1945年 4月28日 『米軍の部隊交替』

南進する米軍

部隊交替と海兵隊の南下

4月28日、バクナーは第3水陸両用車の第1海兵師団にたいして、3日以内に戦線の西翼をになう第27歩兵師団と交代するようにつげた。』(44頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 44頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/LIEUTENANT_GENERAL_SIMON_B._BUCKNER_in_Okinawa.jpg

第10軍司令官 サイモン・B・バックナー中将

Simon Bolivar Buckner Jr. - Wikipedia

『4月の末日までには、前線の部隊交替は、日本軍の陣地が頑強で、しかも早急には陥落しそうにもないことから、どうしても必要だった。第96師団は、沖縄上陸のときから、すでに師団としては十分な兵力をもっていなかったが、戦闘でさらに大きな損害をこうむっていた。そのためどうしても休養が必要であり、また他部隊と入れ替わる時間も必要だった。これに反して、第77師団のほうは、慶良間列島伊江島で戦ってきたとはいえ、比較的フレッシュであった。また第27師団のほうは、もともとは沖縄戦に使うつもりはなかったが、第7師団と第96師団だけでは首里防衛戦を突破することはむずかしいことがわかったので、臨時として第24軍団に配属されていたのだ。』(276頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 276頁より》

屋富祖(やふそ)

『西海岸のほう、第27師団の作戦区域では、アイテム・ポケットの戦闘は、事実上は4月27日に終わっていた。そのため第165連隊は、その後は小湾方面を偵察していた。また師団左翼のほうでは、第105連隊が浦添丘陵の戦闘後、部隊を再編して、4月26日には仲間の南端まで進撃して散兵線をしき、5月1日に交替するまでそこで頑張った。師団中央線では第106連隊の第2大隊が前線を確保するため、屋富祖周辺で4月27日から28日にかけて猛烈な戦闘に従事していた。だが、米軍はあまりにもその兵線を広げすぎ、兵も疲れきっていたので、4月末ごろの戦闘では大した攻撃もできなかった。』(277頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 277頁より》

 

前田(まえだ)

4月28日、第381歩兵連隊のK中隊は、浦添丘陵の日本軍の抵抗を弱めようと、第27師団の作戦地区を西方に進み、仲間村落を通って南西を攻撃し、校舎のほうに進んでいった。この校舎は、大きなコンクリートづくりで兵舎として使用されていたもので、日本軍の本部があり、仲間村落と前田村落の中間、丘陵の南側にあった。そこで半時間にわたる白兵戦のすえ、K中隊は多大な損害をうけて撃退され、生き残った兵は、煙幕のもとに退却せざるを得なかった。中隊で使えるものは、いまではわずか24名になってしまった。第381連隊では、K中隊、I中隊とも、多数の死傷者を出したので、ついに両中隊を合併して兵員70名、重機関銃4梃からなる、協力な1個中隊をつくった。』(290-291頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 290-291頁より》

 

幸地(こうち)

4月28日、まだ夜が明けきらぬうちに、第17連隊の第3大隊は、幸地丘陵西側で第1大隊と交替し、リー・ウォレス中佐の指揮のもとに攻撃を開始した。ウォレス中佐は兵を丘陵とゼブラ高地のあいだの切り通しに入れるのが得策だと考え、背後から幸地丘陵の防衛線を攻撃しようと思った。

まずL中隊が西側丘腹づたいに南進している間に、K中隊を切り通しにひきいれることには成功した。しかし、中隊がひとたび切り通しにはいると、たちまち日本軍の機関銃弾をあびて4名が戦死し、8名が負傷した。その後もたてつづけに機関銃の攻撃をうけて、ついに撤退せざるを得なくなった。一方、L中隊のほうは峰に着くことさえできなかった。』(282-283頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 282-283頁より》

 

 

第32軍の動向

北部戦線 

沖縄本島北部: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

沖縄本島北部の山中には、本部半島を占領されて退却した宇土大佐率いる国頭支隊の敗残兵や途中から合流した日本兵や学徒らがいた。米軍の攻撃を受けるたびに、北上したり来た道を引き返したりした際に、東村福地付近で米軍の攻撃をうけ、死傷者が続出した。

沖縄県立二中生の証言:

『「米軍は本部半島にも上陸した模様で、4月15日真部山が攻撃され、宇土部隊が潰滅的な打撃を受け、宇土部隊長も引き揚げてきた。本部半島はほぼ敵の包囲下にあるとの判断で16日撤収をはじめた。銃器、弾薬、毛布などをかついで、敵の機銃掃射をさけるため日中は山林にもぐり、日没後行動を起こした。17日朝、名護市呉我山に到着、昼間はじっとかくれていた。兵隊と二中生約20人がいたが、一番上が上等兵では指揮もできず、ウロウロと一週間がかりで22、3日ごろ多野岳まで逃げのびた。…ここでも敵の迫撃砲、艦砲の攻撃を受け、夜間に行動を開始、沖縄本島東海岸の有銘の民家に避難した。26日か27日の午後、銃声が聞こえるので歩哨を立てた」

「敵の斥候4人が通ったので撃つと1人が倒れた。1人は山手に行ったが、またひきかえしてきたので撃ったが当たらなかった。他の2人は手榴弾におどろいて逃げた。危険だというので夜間出発して、27日か28日に東村福地に着いた。28日か29日に福地川の谷間に避難した。対岸の炭焼ガマに入っていた農林学校の尚健少尉らは、米兵4、50人の馬乗り攻撃を受けて戦死した。馬乗りというのは壕や墓などに入っている友軍の上に米兵が馬乗りのような形で上がり、火炎放射機や爆薬などの攻撃をすることをいう。とにかく宇土部隊と行動を共にしていてはダメだというので、29日か30日に東村高江へ、5月1日か2日かに新川へ移り牛肉を食べた。」』(60-61頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 60-61頁より》

 

沖縄県立第二中学校

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中南部戦線

27日、28日の戦闘は、日本軍は体勢が悪いながらも、猛烈なファイトでこれを補って善戦した。24師団の歩兵32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)や第2大隊(大隊長・志村常雄大尉)が勇名を馳せたのも、この戦いであった。前田仲間と連なるこの浦添高地帯の特徴は、ここから見ると首里方面の日本軍陣地が見おろせる上に、これを失うと、この稜線から北の米軍の様子が全く見えなくなることであった。飛行機を一機ももたぬ32軍としては、これからの作戦指導のために、どうしても手離せない要地であった。』(238頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 238頁より》

小波(こはつ): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

『…28日、敵の集中砲火は昨日よりも早めに開始された。第1線の銃声も、9時には聞こえてきた。「戦車が小橋川方面より大山隊方面に前進中!」監視兵が叫ぶ。続けて、情報係の曹長が監視所から走ってきた。「戦車をやっつけた2台、大きなのをやっつけた!」彼らと一緒にいた樫木副官も引きあげてきて、声を弾ませながら報告した。

…大山大隊の陣地からは盛んな銃声が続いている。伊東は第1、第3中隊に命じて、擲弾筒各々1個分隊を大山隊の両側に出して支援させた。まもなく、西北方の翁長集落から出現した戦車を擲弾筒で撃退したとの報告があった。…しかし、陣地設備が不十分なため、猛烈な集中砲火を受けて損害を出すことになった。』(137-138頁)

『大隊本部の監視口から確認しただけでも、米軍は20両のトラックで死傷者を次々と後送していた。大山隊の報告によれば、肉薄攻撃により戦車2両を擱座させたという。』(141頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 137-138、141頁より》

  

前田(まえだ)

前田高地にいた兵士の証言:
『…途中で負傷兵ができて、それを、野戦病院に届けるように、小隊長から命令を受けて。その間、4~5日ぐらい遅れて行ったものですから、その間に、ほとんどやられてました800名から百何十名ぐらいに。ちょうど一線に出て行く途中で、アケラという一等兵が、朝、用を済まして、ヒエ畑で。帰るときに、艦砲の破片で股をえぐられましてね。それで小隊長が「それを病院に届けてくれ」と。「君は沖縄出身だから、それを届けてから、追ってこい」と。だから、防衛隊2人と私と3名で、その人を病院に届けて。軍病院に。それから、防衛隊連れて。1人はアケラ一等兵をそのまま残すわけにはいかんから、1人看護に残して。1人を連れて2人で島尻から前田(高地)までたどって行ったんですよ。

それから行ったら、もうみんな120~130人になっていました。前田高地の争奪戦で。前田高地を取ったり、取られたり、何回か繰り返すうちにほとんど、逝っちゃった。私が行った時期、その状況を聞いたら、もう戦友の誰々がいないよという話聞いてね。戦闘とはこんなもんだなと。』

www2.nhk.or.jp

 

南風原陸軍病院(沖縄陸軍病院南風原壕)

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『1944年5月に陸軍病院は開設され、10.10空襲後現在の南風原小学校に移動する。小学校の近くにある黄金森に米軍上陸にそなえて壕も掘られた。この周辺には南風原陸軍病院の本部壕、第一、第二、第三 外科壕があった。』

『1945年4月1日に米軍が上陸してからは負傷兵が次々に運び込まれるようになる。麻酔等はすぐに底をつき手術は麻酔無しで行われた。手術の間、患者が暴れないよう押さえること、切断した手足や死体の処分等も ひめゆり学徒の仕事であった。

ひめゆり学徒は沖縄師範学校女子部と第一高等女学校の生徒で構成されていた。彼女らは15歳~19歳であり、法的根拠もなく動員された。』

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『これが壕の入り口、黄金森の反対側にある。ここの壕は摩文仁近くの鍾乳洞などの自然壕とは異なり人力で掘られた物である。ひめゆり学徒が配置されたとき壕は出来上がっておらず 壕を掘りながらの看護作業であった。』

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『壕内は縦横2M程の巾で掘られている、奥行きは2~30M程だろうか。直角に枝壕が掘られている。自然壕ほど通気が良くなく息苦しい。当時はここに二段ベットが作られており、その焼けた残った支柱が今も残る。…壕は浅く天井から木の根などが出ている 箇所がある。』

南風原陸軍病院 | 那覇市 Naha City

ひめゆり学徒の証言:

『戦争は日一日と激しさをまし、壕と壕との往来が次第に危険になってきました。…そのうち、第1線から移送されてくる患者が次第にふえ、生徒独自の壕もなくなり、生徒たちは患者の壕に割り当てられました。

…動ける患者は壕の入口近くにいて、奥にいくほど重傷患者がいました。壕に入ると、血や膿小便や大便、さらに汗臭い垢だらけのからだの臭いなど、さまざまな臭気がまざって壕内に漂い、気分が悪くなりました。

…肩から指先まで添え木を当てて包帯を巻いた兵隊、気管をやられて、たえず「ピー、ピー」とのどをならしている兵隊、火炎放射器で顔を焼かれ、目鼻と口だけを残して顔に包帯をぐるぐる巻いた兵隊、胸部を貫通され呼吸するたびに背中の傷穴から「ジュー、ジュー」と泡を出している兵隊、脳症をおこした兵隊などです。』(86-87頁)

《「私のひめゆり戦記」(宮良ルリ/ニライ社) 86-87頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

前田(まえだ)高地周辺

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RBC 琉球放送】戦後70年の地平から「前田高地の戦い」

前田高地の戦い | 琉球放送

 

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 旧南風原陸軍病院壕 当時の「臭気」再現