1945年 5月6日 『連れていってください』

米軍の兵器

航空魚雷

米軍は、沖縄戦で占領した北(読谷)、中(嘉手納)、伊江島飛行場を整備し、そこから米軍機を飛ばし、南西諸島全域や九州方面の爆撃を実施した。また、航空機に魚雷を搭載し、日本海軍艦船を攻撃した。

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/usmc-series/USMC-100000/USMC-120517/_jcr_content/mediaitem/image.img.jpg/1425507088170.jpg

沖縄の飛行場でMK13航空魚雷を整備する米海兵隊の航空部隊兵士 (1945年5月6日)

Receive maintenance from Marine air unit ground crewmen, at an Okinawa air field, 6 May 1945.

USMC 120517

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/usmc-series/USMC-100000/USMC-120516/_jcr_content/mediaitem/image.img.jpg/1425507087039.jpg

沖縄の飛行場でMK13航空魚雷を覆う米海兵隊の航空部隊兵士 (1945年5月6日)

Are covered by Marine air unit ground crewmen during a maintenance session at an Okinawa air field, 6 May 1945. 

USMC 120516

 

南進する米軍

部隊交替と海兵隊の南下

沖縄本島北部を進撃、制圧していた米海兵隊は、本島中南部を進撃中の米陸軍部隊の一部と交替することになり、南下を始めた。米第1海兵師団は、浦添村(当時)の西海岸一帯に4月下旬から配置されていた。

5月6日までに、第6海兵師団の全部隊は沖縄県知花付近に集結した。この場所は最前線から10マイル(16キロ)も離れていない場所である。』(55頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 55頁より》

 

勢理客(じっちゃく)・屋富祖(やふそ): 第1海兵師団

『第1海兵隊は、5月6日、東に回って、安謝川入口近くの高台を確保するため、まず浦添屋富祖南東から1キロほど離れた小高い丘の60高地めざして進んでいった。任務は困難をきわめた。60高地は、浦添の沢岻、首里の大名、また安謝川の南にある高台地の日本軍砲兵陣地から、すっかり見通せるところにある。そればかりでなく、60高地から200メートルほどしか離れていないナン高地も、まだ完全に海兵隊の手中に帰したとはいえない。そこは、60高地からも攻撃できるところにあった。

…5月6日、迫撃砲、野砲、艦砲の支援攻撃を得て、午前10時、60高地の攻撃を開始した。ナン高地の反対側丘腹にいた日本軍は、後方や両翼から砲火をあびせてきた海兵隊の各小隊は四分五裂、連絡もできず、いたずらに死傷者を出すばかりだった。戦車隊は進撃して前に出たかと思うと、とたんに日本軍の迫撃砲や47ミリ対戦車砲の迫撃をうけ、10発の直撃弾をあびて、2輌が撃破されて炎上、他の1輌が擱座してしまった。

海兵隊の一小隊は、60高地頂上に到達した。だが、それはいわばはげしい手榴弾爆雷白燐弾迫撃砲の弾雨のなかに、突っ込んだようなものであった。…ついに60高地の海兵隊は陣地確保もできぬまま、…午後12時27分、第2大隊指揮官は撤退命令を出した。』(327頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 327頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p305a.jpg

60高地の北西斜面を攻撃する米軍

ATTACKS ON HILL 60 by marines developed into a tank, flame, and demolitions battle. Above, tank infantry team attacks northwest slope of hill 60.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]

 

前田(まえだ)浦添丘陵

5月6日の夜は明けた。第307連隊の全大隊が、いまや187高地に南側から隊伍をととのえて進撃していった。浦添丘陵の戦闘はついに終わったのである。…浦添丘陵での米軍の損害は大きかった。36時間もつづいた一回の戦闘で、第307連隊の第1大隊は、少なくとも8名の中隊長を失ったこともあった。また、4月29日、800名で丘陵を攻めたてた部隊が、戦いすんで、5月7日に、丘をおりるときは、324名に減っていることもあった。だが、この戦いで日本軍は推定3千の兵を失ったのである。』(296頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 296頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p308.jpg

中央戦線付近で炎上する米軍戦車(1945年年5月6日撮影)

AMERICAN ADVANCE DOWN THE CENTER of the line, 77th Division sector, was slow and costly. Every knob of ground was fortified and fanatically defended. This photograph, taken from an artillery spotting plane 6 May, shows American tanks burning out a strong point on the edge of a village.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]

 

幸地(こうち)

『米軍が幸地攻撃をやりだしたのは、4月26日だったが、日本軍が反攻作戦に失敗したので、米軍はふたたび攻撃を開始することになった。

第17連隊の第3大隊は、5月6日までに幸地丘陵の第2陣地を奪取しようと攻撃を展開し、丘のてっぺんから、10ガロンのナパームやガソリン重油などをぶっかけた

同じ日に2個小隊が、ハウ高地の一部を占領したが、固守せよとの命令があったにもかかわらず、猛烈な砲火をまともにうけて、退却せざるをえなかった。』(330頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 330頁より》

 

棚原(たなばる)

5月6日の朝早く、ちょうどE中隊の下方にいた一隊の日本兵が手榴弾爆雷をもって、米軍前線に襲いかかってきた。E中隊は、半時間の戦闘で16名の死傷者を出して、ついに頂上から退却し、下方の崖のほうにさがった。ここで生き残った者が隊を編成しなおして、頂上を日本軍に奪われまいと、手榴弾を猛烈に見舞い、つぎからつぎと手榴弾を数百発も投げつけて、やっと明け方までには日本軍を頂上から後退させることができた。

F中隊はその日の朝、棚原に帰ってきて、村落に2回目の攻撃を試み、日本兵8名を倒した。中隊は、E中隊の迫撃砲や銃火の掩護射撃を得て、丘腹を破竹の勢いで進撃していったが、それもつかの間、まもなく一連の珊瑚礁岩が突きだしているところにぶつかってしまった。ここでは、携帯用火炎放射器迫撃砲、それに大量の手榴弾を投げて、その日の夕方までには、丘腹の全抵抗をなくすことができた。』(320頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 320頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p298a.jpg

第7師団第17歩兵連隊の位置から見た棚原高地

TANABARU ESCARPMENT viewed from position of the 17th Infantry, 7th Division, on a finger of Hill 178. Company E, 17th, moved back to the secondary crest (right) on morning of 6 May after enemy had counterattack in force.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]

 

 

第32軍の動向

東部〜中央戦線

棚原(たなばる)高地の奪取: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

『明けて5月6日、東の空が白んできたが、状況には何の変化もなく、友軍進出の様子もなかった。危惧していたことが現実となった。伊東大隊は完全に敵の包囲の下に孤立したのだ。大隊本部から左50メートルのところまで敵が進出してきた。…再び敵の熾烈な砲撃が始まった。…数十メートル先では、グスッと鈍い音をさせて短延期砲弾(着弾と同時に炸裂するのではなく、少し地中等に潜り込んでから炸裂する砲弾)が落下している。その度に土砂が吹きあがり、木の梢が高く舞い上がった。いや、それは梢などではなかった。舞い上がっていたのは、部下たちの手であり、足だったのだ

…「状況変化す。貴隊はミネ北側に転進すべし」聨隊本部からの命令が伊東のもとに届いたのは、昼を過ぎた頃だった。軍司令部では5日18時に攻勢を中止し、防御態勢に復帰することを決定していたのだ。攻勢の失敗により、軍の戦力も士気も急激に低下していた。

(俺たちがここまで頑張ったのは何だったのか・・・)

伊東大隊は多くの将兵を失って棚原高地を撤退しなければならなくなった。

…電文の「ミネ」は地図になく、どこへ向かうべきか迷った。あとで「石嶺」の誤りであることを知るが、まずはこの敵の包囲網の中をどうやって撤退するかが問題だった。

…退却はともすれば敗走に通じ、大隊が壊滅する危険を包含している。退却を成功させる道は後退にあらず、突破にありー。戦史の教えるところを、伊東は大隊の歩むべき道と信じた。自ら各隊長宛に同文で7通の命令書を書き上げた。そこには第一に「突破」であることを強調し、最後の項にはこう書き入れた。「重傷者は自決できるよう処置せよ」…自決するか捕虜になるかは本人の意思に任せることにした。ここまで戦って重傷を負い、動けない身となった。まして友軍に見棄てられ、敵中に残されるのだ。本人が自決できなかったら捕虜になるのも止むを得ない。伊東は自分にそう言い聞かせた。

…本部の1人の上等兵が、溝に重傷の身を横たえていた。伊東は身につけている二つの手榴弾のうち一つを握らせて言った。

「黒川上等兵、大隊は今から他へ転進する。もし敵が来たら、この手榴弾で自決してくれ

「・・・・・」

「鉄帽か石にでもぶつければ、すぐに破裂するからな」

・・・いやだ、いやだ。連れていってください

童顔の21歳の上等兵は、泣きながらすがるように言った。伊東は返す言葉を持たず、顔をそむけた。代わって副官が諭している。本部の兵たちは皆、もらい泣きしていた。大隊全部で数十名の重傷者を敵中に残さなければならなかった。』(196-199頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 196-199頁より》

 

軍司令部

部隊再編・再配置

『総反攻作戦で失敗を喫した日本軍は、その後、全戦力を引き延ばし戦術のほうに傾けた。大損害をこうむったとはいえ、彼らはその防衛力に、いささかの衰えもみせていなかった。…牛島中将は、5月4日の攻撃では、新鋭部隊を使用したが、首里本陣の防衛力は、全戦線で保持していた。…日本軍戦線は、一見、なんの損害もなかったかのように再編され、動員できる兵力は、じつに慎重に現存部隊に配置され、その攻撃力も時宜を得、また効果もあげていた。』(324頁)

『日本軍は残った重機、大砲類、とくに重砲には慎重を期して兵を配置し、5月6日に第5砲兵隊は各部隊に対して、「5月3日の攻撃以前の、元の位置につくよう」指令をだした。ふたたび砲陣を中心とする防備戦線が張られることになったのである。各砲陣とも、「努めて弾薬を節約し」「敵が至近距離までに近づくのを待って発砲せよ」との指令をうけた。』(325-326頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 325-326頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

前田(まえだ)高地周辺

youtu.be

RBC 琉球放送】戦後70年の地平から「浦添・前田高地周辺での戦い」

浦添・前田高地周辺での戦い | 琉球放送

 

銘苅(めかる・那覇市)

男女青年義勇隊員(女性)の証言:

『彼女らは斬込隊用の急造爆雷浦添市前線に運んだ。…「木箱につめた爆雷は重さ10キロでした。ランドセルのように背負います。」

…「5月6日義勇隊の解散命令が出ました。みんな反対しました。銘苅男女青年団として壕掘りなどをして軍に協力してきたんです。那覇市港川に艦砲射撃がはじまったときに結成した義勇隊がどんなに一生懸命になって兵隊さんに協力してきたか。いまになって私たちに立ち去れというのですか。わたしたちは口ぐちに兵隊さんに訴えました。しかし、私たちがどんんなに言っても避難命令は出ました。銘苅から二、三家族ずつが、南へ南へと逃げはじめました。敵に立ち向かって行くときはこわくなかったのに、逃げるとなるとこわくなりました。」
「みんな榴弾を2発ずつ持っていました。最後に敵兵を倒すのに1発と、自決用に1発です。馬小屋、ブタ小屋、牛小屋にかくれ、食べるものもろくに食べずに、沖縄本島の南部をさ迷い歩きながら、みんな肉親の二人か三人は失いました。義勇隊男子10人のうち生存者は3人、女子17人のうち生存者は6人です。銘苅地区約30戸のうち半数が一家全滅の被害を受けました」』(91-93頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 91-93頁より》

 

 

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