〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年3月25日『慶良間列島への上陸作戦前夜』

慶良間の悲劇 / 男子学徒兵の動員

米軍の動向 - 慶良間諸島上陸前夜

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USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

1945年3月25日、「沖縄住民を巻き込んだ地上戦」が始まる前夜だった。

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TO THE ATTACK --- Part of the convoy taking the Second Marine Division toward Okinawa is pictured as it cuts through the blue Pacific.

攻撃へ---第2海兵師団を乗せ、群青の太平洋を横断して沖縄へ向かう輸送艦隊の一部。(1945年3月25日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

慶良間列島への空爆 / 艦砲射撃 / 掃海 

米軍は1945年3月23日の空襲開始に続き3月25日、慶良間諸島に上陸前段の大規模な艦砲射撃をした。

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 85頁より》

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Taking part in the prelanding bombardment of Okinawa was the Idaho (BB 42), blasting away at the island with her 14-inch guns at preselected targets. As the troops landed, naval gunfire ships let loose with rolling barrages which cleared the way. [Department of Defense Photo (USMC) 116412]

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

慶良間列島への上陸準備

水中事前調査

慶良間諸島の水中事前調査は、上陸を目前にした3月25日未明、ジョイ提督(Rear Admiral C. Turner Joy)指揮下の2隻の巡洋艦と3隻の駆逐艦の砲撃で開始された。午前6時、水中爆破チームが搭乗する巡洋輸送艦や機雷掃海艇が同諸島沿岸に到着し、間もなく水中爆破チームが各島の上陸予定地点で調査活動を開始した。…上陸用舟艇(LCVP)で乗り入れた水中爆破チームは、本隊の上陸に備えて、各上陸予定地点の湾内の障害物、水深、リーフなどの状況を詳細に調査した。…調査の結果、久場島屋嘉比島は湾内のリーフの状況や水深の関係上、上陸用舟艇が使用できないことが分かった。…これに基づき、最終的な上陸作戦が決定された。

… 同25日にはW.H.ブランディー海軍中将(Vice Admiral William H. Blandy)が率いる水陸両用支援部隊も同海域に到着し、掃海作戦は一層強化された。その日の夜までに慶良間諸島の南方の海域から同諸島に至る巾約7マイル(約11キロ)の海域で、また同諸島南西方面ではより広い海域で、それぞれ掃海が実施された。しかし、同作戦では機雷は発見されなかった。

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 66-67、67頁より》

慶良間列島の偵察

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外地島 (ほかじ島) 

TERRAIN IN THE KERAMA RETTO was rugged. In particular the coastal terrain was precipitous, appearing formidable to the 2d BLT, 306 Infantry, 77th Division, as it approached Hokaji Island on 26 March. Below is an aerial view of Tokashiki Island.

渡嘉敷島

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2]

『水中爆破隊が慶良間への接近路を調べている間に、第77師団上陸部隊の観測班は、目標の慶良間を観察研究していた。ごつごつした珊瑚礁が、雑然と島のひとつひとつを取り巻いている。海岸はおおむねけわしく、一定していない。幅が狭く、ベンチに似た岩石が海岸線のあちこちにならんでいる。海岸自体は幅がせまく、高さ1メートルの護岸でかこまれている。適当な長さと思われたただ一つの海岸は、けわしい谷間にはさまれた河口にあった。どんな小さな岸でもたいていが、勾配のはげしい岩の塊りでできており、その表面は草木でおおわれ、高さも120メートルから240メートルもあった。住民は、耕せるところならイモを植え、海岸線近くの台地や、山のスロープを利用して段畑をつくり、イモを植えていた。道らしい道もなく、見えるのは動物の通る小径だけである。どの島を見ても、滑走路をつくったり、大部隊や大規模な基地施設をつくれそうもない。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 61頁より》

上陸前のオリエンテーション

『昭和20年3月25日、慶良間列島付近に蝟集した米機動部隊の一艦上では、明日に迫った沖縄作戦について諜報将校の S.R.サトフィン海軍少佐から従軍記者たちに説明があった。かれは今次の作戦は、太平洋作戦で最大の規模を持つだけでなく、「日本帝国に最後の止めを刺すために、その戸口へ一歩踏み込むもの」だということ。また、米海軍にとって慶良間列島は、弾薬補給や燃料補給基地としてすぐにも使用できるので、同列島の占拠は、沖縄本島作戦を敢行するうえから不可欠の前提だと強調した。当初、襲撃程度の計画だったのが「狐」作戦と呼ばれる大規模な上陸作戦なったのである。』(16頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 16頁より》 

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《AIによるカラー化》護衛空母サンガモン(CVE-26)の士官室で、士官に対して説明が行われているところ。沖縄本島へ向かう途中。

Briefing of officers in wardroom of USS SANGAMON (CVE-26) enroute to Okinawa Shima, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…船上では事前に準備された研修などが行われた。研修の内容は任務遂行に関わるオリエンテーションが主であった。例えば、初めて上陸作戦に参加する兵員の教育もその一つだった。加えて、琉球諸島の地図(1/25000)、住民、政治、習慣、歴史、地理、気候、地形などについての講義も行われた。南西諸島に関する冊子(極秘扱い)も10人に1人の割合で兵員に配布される。オリエンテーションなどは、ほとんどの場合、船内のメスホール(食堂)や、コンパートメント(兵員室)、甲板などで予告なしに行われた。』(70-71頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 70-71頁より》

 

沖縄島への艦砲射撃の開始

沖縄本島西側の沖合に腰をすえた米艦隊は、25日から艦砲射撃を開始した。同時に機雷掃海隊が沿岸の掃海を精力的に進め、特に渡具地海岸一帯の強力な水雷の除去につとめた。それは「前代未聞の大掃海作戦」とも呼ばれ、その海域は4800平方キロメートルにおよんだ。

《別冊歴史読本 特別増刊「沖縄 日本軍最期の決戦」(戦記シリーズ/新人物往来社)82-84頁より》

 

日本軍の動向

『3月25日、5航艦から艦爆2、艦攻7、台湾の1航艦から艦爆5、陸爆(銀河)4を集めて、米機動部隊を攻撃、駆逐艦2、輸送船2に損傷を与えた。』(135頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 135頁) より》

 

第32軍の動向 - 北 (読谷)・中 (嘉手納) 飛行場に後退命令

八原高級参謀の回想:

『25日、南部住民の北方国頭地区への撤退と、北、中飛行場地区にある軍防空部隊の軍主陣地内の地上戦闘配置への後退が命ぜられた。同時に台湾軍から北、中飛行場地区増加予定の教導連隊の派遣中止の電報を受領した。』(161-162頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 161-162頁より》

嘉手納(かでな)飛行場 (別称: 中飛行場): 特設第1連隊第2大隊

部隊本部付有線分隊長の回想:

『夜通し遠雷のような艦砲射撃の音がとどろき、地震のように揺れる洞窟内でまんじりともせず過ごした私たちに、明くれば25日、また、米海空のいままでにない激しい砲爆撃がはじまった。

一晩のうちに部隊将兵の顔つきが変っていた。あまりにも物凄い戦慄で、水汲み、排便、飯上げ、保線など洞窟から一歩でることは命がけとなった。用をすませると思わず壕内にもぐりこまざるを得ないほどである。

…北部にあって、巨大な飛行場と西側につづく嘉手納海岸には本島一の揚陸に適している平坦地を抱えているわが部隊では「いよいよ敵上陸近し」と身内がひき締まるような緊張感のうちにあった。激しい砲爆下を、わが警備中隊の1個小隊(軽機、擲弾筒、小銃で武装した50名)が水釜(嘉手納海岸)の海岸線に緊急配備についた。

…地形偵察程度に上陸してくる米小部隊を撃滅するための任務であった。果たしてこちらの要求どおり米軍が行動してくるかは判らない。正に決死隊である。

また同じく警備中隊の藤波晴喜少尉…指揮下の1個小隊(50名)が、滑走路の南側にある石山の洞窟陣地に拠り、米軍上陸と同時に秘密兵器である桜花(人間爆弾)を爆破する重要任務についた。一方、比謝川畔の自然洞窟内に貯蔵中にあったわが部隊の食糧、弾薬などの軍需品が栄橋を渡ってゆく後方の倉敷陣地(220高地東南麓)の最後の抵抗線まで急送されることになった。』(113-114頁)

『この日の午後のこと、その警備中隊の1個小隊が水釜の海岸線に布陣している重要通信線が断線したので、私は分隊員15名をひき連れて決死の保線に向った。

…敵艦は昼も照明弾を打ち上げ、弾着を測定してから巨弾が飛んでくる仕組みだ。だから照明弾が頭上にパァーときたときが一番危険でこれさえ気をつけていれば大抵破片にやられることはない。

…砲弾の合間をみて、…部落にとりつくと、もの凄い砲爆撃の炸裂で、あれだけ屋良部落に繁茂していた樹木がきれいに吹き飛ばされて、四囲有様はまるで勝手がちがっている。あまりの変貌に驚く。

…鉄片が頭上に飛び交い、焦げ臭い匂いが鼻をつくなかを歯をくいしばりながら海岸に向って保線していくとき、ついにわれわれは見るべきものをみた。

「オイ!あれをみろ!」

分隊のひとりが指す眼前には水平線を埋めつくすばかりの米艦隊が、…悠々と浮かんでいるではないか。そして閃々と砲火を吐いている。閃光をみてから、その轟音が耳にとどくまで30秒あった。直距離1万メートルである。紺碧の海に浮かぶ真白な戦艦や巡洋艦はまるで絵葉書の絵を見ている感じだった。

…わが連合艦隊の健在を信じ、日本空軍の健在を信じていた私たちには、こうして白昼堂々と目の前に姿を現している米艦隊がうそのように見えてならなかった。』(114-116頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 113-114、114-116頁より》

束辺名 (つかへな): 第24師団第32歩兵連隊第2大隊

重機関銃中隊指揮班・二等兵の回想:

『大空襲から3日目の3月25日、遠雷のような艦砲射撃が終日とどろき渡った。

…とうとう敵機動部隊は、本島南部の湊川沖から喜屋武沖にかけて姿を現した。…限りなく青い空と海を背景に真っ白な艦船が眩いばかりに並んでいる。が、次の瞬間には、ものすごい唸りをあげて砲弾が頭上を越えていった。どの艦船もゆっくり北へ進みながら閃光を吐いている。

…敵の本格的上陸は湊川海岸だとの情報に南部陣地は殺気立った。水際陣地には戦闘部隊が配備され、街道の至るところに戦車壕が掘られ、対戦車特攻に備えて蛸壺と呼ばれた壕は上手に偽装された。陣地周辺には地雷が敷設され、兵員は続々と増強された。』(47-48頁)

《「私の沖縄戦記 前田高地・ 60年目の証言」(外間守善/角川学芸出版) 47-48頁より》

 

男子学徒動員の動員命令

『沖縄全域に空襲が始まった二日後の3月25日からは、沖縄連隊区司令官を通じて県下の12の男子中等学校生に対して軍の動員命令が下され、学校毎に「鉄血勤皇隊」「通信隊」が編成された。鉄血勤皇隊には上級生が、通信隊には下級生が動員され、それぞれの任務に就かされた。…要約すると次の五つのグループに分けることができる。

1、第32軍司令部(当初首里)及び第32軍直轄部隊に動員

2、第62師団(首里--浦添一帯に配置)に動員

3、独立混成第44旅団(本島北部)に動員

4、第19航空司令部(中飛行場)に配置

5、第28師団通信隊と独立混成第45旅団(宮古八重山)に配置

なお、各学校の鉄血勤皇隊の中には、入隊に当たって「入隊志願書」を書いて、保護者の押印をもらい提出するように指示された学校もあった。しかし親の承諾印をもらえなかったため自ら捺印して提出した者や、学校側が印鑑屋に行って印鑑を作って一括押印したという事例もあった。』(47-48頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 著編/高文研) 47-48頁より》投稿者註: 軍の動員命令に関しては、3月25日以前に発せられていたケースもある。

そのとき学校の教職員は・・・

宜野湾の農民道場に移った沖縄水産学校に、鉄血勤皇隊の編成命令が来る。3月も下旬になっていた。

ガリ版刷りのその紙には牛島司令官と島田知事の2人の名前が書かれていた。通信隊の隊員と鉄血勤皇隊の配置部署を命令する公文書だ。

沖縄戦開始から2日後の3月25日、宜野湾の農民道場にいる水産学校に軍のトラックが来て、降りて来た下士官が公文書を見せた。その日は「空襲で集まってない」と帰ってもらったが、さらに2日後の27日にもやって来た。新崎○○教頭も仲村渠○○教練教師も返答に窮した。

軍はすぐに連れて行くと言う。2人代わって親川光繁さんが応対した。「このまま生徒を連れていかれるのは忍びない。一度父兄の元に帰してほしい」―しかられるのを覚悟しての言葉だったが、意外に了承、4月1日までに集合するようにと伝えて帰って行った。

親川さんには学校から戦場に直接生徒を送るにはためらいがあった。「鉄血勤皇隊は職員も一緒だが、通信隊は生徒ばかり召集令状も何もないまま正規の兵隊でもない少年たちを、軍の命令通りに運ぶにはひっかかるものがあった」と言う。

その晩、職員会議が開かれた。水産学校の最後の職員会議となったそれは意見が二つに割れる激論が続く。鉄血勤皇隊の配置部署・国頭方面へ行くべきかどうかをめぐってのものだ。

 仲村渠教練教師と小嶺進教諭は「軍隊のいない北部に行ってどうする。南部に行って軍と協力して戦うべきだ」と強硬な意見を主張する。これに親川さんが反論した。「軍の配置命令は召集令状と同じ。南部に行くのは犬死にだ」。最初の夜は“強硬派”が優勢だったが、2日目の会議では親川さんが激しく反論、中立の立場で聞いていた教頭も賛同、命令通りとなった。

3月29日は月明かりの夜だった。農民道場の前に生徒が2列で整列する。右側には首里に向かう通信隊、左側には国頭に向かう鉄血勤皇隊が向かい合って並んだ。新崎教頭は「皇国非常の今、生徒もこの際ペンを捨て銃を取って御国を守らねばならない」と生徒を励ました。

沖縄県立水産学校 - そのとき学校の教師たちは - Battle of Okinawa

この後、戦場に送られた水産学校の生徒48人教師2人のうち、生徒31人教師1人が戦死する。

沖縄県立水産学校 - 水産通信隊 たった一人の生還

 

2月17日に古賀隊(海上挺進基地2大隊)は沖縄島へ移動

基地大隊主力が沖縄本島に転進し、残余部隊が梅澤裕第 1 戦隊長の指揮下に組み入れられた。

なお基地大隊の主力は、45年2月に沖縄本島の兵力を補うために本島に移動し、米軍上陸時には、勤務隊・整備中隊・特設水上勤務中隊などがいた。水上勤務中隊は朝鮮人軍夫(軍の労務者)が主力の部隊だった。海上挺進戦隊長が島の最高指揮官であった。』(19-21頁)
《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 19-21頁より》 

『沖縄守備軍は、敵が沖縄本島南部の西海岸に上陸することを予想し、上陸前夜に輸送船団を背後から強襲する作戦をたて慶良間に特攻部隊(海上挺進基地大隊と挺進戦隊)を配備した。しかし、米軍の慶良間上陸直前にその主力を沖縄本島に移してしまい、残置されたのは、特攻隊員の一部と600名の朝鮮人労働者だけで地上戦力は微弱であった。』(14頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 14頁より》

 

慶良間諸島 - 特攻艇「マルレ」の自壊

海の特攻部隊マルレ - 海上挺進基地大隊と挺進戦隊

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沖縄配備のマルレ部隊

《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 8頁》

太平洋戦争時に日本陸軍が編成した「海の特攻部隊」。陸軍が開発したマルレと称する1人乗りの小型艇に爆雷を積み、敵艦に体当たりするのが任務だった。1戦隊100人ほどで、終戦までに約50戦隊が編成された。沖縄戦でも県内各地に駐屯。特殊任務を帯びたため外部に軍事機密を漏らさないよう、住民を厳しく監視した。座間味、阿嘉、慶留間、渡嘉敷慶良間諸島に配備された部隊は、沖縄本島に上陸する米軍を背後から奇襲する作戦だったが、本島より先に慶良間に上陸され、特攻艇の大半を自ら破壊し、想定外の陸戦へ転じた。

キーワード沖縄戦(46)海上挺進戦隊 | 沖縄タイムス

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Jap suicide boats and wrecked barges at Zamami Shima, Ryukyu Islands. Suicide boat.

日本軍の特攻艇と破損した荷船。座間味島にて。特攻艇。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

那覇の西方に浮かぶ島々である慶良間列島には、「マルレ」と呼ばれた特攻艇が配備されていた。これは、長さ5メートル、幅2メートルほどの1人乗りのベニヤ板製の舟で、120キロ爆雷2個または250キロ爆雷1個を付けて、敵艦に体当たりするという、陸軍が開発した特攻艇だった。敵艦の直前で爆雷を投下し急転回して逃げる方法も考えられていたが、事実上は特攻隊だった。(19頁)

… 慶良間にマルレが配備された理由は、沖縄本島の西海岸に上陸してくると予想された米艦隊に背後から奇襲攻撃をかけるためだった。

… 100隻のマルレを一つの戦隊(140名)とする海上挺進戦隊が、慶良間列島座間味島(第一戦隊)、阿嘉島(第二戦隊)、慶留間島(第二戦隊の一部)、渡嘉敷島(第三戦隊)に、またそれを支える地上部隊である海上挺進基地大隊もそれぞれ1944年9月に配備された。(21頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 19-21頁より》

残置に投入されていた朝鮮人軍夫

阿嘉島の防衛隊員の証言

日時は、昭和20年 (1945年) 2月17日。この日は、ここに設営隊として、その前の昭和19年の9月に来た兵隊がいた。古賀隊(海上挺進基地2大隊)といいまして、930名の兵隊が来て特攻隊の基地を作りに来た。その人たちが基地を管理して、で、隊が移動するという事でね、夕方近くに兵隊が集合したんですよね。軍の情報は我々ははっきりわからないもんですから、「どうしたんですかね、兵隊さん」と聞いたら「沖縄本島に移動するんだ」と、その夕方、5時ごろから始まって、7時ごろには、船に乗ってこの島を去るわけですよ、設営隊が約930名中、720名ぐらい、その中に朝鮮の慰安婦も混ざっておりました、引き上げていくわけですね。入れ替わりに、朝鮮の軍夫という人が上陸するわけですね。はじめ朝鮮の軍夫という事を我々は知ってないんですよ、「代わりの兵隊が、どういう任務で来てるのか」興味深々だったんですね。話によると、「朝鮮の人らしいよ」と。当時は「強制連行」という言葉自体、聞いたこともなかった。「徴用」という言葉はあった、徴用というのは軍に召集。一般的に徴用といわれていた。「徴用の朝鮮人らしいよ」といううわさだった。

垣花 武一さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 第32軍司令部への誤報と「転進」命令の混乱

『25日、早朝5時45分ころから、もう空襲がはじまった。8時ころから、昨日と同じように、島尻地区への艦砲射撃。違っていたのは、艦艇がすこしふえ、34隻が見えたことと、慶良間列島に対しても砲撃していたことであった。…その日、慶良間の部隊から、「0730、米軍が慶良間列島の渡嘉敷、阿嘉、座間味の各島に上陸中」という誤報がとびこんだ。…水道の掃海をはじめたのを見誤ったのか。…おどろいた牛島軍司令官は、早速、慶良間の海上挺進隊に対し、「慶良間列島付近ノ敵ニ対シ打撃ヲ与フルトトモニ、状況有利ナラザルトキハ、那覇ニ転進スベシ」と命令した。ところが午後になって、渡嘉敷島にいる第3戦隊から、敵上陸は誤報であることを伝えてきた。しかし、あとの二つの島からは、何ともいってこない。…海上挺進隊の装備をよく知っている司令部では、首里の丘にのぼり、南西の海上に大きく浮んでいる慶良間をみつめて、気をもんだ。』(105-106頁)

 《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 105-106頁) より》

この軍令は、実質的に慶良間海峡から那覇に転進は不可能であるため実行されず、特攻艇を自壊することもままらなかった。伊藤秀美『船舶団長の那覇帰還行』(2012/4/10)

 

石垣島、白保飛行場の特攻隊、伊舎堂隊最後の夜

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65年前の今夜、石垣島では沖縄からの特攻隊第一陣の出撃を前に、小さな宴が催されていました。65年前のあすアメリカ軍はついに慶良間諸島に上陸します。そして、同じ日、県内からとしては初の特攻隊石垣島の白保飛行場から出撃します。出撃したのは伊舎堂用久大尉率いる伊舎堂隊。今も残る隊員たちの寄せ書き。「指折りつ、待ちに待ちたる機ぞ来たる千尋の海に、散るぞ楽しき」

出発を前にした65年前の今夜、白保では隊員たちと両親らによるささやかな最後の宴が催されていました。伊舎堂隊が出撃したのは26日午前4時。午前5時50分、慶良間諸島近海でアメリカ軍の艦船に突っ込みました。

65年前のきょうは1945年3月25日 – QAB NEWS Headline

 

そのとき、住民は・・・

慶良間列島、十三夜の美しい夜

『上陸前夜(3月25日夜)、慶良間諸島の空には十三夜の月が浮かび 、美しい夜だった。海上は波静かで、気温は華氏61度(摂氏16.1度)。』(71頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 71頁より》

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《AIによるカラー化》 LCT and LCI's enroute to Okinawa, Ryukyus. Sunset on L-7 day. 沖縄に向かう揚陸艇(LCT)と歩兵揚陸艇(LCI)。上陸7日前、日没時。
撮影日: 1945年 3月25日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

阿嘉島(あかじま)

… 午前、最も恐れていた艦砲射撃が始まった。久場島の西方海上に現れた米艦艇が阿嘉島や周辺の島々に砲撃を加えている。時々壕が崩れんばかりに鳴動した。そのつど、おばあさんらは島の氏神様にお祈りを捧げ安全を祈願した。この様子では、米軍の上陸は必至だ。壕内は緊張と不安で話も湿りがちだった。(95頁)

… 米軍が上陸する前の晩(25日)、住民の多くは、家族や親戚同士で野田山の背後のシジヤマに避難した。その数は400人近くだったと言われている。(104頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 95、104頁より》

座間味島 (ざまみじま)

米軍の砲撃によって島の中心であった座間味集落は焼け落ち、壕(ガマ)での避難生活が始まった。25日夕刻には砲撃が激しくなるなか、村役場の職員が各壕を回り、非常米の配給があるから農業組合の壕に取りに来るように伝えられた。島の周りは米艦船に囲まれているのが見えた。

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 21-22頁)》

…米軍上陸前夜、壕などに避難していた住民たちに「忠魂碑に集まれ」という伝令が回った。砲撃が激しさを増し、住民たちは集まるこ とができず、近くにあった壕などで手榴弾などを用いて死に急いだ。

家族と共に教員関係者の壕にいた女性の証言:

暗闇の中、手榴弾が炸裂し、2人の若い女性が致命傷を負ったが、ほかは無傷。それが壕内の混乱に拍車をかけた。国民学校の校長が妻の首をカミソリで 切り、自らも「自決」。…カミソリを手にした母を前に暴れ、「死ぬのは嫌だ」と叫んで壕を飛び出した。

慶良間諸島「集団自決」の悲劇から70年 1「死ぬのは嫌だ」と叫んで壕を飛び出す – アジアプレス・ネットワーク

 

 

沖縄島

名護(なご)

ある少年の体験:

『…あまり米軍機が飛ばない日だったので、母と姉は空襲の合間に海岸近くにある畑に出かけて、野菜を摘んでいたら、いきなり米軍機が低空でやって来て、大きな爆弾を落としたので、2人は必死になって家に逃げ帰った。母はこれはてっきり自分たちを狙った爆弾だと思ったようだ。

夕方、空襲も止んだので家に帰ったら、少年たちが大声で叫びながら浜の方へ行くのでついて行くと、何と広さ10メートル、深さ2〜3メートルもあり、底からは海水が湧き出ている大きな爆弾の穴ができているではないか。その大きさにみんな唖然としていた。警防団によると、これは500キロ爆弾で渡波屋を目がけて落としたのだろうとのことだった。母と姉は渡波屋と爆弾のちょうど中間にいたのである。』(43-44頁)

《「軍国少年がみたやんばるの沖縄戦 --イクサの記憶 --」(宜保栄治郎/榕樹書林) 頁より》

 

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  1. 渡嘉敷島の家族壕(渡嘉敷村)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局
  2. 家族壕を残す(渡嘉敷村)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局
  3. 「部隊で虐待、脱走」 朝鮮出身日本兵の調書入手 - 琉球新報