1945年 7月15日 『因果はめぐる』

〝沖縄〟という米軍基地

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/327294.jpg

2号線と16号線の交差点に立てられたハイウェイの標識。標識は1-N号線の東100フィートの所に立てられ、16-E号線から来る際にも見える。(1945年7月15日撮影)

The highway marker has been erected at the traffic circle at the junction of Routes #2 and #16. The signal is about 100 feet east of Route #1N and may be seen on the approach from Route #16E.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

野戦病院

『…1945年7月の中ごろのある日、病院をさわがす事件がおきた。

屋嘉のPWキャンプから梅村という海軍少佐が病院おくりとなってきたのである。

「きのう、あいつと一緒に屋嘉から送られてきたおれの幕舎の兵隊から聞いたんだが、屋嘉においていたら、奴っこさん殺されちまいそうで、あぶなくなって病院おくりとなったらしい」

「水勤の連中が、ご恩返しをしてやろう、ということで、梅村の両足をゆわえて屋嘉の収容所の広っぱを引きずりまわしたそうだ」

因果はめぐるか・・・

そんな会話が私たちの幕舎でかわされていた。

水勤」というのは暁部隊の水上勤務の朝鮮人被徴用者たちのことであった。朝鮮の若者たちは正規の日本軍には編入されないで、海軍や陸軍の輸送船の労務者に、あるいは、海兵隊の労役に使われていた。水上勤務は私たちの「防衛召集」と似通っていた。名称はともかく、どちらも事実は苦力(クーリー)部隊にひとしかった。

幕舎の内外で聞かれた話をまとめると、おおよそ次のとおりであった。

海軍少佐梅村太郎那覇の西方にある慶良間諸島の中の阿嘉島の守備隊長であった。彼は冷酷非情の男であったうえに、朝鮮人に対する軽侮の気持ちがあったために、朝鮮人の水上勤務の者たちへの仕打ちはいよいよ冷酷さを加えたらしい。水勤の連中がきにくわぬことをしでかすと、足を縄でゆわえて引きずりまわさせた。隊長である梅村少佐の命令は阿嘉島では「大王の声」であった。反抗すれば有無をいわさず少佐の命令一下消されてしまうのであった。いのちのおしい者は反抗しようとしなかった。そういう札つきの梅村少佐が屋嘉のキャンプに現れたのである。

屋嘉のPWキャンプには水勤の仲間が何十名も先に送られていた。彼らは梅村少佐が捕虜となって屋嘉に姿を現わすとは夢にも思っていなかった。いつもの彼の言動から、彼は当然自決したものと思い込んでいた。それが姿を現したのである。

「どの面さげて人様の前に出て来ようというのか」

「ふざけた野郎だ」

憎しみの罵声が期せずして飛んだ。水勤仲間は梅村が捕虜になったことを「ゆるすべからざる」ことだと考えたのである。

彼は将校幕舎から呼び出されて、「人民裁判」にかけられた。

「お前からやられた通りのお返しをする。それ以上のことも以下のこともしないから安心しろ!」

そう宣言されて梅村は屋嘉のキャンプの砂地の上を両足をゆわえられて引きずりまわされたのである。キャンプの1万の日本兵捕虜たちの見まもる中で、アメリカのMPたちも見て見ぬ振りをした。日本軍将校に対する水勤仲間の「復讐」をアメリカ兵も同情の気持ちで黙認したのであろう。しかし、梅村を殺させては「捕虜保護」の責任を問われるので間もなくMPたちは水勤の連中をなだめて、彼を将校幕舎に連れ戻した。梅村が病院送りとなったのはその翌日であった。』(173-174頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 173-174頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/113-05-4.jpg

水上機母艦に所属する小規模の特派部隊によって捕まえられた、朝鮮人軍夫捕虜19人のうちの14人。同艦は、第1航空団と共に活動する。背後に写るのは、慶良間列島慶留間島水上機母艦ケネス・ホワイティング(AV-14)から撮影。

Fourteen of the 19 Korean prisoners captured by a small detail from a seaplane tender operating with FAW I. Behind them is Geruma Shima, Kerama Retto. Taken by the USS KENNETH WHITING (AV-14).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

病院へ送られてほっとした梅村には、そこでも「」が待っていた。こんどは水勤の連中ではなくて、彼の部下であった日本兵たちである。

通勤の看護の娘たちも帰ってしまい、病院内が静まり返ってから梅村少佐は将校幕舎から呼び出された。幕舎つきの衛生兵たちの目の届かない病院の柵外へつれ出していくわけにはいかないので、幕舎の裏の方へ誘ったのである。少佐を連れ出した者たちは病院で元気をとりもどし、幕舎の世話係をしている連中で、病人らしくない見た目にはたくましい患者たちであった。

「おい梅村、おれたちを忘れやしないだろう」

「もう、手前は少佐殿でも、隊長殿でもないからなあ。そのつもりでいろっ」

「おれたちもお前も、おなじPWさまだ。お前、よくもしゃあしゃあと捕虜なんかになれたなあ。おれたちにお前、何といった」

「この野郎!」

しゃべっているうちに、めいめい自分の言葉で憎しみの心がよみがえって、次第に感情がたかぶってきた。梅村少佐はうなだれたまま一語も発しない。ひとりが梅村を思いきり殴った

ひとりが腕をふるうと、あとの3人も梅村に殴りかかった。梅村のからだつきは普通なのに、4人の兵隊はみんな彼よりも大きいから、1対4では勝負にならない。梅村は抵抗しないで、殴られていた。屋嘉のキャンプから引きつづいてのリンチに、彼は精神的にも完全にまいってしまっていた。PWキャンプで散々な目に会い、けがを口実に病院おくりとなって、また、そこで元の部下たちから痛めつけられるということになっては、戦争中とはいえ気が動転せずにはおれないはずである。無抵抗の梅村はかすかな呻き声をもらすだけで、やがて、暴力をふるっている4人が疲れてきた

ただならぬ気配に近くの患者たちが様子をのぞいていたが、加害者たちの片言隻句から1対4の殴り込みの真実を察知し、だまって自分の幕舎に引っ込んだ。』(174-175頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 174-175頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/112-36-2.jpg

軍政府病院の外観。沖縄本島の石川にて。屋内にいる患者。

Exterior of a Military Government hospital at Ishikawa, Ryukyu Islands. Patients indoors.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『踏んだり蹴ったり、手と足を働かせながら口をついて出る彼らの言葉をつなぎ合せるとこうである。

阿嘉島の守備隊長をしていた梅村は、水上勤務の仲間たちに冷酷無残であったばかりでなく、部下の日本兵たちにも非道な指揮官であった。危険な作業に兵隊を無慈悲に駆り立てていた

戦争であれば危険は当然のことであるが、それでも時間によって「安全度」がちがったし、危険が全然避けられないわけでもなかった。百パーセント安全だという時間はないが、比較的危険がない時間を、10日、20日と戦闘が続いているうちに兵隊たちも知るようになって、その勘が当たるか当たらないかは別として、それによって毎日行動していた。梅村はそれを無視して自分の思いつきで、容赦なく、いつでも兵隊を駆り出したのである。

そのようにして、「偶然」と「運」にかかわることであったにしても、つぎつぎに兵隊が殺されると「梅村に殺された」ということになった。

あの野郎殺してしまえ」と、みんな煮えくり返る思いをしながら、とうとう殺すことができずにいた梅村少佐を、PWキャンプと米軍病院の中で見つけたのであった。

梅村が動けないくらいに殴られたころにコーア・メンが3名やってきて梅村を幕舎に返すように4人に指示した。

屋嘉キャンプと同じく、病院でも日本兵が日本軍将校に仕返しをするということは、アメリカ兵にも「面白いこと」であった。軍隊の常道としてアメリカ兵もときには自分たちの将校に憤懣もあったし、ぶん殴ってやりたいこともあったはずである。日本兵仕返しの気持ちに同情して、ここでも初めは見ぬふりをした。梅村もめぐり合せが悪かったというわけである。

思い切り梅村少佐を殴ったので腹の虫がおさまったのか、その後はことなくすんだが、殴った連中は「元気がありすぎる」ということで、翌る日に退院を命ぜられて屋嘉キャンプに送り返された。この事件はいささかアメリカ側にもセンセイショナルなもので、病院長にも報告され、3人の退院もその上での処置であったと衛生兵は話していた。』(175-176頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 175-176頁より》

(投稿者註: 阿嘉島にいた日本軍の守備隊長で「梅村少佐」という人物がいたかどうかは未確認。慶良間諸島座間味島には「梅澤(梅沢)」という名の隊長はいたが、この「梅村」という人物であるか、どうかは不明。)

 

 

そのとき、住民は・・・

先島諸島沖縄戦

遭難した疎開民 ⑧

1945年6月30日石垣島から台湾へと疎開する人びとが乗った船団が西表島に向かった。その後、米軍機に発見されないよう、尖閣諸島を経由する航路で台湾へと向かうが、7月3日、船団は米軍機による掃射を受け、うち1隻は沈没し、多くの人びとが溺死した。

沈没を免れた船は、生存者を乗せて石垣島に引き返すつもりでいたが、7月4日魚釣島に漂着した。台湾を目指していた疎開民は、無人島の魚釣島で救助を待ちながら、サバイバル生活を送ることになった。疎開民は、それぞれが持っていた食糧を出し合って炊き出しをし、島に繁殖する野草や木の芽、カニやヤドカリを食した。

7月9日、数名が沈没を免れた船で助けを求めるために石垣に向かった。しかし、途中でエンジンが故障。船が漂流し始めたため、小伝馬舟に乗り移り、魚釣島に引き返した。そのため、外部との連絡手段は失われた。

f:id:neverforget1945:20170715190534j:plain

魚釣島の海岸(1979年撮影)

http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/senkaku/detail/s1979000000103/s1979000000103-p02.pdf

1979年調査写真 | 尖閣諸島資料ポータルサイト(Senkaku Islands Archives Portal)

『6月末、台湾へ疎開するために石垣島を離れ、到着予定日だった7月3日に米軍機の攻撃を受けた後、尖閣諸島魚釣島に上陸した石垣島疎開民たち。無人島での生活を始めてから、10日以上が過ぎた。所持していた食糧を出し合い、1日2回の共同炊事が行われていたが、それが続いたのも、1週間だけだった。疎開者の間でいさかいが起き、各自で炊事することになったのだ。

それから、各自が島のあちこちで食べ物を探すという、想像を絶する闘いが始まった。漁ができる者たちが魚を分け与えることもあったが、特に母親と子供だけの世帯や、高齢者にとっては、食べ物を探すことは過酷を極めた。』

《「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) 215頁、[71 尖閣諸島遭難(3)]餓死者の死臭 島覆う - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および [72 尖閣諸島遭難(4)]ついに“決死隊”編成 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、要約》

http://www.pref.okinawa.jp/site/norin/shinrinken/kikaku/yuyou-detail/images/birou.jpg

クバの木(ビロウ)

ビロウ/沖縄県

『クバの木のしん芽は貴重な食べ物となったが、切り倒すには体力が必要だった。クバの木を倒す力もない者は、誰かが食べ残した柔らかい部分を食べた。ヤドカリも食べた。アダンの木の下にいるヤドカリを集めたが、逃げ足が速い。衰弱した人たちの体力では、ヤドカリの速さに追いつけなくなった。

最初の頃に手に入ったみず菜や長命草は、すぐに尽きた。“甘い草は食べられる”と聞いた人たちは、生えている草は何でも食べた。ある少年は、あまりの空腹に耐えられなくなり、伯父から「これだけは食べるな」と言われていたハジキ豆をこっそり食べてしまった。食えるじゃないかと思った少年だったが、途端に気分が悪くなり、猛烈な勢いで嘔吐し始めた。遭難した人びとは、島にある青いものはすべて試食し、食べられるものは、ほとんど食べた。』(八重山の戦争/尖閣諸島遭難・3、4)

《「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) 215頁、[71 尖閣諸島遭難(3)]餓死者の死臭 島覆う - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および [72 尖閣諸島遭難(4)]ついに“決死隊”編成 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、要約》

http://www.tabirai.net/sightseeing/news/img/0001791/kiji1Img.JPG?uid=20170715181446

アダンの木

沖縄の海岸で見かける木「アダン」とは? - ニュース | たびらい

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■