〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年3月28日『慶良間の集団自決』

中飛行場の自壊 / 投降 / 運天港爆破 / 渡嘉敷「集団自決」

 

米軍の動向

慶良間諸島侵攻・3日目

慶良間諸島全域の掃討が行われるが、目立った日本軍の抵抗はない。

渡嘉敷島 (とがしきじま)

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慶良間諸島渡嘉敷島。米陸軍の部隊は、さしたる抵抗も受けずにこの島に上陸した。そうした上陸作戦の1つ。水上機母艦チャンドラー(AV-10)から撮影。(1945年3月28日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

阿嘉島 (あかじま)

3月28日: 日本軍による夜間(前夜)の活動なし。ただし、米軍の陣地に侵入しようとした日本兵1人が射殺された。日本兵の掃討や施設の破壊を命令された各中隊は、その日の掃討作戦を島の全域に拡大したが、日本軍の抵抗はなかった。装備類が若干発見されたが、これらはすべて各中隊によって破壊された。

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 75頁》

 

運天港への空爆 - 秘匿基地の爆破

本部半島の運天港は日本軍の海上特攻艇の拠点であったが、米軍は十・十空襲での空中写真など詳細な情報解析に基づき、標的をしぼって攻撃、これらを壊滅させる。

十・十空襲で撮影した空中写真の解析 (1944年11月15日付の米海軍資料)

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CINCPAC-CINCPOA 報告 第161-44 (1944年11月15日) - Basically Okinawa

3月28日、米海軍による運天港秘匿基地の爆撃

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米軍艦エセックス(CV-9)艦載の雷撃機(VT-83所属)の攻撃が運天港にある潜水艦待避所に命中。運天港 (1945年 3月28日)

沖縄戦写真を AI (人工知能) で自動色付けして気が付くこと

米海軍の偵察資料をみれば、十・十空襲時の空中写真が魚雷艇潜水艇の影を捕らえ、詳細に解析していることが見て取れるが、第32軍は住民を酷使して建設した秘匿基地が正確に爆撃されていくことで、住民のスパイが米軍に情報提供しているはずだという声が高まる。こうして軍は住民を徴用しながらも潜在的スパイとして疑うようになる。

 

第32軍の動向

嘉手納飛行場 - 最後の特攻

特設第1連隊第2大隊

3月28、29日も、中飛行場から特攻機数機宛が出撃した。近いところから出る特攻は、敵機の妨害を受けない時間さえ選べば、成果はひじょうに揚がった。飛行場にはハリツケ特攻を置くための秘匿掩体壕がたくさん造られ、米艦艇が近くから艦砲射撃をしても、艦載機が爆撃をしてもこれに堪えることができた。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 139頁より》

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炎上する米掃海艇。マキン・アイランド号より発進した航空機より撮影(1945年3月28日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

読谷飛行場・嘉手納飛行場の自壊命令と、それを阻む米軍機

特設第1連隊は最期の特攻機援護が終わるやいなや、滑走路と桜花を爆破し撤退するように命じられていた。

部隊本部付有線分隊長の回想

… 28日、最後の特攻機援護がおわると、わが部隊にも、「特設第1連隊ハ速ヤカニ北、中飛行場ヲ破壊シタル後、既定ノ新配備ニ就クベシ」の軍命が下った。

毎日が生死の関頭に立たされていただけに…これで寿命が何日か延びたという実感は皆にあった。

後退と同時に一切のものが破壊されることになった。その晩、青柳中佐から嘉手納飛行場の破壊命令を受けた補給中隊の石榑次郎曹長の指揮する、約1個小隊50名は、800キロ爆弾をトラック1台に積んで、…海上から絶えず打ち上げられる照明弾で真昼のように浮かび上がっている滑走路の北側中央に到着した。… 目の前に横たわる飛行場は毎日の激しい砲爆撃にもかかわらず、全く無傷のまま放置されていて一同をおどろかせたのである。
爆破隊は素早くトラックから降りるや駈足で滑走路の中央に出て、全員がローラーでカチンカチンに固めてある路面を、シャベルや十字鍬を使って穴掘り作業をはじめたそのとき、突然、爆破隊の頭上にパーッと照明弾が灯り、同時に海上から、

ダダダダーダダダダー

と曳光弾が飛んできたのである。いち早く地面に伏せた爆破隊のひとり高山藤吉伍長は、後に私に語ったように「奴等どこかで監視しているのかな?」とおどろき、不思議におもってあたりを眺め廻したほどであった。

ときすでにおそかった。高感度の電波探知機を備えた米艦が海岸近くまで接近していて、電波を滑走路に集中し、上陸したらすぐ使用するために、日本軍の飛行場破壊を妨害していたのである。爆破隊は、… 軍人としての行動を証明するために、滑走路から蛸足のように八方に伸びている、誘導路の地面のやわらかい一部を掘って、爆弾を装填し、ここを爆破して「滑走路を爆破した」と報告したのである。北、中飛行場の破壊はすぐ至急電となって大本営に送られた。

「北、中飛行場は爆破してある。敵がもし上陸したとしても当面、1週間や10日は使用できないから、いまのうちに特攻攻撃を実施してくれ」と軍参謀長が要請したということであるから、おどろくべき真相であったわけである。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 126-127頁より》

上陸前のブリーフィング: 日本軍読谷飛行場の空中写真を見つめる米兵

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《AIによるカラー化》Briefing: relief map is shown to men before invasion aboard ship.
ブリーフィング。侵攻前に、艦上で地形図を見る兵士たち。(1945年 3月28日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

学徒隊: 鉄血勤皇隊と通信隊の犠牲

沖縄県立農林学校(農林鉄血勤皇隊)

第32軍の主力部隊が嘉手納から撤退し沈黙を続けるなか、多く住民などから構成された特設第1連隊は米軍の面前に残されたが、この部隊にはまた沖縄県立農林学校の学徒170名が配属され、激しい爆撃のなか、嘉手納の飛行場に集積してあった食糧などを倉敷の壕へ運ぶ運搬作業をさせられていた。

この激しい砲爆撃下のトラックによる決死輸送任務は、尚謙少尉の率いる沖縄県農林学校生徒隊で編成した(鉄血勤皇隊)170名たちであった。跳梁する敵機の間隙をぬっての、長途10キロほどの道のり、土埃を上げて疾走しているトラックがグラマンに銃撃されて早くも若い犠牲がつぎつぎと出ていた。いまや全島十里、火の雨を浴びつつ地表に身を挺しているのは、ひとり高射砲隊と鉄血勤皇輸送隊そして保線任務の通信隊だけである。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 114頁より》

糧秣運搬作業中に生徒たちの犠牲が相次ぎ、中飛行場周辺で8名、北飛行場周辺で2名、美里具志川方面に派遣された者の中から4名の生徒が戦死しました。

ひめゆり平和祈念資料館資料集4『沖縄戦の全学徒隊』P. 82》

早くも3月28日には農林隊の壕近くで1人の隊員が戦死したほか、2名の隊員が重傷を負い、10数名が負傷するに至った。

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 150頁より》

 

沖縄県立第一中学校

1944年11月下旬に守備軍司令部の命令で、県立第一中学校の2年生約200名からなる通信隊が編制され、翌45年3月中旬まで、同校でモールス信号及び通信機や発電機の操作方法などについて訓練を受けた。

隊員には3月20日から「少年特別志願兵願書用紙」が配られ、それぞれ親の承諾印を貰ってくるように要請されて家族の許に帰された。各人は、2、3日後に親の承諾印を貰って提出したが、中には親の承諾がなくて自ら親の印鑑を盗んで捺印して提出した者も少なからずいたようである。

こうして3月28日頃、守備軍司令部から召集令状が来て、訓練開始時に約200名で編制した通信隊のうち、残っていた115名の生徒が電信第36連隊(隊長・大竹少佐)に入隊を命ぜられた。そして同日午前10時頃に首里金城町所在の養秀寮に集結して、そこから真和志村繁多川にある電信第36連隊本部壕の前面広場で入隊式を挙行した後、それぞれ4つの中隊(第4、第5、第6、固定)に配属されるようになった。』

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 106-107頁より》

  

慶良間列島海上挺進戦隊 4隻の出撃

阿嘉島慶留間島: 海上挺進第2戦隊(戦隊長: 野田義彦少佐)

日本海軍が慶良間列島に配備した海上挺進戦隊 (マルレ) 300隻のうち、唯一出撃したのは第2戦隊の慶留間島に配置された第1中隊の4隻のみ。野田隊長の命令を伝えるため特攻隊員1名が阿嘉島から泳いで伝えたといわれる命令は、「使用できる特攻艇を全て使って攻撃し、その後に本島へ渡り戦況報告を行う」だった。

…命令が伝えられた慶留間島4隻が、28日未明出撃、米艦艇を攻撃して、中隊長の乗艇する艇ほか1隻が沖縄本島に到着した。戦果は駆逐艦1隻撃沈、輸送船2隻大破炎上と報ぜられ、感状が与えられた。慶留間の残り特攻部隊は、次の出撃を準備していたが、28日昼に米軍の攻撃を受け、舟艇壕のなかで爆雷を轟発させ、自爆した。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 129-130頁より》

※ 註 こうした「公式の」戦果報告を読む際には注意が必要。

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日本軍によって自壊された「自爆ボート」は、慶良間列島で掃討されたときに第77師団によって発見されました。これらは小さなスピードボートのように見えますが、構造が悪く、非常に低速です。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2]

 

阿嘉島から朝鮮人軍夫をつれ投降した少尉

阿嘉島では朝鮮人軍夫をひきつれ米軍に投降した少尉がいた。

私の知っている少尉で染谷さんという人がいて、私の母が婦人会に関係していましたから、ちょいちょい家にやってきたんですが、「阿嘉の人は、いったい日本が勝つと思っているのかなあ」と言ったりしたもんです。当時の私たちには、日本が負けるなどとは考えてもみなかったのですから、日本の将校ともあろうものが、よくもそんなことが言えるものだとびっくりしたのを覚えています。この少尉は普段の態度からして軍人らしくなくて、部落の中を下駄を履いて歩いたり、隊長室で膝まずぎさせられているのを見たこともあります。

25日の晩も、染谷さんは私の家にやってきて、タンスの中から衣類を出したり、荷造りをしたりして、避難の手伝いをしてくれたんですが、この人は艦砲が始まっても酒を飲んでいて、集結命令が来ても、「ああ、僕はもう行かん」と言って動かないんですよ。その翌日、軍隊が上陸してくると、彼は朝鮮人軍夫20名ぐらいを引き連れて、白い旗を掲げて真っ先に投降して言ったんです。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)p. 707 》

米軍の捕虜調書には、彼の証言が残されている。

彼は、1930年代初期に大学を卒業しており、その時代は大学の自由な雰囲気が残っており、自由にものを考える時間があったという。彼は、戦前から「親米派」であるが、新時代で成長した士官らは、軍国主義に染まり国に対しては絶対服従であったと次のように述べている。

「捕虜が言うには、自分は長い間軍閥に対し反対してきた。そのため (軍閥を) 打ち倒すことが、何にも増して必要だと主張している。また自分が投降したのは、自決しても『何の意味もないからだ』と考えたからだと述べている。彼は、アッツ島やタラワ島以来一般的になった玉砕主義 (The doctrine of Death to the Last man) には反対だという。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版2015年196-197頁》

鈴木隊の中隊長をしていた小森中尉も白昼堂々と米軍の捕虜になっていった人です。私が漁撈班にはいったころで、阿嘉の浜で魚をとっていたところ、座間味の方からまっすぐこちらへ舟艇が向ってくるんです。私らは岩陰にかくれて様子をうかがっていたところ、山から小森中尉が雑のうを肩にかついで、ゆうゆうと下りてくるわけです。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)p. 707 》

3月28日の夜明け、テート(攻撃貨物輸送艦)は夜間の洋上退避から久場島沖の待機海域に戻り燃料や弾薬補給の任に当たった。同日朝、同艦所属の中型上陸用舟艇(LCM)が島の海岸で貨物陸揚げしていたところ、近くの茂みから突然2人の日本兵が手を挙げて近づいてきた。…乗員は全員丸腰で、武器は舟艇に装備されてある機関銃だけであった。2人の日本兵のうち、米兵よりも背が高く頑丈そうな1人は、明らかに降伏の意志があるようだった。…1人は将校で、もう1人は下級兵のように見えた。水兵らは直ちに2人を舟艇に収容し、母艦のテートへ向かった。

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 79頁》

 

 

そのとき、住民は・・・

渡嘉敷島330名の命が犠牲となった「集団自決」

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2] に加筆

アメリカ陸軍公刊戦史:

慶良間の「幸福と善の列島」では、丘に封じ込められた兵士や民間人の最終行動において、日本の「自己破壊」(self-destruction) の伝統おぞましい形で出現した。3月28日の夜、渡嘉敷の北端から1マイル離れたキャンプで、第306連隊は遠くで爆発と痛みの叫び声を聞いた。朝、彼らは150人以上の死者と死にかけている日本人が散らばっている小さな谷を見つけた。彼らのほとんどは民間人だった。父たちは家族みなを窒息死させ、その後ナイフや手榴弾で自ら腹を裂いた。1枚の毛布の下に、父親、2人の小さな子供、祖父、祖母が横たわり、すべて布のロープで首を絞められていた。兵士と衛生兵は彼らができる最善をつくした。侵略した「野蛮人」が殺害しレイプすると言われていたは、アメリカ人が食べ物と医療を提供するのを見て驚いた。娘を殺した老人は後悔して泣いた。

The Last Battle: Chapter II: Invasion Of The Ryukyus

 

住民への移動命令 (27日夜) - 住民はどのようにその場所に誘導されたのか。

比較的安全な恩納川原 (P) → 複郭陣地 → 集団自決場所 (Q)

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《『検証「ある神話の背景」』伊藤 秀美 (紫峰出版, 2012)  p. xi 》

渡嘉敷村・元村長の証言

 安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。まさに、米軍は、西山陣地千メートルまで追っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知らないと、私は心の底ではそう思っていた。

 … 上流へのぼると、渡嘉敷は全体が火の海となって見えた。ぞれでも艦砲や迫撃砲は執拗に撃ち込まれていた。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。

 安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇メールくらいの所のくぼみから、私たちをじ-っと見ていた。「貴方も一緒に…この際、生きられる見込みはなくなった」と私は誘った。「いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は出来ません」といっていた。私の意識は、はっきりしていた。

 私は防衛隊員から貰った手榴弾を持って、妻子、親戚を集め信管を抜いた。私の手榴弾はいっこうに発火しなかった。村長という立場の手まえ、立派に死んでみせようと、パカッと叩いては、ふところに入れるのですが、無駄にそれをくり返すだけで死にきれない。周囲では、発火して、そり返っている者や、わんわん泣いている者やら、ひょいと頭を上げて見ると、村民一人びとりがいたずらでもしているように、死を急いでいた。そして私は第三者のように、ヒステリックに、パカバカ手榴弾を発火させるために、叩いていた。

 その時、迫撃砲は私たちを狙っていた。私は死にきれない。親戚の者が盛んに私をせかしていた。私は全身に血と涙をあびていた。すぐうしろには、数個の死体がころがっていた。私は起き上って、一応このことを赤松に報告しようと陣地に向った。私について、死にきれない村民が、陣地になだれ込んでいた。それを、抜刀した将校が阻止していた。着剣した小銃の先っぼは騒いでいる村民に向けられ、発砲の音も聞こえた。白刃の将校は、作戦のじゃまだから陣地に来るな、と刀を振り上げていた。

 陣地を追っぱらわれた私たちは、恩納川原にひきかえした。一部は儀志保島に対面する、この島の北の瑞に移動していたようだった。その時自決用の手榴弾の爆発音と、生き残って途方を失った村民の阿鼻叫喚に、迫撃砲が誘われたように撃ちこまれていた。…

 … 私には、問題が残る。二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。この問題を残したから、死に場を失って、赤松隊と自決しそこなった村民とがこの島で、苦しい永い生活を続けることになった。

 … 集団自決以後、赤松が私に対する態度はいよいよ露骨に、ヒステリー症状を表わしていた。私を呼びつけ、命令ということを云い、おもむろに腰から軍刀をはずし、テーブルの上に、右手で差し出すように立って、「我が国の軍隊は…」と軍人勅諭をひとくさり唱えて、今日只今から村民は牛馬豚の屠殺を禁止する 、もし違反する者は、処刑すると云い放っていた。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)p. 768-769》 

軍の手榴弾は赤松隊から防衛隊を経由しあらかじめ住民に配られていた。

渡嘉敷村兵事主任富山真順の証言内容

①1945年3月20日赤松隊から伝令が来て兵事主任富山真順に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
②その時、兵器軍曹と坪ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった二十数名の者に榴弾を二個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜となる恐れのあるときには、残りの一発で自決せよ」と訓示した。
③米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日兵事主任の富山氏に軍の命令が伝えられた。その内容は「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
3月28日、恩納河原の上流フィジガーで住民の「集団死」事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ち込み、住民の「自殺」を促した。

安仁屋政昭沖縄戦の「集団自決」 (強制集団死)」pdf

住民に (註・手榴弾を) 直接渡すと軍紀違反になるが(10 年以下の懲役または禁錮)、防衛隊員経由で渡せば、防衛隊員は軍人であるから軍紀上の問題は起きないし、防衛隊員は住民の顔も持っているから手榴弾は実効的に住民に渡る。防衛隊員に渡す際の具体的指示はわからないが、管理権を委譲もしくは黙認することを伝達すれば目的は達する。どういうタイミングで住民に渡すか は、防衛隊員にまかせればよい。

《伊藤秀美「沖縄・慶良間の「集団自決」命令の形式を以てせざる命令」(2020年)》

住民たちが恩納河原に集まってきた27日夜からは雨が降り、米軍が数百メートルの所に迫っていると伝えられ、砲撃も降り注いでいた。島民たちが集まった場所は島の北側で逃げ場はもはや残されていなかった

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 42頁より》

翌3月28日、住民は村長に指示され寄り集まった。阿波連400人と、別の集落600人の集団になった。そして、ささやきが波紋のように広がった。「軍から自決命令が出た」。命令の伝達経路は定かでないものの、命令を下されたと聞いて阿波連の住民は、「共生共死」の原則によって第3戦隊は米軍と戦い全滅した、と思い込んだ。次は住民の、「集団自決」の番になる。…母親は、10歳の娘と6歳の息子に言い聞かせた。「ここでお国のために死ぬ」。そして母は頬の涙を拭い、髪を整えた。他の女性たちも以心伝心で、最期の身支度をした。すでに一週間前、軍は村役場の男子職員と村の青年およそ20人を集め、一人に2個の手榴弾を渡し、敵に遭遇したら1個を投げつけ残りの1個で自決しろと命じていた。それに防衛隊員の常備2個を合わせ、この日、谷間に集合の住民に配った。手榴弾は、陸海軍を統帥の天皇に直結する。その尊い武器を一般の住民に与えるというあり得ない行為によって、無言の「集団自決」命令が手榴弾に備わった。家族や親戚ごとに身を寄せた。

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 87-88頁より》

1940年の国勢調査では渡嘉敷村の人口は1377人、世帯数289と記録されている。住民の約3割が集団自決の犠牲で命を奪われ、一家全滅世帯は74世帯にもなった*1

兄と2人で家族を殺害した少年の体験談:

自決現場は残酷な方法で死を迎えた人たちの遺体で埋め尽くされた。遺体から流れた血は、下の小川にたどり、川の色を幾日も赤く変えた。…自決命令が伝えられた時、だれもが「友軍は全滅したと思っていた

集団自決という狂気の儀式も終わりに近づこうとしていた。まだ死にきれない人たちのうめき声が聞こえる。「殺してくれ」---最後の声をしぼり出すような叫び声が聞こえた。…「だれから死のうか」。母、妹、弟はすでに息が絶え、残った次兄と死の順番を決めなければならない。その相談をしている時だ。前島の同年輩の少年が2人の間に割り込んで来て、「どうせ死ぬなら米軍に切り込んで死のう」と言う。捕らえられれば何をされるかわからない相手。その恐怖と不安から逃れるためにあの残酷な集団自決の道を選んだのではないか。その米軍に切り込みを---そう思った。「皇民最後の生き残りとして、私たちは敵を一人でも殺して死ぬ。そう考えて切り込みを選んだ。より恐ろしい死への挑戦だった」

…どういうわけか、その切り込み隊に小学6年の女の子2人も加わった。12歳から19歳までの5人の切り込み隊の編成、武器は棒切れだけだ。素手で米軍に立ち向かおうという少年らの切り込み隊に、はっきりとした攻撃目標などあるはずがない。足の向くまま歩いて…間もなく大きな衝撃を受ける。最初に出会った人間が日本兵だった。

「ショックだった。全滅したと思ったから自決を選んだんだから---。その時、連帯意識が音を立てるように崩れていった」。その日本兵の言葉はさらに追い打ちをかけた。「むこうに住民はいる」。

…その後、…山中での生活、そして捕虜となる。生きていてよかったと思うことは一度もなかった。「ただ次の死に備えて生きているにすぎなかった」「家族の一人でも息を吹き返しているのではとの期待は全くなかった。絶望的状況の中で徹底的に手をかけて楽にしたから」。

戦禍を掘る 「語りきれぬ体験」琉球新報 (1984年6月6日) - Battle of Okinawa

赤松隊長は戦後1968年に第3戦隊同窓会で「新しい戦史を作ろう」と話し合ったとされる。その頃の証言では、軍がいかなる指令で防衛隊員に手榴弾を支給したかだけではなく、住民をニシヤマ陣地に集めるよう指令したことすら否定している。

(集団自決について) そんな話は、まったく身に覚えのないことですよ。3月26日、米軍が上陸したとき、島民からわれわれの陣地に来たいという申し入れがありました。それで、私は、私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。われわれの陣地だって陣地らしい陣地じゃない。ゴボウ剣と鉄カブトで、やっと自分の入れる壕をそれぞれ掘った程度のものですからねえ。ところが、28日の午後、敵の迫撃砲がドンドン飛んできた時、われわれがそのための配備をしているところに、島民がなだれこんで来た。そして、村長が来て、"機関銃を貸してくれ、足手まといの島民を打ち殺したい"というんです。もちろん断りました。村長もひどく興奮してたんでしょう。あの人は、シナ事変のと時、伍長だったと聞いてたけど・・・・。 

渡嘉敷島の「集団自決」赤松嘉次隊長の沖縄戦 ~ 「そんな話は

 

座間味島

第77師団の従軍記者ロバート・シャーロッドによると、3月28日、座間味島を進撃中の米兵たちは、ある洞窟の中で、首を絞め殺された12名の女性の死体とほかに生き埋めにされた1名を発見したという。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 19頁より》 

 

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  1. 集団自決の真実(渡嘉敷村) | 戦世の証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局
  2. 集団自決 戦後64年の告白
  3. 遺族ら100人、平和祈る 渡嘉敷村で慰霊祭 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

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*1:渡嘉敷 PDF