処分」、スパイの「処刑」「整理」(住民虐殺) などを導くことになる。

 

焼夷弾 - 那覇空襲という試験的焼夷攻撃

また市街地への空爆で米軍は初めて市街地空爆焼夷弾を試験的に使用した。焼夷弾とはゼリー状に加工したガソリンなどきわめて高温で燃焼する燃料を充填した爆弾で、消火が極めて困難な特性を持つ。*6 。米国は1941年から焼夷攻撃の開発を進め*7那覇空襲の「成果」を得て、十・十空襲後の10月14日には米陸軍航空部隊の最高司令官アーノルドが本格的な日本本土における焼夷空襲の研究を命じ、都市部で広範囲に焼夷を拡張するための本格的な焼夷空襲研究に移行した*8

那覇の街はその日から三日三晩、燃えに燃え続けたのです。

山里将林「沖縄を変えた十・十空襲」 - Battle of Okinawa

 

被災難民の運命 - 北部での戦没者の多さ

那覇では死者は255名に及び、那覇の9割が焼失した*9那覇市や名護市の空襲で住居を失った住民は、そのまま、やんばるなどでの避難生活を強いられ、そのまま沖縄戦に巻き込まれる。半年後の1945年4月1日の米軍上陸時点ではすでに避難住民の消耗は著しい状態であった。

1945年4月の第1週に我々米軍の前線内におかれた民間人の中には、もともと那覇の住民であり、1944年10月以来から壕で生活していた住民もいた。

ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946)

十・十空襲で「難民化」した住民も含め、多くの民間人が北部への移住を余儀なくされた。

十・十空襲以降、那覇および南部の他の地区の自主的な部分避難は、その地域の民間人の大部分を排除しようとする(日本)軍側の試みによってさらに加速した。首里那覇地域以南に住む民間人に対し、島北部への退去を命じる県令が出たという。この背後にある主な目的は、民間人自身の安全のためと、守備軍が利用できる食料供給の需要を減らすために、予想される主な防衛地域から民間人を排除することであった可能性がある。

ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946)

十・十空襲で焼け出され、北部への避難を余儀なくされた都市部の住民が、半年後の沖縄戦と過酷な米軍収容所生活での飢餓とマラリアから生きのびることがどれほど困難であったかは多くの記録が語っているところである。

私の家族も栄養失調で骨と皮になっていましたが、それよりもっとひどいのは町方からの疎開で、私たちが落した芋の皮を金蠅がたかっているのもかまわずに母親と女の子が争って食べていたのを覚えています。七月のはじめごろになると、山道には栄養失調で動けなくなった者、餓死した者がどろどろころがっていました。そこを通ると悪臭がたちこめて、銀蠅がブーンと飛び立って、いつかは自分もああなるだろうかとたまらない気持になったものでした。

沖縄県史 国頭村「国頭山中の避難生活」 - Battle of Okinawa

 

米軍の動向 - 出撃準備

1944年10月3日、太平洋軍地区米軍は、琉球列島(南西諸島)を確保せよ、との指令を受けとった。琉球諸島は日本四島への入口、その中でも沖縄島は最も重要な島である。琉球侵攻を決定したことは、米国が日本の防衛線の内陣に食い込む用意ができていたことを意味するものであった。(15頁)

沖縄最初の攻撃は、レイテ上陸作戦に参加した第3艦隊所属の攻撃空母機動部隊(司令官マーク・A・ミッチャー中将)によって行われた。大型空母7、戦艦5、小型空母8、重巡4、軽巡7、対空巡3、駆逐艦58が、昭和19年10月10日の未明、沖縄沖に到着した。台風による悪天候を利用して、南東からその後を追ってきたものであった。(52頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 15、52頁より》

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《AIによるカラー化》F6F-5s warming up on flight deck of USS HORNET (CV 12). Planes loaded with rockets for strike against Nansei Shoto (Japan Proper). / 空母ホーネット (CV-12) 甲板上で、暖機運転中のF6F-5機。同機には、南西諸島攻撃用のロケット弾が搭載。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米第38高速空母機動部隊は、予定の攻撃発起点である北緯24度から25度、東経129度から130度3分付近(沖縄本島東南端の知念岬から約280キロほど)の海上に、沖縄本島に平行する形で到達し、空襲への出撃を、いまや遅し、と待っていました。(109頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 109頁より》

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An F-6F on flight deck of the USS ENTERPRISE (CV-6) being loaded and prepared for a strike on Okinawa.Receiving a check-up and re-load of 50 cal shell for its many guns in the wings. / F6F機。沖縄攻撃の準備のため、空母エンタープライズ(CV-6)の甲板上で弾薬が装備されているところ。点検され、翼にある銃器に50口径の弾が充填されている。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Ordnance men loading TBM's with fragmentation bombs for another strike at Okinawa installations and Japanese personnel: on board the USS ENTERPRISE (CV-6). / 兵器要員。沖縄の施設と日本軍に対する再攻撃のため、TMB機に破砕爆弾を装備するところ。空母エンタープライズ(CV-6)上にて。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

爆撃は一日中つづき、多くの日本軍の飛行機が地上で攻撃うけて、破壊され、弾丸をあび、ほんの2、3機が舞い上がったのみであった。バンカーヒルの戦闘爆撃機が、相接する2隻の日本潜水艦を発見し、そのまんなかに爆弾を投下した。爆撃は沖縄島ばかりでなく、久米島宮古奄美大島、徳之島、南大東島に対しても行われた。

この攻撃は、大型空母機動部隊が一日で行ったものとしては、最も熾烈をきわめたものであった。攻撃すること1356回爆撃機652個のロケットと21個の魚雷を発射し、541トンの爆弾を投下した。那覇は炎と燃え、密集した那覇の2112平方キロの4分の3が灰燼に帰した。この攻撃によって、日本軍の飛行機23機が撃墜され、88機以上が、地上や海上で撃破された。貨物船20、小型船舶45、小型潜水艦4護衛駆逐艦1、潜水艦1、掃海艇1、その他の船舶を撃沈させた。

… この攻撃についてのミッチャー提督の戦果見積もりは、あるいは控え目であったかもしれない。というのは日本軍の報告には、駆逐艦1隻と掃海艇1隻がつけ加えられていたからである。同報告では、約500万連の機関銃弾と30万袋の玄米の被害を報じ、また米軍は対電探戦術を使い、宣伝ビラを投下したと報告してあったが、しかし、この報告では、その日の攻撃で最も重要なことであった全琉球の重要地帯の空中撮影が行われたということについては、一言もふれていなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 53、53-54頁より》

 

第32軍の動向 - 前夜の酒宴

一方、沖縄守備隊第32軍は酒宴の翌早朝で、かつ演習が行われるという誤認が対応を遅らせ、連絡網も混乱した。

刻々と米軍機動部隊が、沖縄を目標に疾駆しているとき、沖縄の第32軍司令部は、10日から3日間、参謀長主催の「兵棋演習(大きな盤上の地図に、各兵種=歩・砲など=を書き込んだ駒を並べ、戦術研究をやる演習)」に、注意をそそいでいました。そのため、徳之島、宮古石垣島、大東島などの各地から司令官、参謀など高級幹部を那覇に集め、兵棋演習前日の9日夜、32軍牛島司令官の招待で、波の上にあった沖縄一のホテル・沖縄ホテルで慰労の宴会を催しました。宴会のあとには軍参謀全員の二次会が、市内の料亭でもたれました。

それだけではありませんでした。陸軍航空の戦闘機隊が駐屯していた陸軍北飛行場では、9日の夕食に軍旗祭と思われる、酒もでる特別食がだされました。

軍旗祭とは、陸軍の連隊創設の日で、天皇から軍旗を授けられた日を記念しておこなわれる祝宴で、陸軍で唯一の軍隊内で食事と一緒に酒が出される無礼講の日だとされていました。一般兵が下士官を殴ったり、下士官が将校を突き飛ばしたりしても、とがめられることのない日だったのです。飛行場の全部隊に酒が配られ、年に一度の宴会に全将校が酩酊して、ぐっすり寝込んだのです。

宴会をしていたのは、第32軍首脳部や北飛行場だけではなく、…海軍小禄飛行場でも、日頃の勤労奉仕や徴用、野菜などの供出にたいするお礼の意味を込め、村三役や国民学校、青年学校校長などを夫婦同伴で招待し、宴会を部隊内で催していました。

これが、第一線の配備されていた天皇の軍隊の状況でした。

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 108-109頁より》

沖縄戦の作戦参謀 八原高級参謀の回想:

10月9日の夕、軍参謀長統裁の司令部演習参加のため、参集した麾下全軍の兵団長、独立団隊長らの招宴が沖縄ホテルで賑やかに開催された。その宴会のあと、軍参謀全員で市内の料亭で二次会をやった。大いに浩然の気を養い深更宿舎に帰った私は前後不覚に眠ってしまった。ところが、翌朝未明、参謀部先任書記千葉准尉に叩き起こされてしまった。彼が私に差し出したものは、薬丸参謀が書いた空襲警報発令の起案紙であった。わが電波探知機に、アメリカ機の来襲状況が明瞭に感知されたのだ。ついに予期したものがきたのだ。敵機は、今や沖縄東南約30キロの地点をまっしぐらに進撃中である。私は独断警報を発令するとともに、参謀長、軍司令官にこの旨電話報告した。腹が減っては戦ができぬと、当番兵勝山伍長を促して半煮え飯を食い、参謀部事務室に駆けつける。走りながら美しく明け初めた空を仰げば、グラマン十数機が朝陽に銀翼をきらめかせながら、首里山中を北飛行場方向に、矢の如く突進しつつある。… 初めてのアメリカ機に見参せんとする将兵で、司令部内は相当混雑している。首里那覇街道上は浮き足立った避難民でいっぱいだ。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 61-62頁より》

警戒警報すらなく、兵士ですら日本軍の演習と思い込み、そのため被害は拡大した。

…北飛行場が所在する読谷山村では、空襲警報発令に先立ち6時40分から警戒警報もないままいきなり敵機の襲撃を受けた。何事だろうと近くにいる兵隊(村内では多くの部落やその近くに部隊が配備されていた)に聞けば、友軍の演習という返事であった。住民は初めのうち演習ということだから、北飛行場でもうもうと立ち昇る火柱と黒煙、その異様な光景を屋敷囲いの石垣の上に群がり、あるいは木に登って眺めていた。そのうち半信半疑になっているところに、「敵機来襲、敵機来襲」と叫ぶ怒号が飛び交った。そこではじめて、住民は蜘蛛の子を散らすように、それそれが屋敷内の粗末な防空壕や木の陰に身を隠す状態であった。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 空襲と艦砲射撃

勤労奉仕伊江島飛行場に動員されていた羽地青年学校の生徒たちは、10日の朝、滑走路地ならしをしていると、係の兵隊がきて「今日は、演習がもうじきはじまるので、滑走路からでて、すわって演習を見学しろ」と命じ、生徒全員が滑走路外の草地にすわって見学をしていたら、隣にすわっている友達が、もたれかかってきました。みると、頭から血を流して死んでいました。それから大騒ぎになって、「敵機だ」と、逃げだしました。この日、一番多くの死傷者を出したのは、羽地青年学校の生徒たちでした。

徴用労働で、伊江島に来ていたなかで、死傷者なし、という村もありました。それは金武村からの徴用者たちでした。午前7時ごろ、徴用作業のため飛行場にでてきた金武の人たちのうち、…移民で米軍空襲を体験したサイパン帰りの1人が、南の方、読谷山の方向にあがる煙をみて、「あれは、高射砲の弾の煙だ。空襲だ」といって、「早く逃げないと、ダメ」と、村人にいいはじめました。彼女の言葉が、終わるか、終わらないうちに、敵機が飛行場めがけてつっこんできました。「みんなわれ先に逃げだし、金武村の人たちで、負傷したり、死んだ人はいな」かったのです。

また、ハワイからの移民帰りのおじさんも「あれは友軍機ではない。星のマークは米軍機だ」と、叫んで、みんなに逃げるのをすすめていました(『金武町史戦争編』から)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 119-120頁頁より》

 

沖縄島「十・十空襲」

第一次空襲 - 日本軍飛行場への爆撃開始

第一撃は、午前7時から8時30分頃までで*10、日本軍の飛行場、すなわち読谷の北飛行場、嘉手納の中飛行場伊江島飛行場などを主な標的とした。

10月10日のまだ明けやらぬ海上を、航空母艦からの一番機が発進したのは、午前5時45分、第1群から第4群の主力航空母艦から北・中飛行場を攻撃目標とする戦闘機隊と爆撃隊・攻撃機隊でした。沖縄まで、米艦載戦闘機の主力グラマンの巡航速度で、約1時間たらずの距離を発進したのです。

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 109-110頁より》

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《AIによるカラー化》SB2Cs from USS BUNKER HILL (CV 17) ready to drop bomb loads on Okinawa Jima, Nansei Shoto. K-20. Alt. var. F.L.. 6 3/8”. Aerial. / 空母バンカーヒル(CV-17)から出撃したSC2B機。沖縄本島へ爆撃に向かうところ。撮影機材:K-20カメラ。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

空襲は10日午前6時すぎ、日本軍の不意をついて突如として開始された。軍の首脳部でさえ信じられないできごとだったので、一般住民は「友軍の演習だろう」ぐらいに思って安閑としていた。第一撃は読谷山、嘉手納、伊江島小禄の各飛行場に向けられ、編隊をなした艦載機群から大量の焼夷弾、爆弾、ロケット弾、機銃が浴びせられた。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第一節 読谷山村における沖縄戦

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Task Force 38 strikes Nansei Shoto, the southwestern islands of Japan, as airfield installations on Okinawa Shima burn after attack by USS HANCOCK (CV19) planes. / 第38機動部隊による南西諸島への攻撃。空母ハンコック(CV-19)の艦載機による攻撃で炎上する沖縄本島の飛行場施設。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

読谷飛行場 (北飛行場)

「“無敵皇軍”を豪語する友軍が敵の来襲も探知できず、わがものがおに乱舞するグラマン(F6Fヘルキャット)やコルセア(ボートF4Uコルセア)などの新鋭機に対し対空砲火はほとんど効果がなかった。心血そそいで建設した各地の飛行場からはわずか一〇機ばかりの迎撃機が飛び立ったばかりで、おおかたの飛行機は無残にも地上で撃破されてしまった。官民の間に軍人への不信感、厭戦気分が流れたことは無理もなかった」

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第一節 読谷山村における沖縄戦

嘉手納飛行場 (中飛行場)

部隊本部付有線分隊長の回想:

… 熊蜂のような米機は220高地の稜線をかすめて走り、次々と機影をまして一方的な攻撃がつづく。高射砲弾は高く、あるいは低く炸裂するが、敵機はその間を縫って去り、また攻撃をつづける。一機として撃墜できない。耳がひき千切れるような轟音と共にドラム缶入りの燃料が燃えつづけ、弾薬は誘爆をつづけてドドドドッと断末魔のような地ひびきが襲った。(71-72頁)

飯田邦彦「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(1982年) - Battle of Okinawa

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Six SB2C-3Cs flying in formation, returning from first strike on Nansei Shoto (Japan Proper).

編隊を組んで帰還する、6機のSB2C-3C機。南西諸島で最初の攻撃を行った後。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第二次空襲 - 小禄飛行場と那覇

第二次空襲は9時20分から10時15分まで、那覇小禄飛行場那覇港を主な標的とした。

一方、小禄飛行場方面からは、ガソリンが燃えているのか、黒煙が天までモウモウと立ち昇り、その上空一帯はアブのように敵戦闘機が群がっていました。

山里将林「沖縄を変えた十・十空襲」 - Battle of Okinawa

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《AIによるカラー処理》10・10空襲時の那覇港および旧那覇市街 1944年10月10日

1944年10月10日 10・10空襲 – 沖縄県公文書館

小禄ガジャンビラ台地の独立高射砲二七大隊

敵機は識別表で見たことがあるグラマン、コルセア、カーチスなどの機種で、真っ黒な胴体に描かれた不気味な髑髏や、純白の機体に画かれている女性ヌードの絵は何を意味するのか。敵機は操縦士の顔がはっきり見えるほどに急降下し、銃撃をくり返すと飛鳥のように飛び去った。いずれも、米海軍第5航空艦隊自慢の艦載機群である。私は正直恐ろしさに手足が慄えた。

渡辺憲央「逃げる兵 高射砲は見ていた」44頁 - Battle of Okinawa

運悪く、那覇港には、その2、3日前に台湾から大量の弾薬をつんだ船が入港していた。

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 88頁より》

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《AIによるカラー化》Harbor installations in Naha City, Okinawa Jima, Ryukyu Retto burning. Taken by plane from USS SAN JACINTO (CVL 30) during Formosa- Ryukyu strike. /炎上する港湾施設那覇市にて。台湾・沖縄攻撃の際に、空母サン・ジャシント(CVL-30)から飛び立った航空機から撮影。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第三次空襲 - 本部半島

第三次空襲は11時45分から0時30分まで、主に本部半島の運天港、渡久地港、名護市、愛楽園などが主な標的となった。

本部 (もとぶ)

本部は、飛行場建設の資材、徴用者や軍隊の食糧・弾薬・燃料の積み出し港として、人や物の出入りが激しくなり、にわか景気でうるおっていました。市場には、伊江島に積みだす弾薬や燃料が山積みされていました。… 本部は、伊江島とほぼ同時に襲撃され、市場のなかに野積みされていた火薬が直撃を受け爆発し、警察・郵便局など主要な建物、公共施設が全焼し、連絡不能となりました。また、鰹漁船が漁の途中に銃撃され、死者もでて、エンジンは止まり、漂流して3日後に、やっとエンジンを修理して帰ることができた事例もありました。

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 120-121頁より》

… 瀬底水道には、海軍が甲標的と呼んでいた特殊潜水艇を運んできた潜水母艦・迅鯨が水上機母艦・神威とともに停泊していました。そこへ急襲してきた米軍機の波状攻撃を受けて、両艦とも撃沈されてしまいました。

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 121頁より》

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《AIによるカラー化》Task Force 38 strikes the Southwestern Islands of Japan as planes from USS HANCOCK (CV19) make a rocket attack on shipping at Okinawa Shima and Amami Oshima, in Ryukyu Islands./ 第38機動部隊による南西諸島への攻撃。空母ハンコック(CV-19)の艦載機は、沖縄本島奄美大島近海を通る船舶をロケット弾で攻撃した。(1944年10月10日撮影)投稿者註: 撮影場所は不明。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

今帰仁(なきじん)

… 運天港の潜航艇基地も爆撃を受け、潜航艇2隻が沈没、魚雷艇13隻沈没、海軍籍の立神と158号輸送艦、58号駆潜艇、掃海特務艇として海軍に徴用されていた新浦丸も撃沈されました。

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 121-122頁より》

名護市

独立混成第44旅団の日本兵の証言:

グラマン(米軍戦闘機)がひっきりなしに来る。数なんて分からんかったです。

… 『ドーン』とでも言うんかなあ。1発や2発やないから、口で表現しようもない。みな山の上へ上がってね。ただ見とるだけです。何もできん。とにかくね、見渡す限り穴だらけやな」… 「きれいな街、という印象だった名護の街は変わり果ててしまって。民家なんかつぶれてね。住民はもう家を建てるのを諦めて、それきり壕に入って生活しよったわね」

玉砕せよ ~沖縄戦~ 具志頭でのできごと - Battle of Okinawa

沖縄愛楽園

沖縄戦の絵】 『空襲を受ける沖縄愛楽園』

昼ごろ雑木林の中を歩いていると5、6機の戦闘機が現れ、日本軍機と思って手を振ると機銃掃射を始めたので、とっさに松の木陰に隠れた。翼には米軍機を示す星のマークが見えた。戦闘機はハンセン病療養所の現在の沖縄愛楽園へ向かい、機銃を撃ちながら急降下を繰り返し、建物のセメント瓦の屋根が銃撃で砕けた。急上昇する機体からは黒い爆弾が落とされた。

空襲を受ける沖縄愛楽園 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

第四次・第五次空襲 - 那覇の焼夷攻撃

第四次空襲は午後0時40分から1時40分まで。また第五次空襲は2時45分から3時45分まで、那覇市など、焼夷弾を使用した無差別攻撃で多くの死傷者をもたらした。

その後、船舶、無線設備、港湾設備などが攻撃目標になり、さらに未曽有の被害をもたらしたのは、午後一時からの那覇市街などへの無差別攻撃だった。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第一節 読谷山村における沖縄戦

那覇市の9割が焼失。日本への空襲で初めて焼夷弾が使われ、病院や学校など、民間施設も爆撃を受けた無差別攻撃だった。

報道の魂

八原高級参謀の回想:

敵はさらに第三波、第四波、第五波と終日、主として飛行場、港湾に向かい攻撃を続行した。だが、どんな気紛れか、それとも本気か、最後には直接那覇の市街に対して焼夷弾攻撃を加えてきた。折からの強風に、全市見る間に火焔に包まれてしまった。荒井警察部長の要求に応じて、第9、第62師団から救援隊を繰り出したが、敵の銃爆撃下、すでに全面的に火を発した市街はどうにもならない。バケツの水送り式防空法は、こんな状況下ではまったく児戯にひとしい。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 65頁より》

琉球新報「沖縄戦ってどんな戦争だったの?」

罹災戸数は、15,648戸中11,440戸に及んだ。とくに西本町592戸、貸座敷689戸で、上之蔵町602戸、東町552戸、旭町275戸、久茂地町903戸で全焼、西新町は1,146戸のうち1,130戸が焼失、天妃町は371戸のうち370戸が焼失した。また軍民あわせて150隻の船舶が沈み、また交通機関の破壊をはじめ軍需物資、民需物資の被害は大きかった。住民の死傷者は、死者330、負傷者455であった。この空襲によって那覇市庁舎は焼失し、重要書類もことごとく灰となった。

『写真集 激動の記録 那覇百年のあゆみ 』

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《AIによるカラー化》Harbor installations in Naha City, Okinawa Jima, Ryukyu Retto, burning. Taken by plane from USS FRANKLIN (CV-13) during Formosa-Ryukyu strike. / 炎上する那覇市港湾施設。台湾・沖縄攻撃の際に、空母フランクリン(CV-13)の艦載機から撮影。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

沖縄戦の絵】『10・10空襲で燃える那覇

昭和19年10月10日の10・10空襲の様子。… 那覇市泉崎の自宅から宜野の湾市の親せきの家へ避難する途中、首里城守礼門のあたりから炎上する那覇市街を目撃した。遠くに見える街からは赤い炎と黒い煙が上がっている。

10・10空襲で燃える那覇 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

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《AIによるカラー化》Harbor installations in Naha City, Okinawa Jima, Ryukyu Retto, burning. Taken by plane from USS FRANKLIN (CV-13) during Formosa-Ryukyu strike.

炎上する那覇市港湾施設。台湾・沖縄攻撃の際に、空母フランクリン(CV-13)の艦載機から撮影。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Flight deck crews ”sweating in” the last few planes coming in from their attack on Okinawa, on board the USS ENTERPRISE (CV-6).

甲板要員。沖縄攻撃から最後に帰ってきた、航空機の整備に汗を流す。空母エンタープライズ(CV-6)にて。(1944年10月10日撮影)

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沖縄陸軍病院

昭和19年10月10日、米空軍による空襲で本部のある開南中学校、外科の済生会病院、兵舎として使用している第二中学校は爆撃によって破壊炎上した。病院全部隊は南風原分院に夜を徹して移動し、同地で空襲による負傷者多数を治療収容した。(30頁)

衛生兵の証言:

昭和19年10月10日の那覇空襲の日は患者が5、60人位いた。前日の9日の晩から患者を避難させ始めていた。10日朝の読谷の空襲は、皆を動揺させないため日本軍の演習だと言い聞かせていた。残った兵隊は病院近くの甲辰国民学校の小さな壕に避難させ、私は他の2人の兵隊と毛布を被って那覇農園…に午後4時30分頃まで避難していた。それからさらに避難命令が出て10日の夕方、南風原国民学校へ病院全体移動した。(115頁)

《「閃光の中で -- 沖縄陸軍病院の証言 --」(長田紀春・具志八重/ニライ社) 30、70、115頁より》

米軍機述べ900機による大空襲は飛行場、港を中心に沖縄全域にわたった。特に那覇は昼以降、集中攻撃を受け、焼い弾、ロケット弾、機銃掃射の繰り返しで、上之蔵町をはじめ、那覇港一帯の町が2日間燃え続けた。600人を超す死傷者と市の9割が灰じんに帰した。(87頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 87、88頁より》

沖縄戦の絵】 『死んだ米兵に石を投げる兄妹』

昭和19年10月10日の10・10空襲から5日ほど後、海岸の堤防のそばに、墜落した米軍機の乗組員とみられる遺体が流れ着いていた。空襲で家を焼かれた当時9歳…と6歳の妹は、米兵の遺体に石を投げた。… 当時学校では「鬼畜米英」と教わり、憎しみが募っていた。時代は変わり、… 石を運んでくれた妹は今、アメリカ人と結婚して幸せに暮らしている。正しい教育を受けられる、戦争のない世の中が続いてほしい。

死んだ米兵に石を投げる兄妹 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

慶良間諸島・先島群島

慶良間では渡嘉敷で4隻の鰹漁船と連絡船、座間味では、4〜6隻の鰹漁船と鉱石運搬船や連絡船が沈められました。(125頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 120-121頁より》 

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《AIによるカラー化》View of Tokashiki Shima. In the harbor is an AK which was attacked and reported hit by TBF of VT 51. A small pier extends into inlet. Taken by planes from USS SAN JACINTO (CVL 30) during Formosa-Ryukyu strike. / 渡嘉敷島。港には、雷戦隊VT-51のTBF機に攻撃された貨物船。小さな埠頭が、入り江に向かって伸びている。台湾・沖縄攻撃の際に、空母サン・ジャシント(CVL-30)から飛び立った航空機から撮影。(1944年10月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

渡嘉敷島

10・10空襲当日の朝、渡嘉敷の人たちは、東方那覇方面で、普通でない煙の上がり方をみて、島の人たちは「あれは、空襲じゃないか」と、不安にかられ、島に駐屯する特攻隊や地上部隊の兵士たちに聞くと「あれは、演習だ。安心しろ」との答えに「演習か」と、安心する間もなく、飛んできた米軍機は、兵舎として接収された学校の炊事場に爆弾投下、早目に登校していた子どもたちは上へ下への大騒ぎとなりました。 (120-121頁)

… 当日はまた、現地召集や徴兵検査終了の新兵が入隊する日なので、村の兵事主任が引率して那覇へ向かう予定でした。渡嘉敷の人びとは演習と聞いて安心し、駐屯部隊の徴用船に便乗して那覇をめざして出港しました。船が那覇までの3分の2ほどの距離にある慶干瀬(神山島)のあたりまできたとき、米軍機の襲撃をうけました。最初の一撃で、機関長やその他の乗り組み員数人が機銃掃射で倒され、左舷の甲板は血の海となりました。(125-126頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 120-121頁より》

先島諸島

昭和19(1944)年10月10日午前7時30分、宮古島南方上空に見馴れない機影が編隊を組んで現れた。秋晴れの平良町上空でそれは東西に分かれ、飛行場方面と漲水港へ急降下する。間もなくサイレンが鳴り銃撃音、爆撃音がこだまして対空砲が応戦しても、友軍機の演習が実戦さながらに行われていると多くの町民が空を見上げていた。飛行場の方面から黒煙が舞い上がり、"銀翼連ねて"宮古島の空を守るはずの"荒鷲"が燃え上がるのを見て、ようやく本物の空襲であることを知った。45分に及ぶ空襲で、島の3カ所の軍用飛行場からは応戦に飛び立つこともなく9機が撃破された。
続いて午後2時5分第2波、延べ19機による空襲で、漲水港沖合に停泊中の広田丸(2,211トン)が撃沈されるのを目の当たりに見せつけられた。この「10・10空襲」を皮切りに宮古島は連日のように米軍機の空襲にさらされ、瓦礫の島へと化していった。

総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)

2019/10/10 沖縄タイムス

 

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*1:琉球新報 社説「10・10空襲」記載なし 沖縄戦の実相を消すな」 (2022/3/30

*2:ブログ註・日本は1942年にアメリカ本土のオレゴン州の森林に焼夷弾を投下している。see. 旧海軍「潜水空母」はどんな飛行機を積んだか - エキサイトニュース

*3:アイスバーグ作戦 – 沖縄県公文書館

*4:ex. 目取真俊「十・十空襲の証言」 - 海鳴りの島から

*5:ex. 沖縄タイムス (2019年10月10日)「無差別爆撃を忘れまい」 - 歴史の記録

*6:「消せない火災」狙った兵器 米軍が使った焼夷弾の実態 [空襲1945]:朝日新聞デジタル

*7:「第43回 岡山戦災の記録と写真展 ―戦後75年 資料と記憶の保存と継承― 図録」p. 16. pdf (図録データ一覧) によると、陸軍航空部隊の最高司令官アーノルドが十・十空襲後の10月14日に本格的な日本本土における焼夷空襲の研究を命じており、明らかに那覇市における焼夷攻撃の「成果」を受けてのものだとわかる。

*8:後の米軍による日本本土空襲において、米軍はデータに基づき計算しつくされた焼夷攻撃を始動する。「計画を1945年の焼夷弾の任務に就いたB-29のほとんどは、新しく開発された「ゼリー」爆弾を搭載し、都市のさまざまな場所に狙いを定め、1つの大火災としてつながり炎上するように計算されていた。空軍兵は「バーニング・ジョブ」と呼ばれ、かなり大規模な「バーニング・ジョブ」は原爆とほぼ同じくらいの物的損害を与え、ほぼ同じ数の人々を殺害した。」1945年8月20日「ライフ誌」1945年8月20日

*9:10・10空襲 | 那覇市観光資源データベース

*10:以下、2019/10/10 沖縄タイムス「十・十空襲」を参照した。