1945年 3月28日『慶良間の住民が集団自決』

米軍の慶良間列島侵攻: 3日目

阿嘉島(あかじま)

3月28日: 日本軍による夜間(前夜)の活動なし。ただし、米軍の陣地に侵入しようとした日本兵1人が射殺された。日本兵の掃討や施設の破壊を命令された各中隊は、その日の掃討作戦を島の全域に拡大したが、日本軍の抵抗はなかった。装備類が若干発見されたが、これらはすべて各中隊によって破壊された。」(75頁)

 

3月28日の夜明け、テート(攻撃貨物輸送艦)は夜間の洋上退避から久場島沖の待機海域に戻り燃料や弾薬補給の任に当たった。同日朝、同艦所属の中型上陸用舟艇(LCM)が島の海岸で貨物陸揚げしていたところ、近くの茂みから突然2人の日本兵が手を挙げて近づいてきた。…乗員は全員丸腰で、武器は舟艇に装備されてある機関銃だけであった。

2人の日本兵のうち、米兵よりも背が高く頑丈そうな1人は、明らかに降伏の意志があるようだった。…1人は将校で、もう1人は下級兵のように見えた。水兵らは直ちに2人を舟艇に収容し、母艦のテートへ向かった。(79頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 75、79頁より》

 

第32軍の動向

航空機による特攻

3月28、9日も、中飛行場から特攻機数機宛が出撃した。近いところから出る特攻は、敵機の妨害を受けない時間さえ選べば、成果はひじょうに揚がった。飛行場にはハリツケ特攻を置くための秘匿掩体壕がたくさん造られ、米艦艇が近くから艦砲射撃をしても、艦載機が爆撃をしてもこれに堪えることができた。』(139頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 139頁より》

 

海上挺進第2戦隊(戦隊長: 野田義彦少佐/阿嘉島慶留間島)

1945年3月26日に米軍が上陸した阿嘉島慶留間島に配置されていた第2戦隊の野田戦隊長は、同日夜に阿嘉島で総攻撃を命じた。慶留間島にいる第1中隊にまで命令を伝えるために特攻隊員1名が阿嘉島から泳いで伝えた。命令は、「使用できる特攻艇を全て使って攻撃し、その後に本島へ渡り戦況報告を行う」だった。

『…命令が伝えられた慶留間島の4隻が、28日未明出撃、米艦艇を攻撃して、中隊長の乗艇する艇ほか1隻が沖縄本島に到着した。戦果は駆逐艦1隻撃沈、輸送船2隻大破炎上と報ぜられ、感状が与えられた。慶留間の残り特攻部隊は、次の出撃を準備していたが、28日昼に米軍の攻撃を受け、舟艇壕のなかで爆雷を轟発させ、自爆した。』(125頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 129-130頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p61a.jpg

破壊された特攻艇(上)

"SUICIDE BOATS" wrecked by their crews were found by the 77th Division as it mopped up in the Keramas. They looked like small speedboats but were poorly constructed and quite slow, These two craft (below) were captured in their cave shelters by American troops on Okinawa. Note booby trap warnings and crude depth charge racks at stern.

発見された舟艇壕と特攻艇(下)

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p61b.jpgHyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2]

 

海上挺進第3戦隊(戦隊長: 赤松嘉次大尉/渡嘉敷島

『28日が明けた。タコツボ陣地をつくりあげた戦隊は、1中隊とは連絡がつかないままであったが、3中隊がようやく到着して、大いに気勢があがった。また住民も、指示されたクボ地に集まり、一応、南方からの敵の攻撃にたいする備えができ上った。午前10時ころから、米軍の複郭陣地にたいする攻撃がはじまった。銃撃、爆撃のほかに、多数の迫撃砲をひっきりなしに撃ちかけてきた。
銃爆撃だけならば、タコツボに身をかくしていれば、大丈夫であったが、迫撃砲弾は、つぎつぎに頭の上で炸裂するので、威力が大きく、逃げ場所がなく、被害を出した。味方は、約350名(水勤隊軍夫を除く)。兵器は、重機関銃2、軽機6、擲弾筒7、小銃200。挺進隊員が銃をもたず、拳銃、軍刀、手榴弾だけであることは、ほかの戦隊と同じである。
こうして、米軍が間近にまで接近してくるのを、死に物狂いで防いでいるとき、それまで安全と考えていた民集結地のクボ地の北側高地に、米軍が迂回し、陣地を構え、複郭陣地を包囲して、住民の集結地にまで砲火を撃ちこんできた。間もなく、その住民の避難地に、防衛隊員が、赤松戦隊長の命令をもってきた。非戦闘員らは自決せよーーと。』(129-130頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 129-130頁より》

 

慶良間列島における集団自決

そのとき、住民は・・・

渡嘉敷島

『島民たちが恩納河原に集まってきた27日夜からは雨が降り、米軍が数百メートルの所に迫っていると伝えられ、砲撃も降り注いでいた。島民たちが集まった場所は島の北側で逃げ場はもはや残されていなかった。』(42頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 42頁より》

『翌3月28日、住民は村長に指示され寄り集まった。阿波連400人と、別の集落600人の集団になった。そして、ささやきが波紋のように広がった。「軍から自決命令が出た」。命令の伝達経路は定かでないものの、命令を下されたと聞いて阿波連の住民は、「共生共死」の原則によって第3戦隊は米軍と戦い全滅した、と思い込んだ。次は住民の、「集団自決」の番になる。…母親は、10歳の娘と6歳の息子に言い聞かせた。「ここでお国のために死ぬ」。そして母は頬の涙を拭い、髪を整えた。他の女性たちも以心伝心で、最期の身支度をした。

すでに一週間前、軍は村役場の男子職員と村の青年およそ20人を集め、一人に2個の手榴弾を渡し、敵に遭遇したら1個を投げつけ残りの1個で自決しろ、と命じていた。それに防衛隊員の常備2個を合わせ、この日、谷間に集合の住民に配った。榴弾は、陸海軍を統帥の天皇に直結する。その尊い武器を一般の住民に与えるというあり得ない行為によって、無言の「集団自決」命令が手榴弾に備わった。家族や親戚ごとに身を寄せた。』(87-88頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 87-88頁より》

『恩納河原には村長や前村長、校長、防衛隊員ら村の有力者たちが集まっていた。…そこに「陣地方向から来た防衛隊が、村長に耳打ちをした。…何を言っているか分からなかったけど、うんうんと、村長は頷いて」(沖縄タイムス社349-350頁)、それから村長の音頭で「天皇陛下万歳」を唱和し、それぞれの家族らが集まって榴弾を爆発させた。…手榴弾では死にきれなかった人々は、鎌やカミソリ、石、木の棒などで力のある男が家族、つまり子ども、老人を殺していった。残った人たちは日本軍陣地に向かうが追い返され、その近くでまた「集団自決」を行なった。(39-40頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 39-40頁より》

『村長の、「天皇陛下万歳!」の声が響いた。爆発音、血の飛散、うめき声、絶叫の、惨状がたちまち広がった。しかし、全員の死には至らなかった。操作を誤って多くが不発になり、総数も不足した。…爆発音を米軍に察知され、迫撃砲を撃ち込まれた。「鬼畜米英」の幻影におののいた。村長が谷間を抜け出て、日本軍の陣地へ向かった。その後を、阿波連とは別の集落の住民600人が迫った。

住民たちは、日本軍に機関銃で殺してもらうことを願った。だが期待とは逆に、軍刀を振りかざされた。「陣地に近づくなッ」。鬼気迫る剣幕を恐れ、一斉に逃げた。

谷間に置き去りの阿波連住民は、手榴弾の不発と米軍の迫撃砲で錯乱の極限状態になっていた。死に急ぐことしか頭になく、村長など行政責任者の避難に気づかなかった。日本軍の健全も知る術もない。(87-88頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 87-88頁より》

『事ここにいたっては、いかんともしがたく、全村民は、陛下の万歳と皇国の必勝を祈り、笑って死のうと、悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々2個が、唯一の頼りとなった。
おのおの親族が、ひとかたまりになり、一発の手榴弾に2、30名が集まった。瞬間、榴弾がそこここに爆発したかと思うと、轟然たる不気味な音が谷間を埋め、たちまち老幼男女の肉片が四散し、阿鼻叫喚の地獄が展開された。
死に損なった者は、棍棒で頭を打ち合い、カミソリでみずからの頸部を切り、鍬や刀で親しい者の頭をたたき割るなど、世にもおそろしい情景が繰り拡げられた。谷川の清水は、またたく間に血の流れと化し、寸時にして394人の生命が奪いさられた。
その憎しみの盆地を、村民は、今なお「玉砕場」と呼んでいる。
榴弾不発で死を免れた者は、友軍陣地へ救いを求めて押しよせたが、そのとき、赤松隊長は、壕の入り口に立ちはだかり、軍の壕には一歩も入ってはいけない、速やかに軍の陣地付近から去れ、と、厳しく身構え、住民を睨みつけた。住民は、いたしかたなく、力を落として友軍陣地の東側の盆地に集まり、呆然とした一夜を過ごした』(130-131頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 130-131頁に記述の「渡嘉敷村遺族会の記録」より、死者の数は原文ママ

http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/wp-includes/pdf/jiketsu04.pdf

 

http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/wp-includes/pdf/jiketsu04.pdf

 

集団自決に関する米軍の記録

渡嘉敷島

渡嘉敷島北端に野営していた第306連隊の兵士たちは、3月28日の夜、はるか遠くに何回となく爆発音や苦痛のうめき声を聞いた。』(70頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 70頁より》

『米軍の記録によると、3月28日の夕刻、渡嘉敷島の北端で野営していた第306連隊の兵士たちは、何回となく爆裂音や人のうめき声を聞いたが、翌朝、狭小な谷間で瀕死の重傷を負うた人びとのほか150人以上の死体が散乱しているのを発見した。なかには一枚の毛布の下で父親が二人の子どもと老父母を自分の身体に帯でゆわえつけ自爆している姿もあったという。』(23頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 23頁より》

 

座間味島

1945年3月26日に米軍が上陸した座間味島では、同日夜、一部の住民が集団で自らの命を絶っていた。

『第77師団の従軍記者ロバート・シャーロッドによると、3月28日、座間味島を進撃中の米兵たちは、ある洞窟の中で、首を絞め殺された12名の女性の死体とほかに生き埋めにされた1名を発見したという。』(19頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 19頁より》 

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集団自決の真実(渡嘉敷村) 【放送日 H26.3.19】

www.nhk.or.jp

 

【集団自決】① 慶良間諸島沖縄戦
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【集団自決】② 渡嘉敷島座間味島 その1
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【集団自決】④ 渡嘉敷島 玉砕場(谷) その1
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2016年3月28日 遺族ら100人、平和祈る 渡嘉敷村で慰霊祭

ryukyushimpo.jp