〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月30日 『海兵隊の南下』

伊江島飛行場 / 総攻撃計画 / スパイ狩り / 田井等収容所

 

米軍の動向

部隊交替と海兵隊の南下

部隊の入れ替え

首里第2防衛戦の攻撃が行われている最中、4月の末には、第7師団をのぞく全米軍の前線では、疲労困憊した部隊の大きな入れ替えがあった。西側の第27歩兵師団は第1海兵師団がとってかわり、中央部の第96歩兵師団は第77師団と交替した。この師団交替は4月30日までには完了し、第7師団は前線に残って、第96師団が10日間の休息をしてから交替した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 276頁より》

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米国陸軍 Tec 4 Vincent Kuntz , 211 E. Willard St., Dicksenon, N. Dak., performs his duties as combat cook after 14 days of fighting in the front lines. 3rd Bn., 383rd Regt.
前線で14日間戦った後、部隊コックとしての働くクンツTec4。第383連隊第3大隊。(1945年 4月30日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

4月30日、第1海兵師団の第1海兵連隊は、西海岸で第165歩兵連隊と交替し、またつぎの日には第5海兵連隊が第105、第106の両歩兵連隊が守っていた前線と交替することができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 277頁より》

 

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Chapter 07 | Our World War II Veterans

前田 (まえだ)・浦添丘陵: 第307連隊第1大隊(大隊長・クーニー大佐)

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『ハクソー・リッジ』〜作品の舞台をご案内します〜 | 浦添市

クーニー大隊は、4月30日の夜から5月1日の夜陰に乗じて、浦添丘陵に到達しようと、長さ15メートルの梯子と、海軍から荷揚げ用のネットを借りてきて使った。まずA中隊は、東側から試みたが、丘は登りきらぬうちに全員が射殺されるか、あるいは負傷してしまった。一方、西側のB中隊は、どうにか成功し、午前零時ごろまでには2個小隊が、いちおう頂上に達したが、これも着くと同時に、日本軍のはげしい反撃の前に退却せざるを得なくなった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 293頁より》

幸地(こうち): 第17歩兵連隊

4月30日の朝、E中隊は、もとG中隊がいた線に陣どり、そこから前進を開始した。すると、突然、8時45分ごろ、両側の丘や前面の機関銃陣地から、およそ8梃ほどの機関銃で交差銃撃をうけ、つづいて迫撃砲の集中砲火をあびた。損害は大きかった。…兵をおおいかくすために使用した煙幕は一陣の風で吹き流され、負傷者だけでなく、傷をうけていない者さえ敵陣の前にさらけだされて逃げだすすべもなく、救援部隊さえ進撃することができなかった。ついに負傷兵の救急措置として小型飛行機を飛ばし、日本軍の面前で30メートルの上空から医薬品を投下するという方法に出た。こうして負傷者の大方は日が暮れてから原隊に復することができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 283-284頁より》

翁長(おなが): 第17歩兵連隊

西原村翁長方面の丘腹では、I中隊が午前11時ごろ、およそ25名からなる日本軍の反撃をうけて5名が戦死し、11名が負傷した。その同じ日に艦載機コルセアが、第17連隊の前線後方を、日本軍とまちがえて盲爆、このため6名が死亡、19名が負傷するという悲劇を生じた。まったく4月30日は、第17連隊にとって魔の日だったのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 284頁より》

小波(こはつ)

第32歩兵連隊の第1大隊は、4月30日の朝まだき、攻撃を開始して、C中隊をして小波津村落北西部にある〝煙突山〟を占領させ、またA中隊を村落南西側にある〝ルーレット・ウィール〟山を占領させることに成功した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 285頁より》

 

沖縄島北部の掃討戦

米軍は沖縄島の北部地域や伊江島を制圧した後、掃討戦を展開した。

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機関銃手と共に前線へと移動する海兵隊(1945年4月30日撮影)

Marines moving forward in assault with machine gun crew.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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日本軍の250ポンド爆弾を運ぶ、ウィルヘルム一等兵、エリオット一等兵モスバーガー二等兵、サリバン二等兵。彼らは、それを日本軍壕爆破のための爆破薬として使用するつもりである。(1945年4月30日撮影)

Pfc. Herbert L. Wilhelm 2174 Hollins St., Baltimore, 23, Md., Pfc. Howard L. Elliott, 611 12th Ave., International Falls, Minn., Pvt. Earl C. Mosbarger, 811 Park Ave., Bremerton, Wash., Pfc. Arthur J. Sullivan, 462 Kimball Ave., Yonders, NN. Y., carry a 250 lb. Jap bomb they are going to use as a demolition charge to blow up a Jap cave.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

後方で進む基地建設 - 伊江島補助飛行場

伊江島で拡張される滑走路建設。住民は急いで芋を掘りおこす。生き残った島民は5月になってから渡嘉敷島などの収容所に送られる。

One group of the thousand Okinawans digging potatoes before gardens are torn up to make way for a new airstrip.

畑が滑走路になる前にいもを掘り起こす沖縄人(1945年4月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

現在の米軍基地「伊江島補助飛行場」となる。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-48-4.jpg

The natural arch of a cactus frames this view of a Caterpiller tractor dragging a ”pan” which is clearing the surface soil from area where a huge coral pit will be dug on Ie Shima, Ryukyu Retto.

アーチ型になったサボテンの間からの眺め。石灰岩採石場を掘る場所の表土を取り除くためにキャタピラ・トラクターが「平鍋」を引きずる。伊江島(1945年4月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

続く掃討戦。

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Hunting Japs in Ie Shima Jungle

伊江島のジャングルでの日本兵狩り(1945年4月30日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

揺れる第32軍 - 再びの総攻撃計画

総攻撃を5月4日に決定

軍司令官は、5月4日に軍主力をあげて攻勢を実施することを決定した。攻勢計画の方針と概要は、次の通りである。

方針: 第32軍は総力を結集し、5月4日黎明右正面から攻勢を開始。重点を右翼第24師団に保持しつつ攻勢を行い、普天間東西の線以南において米第24軍主力を撃滅する。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 164頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-37.jpg

日本軍の総攻撃計画図

US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]

概要:

「まず逆上陸部隊をあげて、米軍の後方を攪乱させる。攻撃開始の前夜には、米軍戦線内約2キロの深さにわたって、多数の挺身斬込隊を出し、米軍の内部を混乱させる。一方、軽機関銃を中心とする小銃部隊多数を、斬込隊とともに潜入潜伏させ、攻撃させる。攻撃開始当日。東部戦線で、黎明攻撃。煙幕を大規模に使い夜が明けても、できるだけ長く黎明の状態におく。第1線部隊は、夜が明けるまでに、相当の深さまで米軍の内部突入を終わらせておく。つまり、各方面から部隊をもぐりこませ、各部分で敵味方入りまじらせ、昼間も米軍の砲爆撃ができないようにし、両軍を互角の立場におき、そこでわが得意とする近接戦闘で米軍を撃滅する。このとき、軍砲兵隊は徹底した集中砲火を浴びせ、攻撃部隊を支援する」

これが、日本軍が優勢な米軍に勝つ方法であり、32軍の独創的な戦法であった。…各部隊は、4月30日に軍司令部から示された攻撃計画にもとづいて、攻撃準備をはじめた。問題は、攻撃の主軸となる24師団が(もちろん62師団も同じだが)、62師団と交替して第1線となり、第3次総攻撃をかけている米軍との激烈な交戦に手一杯で、それとは別な攻撃準備を整えることが非常にむずかしかった。とくに、この攻勢計画の支点とされた前田、仲間高地は、米軍と激闘がつづいており、味方に大きな損害を出しながらも、頑強に、戦線を維持している場所だったことであった。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 243-244頁より》

 

小波

伊東大隊*1 は、前日29日に第24師団司令部から首里北側 (平良町)に後退するよう命じられ、移動を開始した。その後、小波津の一画が米軍に占領される。

4月29日夜、小波津の戦闘を歩兵第89連隊第1大隊と交代し、大隊は明け方近くに予定の首里平良町北側に到着した。ふと北東約1500m先の146高地 (現・オリブ山病院) を見ると、稜線上をのそりのそりと歩いている兵が見え、その手前の西斜面にも不格好な大きな奴がいる。他の部隊の兵に聞くと、昨日からあの高地は敵手に墜ちていると言う。そんな馬鹿な!彼我戦線は幸地~前田のはずなのに、中間の南にある120高地を越えて146高地まで敵が突出しているとはおかしい。だが確かに敵だ。

笹幸恵沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊藤孝一の戦い』》

伊東大隊長は146高地に米軍が進出し ているのを見て、同高地をすみやかに奪回する必要あり と考え、おそらく同高地の夜襲を命ぜられるであろうと予測して夜襲の準備を行なった。… 伊東大隊長が30日午後師団司令部に電話連絡したと ころ「貴大隊は聯隊に復帰し、一四六高地を夜襲せよ」 との命令を受けた。… 30日夜、伊東大隊長は第一中隊を第一線とし、石嶺付近から一四六高地を夜間攻撃して同高地を奪回した。 深見大隊長は第五中隊に勝山から120高地を攻撃させたが、左側背から敵火の妨害を受け奪回は不成功に終わ った。

《 戦史叢書第011巻 沖縄方面陸軍作戦 (防衛研究所) 448-449頁》

 

北部戦線: 宇土部隊、慶佐次に

4月中旬に八重岳の陣地を放棄して以来、多野岳を目指し敗走する宇土大佐と将兵、学徒らの総勢千人だったが、多野岳で米軍の攻撃を受け、その後は沖縄本島北部の密林の中を北上したり南下したりを繰り返した。部隊は軍が設営した慰安所の「慰安婦」も連れて転々としたため、多くの住民の目に留まることとなった。各所で米軍に発見されては掃討され、多くの死傷者をだした。隊列を組んでの移動が困難になり、ついに分散行動を決断、一班およそ25名で行動し、各々で食糧を調達した。

宇土大佐の本部一行は、30日、川田を越し、東村慶佐次の山中に入った。(彼らは、終戦時までこの山中の地点に匿れていた)。本部は矢張り25人。宮城兵長は本部情報係、上地兵長は、食糧蒐集係だった。宇土大佐は、山小舎の中に、相変わらず女と一緒にいた。女はふとしたことから大佐と知り合い、ずるずると大佐の世話を焼くようになっていた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 317-318頁より》

 

そのとき、住民は・・・ 

前線に取り残される子どもたち

米国陸軍通信隊: Lt. Richard K. Jones, OIC 3235th Sig. Ser. Det. Of Hollywood, Calif., feeds Jap Children discovered in tomb 50 yards from front line.

前線から50ヤード離れた墓で発見された日本人の子ども達に食料を与える[第3235通信分遺隊]リチャード・K・ジョーンズ中尉(カリフォルニア州ハリウッド出身 )。1945年4月23日     
写真が語る沖縄 沖縄県公文書館

 

スパイ狩り

宮城三吉(1924年生)は、浦添、前田の激戦地で生き抜いた証言者である。雨期に入っていた前田高地では、戦闘で、焼き焦げる死体の煙で視野がきかないまま40日近くの戦闘を経験し、恐怖で精神異常となった兵士を多くみてきた。「鏡」を持っているだけで敵に鏡を反射させて連絡を取っているから 「部隊に連れて来い」などと言われ、鏡はスパイの証拠物件として扱われるとの話が流行るなど、兵隊同志が互いに疑うことはもちろん、住民の扱いにまで影響するほど恐怖で狂っている状況であったと宮城 はいう。激しさが増していく浦添戦線で、宮城自身、死んだ同僚の死体を担いで死体の下でそのまま息をこらえるなど「紙一重」の死と生の差を何回も体験し、戦場を生き抜いている。…

《洪ユン伸『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』インパクト出版会2016年 p. 237》

沖縄語を喋るだけで「スパイ」として処刑される年寄り。沖縄の初年兵は怖くてなにもできなかった。

中頭の人(当時七十歳くらい)が第一中隊の陣地前に来て、壕を覗き回っていた。そこへ普段から根性の悪い田盛兵長が便所から出て来るところを、そのオジーと出会い、すぐ、スパイとして捕まえてしまった。小隊長に申し出て「これはスパイだ、何故民間人がこんなところを覗き見するのか」ということでこのオジーは洞窟の入り口の木に縛らられていた。私は気の毒に思っていた。このオジー共通語を話せなかったので、兵長の言うことが分からなかったようである。兵長の言うのに返事もできなければ説明もできずに兵長の言われるままになって縛られていた。私は便所に行きながら「オジー・ヌーンチ・ウマンカイ・メンソーチャガ」(叔父ー・なんでここに来たの)と尋ねたら、オジーさんは「ニーサンヤ・ウチナーンチュルヤルイ」(お兄さんは沖縄の人かね)と言っていた。

ジーの話では、「私は中頭にもいられないから、島尻に行こうといって、家族全部で与那原まで一緒に来たが、砲弾で皆散りじりになり、行く先は玉城方面と聞いたが、こちら辺りにいるのではないかと、壕のありったけを探していたんだ、…… 兄さん、自分は方言しか話せないから、兄さんが訳を話してくれないかと頼んでいた。しかし、日ごろからこの兵長は、性の悪い人間だったので、初年兵の私には怖くて、オジーの頼みも請うことができず、今でも心残りのする出来事だった。

そのオジーは、三日くらい水ばかり飲まされ、そのまま縛り付けられていた。後で聞いたが銃殺されていたとのことだった。

沖縄語を喋るだけで日本軍に「スパイ」として処刑される - Battle of Okinawa

 

民間人収容所 - 金武収容所と田井等収容所

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田井等収容所

女一人で子ども三人を抱えて - ある本部町の女性の証言

そんなある日、食糧を頭に乗せて登って来たところを、米軍に捕まった。私たちだけではなく、付近一帯の避難民は殆んどその日に捕虜となってしまった。米兵に銃をつきつけられながらゾロゾロと山を下り、そのままトラックで羽地へ運行されたのであった。やがて、羽地の田井等に着くと、すぐに金網の中のテント小屋に放り込まれて、砂の上に一泊した。翌日、私たちはそこから仲尾次に移された。

だが、住めるような家はなかったので、ある家の豚舎をきれいに掃除してそこに寝るよりほかしかたがなかった。どの家も軒下まで人があふれていたし、畜舎ですらも、場所の奪い合いでつい喧嘩どしになる始末であった。だが、さいわいにも私たちは、翌日には他の家の蔵に移ることができた。

そこで食糧難に苦しめられたために、当時三歳だった次女が栄養失調で死んでしまったが、私は娘の死を悲しむ間もなく、その月のうちに三女を出産した。軍の病院でお産をしたが、当時は一合の米さえ貯えがなく、また産衣の用意もしていなかった。それで出産後かなり長い間空腹のまま放置されていたが、とうとう耐えられずに看護婦に訴えると、ようやくおかゆを作って持って来てくれたものだった。

沖縄戦証言 本部半島 (1) - Battle of Okinawa

田井等収容所

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池宮城永錫田井等市長、マッカリスター大尉、田井等市の班長らが仲尾次に集まり、各班の問題解決策を話し合う(1945年4月30日撮影)

Getting the word. Mayor Ikemeyga, captain McAlister, and several of Taira's hanchos gather at nearby village of Nakaoshi to help hanchos there straighten out local problems.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

 

軍作業

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金武の軍政府本部で空腹の軍政府職員らの給仕をする沖縄の少女たち(1945年4月30日撮影)

Okinawan girls serving food to lines of hungry military government personnel at Headquarters in Chimu.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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地元のはかりで計量された食糧は、海兵隊民政キャンプで働いている人々に配給される(1945年4月30日撮影)

Food is weighed on a native scales for distribution to workers in the Marine civil affairs camp.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

 

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*1:歩兵第32連隊第1大隊