米軍の動向
慶良間の侵攻・2日目
3月27日午前9時11分、米軍は『慶良間で一番大きな渡嘉敷島に上陸し二日間かかって同島を制圧』、同じ日に『久場島、安室島、阿波連島を攻略』した。(18、20頁)
米軍慶良間上陸あす26日で70年 座間味で慰霊祭 | 沖縄タイムス ※ 沖縄タイムス作成のマップに、便宜上、当サイトで慶良間諸島の三部隊を書き入れています。
午前9時11分、渡嘉敷島に上陸
《AIによるカラー化》Aerial of Tokashiki Shima in Kerama Retto. F.L. 6 3/8”. Taken by plane from the USS MAKIN ISLAND (CVE-93). Town of Aware [Aharen] showing U.S. landing craft on the beach. Alt. about 1200'.
慶良間列島の渡嘉敷島の空中写真。護衛空母マキン・アイランド (CVE-93)の艦載機から撮影。阿波連の町の様子。揚陸艇が海岸に上陸しているところ。約1200フィート上空から撮影。(1945年3月27日撮影)
《AIによるカラー化》Amphibious tanks and troops land on shores of Tokashiki Shima Islands in Ryukyus.
渡嘉敷島上陸地に向かう水陸両用戦車と兵員。(1945年3月27日撮影)
慶留間から、野砲隊が砲撃を加えたのち、第306連隊の第1上陸大隊は、3月27日の午前9時11分、渡嘉敷島西岸に上陸し、さらに数分後には、第2大隊が第1大隊の南方地点に上陸した。渡嘉敷は一番大きな島で、南北の長さ9.5キロ、幅1.5キロある。沖縄島には群島中で最も近い島で、慶良間投錨地の東部の境をなしている。その海岸は、ほとんどが断崖絶壁か、または狭い峡谷でけずりとられたような急勾配をなしている。山々は、島の中央部や北部にあり、南部では45メートル以上の高さに達している。西海岸中央部近くの囲まれた湾の後方に、渡嘉敷と阿波連の村落がある。この湾の近くの砂浜が上陸地点にえらばれた。(66頁)
《AIによるカラー化》Troops of 77th Army Div. advancing inland on Tokashiki Shima on Kerama Retto Islands in Ryukyus.
渡嘉敷島の内陸部に進攻する第77陸軍師団。(1945年3月27日撮影)
《AIによるカラー化》Troops of 77th Army Div. advancing inland on Tokashiki Shima on Kerama Retto Islands in Ryukyus.
渡嘉敷島の内陸部に進攻する第77陸軍師団。(1945年3月27日撮影)
渡嘉敷作戦も、他の慶良間群島でのやり方と同じだった。はじめの抵抗はほとんど無視できるほどのもので、米軍は日本軍に対する応戦よりも、どちらかといえば険しい地形に悩まされた。
2大隊が先発となって細道を伝って北方に前進していった。第306連隊の第3上陸大隊は、最初に予備軍として編成されていたのだが、島の南部を掃討するという使命をおびて上陸した。夜のとばりが降りるころまでに、第1、第2大隊は、東海岸にある渡嘉敷村落を、翌日に攻撃できるよう準備をととのえ、第3大隊先発隊は島の南端に到達した。(66頁)
久場島・安室島の無血上陸
米軍は、3月27日、久場島を最南西端とする慶良間群島と二投錨地にはさまれて横たわっている小島の安室を、なんの反撃もうけずに占領した。(65頁)
《AIによるカラー化》Western beaches of Amuro Shima, Ryukyu Islands. Taken from an LSM (R), Flot #9.
上陸2日目の阿嘉島と座間味島
阿嘉島(あかじま): 上陸2日目
阿嘉島では、第305連隊の第3上陸大隊は、迫撃砲や機関銃をもって、崖の端や反対側の山に洞窟を掘ってたてこもっている日本兵75名を孤立させていた。この陣地へ、飛行機からの機銃掃射、爆弾投下、ロケット発射、迫撃砲をしばらく撃ち込んだあと、日本軍をどうくつから茂みのなかへ追いやった。(65-66頁)
3月27日: 部隊は全占領区域のパトロールに出発する。I中隊は島の東海岸に沿って掃討作戦を開始し、特攻艇38隻、小型船1隻を捕獲し、壕内の弾薬庫を破壊した。K中隊は最初は島の中央部で作戦を展開したが、丘の反対側の坂に構築された機関銃陣地で日本兵75人の攻撃を受けた。そのためパトロールを中止し、部隊本部は同陣地の空爆を司令部に要請した。
空爆後、部隊の掩護を受けながらL中隊が臼砲で同陣地を攻撃する。しかし、日本軍は空爆の直前か直後に同陣地を撤退したようで、陣地には3人の日本兵の死体と、おびただしい量の弾薬や装備類、銃器類が放置されていた。米軍は全ての装備類を破壊した。一方、L中隊は日中、西側と北西側の海岸をパトロールしたが敵との遭遇はなかった。(75頁)
座間味島(ざまみじま): 上陸2日目
第305連隊第2大隊を中心とする慶良間諸島守備隊は、26日に上陸した第1大隊の後を追って、3月27日座間味に上陸した。上陸当日、座間味集落を囲む丘の上はまだ日本軍が残存していたので、第2大隊は中隊規模の強力な掃討作戦を展開し、日本軍を制圧した。幸い、日本軍の組織的抵抗は短時間で終わった。(85頁)
沖縄島への空爆と艦砲射撃
沖縄島: 中部西海岸一帯
米軍の艦砲射撃、艦載機の空襲は、27日から嘉手納、北谷を重点に、中部一帯に絨毯攻撃を加え、日本軍の砲陣地をほとんど破壊した。(52頁)
《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 52頁より》
《AIによるカラー化》Aerial of Katena airfield on Okinawa, Ryukyus, Yontan airfield. Taken from TBM on bombing mission morning of March 27, 1945.
3月27日朝に実施された爆撃の際に、TBMより撮影された嘉手納・読谷(1945年3月27日撮影)
第32軍の動向
航空機による特攻、武剋特攻隊
前日26日に台湾へ向かうため、武剋特攻隊(隊長広森達郎陸軍中尉)9機が中飛行場(現・嘉手納飛行場) に飛来していたが、同日、軍航空参謀神直道少佐から翌日に沖縄本島周辺の米艦艇への特攻を命じられた。
航空機による特攻に関しては、嘉手納飛行場(中飛行場)からの出撃もあった。
第44飛行場大隊・部隊本部付有線分隊長の回想:
敵艦砲射撃以来、頑張りとおしてきたわれわれは、だれもが、きっとそのうちに内地から連合艦隊がやってきて、周辺の機動部隊をたたきのめし、われわれを援けにきてくれるだろう、「いま少しの辛抱だ」と心待ちに待っていた。
だがこんな緊迫した事態になっても友軍機は全く姿をみせなかった。私たちが敵のなすままに歯ぎしりして、ただ茫然と天を仰いで嘆息しているとき、武剋飛行隊の広森中尉以下の9機がわが嘉手納飛行場に翼を降ろした。
この飛行隊は台湾に飛ぶのが任務であって給油のために沖縄に着陸したとのことであったが、時がときだけに、この報せをうけた軍司令部の航空参謀神直通がわが嘉手納飛行場に駈けつけてきた。そして広森中尉に対して、
「明朝、特攻するものと思って準備はどうか」
「ハイ、命令があればいつでも」
と凜然と答えたそうである。
かくして全く予期していなかった広森隊に対して「特攻」の命令が下された。明26日黎明を期し、目標は「嘉手納沖に遊弋中の米艦船群」勿論、必死必殺、生還は望めない。(120-121頁)
『明くれば26日早朝「特攻隊出撃」の報に各隊の洞窟は一斉に色めきたった。
…朝5時30分砂塵を上げて離陸、あたりは全く明け放たれた。快晴である。…9機は3機ずつの編隊を組み、先ず軍司令部のある首里山の真上に飛んで翼を振って最後の別れをつげ、直角に旋回してまっしぐらに敵艦船に突入していった。肉眼でもみえる。(122頁)
翌27日黎明には航空地区司令部付きの青木軍曹ほかの軍偵2機の赤心隊が、また28日黎明には先秋以来、わが嘉手納飛行場に展開してわれわれと苦楽を共にしてきた偵察飛行第46中隊の軍偵12機のうち、破壊されなかった鶴見国四郎少尉以下の7機の芙蓉隊に特攻の命が下り、わが嘉手納飛行場から飛び立って、嘉手納沖に蝟集した米艦船群に突入して沖縄緒戦を飾った。(122-123頁)
投稿者註: 武剋飛行隊の嘉手納飛行場飛来に関しては、25日、出撃日に関しては、26日の説もある。
27日、9機編隊を組んだ広森隊は、中飛行場からとびた立ち、首里上空から西へ、快晴の糸満沖に向かい、狼狽して撃ちはじめた米艦艇群の真上から編隊の9機、沖縄軍将兵が目を据え、手に汗握るなかを、そのまままっしぐらに降下し、どこまでもどこまでも降下し、あッと息をのんだとき、9つの爆煙が噴き上り、その黒い煙が横にひろがり、低く艦艇群を覆った。首里の丘からは、まっすぐに見えた。30キロは、ゆうに見える。だれの目にも、よく見えた。見ている人のなかから低いうめきにも似た嘆声があがった。
慶良間列島を哨戒中に、日本軍特攻機の急降下爆撃により、甚大な損害を受けた中型揚陸艦(ロケット)LSM(R)-188。ロケット弾用ラックの損壊状況。(1945年3月27日撮影)
The USS LSM(R) 188 on patrol at Kerama Retto, Ryukyu Islands was badly damaged when attacked by a Jap suicide dive bomber. Damage done to rocket racks.
第44飛行場大隊・部隊本部付有線分隊長の回想:
27日、突入した赤心隊の青木軍曹については、同じ第19航空地区司令部付きで司令官、青柳中佐の乗用車の運転手を勤める三部斉伍長…のこんな目撃談がある。
26日の午後4時ごろ、夕方となり敵機と艦砲の攻撃も下火になるところ、第32軍司令部より読谷村字大湾のわが地区司令部に電報が飛来した。文面は、
「陸軍軍曹、青木健児、ほか1名に陸軍特別攻撃隊、赤心隊編成員を命ず」
で、要するに体当たり攻撃を実施せよとの意であり、明朝、暁闇に特攻を行うことが決定した。司令部では全員が内務班のキビ殻兵舎にあつまり、夜の7時ごろから壮途を激励して小宴を張った。
…27日いよいよ特攻の日がきた。まだ南海の朝が明けやらぬ4時ごろ、乗用車に乗った司令官、青柳中佐、新納副官、青木軍曹が、比謝橋を渡って嘉手納町に入ると一面火の海で、町民が警防団の服を着て消火に奮闘中であった。火の中を潜りぬけて自動車が弾痕だらけの屋良部落にさしかかるころ青柳司令官が、
「俺もあとからゆくからお前先に死んでくれ」というと青木軍曹は「自分が特攻するのは皆さんが生き残れるためであります」
と答えた。この会話に三部もつらく運転中に涙が溢れ、前も見えぬようになった。中飛行場へ到着すると、偵察隊のパイロットが地区司令部の軍偵察機を操縦して海に背を向けて滑走路におき、発進準備が終わっていた。
戦闘指揮所には第44飛行場大隊の野崎大隊長、岡崎中尉、田中副官ほか、整備兵たちが若干見送りにきていた。エンジンは始動してあり直ぐ出発で、全員が見送る中を2機は越来村方面へ機首を向け、5、600米滑走して離陸し、翼を返して見送る三部たちの頭上へ飛来して翼をなんども振り、海上に出て2、3分後に突入した。
敵機動部隊の弾幕はゴーッと物凄く、その中に真赤な火柱があがり敵艦に命中したものと思われた。(123-124頁)
戦艦ネバダ(BB-36)を攻撃した特攻兵の千切れた死体が甲板に散らばっている。(1945年3月27日撮影)
Dead Jap suicider who made attack on the USS NEVADA (BB-36) is shown on deck in pieces, off Okinawa, Ryukyu Is.
軍司令部、全線依然沈黙を持し
八原高級参謀の回想:
敵は、慶良間群島を奪取するや、有力な艦隊をもって慶良間海峡に進入、さらに主力と推定される大艦隊をもって北上し、嘉手納沖に集中するに至った。かくて3月27日ごろには、沖縄島は完全に敵の大艦隊に包囲され、至る所、艦砲射撃にさらされるようになった。敵艦の数は日により多少の増減はあるが、戦艦、巡洋艦それぞれ十余隻。中型以下の軍艦7、80隻、哨戒艇や上陸用舟艇は無数であった。(163頁)
… 27日軍参謀長は、この状況を観て私に、「どうも敵の上陸点は、嘉手納沖のようだぞ」と申される。… 他面、南部港川沖における敵艦隊の行動も活発で軽視を許さない。
… アメリカ軍が、このような挙に出るのは、おそらくわが注意を八方に牽制し、軍の指揮を錯乱するとともに、わが陣地配備を偵知せんとするためであろう。…目にものを見せてやりたい衝動を感ずるが、既定方針に従い、隠忍自重、全線依然沈黙を持している。過去の太平洋戦争で、わが軍はほとんど例外なく、この手に掛かり失敗してきた。我々は、決してその手に乗らないのだ。(166-167頁)
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 166-167頁より》
嘉手納飛行場 (別称: 中飛行場): 特設第1連隊第2大隊
部隊本部付有線分隊長の回想:
静寂は朝夕のほんの一時だけ、毎日の激しい砲爆撃がくり返されるうちに、敵はそのうち、フロートつきの…およそ近代戦には不似合いな軽飛行機を飛ばして弾着の観測をはじめた。(125頁)
われわれは、ブルブルーンと爆音がして、おどけた格好で飛んでくるこの飛行機を「下駄履き」と呼んだ。(125頁)
日の出から日没まで、たえず滞空し高く、あるいは驚くほど低く、飄々と飛び廻り弾着を確かめる「下駄履き」を、わが対空砲火も随分撃ったが、この緩慢な飛行機を撃墜できないで、わが陣地は次第に沈黙させられていった。(125頁)
かつては風光明媚といわれた屋良一帯も土煙が濛々と立ちこめて天日をさえぎり、…嘉手納海岸でも、いつのまにか近接した小舟艇が蝟集して、かみつくように機雷の爆破(掃海)を行なっている模様で、
タンタンタンタン
と鉄板を叩くように機関砲を撃ちまくっている音が、2キロ内陸にいるわが洞窟まで伝わってくる。
… 27日の夕暮れ、「嘉手納飛行場と運命を共にする」といって健闘してきた高射砲80大隊に突然、対空任務が解かれて決戦場、島尻へ移動命令が下った。
わが嘉手納飛行場の使命は終わったのである。(126頁)
男子学徒隊、第一中卒業式での防衛召集
鉄血勤皇一中隊: 沖縄県立第一中学校
1945年3月25日の午後2時頃、県立第一中学校南側の養秀寮において、配属将校の篠原保司中尉から、沖縄連隊区司令代理永田大佐による鉄血勤皇一中隊の編制、および防衛召集司令が伝達された。
そのため同日の午後5時頃、篠原中尉の命令で、4年生の…生徒は、急遽養秀寮に派遣されて同校の書記と共に、首里近郊や宜野湾、浦添、西原、真和志一帯に在住する生徒たちを召集する令状を、26日午前2時頃までかかって用意した。そして26日の午前中に篠原中尉と…3名の生徒は、空爆の合間に首里および近郊に出向いて、生徒たちに召集令状を配布して回った。さらに寄宿舎に在住する生徒たちまでが、浦添や西原および宜野湾方面で召集令状を配布させられた。
そのあげく県立第一中の生徒たちは、3月27日の晩に防空壕の中で卒業式が挙行された後、その場で軍命による正式の防衛召集が伝達された。こうして卒業式終了後は、全員帰宅も許されずに直ちに鉄血勤皇一中隊を編制して、第5砲兵司令部に配属されるようになった。
… 鉄血勤皇一中隊は次のように3つの小隊に編制されたが、各小隊には指導する兵士が7名ずつ配置されていた。隊長の篠原中尉配下の第1小隊は135名、第2小隊が約135名、そして第3小隊に130名、合計400名の隊員がいた。隊員の学年編制は、5年生が85名、4年生が155名、3年生が160名であった。(95-96頁)
その時、慶良間列島は・・・
渡嘉敷島の赤松隊長、豪雨の中の住民移動命令
渡嘉敷(とがしき)島: 海上挺進第3戦隊、山あいの比較的安全な恩納川原に避難していた住民は、戦隊長赤松嘉次大尉により遮蔽物のない場所に移動命令がくだされる。恩納川原→複郭陣地→更に北の盆地 (第一玉砕場)へ
渡嘉敷島には、座間味、阿嘉、慶留間諸島より一日遅れ、27日午前9時ころから、米軍2コ大隊が四方向から上陸してきた。
… 赤松戦隊長は、いったん部隊を迎撃配備につけたものの、… これでは武器の隔たりがありすぎ、損害ばかりふえ、かつ各個撃破を受けるだけだと、夜半、一部の警戒部隊を残して、残りは北部山中の複郭陣地に集結せよと命じ、戦隊本部もまたその地に合流した。複郭陣地といっても、これから陣地をつくるわけで、いわば島の一番高い、234メートルの高地に集まったというに過ぎない。… 27日朝、234高地に到着した戦隊主力は、ともかく山頂を中心とした配備につき、大急ぎでタコツボ堀にとりかかった。あの山を、もしものときには複郭陣地にして、と考えてはいたが、誰も前に来たものはなく、もちろん陣地などは造ってなかった。
…「複郭陣地」に来てみると、幸い、うっ蒼と木が空を覆っていた。タコツボが、木のかげで掘り進められた。(126-128頁)村の兵事主任新城真順が、やがて戦隊本部に来て、住民の避難場所をどこにしたらよいか、指示を受けた。戦隊長は、複郭陣地の300メートルあまり北の盆地を指示した。「複郭陣地のなかは、敵に攻撃されるからあのクボ地がよかろう」といった。クボ地は、戦隊長にしてみると、南側から接近してくる敵にたいし、ちょうど非敵側にあるから安全だろうと考えたのだが、複郭陣地でさえ、それまで一度も見にきていないくらいだから、そのクボ地がどんなところか、山の上から密林の波を眺めおろしての判断だけで、実は見当もついていなかった。(128頁)
《『検証「ある神話の背景」』伊藤 秀美 (紫峰出版, 2012) p. ix 》
敵に追われた住民たちは、駐在巡査安里喜順を通じて、命令を受け、複郭陣地にむかって集まってきた。といっても、これは、豪雨のなか、灯一つない山あいを、ハブをおそれながら、手さぐりで歩いていく。雨合羽があるわけでもなく、カマスやムシロを背に、ズブ濡れ。親は子の手を引き、年寄りをいたわり、見失った者を声をかぎりに呼び合いながら、山道を踏みしめるが、たちまち木の根に足をとられてころび、ころぶと思わず引いていた手を離し、手を離すと、今の今まで手を引いていた子供が、どこにいったかわからなくなる。まるでそれは、生き地獄に責めさいなまれているようだったという。(128頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 128頁より》
しかし、赤松戦隊長からの指示で今度は、複郭陣地の北側にある盆地への移動が始まる。
渡嘉敷島に米軍上陸の3月27日、海上挺進第3戦隊は島内の全住民に、北部の第3戦隊陣地に近い谷間への集結を命じた。住民を陣地の近くに集めると、米軍の攻撃で共倒れを招く。住民たちはそれまで意識にとどめていた第32軍指針の「軍官民共生共死」を、体で実感した。夜、阿波連の住民は布団や食糧を持ち、幼児を背負い、各自の避難壕を出た。急に降り出した豪雨に打たれながら、米軍の照明弾と艦砲射撃におびえ、炸裂のたびに地面へ伏せ、震えた。北部は疎遠のため、行く道に慣れていなかった。闇夜の細い山道を歩くうちに踏み外し、谷底へ滑り落ちる何人もの悲鳴が起きた。…7キロの道のりをようやくたどり終え、谷間に座り込み一夜を過ごした。(87頁)
《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 87頁より》
座間味島(ざまみじま)
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- さんげつ雑纂 『ある神話の背景』はなぜ長らく検証されなかったのか?
- 『検証「ある神話の背景」』伊藤 秀美 (紫峰出版, 2012)
- 母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい事実 /宮城晴美
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沖縄の今日