1945年 6月23日 『第32軍の終焉』

掃討作戦

1945年6月23日、米第10軍は、沖縄南部の日本軍第32軍の敗残兵を殲滅するために、他の軍と提携して、全面的な掃討戦を開始した。この掃討戦では、陸軍第24軍団と第3上陸軍団は、それぞれの作戦地区を担当し、作戦遂行のため、3つの段階にわけることにした。そして、その計画によると、10日かかることになった。

島の南端に第1期作戦区域をきめ、その前線に到着した後、2軍団は、こんどは方向をかえて北に進撃し、2回掃討戦を展開して、那覇ー与那原間の平野に着いた。そこで島を横切るブロック線を確立した。日本兵が北部に入るのを防ぐためである。』(514-515頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 514-515頁より》

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掃討作戦のさなか、丘を下る第6海兵師団第22連隊第1大隊ベーカー中隊のライフル銃手と機関銃班。

Riflemen and machine gun squad of the Baker Company, First Battalon, 22nd Regiment, Sixth Marine Division, move down the side of a Hill in southern Okinawa during mopping up operations.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…いわゆる散兵線を保ちながら、のろのろ北へと戻っていった。埋めなくてはならない敵の死体を、われわれは呪った(埋葬といっても壕を掘るためのシャベルで土をかけるだけだったが)。「きちんと整理する」ために集める「50口径以上」の薬莢もいちいち呪った。戦車隊の援護をこんなにありがたいと思ったこともなかった。戦車の火炎放射砲はとくに、洞窟の厄介な日本兵を焼き払うのに効果的だった。幸い、われわれの側に死傷者はほとんど出なかった。』(459-460頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 頁より》

 

第10軍司令官交替

バックナー陸軍中将が戦死した翌日の6月19日からは、海兵隊のガイガー中将が第10軍司令官を務めたが、スチルウェル陸軍中将と交替した。

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第163連絡中隊のL-5機で飛び立つ準備をする、現在の第10陸軍司令官ジョセフ・スチルウェル将軍。沖縄。

General Joseph W. Stilwell, present Commanding General of the 10th Arm is shown in an L-5 aircraft of the 163d Liaison Sq. preparatory to an Aerial tour of Okinawa.

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『…6月23日には、J・W・スチルウェル陸軍中将が東南アジア戦域の副司令官から沖縄の第10軍に移ってガイガー司令官と交替した。』(202頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》

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中部太平洋地上部隊指揮官リチャードソン中将と、第3上陸作戦部隊司令部を離任する米海兵隊のガイガー中将。(1945年6月23日撮影)

Lieutenant Generals Ralph C. Richardson, USA, commands ground force Central Pacific and Roy S. Geiger, USMC, of Ⅲ Phibious Corps, leaves Ⅲ Phib., Corps Headquarters on Okinawa.

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各地で進む基地建設

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工事の完了した瑞慶覧の北に位置する5号線

Finished roadbed on Route 5 north of Sukiran.

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第32軍の終焉

牛島・長両将軍のさいご: 自決当日

【投稿者注: 第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、また、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、当ブログでは、両日に双方の記録、証言等を掲載する】

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

自決日が1945年6月23日の説

八原高級参謀の回想:

23日3時ごろ、軍司令官の命なりと呼びにきた。服装を正して出かける。牛島将軍は略綬を佩用して、服装を整え、膝組んでおられる。長将軍はキング・オブ・キングスのひょうたん型の壺を前にして、すでに一杯傾けておられる。周囲の顔ぶれは概して昨夜と変わりない。私は両将軍に敬礼したが、今や言うべき言葉はない。参謀長は私にウイスキーをすすめ、さらに自ら剣先にパインアップルの切れを刺し、これは両方とも特等品だぞと自慢しつつ、私の口にもってこられた。私はちょっとぎょっとしたが、子供のするようにあーんをしてちょうだいした。

私を前にして、両将軍の間には、次のような会話が続けられた。

参謀長「閣下はよく休まれましたね。時間が切迫するのに、一向に起きられる様子がないので、実は私ももじもじしていました」

司令官「貴官が鼾声雷の如くやらかすので、なかなか寝つかれなかったからよ」

参謀長「切腹の順序はどうしましょう。私がお先に失礼して、あの世のご案内を致しましょうか」

司令官「わが輩が先だよ」

参謀長「閣下は極楽行き。私は地獄行き。お先に失礼しても、ご案内はできませんね・・・

参謀長は、「西郷隆盛が城山で自決する直前、碁を打ちながら別府晋助に向かい、『晋助どん!よか時に合い図をしてくれ』と言ったそうだが、俺はキング・オブ・キングスでも飲みながら時を待つかな」と笑われた。周囲の者は西郷隆盛と聞いて、一斉に牛島中将を注視する。将軍は平素部下から西郷さんと呼ばれていたからである。

両将軍は、2、3辞世ともなんともつかぬ和歌や、詩をもって応酬された。私は、はっきり聞きとることができなかった。しかし沖縄を奪取された日本は、帯を解かれた女と同じもんだと、だじゃれを言われたのを記憶する。』(435-436頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 435-436頁より》

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摩文仁の丘

沖縄県平和祈念公園について

いよいよ時間も迫るので、洞窟内に残った者が、皆一列になって次々と将軍に最後の挨拶をする。平素正しいと思ったら、参謀とでも殴り合いをした利かぬ気の大野少佐が、一点の邪気のない神のような涼しい顔で走り寄って、大本営宛て最後の電報を打ち終わった旨報告した。彼は長年参謀本部の暗号班で勤務したこがあるので、一昨夜大本営からきた最後の電報の諸語、「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備は完成した・・・」の主旨の言葉は、アッツ以来太平洋の島々に玉砕した、すべての部隊に寄せられたものですと、なかば嘲笑的に語った。参謀長と私は互いに顔を見合わせ、きっと唇をかんだ。

最後までよく将兵と苦難をともにした…その他の女性も挨拶をする。参謀長の当番娘が、「閣下のご焼香もすまさないで、洞窟を出て行くのは誠に申しわけありません」と述べたとき、長将軍は微かに苦笑された。彼女たちは他の残存の将兵とともに、夜の明けきらぬうちに断崖の道を降りて海岸の洞窟に行くことになっていた。参謀長当番の中塚は、俺はもう要らぬからと、貴重な水のはいった水筒を女たちに与えた。軍司令官は静かに寝棚から降り立たれ、参謀長は軍衣を脱してそれに従われ、経理部長もまた後に続く。ロウソクの灯を先頭に、粛々として行列は出口に向かう。心も足も重い。

洞窟の外に出ずれば、月未だ南海に没せず、浮雲の流れ迅く、彼我の銃砲声死して天地静寂、暁霧脚麓より静かに谷々を埋めて這い上がり、万象感激に震えるかの如くである。洞窟出口から約10歩のあたり、軍司令官は断崖に面して死の座に着かれ、参謀長、経理部長またその左側に位置を占め、介錯役坂口大尉がその後方に、私はさらに彼の左後方に立つ。残存の将兵は出口に起立して大なる瞬間を待つ。

やや前かがみに首を伸ばして座した参謀長の白いワイシャツの背に、「義勇奉公、忠則尽命」と墨痕淋漓自筆で大書されたのが、暁暗にもはっきりと読める。私を振りかえられた長将軍は、世にも美しい神々しい顔で、静かに、「八原!後学のため予の最期を見よ!」と言われた。剣道5段の坂口が、つと長刀を振りかぶったが、何故か力なくためらって、「まだ暗くて、手もとがきまりません。暫く猶余を願います」と言った。

明るくなれば、海上の敵艦から砲撃される。海岸洞窟に降りるはずの将兵は動揺し始めた。ついに彼らは将軍の許しを得て駆け降り始めた。焦る将兵に阻まれている間に、いちばん出口近くにおられた両将軍が立ち上がられる。私は遅れじと接近しようとするが、奔流の如く駈け出さんとする将兵10数名が、停止を命ぜられ、出口を塞いでしまった。

ようやく彼らをかきわけ、出口に顔を出そうとする一刹那。轟然一発銃声が起こった。騒然たる状況に敵艦からの砲撃かと思ったが、経理部長自決の拳銃声だったのだ。今度は坂口が両将軍着座の瞬間、手練の早業でちゅうちょなく、首をはねたのだ。停止させられていた将兵は、堰を切ったように断崖の道を降りた。

高級副官、坂口大尉、私の3人は出口に転がっているドラムかんに腰を下ろした。坂口は私に「やりました!」と顔色蒼白ながら、会心の笑みを浮かべた。3人は黙ったまま、ぐったりとなって、白々と明けゆく空を眺めていた。立派な最期、無念の死、かくて激闘3か月、わが第32軍は完全に潰え去ったのである。時に昭和20年6月23日午前4時30分!嗚呼!』(436-438頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 436-438頁より》

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1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀

Group picture of the staff of the Japanese Thirty-second Army at Okinawa taken in February 1945 prior to the American assault. Numbers identify: (1) Rear admiral Minoru Ota, Commander, Okinawa Naval Base Force; (2) Lieutenant General Mitsuru Ushijima, Commanding General. Thirty-second Army; (3) Lieutenant General Isamu Cho, Chief of Staff, Thirty-second Army; (4) Colonel Hitoshi Kanayama, Commanding Officer, 89th Infantry Regiment; (5) Colonel Kakuro Hongo, Commanding Officer, 32d Infantry Regiment; (6) Colonel Hiromichi Yahara, Senior Staff Officer (G-3), Thirty-second Army.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第24師団: (師団長・雨宮巽陸軍中将)

『…6月23日、師団司令部のあった真栄平の壕は、米軍の完全な包囲下にあった。すでに軍司令部との連絡は途絶え、わずかに隷下部隊の一部と無線が通じているのみだった。この日の夜、師団長は壕の中で自決する覚悟を決めていたという。当番兵が、師団長に夕食を差し出した。師団長はそれを静かに食している。そこへ、それまで壕外と無線連絡を取っていた杉森参謀が来て、

「歩兵第89聯隊長と工兵第24聯隊が、今から10分後、新垣の壕で刺し違えて自決します」と報告した。

師団長は表情一つ動かさず、ただ黙って頷いたまま、箸をとり続けていた。』(251頁)

『苦難の連続に、恰幅の良かった彼も顔は青白く肉は落ちていた。こけた頬をローソクの灯がゆらゆらとなで回している。

しばらくして杉森参謀が報告した。「これから各方面との連絡を打ちきり、通信機材を破壊します」

「うむ」雨宮は短く答えた。壕の外で銃撃が一瞬弱まったとき、雨宮は誰に言うともなく呟いた。「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、きっと素晴らしいものになるだろうなあ」その夜動ける者は全員、斬り込みの命令が下された。師団長と幕僚、また動けない重傷者は壕内で自決することになった。

仁位少佐は師団長の近くで、これらの一部始終を見聞きしていたという。彼は斬り込み出撃することになっていた。仁位は師団司令部の苗代参謀と同期である。仁位は苗代に、何度となく共に斬り込みに出ようと誘った。しかし苗代の答えは決まっていた。

「気持ちはわかる。感謝するが、どこへ行っても同じだ。俺は師団長と運命を共にするよ」わずかに微笑を浮かべてそう言うばかりだった。仁位は説得をあきらめた。夜半近く、斬り込みの出撃が迫った頃、苗代は師団長に爆薬の準備が終わったことを告げた。自決組は全員で円座を作り、中心に置いた爆薬で同時に自決するという。雨宮は事もなげに側近に言った。

「ここにとっておきの上等なウイスキーもあるし、一杯機嫌になったところでドカンとやるか」周囲もまた、何の屈託もなく、また未練もなさそうに何やら世話話をしていた。仁位は出撃に際し、師団長と苗代参謀に最後の挨拶をした。そして2時過ぎ、仁位は真っ暗闇の中へ飛び出していった・・・。

…雨宮師団長の最期は、6月24日午前2時以降、天明までの間と推測された。』(252-253頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 251、252-253頁の「第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐の手記」の内容より》

 

 

そのとき、住民は・・・

「生」を選んだ住民たち

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沖縄戦の絵】「タオルを掲げて」

『…沖縄本島中部の中城村から戦火を逃れて南部の糸満市摩文仁まで来たが、逃げ場はなくなりつつあった。6月23日、…父親は家族で中城村に帰ることを決断。捕虜になる覚悟もしていたのか、タオルを木の枝に結んで投降の旗代わりに掲げた父親が歩き出すと逃げ場を失ってたたずんでいた周辺の人たちも後に続き、30人くらいの列になった。真壁で右足に砲弾の破片を受けた…は、兄と妹の肩にすがって歩いたが(絵の最後尾3人の中央)、わずか300メートルほど歩いたところで米軍の捕虜となった。…戦争で姉と弟、それに妹2人のあわせて4人を失い、兄も爆撃で耳が聞こえなくなった。…自身も足にくい込んだ破片がとれずに何十年もたってから痛み出し、数年前に摘出した。』

タオルを掲げて | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail61_img.jpg

沖縄戦の絵】「父の勇気で家族全員が投降」

昭和20年6月23日、…家族が糸満市真栄平の壕を出て米軍の捕虜になった時の様子。いちばん左側に描かれているのが父親、右隣が…自身。米軍が「何もしないから出てこい。あと1時間後には攻撃を始める」と投降を呼びかけた。父親は、家族や近所の女性たちに声をかけ先頭に立って壕を出た。「前を見てごらん。アメリカの兵隊が来るよ。逃げると撃たれるよ」と言って米兵の方へ近づいていった。初めて見る米兵に、…恐怖で震えたが、住民に水や食糧の缶詰が与えられ危害を加えられないことがわかると、子ども心に生き抜いた喜びがわき上がってきた。』

父の勇気で家族全員が投降 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

「死」を選んだ住民たち

『南部で掃討戦を行なっていたアメリカ軍兵士たちも、追い詰められていく沖縄住民たちの姿を鮮明に記憶していた。…6月、南部の戦場に転戦していた。そこで凄惨な光景を目の当たりにしたという。それは、崖の上から身を投げる住民の姿だった。

「ショックでした。最初私は彼らの背中しか見えなかったので身を隠すために草むらにでも降りたのだと思いました。そばに近づいて見ていると、そこは切り立った崖で地面ははるか下でした。何十メートルもの崖の下を良く見ると、そこは死体だらけでした。兵士も民間人も生きている人は一人もいなかった」

そこには幼い子どもの姿もあったという。

「なぜ自ら命を絶ったのでしょうか。投降するチャンスだってあったはずです。私はアメリカに戻って家族に会いたいと思っていたからこそ、必死で戦い生きようとしました。彼らにだって、家族がいるはずです。日本人の信条や主義があったかもしれませんが、やはり私には理解できませんでした」…「多くの涙と祈りに満ちた戦場だった」』(170-171頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 170-171頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail43_img.jpg

沖縄戦の絵】「摩文仁 身を投げる女性」

『日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる昭和20年6月23日糸満市摩文仁で見た光景。…住民たちと壕に逃げ込んでいた。外は激しい艦砲射撃。中では大勢が血を流して倒れていた。まさに阿鼻叫喚だった。投降に応じた住民もいたが、若い女性の中には捕虜になれば辱めを受けると思い、がけから身を投げる人もいた。こうして海に消えてゆく女性を…何人も見た。』

摩文仁身を投げる女性 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

  

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