1945年 4月26日 『前田高地の激闘始まる』

南進する米軍

城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」

『アイテム・ポケットでの死闘は、26日もくりかえされた。米軍はあらゆる方角から、このポケット陣地の心臓部めざして肉迫した。だが、それに応じて損害も大きくなる一方だった。第165連隊が攻撃を開始してまる一週間たった26日、連隊は第1号線道路の日本軍の砲火力がまだ熾烈なため、戦車も装甲車もないまま戦闘をつづけていた。

攻撃、また攻撃、米軍歩兵は、一つ一つ、日本軍陣地を殲滅して、26日には、やっと城間一帯を掃討できた。』(233-234頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 233-234頁より》

 

前田(まえだ)

『第96師団前線の中央のまん前に、前田高地の東端が、上から見下ろすようにそびえていた。それはまったく、ぬーっと師団右翼の頭上に、おおいかぶさるように突っ立った、巨大な、人の近づくことを許さぬ、険しい断崖だった。丘陵の一部は、第96師団の作戦区域内にはいっており、米軍はこれを〝前田高地〟と呼んだ。丘の向こう側には前田村落があったからである。』(287頁)

4月26日前田高地攻撃が開始された。米軍は、進撃にあたっては、さして困難な目にもあわなかったが、第381連隊のG中隊が、やっと丘の頂上にたどりついたとたん、日本軍の攻撃をうけ、ものの2、3分とたたぬあいだに、18名の犠牲者を出してしまった。

前田高地での日本軍の防衛戦術は、完璧そのものだった。丘の前面はまもらず、相手を容易に登らせ、頂上までのぼりつめたところで猛烈な攻撃をあびせる。…もし進もうとするなら、戦いぬく以外にはなかった。

…F中隊は、人間梯子をつくって丘陵の頂に登ろうとしたが、最初の3名が頂上に達するやいなや、一回で機関銃弾にあたって戦死した。陽が落ちてまもなく、まだあたりも暗くならないころ、E中隊は、150高地の南にある前田の小高い丘を奪ろうとした。だが、兵が丘の上に立つと同時に、丘の上は10梃あまりの日本軍の機関銃による掃射をうけ、たちまちにして2名が戦死し、6名が負傷するという事態が発生し、米軍はがむしゃらに81ミリ砲を400発も撃ち込み、煙幕弾を撃ち込んで、どうにか中隊を退却させることができた。』(287、287-288頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 287-288頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-35.jpg

前田高地

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

『…東のほうでは、しばらくはかなり成功しそうなけはいがあった第383連隊の一部は、150高地と152高地の頂に到達したが、そこからは、下方に日本軍がうようよしているのがまる見えだった。おそらく600を数えたろうか。日本兵が群がっているのが、手にとるように見えた。機関銃手、自動小銃手、それに各歩兵にとっては、これは願ってもない絶好の機会だった。その日、米軍は思う存分に撃ちまくり、思う存分に戦いまくった。結果は米軍に利ありで、一自動小銃手は日本兵30名を射殺したりした。

戦車隊や火炎放装甲車隊は、いまや前田高地の端に進出してきた。洞窟にかくれていた日本兵は、火炎放射器で穴から追い出され、逃げるところを撃たれた。』(288-289頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 288-289頁より》

 

幸地(こうち)

『…第1大隊は、幸地丘陵の西側にそって進撃し、第2大隊は東側を進んでいった。この米軍の進撃がはじまると同時に、予期したとおり周囲に待機していた日本軍が丘腹から攻撃を開始し、迫撃砲や機関銃が予想にたがわず火を吐き、下方一帯に弾幕をはった。

米軍は攻撃を中止し、全軍がもとの線にひきさがった。ただし、G中隊だけが、東側の丘腹に不安定な足場をとってがんばっていた。どの大隊み、他の部隊がどう動いているかもわからなかったし、どの部隊も峰の一つさえとれなかった。それぞれ孤立して自分たちのところで戦う以外、すべはなかったのである。

4月26日の夜、第17歩兵連隊は、幸地一帯の日本軍にまともにぶつかっていることがはっきりした。』(282頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 282頁より》

 

 

第32軍の動向

軍司令部

『…150高地と152高地での米軍の作戦と、4月26日前田高地への米軍戦車隊の進撃は、日本軍の第32軍に、かなり精神的な打撃となったようだ。

午後4時牛島中将は、つぎのような簡単な命令を出した

「敵は戦車隊につづいて、午後1時ごろより、前田南部ならびに東部に侵入しつつあり。第62師団は地区守備隊を派遣、前田方面に進撃する敵を攻撃、断固これを撃退すべし

これと同時に、日本軍は近くにいた第24師団に、この撃退作戦に協力するよう命令を下した。それから2時間後、牛島中将はさらに、「陸軍は前田付近を突破せる敵軍を撃砕し、第24師団は、今夜、その主力を、首里東部に向けるべし」と命令を下した。』(289頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 289頁より》

 

北部戦線

有銘(あるめ・東村)

『…東村有銘で日本兵が住民2人を殺害したとみられる虐殺事件があった』

目撃者の証言:

『…1945年4月26日ごろ、米軍の斥候兵3人が有銘集落に入り、日本兵と銃撃戦になった。米兵2人が銃で撃たれて死亡。米兵1人は逃げる途中、海岸沿いの避難小屋で生活していた10代半ば中南部出身とみられる避難民の男性2人を人質に取った。
 日本兵、2人を連れて海岸を南へ逃げる米兵を追い、泳いで沖合に回り込んで射殺さらに、2人の避難民を山まで追って殺害したとみられる。』

『その日の夕方、丘の上から有銘方面を見ると、日本兵け飛ばされ、山から下ろされる避難民2人の遺体を目撃した。』

東村有銘で住民2人虐殺 日本兵、米兵を銃殺後 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

中南部戦線

26日午前6時頃仲間、前田、幸地の線で新たに両軍の均衡が破れ、米軍は地上砲火、艦砲射撃で日本軍守備陣地を攻撃した。同10時頃から戦車を伴う有力な歩兵部隊を以って進出戦線の一部は嘉数、我如古の線から、西と南に2、3粁のびて行った。』(421頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 421頁より》  

前田(まえだ)

前田にいた兵士の証言: 独立歩兵第13大隊

『「…1945年(昭和20年)3月、馬車と馬を持って応召した。嘉数に駐屯した独立歩兵第13大隊に入隊です。馬車30台と防衛隊員36人を率いる上等兵の小隊長です。艦砲射撃のさなか、松の木などの資材を陣地構築用に運びました。4月1日に米軍が上陸したので浦添市当山まで後退し、そこを拠点に輸送をつづけました」
「米軍の迫撃砲攻撃がすさまじいのであっけにとられ、作業をやめて数えさせたら、15分間に486発飛んできた。嘉数高地は夜は日本軍、昼は米軍という奪いあいがつづいて、4月26日にわが軍は前田まで撤退しました。前田にはわが軍も迫撃砲60門をすえ、各砲が毎分1発ずつぶっぱなしたときは、すごかった。そのころ、私は弾薬輸送中に左足に貫通銃創、右足も負傷し、南風原の陸軍病院、さらに糸数病院へと送られました」』(87頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 87頁より》

 

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

26日14時頃、警戒隊につけていた無線手2名が大隊本部へ報告に飛んできた。声が上ずり、何を言っているかわからない。兵が興奮して話す内容を総合すると、どうやら警戒隊は側面から攻撃を受け、戦況はきわめて不利とのこと。』(133頁)

『辺りが闇に包まれて間もなく、警戒隊の山田中尉の当番兵が疲れ果てた姿で大隊本部にたどり着いた。「自分は夕方まで隊長殿と一緒におりました。隊長殿はもはやこれまでと死を決意されたのか、お前は帰って最後の状況を報告せよ、と言われました」機関銃は破壊されるまで撃ち続け、ついに肉薄する敵と手榴弾となり、かなりの損害を与えたという。』(134頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 133、134頁より》

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沖縄戦 二十四歳の大隊長: 陸軍大尉 伊東孝一の戦い - 笹幸恵 - Google ブックス

 

城間(ぐすくま)

城間にいた兵士の証言: 独立速射砲第22大隊

4月26日城間陣地は全く包囲の状態となった。この日の朝、敵M4戦車2両が、随伴歩兵を伴って海岸線の方からわが陣地に向かってきた。誰となしに「敵戦車が来たぞ!」と叫ぶ声が壕内にこだました。わが部隊は殺気立った。速射砲の砲門が開き、その威力を発揮するのはこの一戦にあり、と気合いがかっていた。

中隊長は、至近距離を50メートルまで近付けるよう命令した。敵は、わがもの顔で悠々とわが陣地に近付く、命令どおり約50メートルにきたとき、…上等兵射手は発射した。見事、敵戦車キャタピラに命中、続いて2発目は戦車の土手っ腹に命中、その瞬間、敵戦車は炎上擱坐した。中隊長も兵隊も躍り上がって喜び合った。つづいて2両目を撃滅しようとしたが、その途端、2両目の戦車からの銃弾で、わが速射砲についていた「ぼうじゅん」(鉄板)が撃ち抜かれ、その蔭にいた射手の…上等兵は、鉄かぶとをとおして眉間を撃ち抜かれ即死した。

戦車砲弾は、さらにわが方目がけて撃ち込まれてきた。ダイナマイトでもなかなか打ち砕けなかった壕の入り口やその一帯が、こっぱみじんに打ち崩されたのには、みんな肝を潰した。われわれは、命からがら階段式陣地に転がるようにして退った。』(566-567頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記/戦時編」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 566-567頁より》 

 

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)

米軍上陸の数日前に那覇市楚辺から真和志村繁多川(現・那覇市)の壕へ行政機能を移していた島田知事。しかし、4月24日、繁多川壕は軍が使用すると通告され、明け渡しを求められた。そこで長堂にある軍の壕と交換することを考え、提案を軍の担当部隊に知らせるため、26日午前7時に使者3名を出した。

『目指す城岳の壕には、山兵団戦闘部隊に編入された特設第6連隊第7船舶輸送司令部平賀中佐が指揮する那覇守備隊が、銃眼のある陣地を構えていた。』(99頁)

『わずかに数キロの行程ではあったが、そこは、濃密な砲弾の網が展げられていた。』(99頁)

2時間もかかってかれらは無事目的地の壕に着いた。平賀中佐は「こんな弾の中をどうしてやってきたのか、まあ用件は後だ」と3人の無謀な行動に、目を瞠り、パイ缶をあけて歓待した。用件は解決し、島田知事の発案通りになった。「帰る時は気をつけろ、途中十字路や三叉路は思い切って走れ、ポーン、ポーンと射つ時は、5発目の一発が危ないぞ」と平賀中佐が注意してくれた。その通り細心の注意を払って帰途についた。』(99頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 99頁より》

島田知事は、日本軍から壕の明け渡しを求められた直後に、まだ米軍に占領されていない地域の市町村長を集め、緊急市町村長会を開くことにした。招集状は、警察部員によって市町村長らが避難する居村の壕に配られた。

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail46_img.jpg

沖縄戦の絵】スパイ容疑をかけられた私 

那覇市天久の壕でのこと。…壕の入り口の1つを開けると「誰だ!」と中から日本兵の声。「避難民です」と言うと「何、避難民か。動いたら撃つぞ」と言われ、出てきた日本兵たちが…上半身を裸にして電話線でうしろ手に縛った。日本兵は「貴様、スパイだな」と言うばかりで、違うと言っても信じてもらえなかった。どうにもできずにいると、3日前別の壕で話をした日本兵がきて「この人のことは私が保証する」と口添えしてくれて、ようやく解放された。直後、同様にスパイの疑いがかけられた沖縄の青年が日本兵に連れられ壕から出るのを見た。10メートルも行かないうちに銃声がし、振り向くと沖縄の青年は死んでいた。…「スパイ容疑をかけられて生きている人はごく少ない。私は幸い生きているし、同じ容疑で人が捕まって殺されるのを目撃しているから話せる。前も後ろも敵だったが、途中からは日本兵の方が怖かった。戦争になったら人間が人間じゃなくなる」』

スパイ容疑をかけられた私 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月26日