〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月26日 『前田高地の激闘始まる』

ハクソーリッジ / スパイ狩り / 瑞泉学徒隊 / 金武収容所

 

 

米軍の動向

南進する米軍 - 首里の攻防第2線

首里の攻防 第2線、城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地

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『沖縄方面陸軍作戦 戦史叢書11』防衛庁防衛研修所戦史室、1968年

城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」

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アイテム・ポケットでの死闘は、26日もくりかえされた。米軍はあらゆる方角から、このポケット陣地の心臓部めざして肉迫した。だが、それに応じて損害も大きくなる一方だった。第165連隊が攻撃を開始してまる一週間たった26日、連隊は第1号線道路の日本軍の砲火力がまだ熾烈なため、戦車も装甲車もないまま戦闘をつづけていた。攻撃、また攻撃、米軍歩兵は、一つ一つ、日本軍陣地を殲滅して、26日には、やっと城間一帯を掃討できた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 233-234頁より》

 

前田高地 (ハクソーリッジ) とは

4月25日から5月6日まで続いた浦添一帯の丘陵地での戦いは前田高地の戦いと呼ばれ、26日朝から激しい砲撃が開始される。日本軍は米軍を丘陵上に登らせたうえで攻撃するという反斜面陣地 (reverse slope defense) を展開する。

嘉数の次は前田高地 - 嘉数側から眺めた前田高地

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Above: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

Below: 広報うらそえ6月号

日本軍は陣地構築に住民を最大限利用したが、戦争が始まれば住民は足手まといとして壕から追い出しをかけられたため、多くの住民が命を奪われた。

当時浦添の人口は約9,200人でしたが、そのうち戦争で亡くなった人は4,112人で実に44.6%の住民が犠牲になりました。

うらそえプラス

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広報うらそえ6月号

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前田高地は国指定史跡「浦添城跡」一帯の丘陵を指し、最も高い場所では標高が約148 mになります。のこぎりのように鋭く切り立ったその姿から、米軍から「ハクソー・リッジ」 と名付けられました。また、南東側にワカリジー(為朝岩)と呼ばれるやりのように切り立っ た岩があり、米軍は「ニードル・ロック」と名付けました。  沖縄戦当時、前田高地は米軍にとって首里の軍司令部に接近するために突破しなければ ならない障壁でした。また、日本軍にとっては前田高地を奪われると首里の軍司令部に米軍が殺到するため、死守しなければならない防壁でした。そのため、前田高地をめぐる攻防は「ありったけの地獄を一つにまとめた」といわれるほど激しい戦闘になりました。 1945年4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は嘉数高地を陥落させ、25日前田高地への攻撃を開始します。米軍はまず高地頂上を奪おうと試みますが、頂上に立っ た所で日本軍の攻撃を受け、数分のうちに18名が犠牲となりました。それから高地頂上の 争奪戦が繰り広げられ、米軍は多くの死傷者を出しました。 一方、日本軍は洞窟に陣地を置き、白兵戦や夜間攻撃などを行いますが、米軍の猛攻に より多大な損害が出ました。頂上付近を占拠した米軍は、洞窟の入口を破壊することで日 本軍を閉じ込め、追い詰めていきます。5月6日に前田高地は米軍により完全に制圧され、 日本軍は撤退することになります。

沖縄県埋蔵文化財センター・浦添市教育委員会沖縄県の戦争遺跡ー前田高地から首里まで』》

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ちょうどワカリジー (註・ニードル・ロック) の手前にあたる地点。比較的登りやすい地点で縄をかけて昇ったのでしょうか。崖の上に立っているのは、実際のデズモンド・ドスだそうです。

『ハクソー・リッジ』〜作品の舞台をご案内します〜 | 浦添市

4月26日、前田高地攻撃が開始された。米軍は、進撃にあたってはさして困難な目にもあわなかったが、第381連隊のG中隊が、やっと丘の頂上にたどりついたとたん日本軍の攻撃をうけ、ものの二、三分とたたぬあいだに、十八名の犠牲者をだしてしまった。前田高地での日本軍の防御戦術は、完璧そのものだった。丘の前面はまもらず、相手を容易に登らせ、頂上までのぼりつめたところで猛烈な攻撃をあびせる。米軍にとって、峰の上と反対側の丘腹は〝禁じられた地域〟になってしまったのである。ここでは、もし進もうとするなら、戦いぬく以外にはなかった。ニードル・ロックのF中隊は、人間はしごをつくって丘陵のいただきに登ろうとしたが、最初の三名が頂上に達するやいなや、一回で機関銃弾にあたって戦死した。陽が落ちてまもなく、まだあたりも暗くならないころ、E中隊は、一五〇高地の南にある前田の小高い丘をとろうとした。だが兵が丘の上に立つと同時に、丘の上は十丁あまりの日本軍機関銃掃射をうけ、たちまちにして二名が戦死、六名が負傷するという事態が発生し、米軍はがむしゃらに八十一ミリにミリ砲を四百発も撃ちこみ、煙幕弾を撃ちこんで、どうにか中隊を退却させることができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 287-289頁より》

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前田高地の攻略図

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

ところでもっと東のほうでは、しばらくはかなり成功しそうなけはいがあった。第三八三連隊の一部は、一五〇高地と一五二高地の頂に到達したが、そこからは、下方に日本軍がうようよしているのが丸見えだった。おそらく六百を数えたろうか。日本兵が群がっているのが、手にとるようにみえた。機関銃手、自動小銃手、それに各歩兵にとって、これは願ってもない絶好の機会だった。その日、米軍は思う存分うちまくり、思う存分戦いまくった。結果は米軍に利ありで、一自動小銃手は日本兵三十名を射殺しさえした。戦車隊や火炎砲装甲車隊は、いまや前田高地の端に進出してきた。洞窟にかくれていた日本兵は、火炎放射器で穴から追いだされ、逃げるところを撃たれた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 288-289頁より》

 

幸地(こうち)

…第1大隊は、幸地丘陵の西側にそって進撃し、第2大隊は東側を進んでいった。この米軍の進撃がはじまると同時に、予期したとおり周囲に待機していた日本軍が丘腹から攻撃を開始し、迫撃砲や機関銃が予想にたがわず火を吐き、下方一帯に弾幕をはった。米軍は攻撃を中止し、全軍がもとの線にひきさがった。ただし、G中隊だけが、東側の丘腹に不安定な足場をとってがんばっていた。どの大隊み、他の部隊がどう動いているかもわからなかったし、どの部隊も峰の一つさえとれなかった。それぞれ孤立して自分たちのところで戦う以外、すべはなかったのである。

4月26日の夜、第17歩兵連隊は、幸地一帯の日本軍にまともにぶつかっていることがはっきりした。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 282頁より》

 

軍道一号線(現在の国道58号)

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1号線(現在の国道58号)の交差点で交通誘導を行う憲兵(1945年4月26日撮影)

MP's directing traffic on road junction of Route #1, on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦利品

兵士は諜報を守るため日記をつけてはならないなどの厳しい規則があった。しかし沖縄で戦利品として手に入れたものを手紙と共に祖国に送ることは大っぴらに行われていた。米軍の記録写真には、空いた時間に戦利品を箱詰めする兵士の写真が多く残されている。

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81ミリ迫撃砲小隊の海兵隊員が地面に穴を掘っている時、戦利品である日本製蓄音機が日本の曲を奏でた。(1945年4月26日撮影)

Captured Jap victrola plays foreign tunes as the Marines of the 81mm mortar pl. dig in.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向 

日本軍の動向

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日本軍機、米艦隊に撃墜される(1945年4月26日撮影)

Jap Planes Shot down in Attack on Okinawa Invasion Fleet

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

中南部戦線

26日午前6時頃、仲間、前田、幸地の線で新たに両軍の均衡が破れ、米軍は地上砲火、艦砲射撃で日本軍守備陣地を攻撃した。同10時頃から戦車を伴う有力な歩兵部隊を以って進出、戦線の一部は嘉数、我如古の線から、西と南に2、3粁のびて行った。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 421頁より》

この一五〇高地と一五二高地での作戦、そして四月二十六日の前田への戦車隊の進撃は、日本軍の第三二軍に、かなり精神的打撃となったようだ。午後四時、牛島中将はつぎのような簡単な命令を出した。「敵は戦車隊につづいて、午後一時ごろより、前田南部ならびに東部に侵入しつつあり。第六二師団は地区守備隊を派遣、前田方面に進撃する敵を攻撃、断固これを撃退すべし」これと同時に、日本軍は近くにいた第二四師団に、この撃退作戦に協力するよう命令を下した。

この命令で米第九六師団が、その後四日間にわたって、なぜいささかの進撃もできなかったかがわかる。日本軍は前田高地死守を決意、事実そのとおりにしたのである。(289頁)

『…4月26日に、牛島中将は、独立混成第44旅団に対し、第62師団の後方、首里の西、那覇の北にあたる安謝川付近に陣地をつくり、もし米軍が西海岸の防衛線突破を試みたら、第62師団を助けてこれを防御できるようにすべしとの作戦命令を下した。』(277頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 277、289頁より》

 

城間(ぐすくま)

城間にいた兵士の証言: 独立速射砲第22大隊

4月26日、城間陣地は全く包囲の状態となった。この日の朝、敵M4戦車2両が、随伴歩兵を伴って海岸線の方からわが陣地に向かってきた。誰となしに「敵戦車が来たぞ!」と叫ぶ声が壕内にこだました。わが部隊は殺気立った。速射砲の砲門が開き、その威力を発揮するのはこの一戦にあり、と気合いがかっていた。

中隊長は、至近距離を50メートルまで近付けるよう命令した。敵は、わがもの顔で悠々とわが陣地に近付く、命令どおり約50メートルにきたとき、…上等兵射手は発射した。見事、敵戦車キャタピラに命中、続いて2発目は戦車の土手っ腹に命中、その瞬間、敵戦車は炎上擱坐した。中隊長も兵隊も躍り上がって喜び合った。つづいて2両目を撃滅しようとしたが、その途端、2両目の戦車からの銃弾で、わが速射砲についていた「ぼうじゅん」(鉄板)が撃ち抜かれ、その蔭にいた射手の…上等兵は、鉄かぶとをとおして眉間を撃ち抜かれ即死した。

戦車砲弾は、さらにわが方目がけて撃ち込まれてきた。ダイナマイトでもなかなか打ち砕けなかった壕の入り口やその一帯が、こっぱみじんに打ち崩されたのには、みんな肝を潰した。われわれは、命からがら階段式陣地に転がるようにして退った。』(566-567頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記/戦時編」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 566-567頁より》

前田(まえだ)

前田にいた兵士の証言: 独立歩兵第13大隊

「…1945年(昭和20年)3月、馬車と馬を持って応召した。嘉数に駐屯した独立歩兵第13大隊に入隊です。馬車30台と防衛隊員36人を率いる上等兵の小隊長です。艦砲射撃のさなか、松の木などの資材を陣地構築用に運びました。4月1日に米軍が上陸したので浦添市当山まで後退し、そこを拠点に輸送をつづけました」

「米軍の迫撃砲攻撃がすさまじいのであっけにとられ、作業をやめて数えさせたら、15分間に486発飛んできた。嘉数高地は夜は日本軍、昼は米軍という奪いあいがつづいて、4月26日にわが軍は前田まで撤退しました。前田にはわが軍も迫撃砲60門をすえ、各砲が毎分1発ずつぶっぱなしたときは、すごかった。そのころ、私は弾薬輸送中に左足に貫通銃創、右足も負傷し、南風原陸軍病院、さらに糸数病院へと送られました」

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 87頁より》

 

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

26日14時頃、警戒隊につけていた無線手2名が大隊本部へ報告に飛んできた。声が上ずり、何を言っているかわからない。兵が興奮して話す内容を総合すると、どうやら警戒隊は側面から攻撃を受け、戦況はきわめて不利とのこと。(133頁)

辺りが闇に包まれて間もなく、警戒隊の山田中尉の当番兵が疲れ果てた姿で大隊本部にたどり着いた。「自分は夕方まで隊長殿と一緒におりました。隊長殿はもはやこれまでと死を決意されたのか、お前は帰って最後の状況を報告せよ、と言われました」機関銃は破壊されるまで撃ち続け、ついに肉薄する敵と榴弾となり、かなりの損害を与えたという。(134頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 133、134頁より》

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沖縄戦 二十四歳の大隊長: 陸軍大尉 伊東孝一の戦い - 笹幸恵 - Google ブックス

 

弁が岳(べんがだけ): 歩兵第32連隊第2大隊(大隊長・志村常雄大尉)

4月26日、集結地の大名附近は、相変わらず終日はげしい砲弾の雨だった。午後2時頃、連隊本部から命令が届く。「第2大隊は速やかに弁が岳に進出し、爾後の戦闘を準備すべし」弁が岳は首里東側の高地で、首里複郭陣地の根幹をなす要点である。午後10時、大名の壕を徹した大隊は一路弁が岳に向かった。この前進間、はじめて迫撃砲の洗礼を受けた。曲射弾道であるから真上からまるで雨のように降ってくる。やっとの思いで弁が岳に辿りつき、所在の壕を見つけて分散収容を終わった時には、夜は白々と明けはなたれていた。(175頁)

二等兵の回想:

…津嘉山を過ぎ、一日橋を渡り、首里の北側にある弁が岳の麓に着いたのは…26日の明け方だった。弁が岳の東南麓の小さな壕に大隊本部が入って、各中隊は周辺に分散小休止した。すぐに、…弁が岳頂上付近の索敵斥候に出た。索敵後、大隊本部に戻ってやれやれと肩の荷を下ろす間もなく、「第2機関銃中隊が北東方面に道を迷ったらしい。川上上等兵…ほか2名で探し出し誘導して来い」という大隊長命令が出た。私と大隊砲小隊からもう一人指名され、3人で弁が岳の頂上に出て東側斜面に下りることにした。弁が岳附近は照明弾がひっきりなしにあがって、昼間のように明るかった。紐のようなものを吊り下げて照明弾はゆっくりゆっくり降りてきた。艦砲は間断なく炸裂して松の大木が吹きとばされ、山肌は弾痕だらけだった。加えて米軍から近いらしく迫撃砲が撃ち込まれていた。迫撃砲というのは頭上で炸裂して破片が四方に飛び散るものだということも初めて知らされた。山頂でヒュルヒュルッ、ヒュルヒュルッと音が聞こえていたがいきなりグヮグヮーンという音と光と爆風に吹っ飛ばされて山肌に叩きつけられた。気がつくと大隊砲小隊の初年兵は近くで死んでおり、川上上等兵の姿はなかった。ひとりになった私は、艦砲の攻撃を避けて墓の中でしばらくすごした後、明け方になって艦砲の着弾地を確かめながら、やっと弁が岳麓の大隊本部壕に辿り着いた。ところが大隊では、連隊本部から「第2大隊は本夜前田北側高地の敵を撃破し同高地を確保せよ」との命令を受けていた。…川上上等兵も、先に着いていて出動準備の最中だった。(65-66頁)

《「私の沖縄戦記 前田高地・ 60年目の証言」(外間守善/角川学芸出版) 65-66頁 および同書内の「志村大隊「前田高地」の死闘(抄)」175頁より》

 

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)

米軍上陸の数日前に那覇市楚辺から真和志村繁多川(現・那覇市)の壕へ行政機能を移していた島田知事と県庁。しかし、4月24日、繁多川壕は軍が使用すると通告され、明け渡しを求められた。そこで長堂にある軍の壕と交換することを考え、提案を軍の担当部隊に知らせるため、26日午前7時に使者3名を出した。

目指す城岳の壕には、山兵団戦闘部隊に編入された特設第6連隊第7船舶輸送司令部平賀中佐が指揮する那覇守備隊が、銃眼のある陣地を構えていた。… わずかに数キロの行程ではあったが、そこは、濃密な砲弾の網が展げられていた。… 2時間もかかってかれらは無事目的地の壕に着いた。平賀中佐は「こんな弾の中をどうしてやってきたのか、まあ用件は後だ」と3人の無謀な行動に、目を瞠り、パイ缶をあけて歓待した。用件は解決し、島田知事の発案通りになった。「帰る時は気をつけろ、途中十字路や三叉路は思い切って走れ、ポーン、ポーンと射つ時は、5発目の一発が危ないぞ」と平賀中佐が注意してくれた。その通り細心の注意を払って帰途についた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 99頁より》

島田知事は、日本軍から壕の明け渡しを求められた直後に、まだ米軍に占領されていない地域の市町村長を集め、緊急市町村長会を開くことにした。招集状は、警察部員によって市町村長らが避難する居村の壕に配られた。

 

首里高等女学校、瑞泉学徒隊

首里高等女学校の学徒は、61人が動員され「瑞泉 (ずいせん) 学徒」となる。そのうち半数以上の33人の女子学徒が亡くなった。

アメリカ軍は浦添まで迫りました。そこに配置されていたのが首里高等女学校、ずいせん学徒隊の生徒たちです。4月24日宜野湾嘉数の最前線を突破したアメリカ軍は二日後の26日、浦添での激戦を展開します。

仲西由紀子さん「一歩でも自分の家が近いほうがいいと言ってそれで仲間に行ったらね、第一線、大変ですよもう」

首里高等女学校ずいせん学徒隊は62師団石部隊に配属。数日で戦争が終われば家にすぐ帰れるとの理由から中・北部出身の女学生は北寄りの浦添での看護にあたったのです。しかしそこは戦闘の最前線でした。

大川トヨさん「負傷兵は手の切れた人とか重傷な人だけ、一番怖かったのは顔が半分切れた人が来て・・・」

浦添での激戦で遭遇した初めての友の死。生徒たちの恐怖は一気に現実味を増してきます。

大川トヨさん「手当するとき大声でお母さんよ神様なのになんで助けないねって大声で泣いてかわいそうだったよ」

宮城巳知子さん「兵隊も看護隊もみんなへとへとになって生きているか死んでいるか分からないぐらい兵隊はみんな傷口からウジ虫が湧いて辛かったどころじゃない。あれはもう地獄・・・」

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月26日

 

そのとき、住民は・・・

スパイ狩り - 前も後ろも敵だった

沖縄戦における民間人の戦死者数は10万人から15万人と言われているが、そのうちどれだけの住民が日本兵によって殺されたのかは不明。住民を粛清するために使用されるスパイという言葉はどんな日本軍の横暴も可能にした。

沖縄戦の絵】スパイ容疑をかけられた私 

那覇市天久の壕でのこと。…壕の入り口の1つを開けると「誰だ!」と中から日本兵の声。「避難民です」と言うと「何、避難民か。動いたら撃つぞ」と言われ、出てきた日本兵たちが…上半身を裸にして電話線でうしろ手に縛った。日本兵は「貴様、スパイだな」と言うばかりで、違うと言っても信じてもらえなかった。どうにもできずにいると、3日前別の壕で話をした日本兵がきて「この人のことは私が保証する」と口添えしてくれて、ようやく解放された。直後、同様にスパイの疑いがかけられた沖縄の青年が日本兵に連れられ壕から出るのを見た。10メートルも行かないうちに銃声がし、振り向くと沖縄の青年は死んでいた。…「スパイ容疑をかけられて生きている人はごく少ない。私は幸い生きているし、同じ容疑で人が捕まって殺されるのを目撃しているから話せる。前も後ろも敵だったが、途中からは日本兵の方が怖かった。戦争になったら人間が人間じゃなくなる

スパイ容疑をかけられた私 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局 

機嫌を損ねたり都合が悪くなると、軍は「スパイ」という言葉をふりまわした。

当時15歳の高等女学校の生徒が壕の中に閉じ込められている2人の男性を目撃している。2人とも日本軍にスパイ容疑をかけられ捕まっていた。

その一人、当時60歳の男性は日本軍に薪や竹、さらに当時貴重だった饅頭を納入していた。これらの代金が未払いとなっていて、日本軍に請求したところ、逆に日本軍にスパイ呼ばわりされ捕まった。米軍上陸直前で緊迫している日本軍の機嫌を損ねたのだろうというのが周辺住民の見方である。

もう一人、当時50歳の男性は、ハワイ移民帰りで、ハワイ式農業経営を行っていた。飢えた日本兵が無断でこの男性が飼っていた豚をと殺して食べた。男性はこれに抗議した。住民の誰かが、この男性がハワイ移民帰りであることをとらえて、「彼はスパイだ」と日本軍に告げ、スパイ容疑で捕まった。

その後、この2人は射殺された。

スパイ容疑で日本兵に斬殺された祖父 司法が認めた沖縄戦の実態⑦ | InFact / インファクト

 

金武の収容所

1945年1月から日本軍は金武や屋嘉にべニア板の特攻艇「震洋」秘匿壕を作っていたが3月14日の急襲ですでに打撃を受けていた。金武村の住民や疎開してきた人々はさらにヤンバル山中に避難するなか、米軍は金武に4月5日に到達、すぐさま金武飛行場の建設を開始する*1

米軍は中部で基地建設を進めるため下原・泡瀬の中部の民間人収容所から住民をさらに北部へと移動させ始めた。

石川の収容人口は約 13,000 人に、金武の収容人口は約 15,000 人に達した。

清水史彦「沖縄戦下の民間人収容所の展開に関する考察 : 米軍基地建設計画と関連して」(2017)

米国海兵隊: Scene at town of Kin, where native Okinawa evacuees were brought for shelter and medical treatment.
地元の避難民がいる金武町の風景。保護と診療を受けるために連れてこられた。1945年 4月26日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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海兵隊 Scene in Kin, where native okinawa evacuees were brought for shelter and medical treatments. Marine Corps trucks brought these people from various parts of the island where they had been made homeless because of the war.

金武の町。米軍は、戦災によって家を失った沖縄島各地の人々を保護し、治療を受けさせるために、海兵隊のトラックでここに集めた(1945年4月26日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Street scene at road junction in town of Kin, with wrecked houses in the background.

金武の町並み。後方には壊れた家々が並ぶ。(1945年4月26日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 金武大川で洗濯をする人々。

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金武の水場で洗濯をする沖縄の人々。水路へ取水された水はまず飲料水として用いられ、次に野菜洗い用、水浴び用、最後が洗濯用(1945年4月26日撮影)

Okinawans washing their belongings at a water point at town of Kin. This water is diverted into channels where it is used first for drinking purposes then for washing vegetables, for bathing and finally for washing clothes.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

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