1945年 5月1日 『軍刀を振るって突撃』

 南進する米軍

 勢理客(じっちゃく): 第1海兵師団

第1海兵師団の最初の目標は安謝川の北堤であった。師団のすぐ前には、安謝川とのあいだに、いくつもの小高い丘や連丘があり、この高台に、日本軍は陣地を築き、海兵隊は、このあたり一帯をおとすのに5月までかかった。

第5海兵隊がまだ前線に移動中の4月30日と5月1日、第1海兵師団のほうでは南進を試みたが、かえって、毎日、反撃をくらい、かなりの人命の損失を出すような始末だった。5月1日には、一中隊だけで24名も戦死者を出した。』(278頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 278頁より》

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左から城間屋富祖(左奥)、牧港飛行場勢理客(右上)、安謝川(右上)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

 

仲間(なかま)

『…第27師団の右翼の方では、5月1日、第307連隊第3大隊が仲間村落を攻め、そこから学校のほうに向かって進撃をつづけていた。ところが、この作戦中、日本軍の砲弾が後方の弾薬集積所に落ち、大爆発音とともに一瞬にして5名が戦死し、米軍はかなりの時間、弾薬にこと欠いてしまった。』(294頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 294頁より》

 

幸地(こうち): 第17歩兵連隊

『幸地丘陵の戦闘は、5月の初旬になってもなおつづいた。第17連隊は、なんら得るところもなかった。5月1日、装甲ブルドーザー1台が出動し、西側から幸地丘陵への道をならした。そして、つぎには火炎砲装甲車が1輌この道路を通って、2回にわたって前面の丘腹を焼きはらった。しかし、それでも峰の向こう側の東丘腹にある日本軍陣地を攻撃することはむりであった。』(285頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 285頁より》

 

翁長(おなが): 第32歩兵連隊、第184連隊

『…第32連隊は、5月1日の夜が明けるまでに第184連隊と交替することになっていた。しかし、…かなりの兵力の日本軍が両中隊に切りこんできたため、ここでしばらく戦闘がつづき、部隊交替はその日の午後5時半やっと完了するというしまつだった。第32連隊の第1大隊は、前線交替後、後方陣地にひきあげるとき日本軍と衝突したが、この戦闘で11名が戦死し、22名を負傷させた。』(285頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 285頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

 

 

第32軍の動向

中南部戦線

首里平良(たいら)町: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

守備軍は、120高地および146高地を奪回すべく夜襲を決行することになり、前日30日22時に作戦を開始した。

24時を期して大隊砲が射撃を開始。見事な弾着で、黒煙が山頂に上がった。1分ほど経ってから146高地の北斜面に信号弾が上がった。それは突撃が成功したとの信号弾だった。…山頂に突撃したのは、岩田小隊だった。一方、星野小隊は西側斜面の敵を掃討している。

…伊東大隊の夜襲と同時に、配属の第89聨隊第2大隊が120高地を攻撃する予定になっていた。しかし占領した様子は一向になかった。…問い合わせると、聨隊長からは占領したとの返事だった。(おかしい) 伊東は疑問に思いつつも、146高地の防備を固めていた。

朝になると、敵の猛烈な砲撃が始まった。戦車が前進してきて、大隊本部がある小さな丘の30メートル前まで迫ってきた。バラバラバラ……と掃射を始め、丘を挟んで対峙する格好となった。山頂近くでは、擱座した1両の敵戦車が、大音量を響かせながら火柱を上げて燃え出し、車載砲弾が次から次へと破裂していた。夜が明けるまで知る由もなかったが、目前の120高地にはまだ敵が陣取っていた。』(158-159頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 158-159頁より》

 

軍司令部

 『…5月1日に妙なことが起こった。牛島軍司令官が、八原高級参謀を呼んで、あとにも先にもはじめての注意をしたのである。』(244頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 244頁より》

八原高級参謀の回想:

『…軍司令官が「八原ちょっと来い」と言われる。沈黙しておられる参謀長の傍らを通り過ぎて軍司令官の前に立った。司令官は膝組んだまま、いままでにない沈痛な態度で、「貴官は攻勢の話が出るたびに反対し、また吾輩が攻勢に決心したのちも、浮かぬ顔をして全体の空気を暗くする。すでに軍は全運命を賭けて攻勢に決したのである攻撃の気勢を殺ぐようなことはないよう」と申し渡された。』(268頁)

『私は後にも先にも、将軍から叱責の言葉を頂戴したのは、実にこのときだけである。瞬時にして私は全般の空気より判断し、軍参謀長が司令官に策動されたものと察した。私は言が過ぎると思ったが、暗に参謀長も聞いておられることを意識しつつ、「私は失敗必定の攻撃の結果を思うと、つい憂鬱にならざるを得ません。今回の攻撃が成功するやに考える者が多いようですが、おそらく数万の将兵は、南上原の高地にも手をかけ得ず、幸地付近を血に染めて死んでいくでしょう。これは、無意味な自殺的攻撃に過ぎぬものと思います。しかし、すでに閣下がご決心になったことでありますので、私としては、もちろん、その職責に鑑み、全力を尽くしております。また私の態度については、今後十分注意いたします」とお答えした。将軍は私の暴言に怒られた様子もなく、「もちろん玉砕攻撃である。吾輩も、最後には軍刀を振るって突撃する考えである」と言葉静かに申された。』(270頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 268、270頁より》

 

沖縄県庁: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

繁多川の壕では、民行政の機能とその対象を失った今日、今後の職責は、未占領地に限られた住民の新しい戦力化をはかる以外に途はない、ということになり、警察部で固めている警備隊と協力して、にわかに、後方指導挺身隊を結成することになった。』(102頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 102頁より》

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県庁壕(那覇市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『…農務課長・古郡仁作(1941年前期、内務省採用、のち殉職)が「警察署警備中隊が前線なら、こちらは後方支援の仕事だから、後方の文字を付けた方が良い」と提案したのを受けて、「沖縄県後方指導挺身隊」と命名、5月1日発足した。

島田を総帥に、幕僚に荒井、仲宗根官房主事、佐藤特高兼警務課長、古郡農務課長、真栄平実・会計課長(以上、いずれも後に殉職)、下吹越国吉・畜産課長を任命した。

挺身隊本部長には北部で避難県民の収容施設づくりに奮闘した久保田土木課長(殉職)を抜擢、その下に企画班(長・浦崎人口課長)、戦意抑揚班(安里教学課長)、増産指導班(石橋好徳技師)、壕設営指導班(佐藤了蔵・耕地課長=殉職)を設けた。

さらに18市町村へは県庁職員10人前後で編成した町村分遣隊を派遣するキメの細かさで、隊長には比嘉良啓・兵事厚生課長、湧川亀助・商工課長、南郷不二夫技師、山城久正技師(以上、いずれも後に殉職)、森根武信技師、伊芸中頭地方事務所長らを任命した。』(281-282頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 281-282頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

クチグヮーガマ: 浦添城跡敷地内

前田高地に陣取る日本軍を攻撃するため、猛烈な砲撃が始まりました。壕の入り口付近に、兵士たちが潜んでいたため、…壕も攻撃されます。』(NHK沖縄放送局)

避難住民の証言:

『爆弾が近くに落ちると、ぐわーんと(壕の)中まで響いて…』

『そこら辺にいた人は、その破片でやられて、天井に肉が飛び散って…』

『もう、どうにもできない薬もないし。みんな、自分の体もどうなるかわからない』

『震えて隠れてばかりいますからね、暗い壕の中で…』

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クチグヮーガマ(浦添市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

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【戦跡と証言】 クチグヮーガマ

www.nhk.or.jp