〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年3月29日『慶良間列島「死の島」と化し米海軍基地となる』

特攻「天一号作戦」沖縄守備軍の沈黙と自壊

米軍の動向

運天港秘密基地への攻撃2日目

3月29日、艦載機は沖縄の飛行場を襲い、日本機27機を撃破し、推定24機をさらに破損させた。この期間に地上で撃破された日本機は合計80機に達した。そのほか、小型船舶、木造船も襲撃され、少なくとも8隻の日本潜水艦を運天港で撃沈させた。』(77頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 77頁より》

f:id:neverforget1945:20200301230647p:plain

沖縄攻撃後、空母マキン・アイランド(CVE-93)に帰投するTBF機。(1945年3月29日撮影)

TBF's returning aboard USS MAKIN ISLAND (CVE-93) after strike on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

水中爆破隊は、飛行機や艦砲の掩護射撃のもと、慶伊瀬沖縄南東海岸の沖合渡具知海岸で偵察を行うかたわら、必要に応じて爆破作戦を敢行した。米軍機は、時に機銃掃射、爆撃、ロケット弾発射で、海岸一体を攻撃し、時に煙幕機を利用して掃海隊を隠蔽した。艦隊は三列になって、沖縄の沖から猛烈な火力をあびせて水中爆破隊の力となった。』(77頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 77頁より》

f:id:neverforget1945:20200328080922p:plain

高速輸送艦が米軍艦バーリーに接舷し、水中破壊工作部隊が乗り移る。(1945年3月29日撮影)

APD pulls alongside USS Burleigh to transfer UDT team.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『LCT隊(上陸用舟艇、歩兵、掩護射撃隊の混成隊)は、40ミリ砲を構えて海岸から1キロ沖合に立ち、そこから2.5キロの海上には、駆逐艦が一列に並んで、40ミリ砲や12センチ砲で陸内270メートルの海岸地帯を砲撃した。そして、さらに駆逐艦の後方900メートルのところには、戦艦や駆逐艦が戦列をつくり、陸上270メートルから100メートルの地帯にあるすべての地上軍を制圧すると同時に日本軍陣地からの応戦に備えた。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 77-78頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80GK-3829.jpg

上陸2日前に沖縄を攻撃する戦艦や巡洋艦駆逐艦。米軍艦ウェストバージニア(BB-48)から撮影。(1945年3月29日撮影)

Battleships, cruisers and destroyers firing on Okinawa on Love -2. Taken from USS WEST VIRGINIA (BB 48). 29 March 1945

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『水中爆破隊は、予定より1日遅れて3月29日も渡具知海岸を偵察した。おくれたのはその沖合にものすごい機雷群が敷設されてあったからだ。爆破隊の爆破作業の掩護には、戦艦3、巡洋艦3、駆逐艦6、それにLST隊があった。日本軍の機関銃や迫撃砲による反撃はこの艦隊によって鎮圧された。』(78頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 78頁より》

 

慶良間列島侵攻・4日目

上陸後に日本軍を制圧した米軍は、この頃から戦闘部隊を撤収させ、守備や兵站を担う部隊の駐留に切り替えた。ここから、慶良間が米軍の〝小型海軍基地〟となる

慶良間の確保は、日本軍の損失以上に米軍にとって大きな収穫であった。いまやアメリカの手中に帰したこの投錨地は、周囲を島で防備された小型海軍基地となった。ここから海軍機は飛び、艦船は燃料弾薬を補給し、傷ついた船は修繕された。(72頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 72頁より》

阿嘉島(あかじま)

3月29日: 日本軍による夜間(前夜)の活動は報告されなかった。午前8時、I及びK中隊は島の北部に移動するが、日本軍との接触はなかった。ただ、K中隊のパトロール隊が攻撃されたので、K中隊は日本軍陣地を襲撃し日本兵2人を射殺、朝鮮人1人を負傷させる。

午前9時15分、銃の再装塡(銃などに弾丸を詰めること)が開始され、各中隊は掃討作戦を全て終了し、ゴールドビーチー(阿嘉島集落正面の海岸)に集結するよう命令される。

これで、第3大隊の阿嘉島での上陸作戦は全て終了した。』(75-76頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 75-76頁より》

『米軍の慶良間侵攻後、「ウォーン」と大きな爆音が阿嘉海峡に響くようになった。…海軍の飛行艇2個中隊(1個中隊は15機で編成)が阿嘉海峡に到着したのは、米軍の阿嘉島上陸4日目の3月29日だった。また、飛行艇の活動を支援する水上機母艦13隻もその日から順次海峡に集結した。同海峡は飛行艇30機、母艦13隻ほどの収容は可能で、艇の離着水に必要な3,000メートルの滑水路も確保された。

諸準備が整うと、早速、同基地を活動拠点として、周辺海域での対潜哨戒や数百マイルも離れた洋上での偵察・捜索飛行を開始した。』(157-158頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 157-158頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/106-13-1.jpg

慶良間列島水上機離着水用の水域。水上機母艦の部隊が到着した翌日、ブイに係留されたPBM機。水上機母艦チャンドラー(AV-10)から撮影。新たな前進基地から司令部に帰投する1番機が離水する。後方、東北東方面に見えるのは安室島。(1945年3月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

座間味島(ざまみじま)

米軍の第305連隊第2大隊は、第1大隊が上陸した翌日の27日に座間味島上陸し、その後、掃討作戦で日本軍を制圧していた。

29日、同守備隊以外の戦闘部隊(第1大隊)は座間味島を撤収し、第2大隊だけが慶良間諸島守備のために残留することになった。

一方、第2大隊の駐留を支援するために同島に上陸していた第242工兵大隊B中隊は、水陸両用戦車で要員、物資、武器を陸揚し、海岸の集積所に運んだ。28日までには、台船(浮き桟橋)が設営され、大型戦車揚陸艦(LST)、中型戦車揚陸艦(LSM)、小型戦車揚陸艦(LCT)が接岸可能となった。

高速輸送艦(APA)の980屯の貨物及び装備類、並びにLSTの150屯及びLSMの143屯の貨物が3月29日正午までにそれぞれ陸揚げされた。

荷役が終わると、同中隊は海岸の集積所やアクセス道路の建設に取り掛かり、29日の午後までに海岸から座間味集落西側の丘まで車両を通せるようになった。

3月29日、部隊内の施設の運用が一部開始され、若干の補強箇所を除いて、3月30日までには全ての施設が稼働した。』(85-86頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 85-86頁より》

 

沖縄島上陸の準備

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80GK-3818.jpg

Loading 16” projectiles on USS WEST VIRGINIA (BB 48) at Karama Retto on Love day minus 2. 29 March 1945

上陸2日前、慶良間列島にて16インチ砲弾を米軍艦ウェストバージニア(BB-48)に積み込む。(1945年3月29日撮影)

投稿者註: 和訳の「上陸2日前」の「上陸」とは、沖縄島上陸日(米軍呼称 Love Day)のことを指す。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍は既に沖縄における日本軍施設の詳細な解析を行っていた。上陸地点の読谷・嘉手納に関しては、飛行場と陣地だけではなく、地下貯蔵庫があると想定しており、左側の1945年2月28日時点での米軍の解析と、実際の日本軍陣地配置図を比較すると、このようになる。

f:id:neverforget1945:20210329053103p:plain

f:id:neverforget1945:20210329075424p:plain f:id:neverforget1945:20210329075108p:plainクリックで拡大できます。

右: 米軍極秘資料 (1945年2月28日付) - 前年11月の資料を補足したもの

Confidential United States Pacific Fleet and Pacific Ocean Area Okinawa Gunto Second Supplement to Okinawa Gunto Information Bulletin Number 161-44, 15 November 1944, Cincpac Cincpoa Bulletin 53-45, 28 February 1945 PDF

左: 球部隊の陣地配置図 (1944年12月18日付)

「北地区隊兵力配置陣地編成要図 昭和19年12月18日現迄」  (『沖縄戦資料56』所収「独立混成第15連隊第二大隊 陣中日誌S19.12.1~12.31」) 読谷村「付録」

米軍は上陸に際し詳細にわたって日本軍の軍事施設を解析し、上陸前から、その鹵獲のために日本軍の飛行場自壊を阻むほどであった。

 

日本軍

特攻「天一号作戦」

日本軍は、1945年3月26日に「天一号作戦」を発動させた後、沖縄島の中飛行場(嘉手納飛行場)からの特攻も展開した。大本営の試算した命中率は低く、命中しても戦艦を撃沈することはほとんど困難であった。

大本営は「9機に1機の命中率」

『…しかし、この有効な攻撃も、29日までで、30、31日は使用せず、中飛行場の効果もそれで終わりを告げた。27日から31日までの間、五航艦(九州)、一航艦(台湾)、六航軍(九州)、八飛行師団(台湾)は、それぞれベストをつくして飛行機を繰り出したが、何れも出撃機が少なく、散発的であった。29日から慶良間水道に輸送船約70隻が入った。連合艦隊は、六航軍に全力攻撃を命じた。

六航軍は、29日未明、18機を出して沖縄周辺艦船攻撃を実施したが、30、31日は攻撃をしなかった。まだ準備ができていなかったのである。』(139-140頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 139-140頁より》

『日本軍は、本土上陸を企んでジリジリと押し寄せてくる連合国軍を日本の南門、沖縄で食いとめるため、海上での特攻作戦に加えて空からも神風特攻隊による特攻戦術を敢行させた。九州基地から飛来した特攻機は慶良間近海で虎視眈眈(こしたんたん)と沖縄本島への上陸をねらう米機動部隊に昼夜を分たず体当たり攻撃をかけた。あげく甚大な犠牲を払いながらも約100機が3月26日から同月31日までの間だけでも50回もの猛攻撃を繰り返した。』(15頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 15頁より》

 

第32軍、沈黙と自壊

北飛行場 (読谷) と 中飛行場 (嘉手納) を自ら破壊

嘉手納飛行場 (別称: 中飛行場): 特設第1連隊第2大隊

前日の28日、北(読谷)、中(嘉手納)飛行場を破壊したあとは、御殿敷 (おどんしき) に向かうよう軍令が下っていた。

部隊本部付有線分隊長の回想:

3月29日早朝、…われわれ部隊本部全員がここの谷間上の道路から、トラックに乗り、誘導路を通り、目標の後方4キロの末だみぬ御殿敷陣地に向うのである。兵隊たちが急いで乗車しているときも、すぐ近くで、ビューンと唸ってきた巨弾が絶えまなく左右に炸裂していた。…トラックの列は一せいに東方をさして出発した。…じつに9カ月、あのキビ殻兵舎も比謝川畔の入浴場も、汗を流し、血を流し、電流を流して使命を全うしたわが通信壕もいまさらば。』(128頁)

『洞窟陣地は私たちの丘から北方の連隊本部のある石嶺久得、さらに北方、読谷山(220高地)にかけて連り、…わが特設第1連隊(3千名)は、この高地一帯の既設陣地に拠って、上陸してくる敵がやすやすと飛行場を使えないように妨害する。これが課せられた新任務である。』(130頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 128、130頁より》

  

軍司令部の厳命で一発も撃つことができず

束辺名: 第24師団第32歩兵連隊第2大隊

沖縄島南端の束辺名 (糸満市)

重機関銃中隊指揮班・二等兵の回想:

3月29日早朝、受領した命令を伝達するため中隊指揮班の壕へ行くと、ただならぬ空気に皆が右往左往している。…海岸線の先、2、300メートルくらいまで敵の掃海艇が近寄り、わが軍の敷設された機雷を甲板の上から撃って爆破している。上半身裸になった2人の米兵が甲板の上で足を踏ん張って立射で撃ちまくっているのだ。赤く焼けた肌の色まで見える。小銃で撃てば撃てそうな距離でありながら、軍司令部の厳命で一発も撃つことができず、水しぶきをあげて爆破される敷設機雷をなす術もなく見つめるだけであった。

それから1時間も経たぬうちに、湊川沖に敵の輸送船団が集結し始めた。いよいよ上陸か、と各陣地は異様に緊張し、ありとあらゆる火器は海岸線に向けられた。あっという間に敵艦はふえ、海を隙間ないほどに埋めていった。』(49-50頁)

《「私の沖縄戦記 前田高地・ 60年目の証言」(外間守善/角川学芸出版) 49-50頁より》

 

男子学徒隊 (一中・商工・八重山)

鉄血勤皇一中隊: 沖縄県立第一中学校

『鉄血勤皇一中隊は、3月29日の午前8時頃、養秀寮前で第5砲兵司令部への正式な入隊式が行われて、隊員らは二等兵に任ぜられ、それぞれの上官に申告した。そして同日、階級章のついた軍服を支給され、学校に保管されていた38式歩兵銃を兵器に利用させられた。不足分は、第5砲兵司令部から99式歩兵銃と手榴弾などがそれぞれ配布された。

鉄血勤皇一中隊員たちは、首里金城町入口の養秀寮前面の壕に配置されて、早速同日から第5砲兵司令部に指示に従って、陣地構築や弾薬・食糧の運搬など、雑役に従事するようになった。

陣地構築には、三交代の8時間作業で取り組んだ。隊員らの一部はタコ壺壕を利用して敵戦車への肉迫攻撃の訓練を受けたりしたほか、電信の保線作業や対空監視勤務などにも従事させられた。そのため、第5砲兵司令部から数名の兵士が派遣されて、その教導に携わった。』(96-97頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 96-97頁より》

鉄血勤皇商工隊: 那覇市立商工学校

1945年3月29日、沖縄守備隊司令部から那覇市立商工学校の仲里朝章校長に、「同校の生徒たちは鉄血勤皇隊を編制せよ」との口頭での要請がなされた。突然の急な要請であったために、この要請は首里近郊の居住者にだけ伝えられることになり、1年生、4年生、5年生の計16名の生徒が首里の校長住宅に集合して、直ちに鉄血勤皇商工隊が組織された。
鉄血勤皇商工隊は、編制と同時に首里儀保町の西森一帯に布陣していた第62師団独立歩兵第22大隊の末永中隊に入隊して、同中隊の指揮班に8名、同迫撃砲分隊に8名がそれぞれ配置された。』(184-185頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 1184-185頁より》

鉄血勤皇八重山: 沖縄県八重山中学校・沖縄県八重山農学校

『1945年3月29日(4月1日説もある)、八重山農学校(男子)と八重山中学校の2年生以上の生徒約200名が、八重山農学校の校庭に集められて鉄血勤皇八重山隊が編制され、独立混成第45旅団に編入隊させられた。鉄血勤皇八重山隊の本部は、八重山中学校に置かれ、隊長には、一丸金三郎(独立歩兵第271大隊の小隊長)が任ぜられた。
隊員らは、「通信班」「対空監視班」「迫撃班」の3班に分けられ、通信班はさらに「有線班」と「無線班」「暗号班」の3班に分けられた(3班のほかに「自活班」「指揮班」もあったとの証言もあるが詳細は不明)。』(216-217頁)

八重山農林学校生徒の体験談:

『昭和20年3月頃、私たちは八重山中学校生徒と共に鉄血勤皇隊に編制された。ある日のこと、私たちは全員運動場に集合させられ、簡単な身体検査を受けたのち、通信、対空監視、肉迫特攻などの隊に分けられた。その内、通信隊は教室で奇妙な数字を計算する適性検査が行われ、その結果、暗号班、無線班、有線班の3つに分けられた。私は無線班のひとりとなった。

当時、登野城国民学校は兵舎として使用されており、私たちも初めの頃はその登野城校で教育を受けた。私たちは毎日のようにモールス符号の暗記と聞き取り、あるいは送信機のキイを打つことなど特訓を受けた。空襲も日増しに激しくなり、空襲があるたびに私たちは蜘蛛の子を散らすように校舎の裏の藪の中に避難した。…(『市民の戦時・戦後体験記録』第3集より)』(223-224頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 216-217、223-224頁より》

 

慶良間列島海上挺進3個戦隊

沖縄戦をめぐって、八原作戦参謀と意見を異にした神直道航空参謀は、慶良間の戦闘についてこう述べる。「海上特攻隊は、本来の任務を遂行する暇もなく、その不得手とする陸上戦闘で、もろくも潰えた。初頭の異様な興奮状態の中で、その異状な戦場心理から、軍民一体ということと、軍民相剋という二つの異り反する混乱が惹起され、戦闘力のない住民の斬込、自決あるいは味方伐ち等幾多悲惨な物語もある。その叫喚も29日には全く消え失せ、全島は死の島となり終わったのである」。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 22、26頁より》

阿嘉島(あかじま)・慶留間島(げるまじま): 海上挺進第2戦隊(戦隊長: 野田義彦少佐)

阿嘉島の日本軍は、戦闘が一段落すると、山中に陣地を構え持久戦に入った。部隊本部は野田山の山頂近く、戦隊第2中隊はナカタキ、同第3中隊はクボー(後にウフタキに移動)、それに基地隊は部隊本部の背後にそれぞれ分散して陣地を構えた。現地召集の防衛隊は独自の陣地(壕)をナカタキに構え、義勇隊は各中隊に配置された。また、朝鮮人軍夫はナカタキ一帯の壕群に集団で収容された。』(138頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 138頁より》

  

そのとき、住民は・・・

渡嘉敷島の住民の約半数の命を奪った「集団自決」

米軍が慶良間の島々に上陸した数日後、米兵らは集団で自決した住民を発見し愕然とする。重症を負った者に対しては治療を施した。(投稿者註: 米軍は1945年3月28日夜から29日の朝の出来事を記録している。ここでの「翌朝」とは3月29日)

『翌朝、小さな谷間に150人以上の死体が散乱し、また死に瀕している者がいた。そのほとんどが住民であった。父親が家族の一人一人を殺し、さいごには、短刀や、もっている榴弾でわれとわが命を断ったのだ。この人たちは、ほとんどそういう組織的な方法で自殺したのである。なかには一枚の毛布の下で、父親が幼い子供2人とおじいさん、おばあさん、そこに自分の身体をしっかり帯でくくりつけ、離れまいとして自殺しているのもあった。

翌朝、現場に来た米軍は、兵隊も医療班もあらゆる手をつくした。住民は米人を〝鬼畜〟と教え込まれていたのだ。

この鬼畜が上陸してきたら、男は殺され、女は暴行されるものと考えていた。だからアメリカ人が食べ物をあたえ、医療を施したとき、彼らはびっくりして見つめていた。わが娘を殺したという一老父は自責の念にかられてワッと泣き伏せてしまった。』(70頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 70頁より》

質問に答えられるまでに回復した日本人達は、米国人は女は暴行、拷問し、男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは、米国人が医療手当をし、食料と避難所を与えてくれたことに驚いていた。自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのをみて悔恨の情にさいなまれていた

《「ロサンゼルス・タイムズ」1945年4月2日 PDF

 

 

日本軍の基地を拒絶し住民を救った前島

f:id:neverforget1945:20200328232608p:plain

虐殺の島、集団自決、玉砕の島と呼ばれ、すさまじい戦争体験を持つ渡嘉敷島。この渡嘉敷の島々のなかでたった一ヶ所「前島」だけは、奇跡的にも砲弾を浴びることなく終戦を迎えた

琉球新報 [マイクロフィルム複製本] 1981年6月』([沖縄県立図書館])p311

前島は渡嘉敷村に属し当時52世帯274人が島の東側にある部落に住んでいた。在郷軍人18人である。1944年10月10日空襲の少し前に渡嘉敷島の基地第3大隊の大隊長鈴木常良大尉以下5人の兵士が島の測量にやってきた。分校町をしていた比嘉儀清氏は鈴木大尉に測量をする目的を尋ねたところ、「住民を守るために一個小隊の兵を置くための準備だ」との答えが返ってきた。比嘉氏は元警官で上海事件に上等兵として従軍した経験等から、兵隊がいなければ敵は危害を加えないとの信念を持っていたので、決死の覚悟で駐兵を思いとどまるよう具申した。

比嘉氏が前島に関して全責任を持つことを条件に鈴木大尉は了承、比嘉氏は青年学校教官、防衛隊長、竹ヤリ訓練の執行責任者となる。その後、渡嘉敷島との交通は遮断され、日本兵は前島に来なくなった

1944年10月10日以降、住民は、空襲の際には部落北部にある斜面掘り抜きの墓に避難した。1945年4月3日頃 (3月下旬の可能性もあり) 米軍の斥候5人が軍用犬を連れて島に上陸。サンネー壕の前に来たが、犬は吠えず米兵は去った。翌日以降1個中隊約150人が上陸して島に軍事施設がないことを確認して去った。

比嘉氏「いずれにしても戦争している以上米軍が前島を攻めてくることは考えなくてはならない。在郷軍人は十分訓練した。敵が壕に入ってきたらまず私が突っ込んで2、3人は殺す。その混乱に乗じれば相当戦えると話したところが、老人たちは、わしらの孫を殺すのか、という。私には決死の覚悟はあったが自決ということは頭になかった。」

伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』(紫峰出版、2020年2月1日)

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

battle-of-okinawa.hatenablog.com