1945年 6月11日 『住民は日本兵の盾』

南進する米軍 

西部戦線

小禄(おろく)半島

『シェファード少将は、6月11日午前7時30分を期して、一大総攻撃を命令した。8個大隊のほとんどを動員し、これに戦車隊をつけた。戦車は数日の好天でもはや泥にわざわいされる心配はなくなっていたのである。』(463頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 463頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/85-35-1.jpg

小禄半島で混乱した日本軍陣地を砲撃する第22海兵連隊特殊兵器中隊のM-7型戦車。(1945年 6月11日撮影)

M-7 tanks of Special Weapons Co. (22nd Marines) as they shell disorganized Jap positions on Oroku Peninsula.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『これは、日本軍の抵抗に最後のとどめを刺すための作戦計画であった。第29海兵連隊は西から、そして、第4海兵連隊は南から、それぞれ攻撃を開始したが、抵抗が強く、わずかしか進撃できなかった。第22海兵連隊のほうでは、熾烈な砲弾幕をあびせたのち、南東の方向から筆架山の62高地に向かって進撃した。第1回目の攻撃では目的地に到達しないうちに、進撃が阻止されてしまったが、正午ごろには、第22海兵連隊の第2大隊が62高地をもう一度攻撃し、一方、第3大隊のほうでは、そこから、およそ300メートル北のほうにある53高地に向かって攻めていった。

午後1時30分、筆架山の第1目標である62高地は陥落し、また日本軍の保持している他の地域も見渡せる同じく筆架山の53高地も、その後まもなく米軍の手におちた。米軍海兵3個連隊は、およそ1キロ平方の地域に固く包囲陣を保持した。日本軍の壊滅戦はその翌日に行われた。』(464頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 464頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/85-06-1.jpg

日本兵撃退およびノミ駆除のため、小禄半島近隣の家屋が焼き払われる(1945年 6月11日撮影)

Houses are burned in vicinity of Oroku Peninsula to dislodge both Nips and fleas.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

西部〜中央戦線

国吉(くによし・くにし)丘陵

『第1海兵師団は沖縄の西部海岸を糸満のほうから上に攻め、さらに小禄半島を南部の戦場から隔絶するようにしてゆっくり進撃し、わずかながら抵抗はうけていた。ところが、国吉丘陵の北1500メートルほどのところまでは、それで良かった。そこから以南に進むには、与座岳の高い所から見通しがきくし、日本軍の射撃をうけるのだ。』(490頁)

『…照屋と大里のあいだには第1海兵師団がいたが、この海兵隊の戦線と国吉丘陵のあいだには、長さおよそ1キロにおよぶ、低く細長い丘陵と、だいたいにおいて平坦といえる土地があった。

第7海兵連隊は、6月11日、あえてこの平坦地に進出してみたが、予想どおり、たちどことに日本軍の機関銃から猛射をうけて撃退されてしまった。』(490-491頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 490、490-491頁より》

 

中央〜東部戦線

八重瀬(やえじゅ・やえせ): (米軍呼称: ビッグアップル)

6月11日の朝、…第32連隊は玻名城の山に向かって進撃していった。B中隊が先陣となって高地の北東端を攻め、戦車や砲兵隊も猛烈に砲弾をあびせたため、山の一部は砲煙でかくれ、日本軍の壕内の機関銃陣地も見えなくなり、兵は一時は進撃することさえできないほどであった。…合議の結果、高さ50メートルのこの崖の頂上にいたる通路を火炎砲戦車を使って攻撃することにした。

…玻名城の山のほうへ戦車を走らせると同時に、米軍歩兵がまず登ることになっている山腹めがけて赤い炎の河を流した。火炎は山腹の洞窟にいる日本軍を、いささかの抵抗も許さぬほど完全に撃滅した。

午前11時、…ホースの端を火炎砲戦車に連結、他の一端をほとんど垂直に近い丘陵の側面に引き上げはじめた。…45分もかかってようやく岸壁先端の真下の小さな岩棚にたどりついた。そこでしばらく観察し、それから端のほうに、転げ込むように走り、近くの日本軍に火炎をあびせたのだ。…日本軍陣地があると思われるところに火炎を浴びせながら、そのまま南へ押していった。1輌の戦車の燃料がきれると、ホースは別の戦車に連結するようにしながら・・・。

6月11日の夕方、米軍前線の部隊が塹壕を掘って、いよいよ戦闘開始の準備をしているとき、第7師団の各戦闘連隊から出た大隊は、沖縄南部で、日本軍の主要防衛線内に小さいながらも一区画を保持していた。』(476-477頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 464頁より》

 

与座(よざ)

『6月10日、第38連隊は、与座村落をめざして進撃し、翌日には着いたが、廃墟と化した村落内に入るや、石垣から別の石垣に移るときでさえ、猛烈な戦闘が展開された。そればかりでなく、村落の南端にそびえる与座岳からは流れるように弾丸が飛んできた

夜に入るにつれ、銃火はますますはげしくなり、ついに米軍は、その夜、撤退せざるを得なくなった。』(477-478頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 477-478頁より》

 

 

第32軍の動向

小禄半島の海軍

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

10日夜、根拠地隊は夜間の斬り込みを実施。米軍の記録によると、11日朝には、200以上もの死体が全戦線で散乱していた。

11日朝、司令部壕に帰りついた中隊員は、約10人に過ぎなかった。…壕内は、前日とは打って変った混乱状態に陥っていた。』(436-437頁)

『11日付け大田司令官の戦況報告電報。

「早朝より司令部に対する包囲攻撃熾烈となり、司令部全力及951空一部を以て夕刻に至る迄激闘を交え、多大の出血を強要せり。司令部陣前にて2000迄に収めたる戦果、人員殺傷約1000、被害110」』(443頁)

『司令部壕が包囲攻撃される中で、大田司令官は6月11日が沖縄方面根拠地隊の最後の日になるのでは・・と考えたようだ。この日午後1時37分、32軍の長参謀長宛に次の作戦特別緊急電報を発した。

「敵後方を攪乱又は遊撃戦を遂行する為相当数の将兵を残置す。右将来の為一言残す次第なり」

…可能な限りの部下を包囲された陣地から脱出させ、後方攪乱や遊撃戦を命じたが、これらの兵士が戦線離脱や脱走などと誤解されないようにとの心遣いだった。

そして同夜、牛島軍司令官宛に、6日に続いて2度目の訣別電を発信する。

「敵戦車群は我司令部洞窟を攻撃中なり。根拠地隊は今11日2330玉砕す。従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る」

戦闘部隊ではない医務隊には、いち早く後方攪乱部隊として脱出が認められた』(444頁)

衛生兵長の体験談:

『「壕内の通路は運び込まれる負傷兵の悲鳴や唸り声で、阿鼻叫喚でした。治療の仕様がない患者も多く、最後の一言は皆『お母さぁーん』でしたねえ」

夜更け、米軍の攻撃の止み間を見て脱出、北部へ行こうと小禄地区と那覇市を隔てている国場川の、周囲15メートルぐらいの小さな中州に這い上がった。対岸は照明で昼間のように明々と照らし出され、敵のトラックがひっきりなしに通っているので、渡れない。結局、身動き出来ぬまま夜が明けてしまう。

「民間人が作った壕があったんやけど、岩の上に板を掛け、土をかぶせて阿檀の葉で擬装しただけのものでね。そこへ兵隊や民間人が30人近くも隠れたもんやから、すぐに見つかって擲弾筒を撃ち込まれ県民が随分亡くなりました。可哀相に赤ちゃんも含めて。12日の昼頃、私らは中州へ上がってきた米兵7、8人の捕虜になりましたが、74高地の司令部壕は見ているのも辛い程、集中砲火を浴びていました」』(444-445頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史」(田村洋三 / 光人社NF文庫) 436-437、443、444、444-445頁より》

6月11日、早朝から74高地は米軍の包囲攻撃を受け、沖縄方面根拠地隊は奮闘、弾薬がつきるまで交戦したが、どうしようもなかった。海軍部隊の最後がせまりつつあった。』(115頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 115頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/87-22-3.jpg

大田中将のいる壕の近くで、日本軍の対戦車地雷に触れた海兵隊の6×6トラック。あらゆる平坦地や小禄半島のすべての道と同様、豊見城地域にも大量の地雷が仕掛けられていた。

A view of a Marine 6x6 truck that struck a Japanese anti-tank mine in the vicinity of Admiral Ota's cave. The Tomigusuki area was heavily mined as were all flat areas and all roads in the Oroku Peninsula.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

軍司令部

八原高級参謀の回想:

小禄地区の戦闘は、当初すこぶる悲観的で、一挙に潰滅するのではないかと危ぶまれたが、漸次戦勢を持ち直し、金城、豊見城、75高地付近の一角でよく健闘し、その戦況報告は日々確実に軍司令部に到達した。しかし衆寡敵するはずもなく、敵の包囲圏は日々圧縮され、「敵はわが司令部洞窟を攻撃し始めた。これが最期である。無線連絡は11日2330を最後とする。陸軍部隊の健闘を祈る」の電報が11日夜遅く、我らの手にはいった。長恨限りなく、悲痛極まりなし。大田将軍、棚町、羽田、前川の各大佐に顔が目に浮かぶ。いくたびか戦いを議し、ともに飲み、談じた人々の数々の思い出こそ、哀れである。謹みて敬弔の誠を捧げるのみ。』(398頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 398頁より》

 

西部〜中央戦線

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

6月11日を迎えると、敵は国吉台へ歩兵と戦車の大部隊で攻撃を開始した。これに対し、歩兵には機関銃擲弾筒小銃で猛射を浴びせ、打撃を与える。戦車には速射砲と師団砲兵の野砲それぞれ1門が有効な射撃を加えた。照屋北側高地と国吉台地の間には、幅700メートルほどの平坦地がある。そこを通過してくる敵は、あらん限りの火力で必死に反撃する伊東大隊にとって、格好の餌食となった。』(238頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 238頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

壕からの追い出し

攻撃から身を守るには、ガマや地下壕に逃げ込むしかない糸満市には確認されているだけでおよそおよそ240か所のガマや壕があったが、それでも全く足りなかったという。このうち110か所は、日本軍が陣地などに使っていたが、アメリカ軍の制圧地域が南下するにしたがってガマの不足が顕著になり、住民が隠れていたガマに日本兵たちが混在する状況がさらに増えていった。』(153頁)

沖縄県庁職員の証言:

『「日本の兵隊が来まして、おばあさん連中はみんな出ていけというんです。私が『あんた方、今来て出ろと言ってもね、外は弾が降っているじゃないか、出ろというのはその場ですぐ死ぬことになるじゃないか』と言ったらね、兵隊は『何貴様、何言ってるんだ』と言って、すぐに拳銃を出しましてね、撃とうとしたんですよ」』(153頁)
NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 153頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124288.jpg

食糧や衣類、避難所を確保するため民間人収容所へ向かおうと、海兵隊トラックの周りに集まる地元沖縄人。戦場から一刻もはやく逃げられることに喜んでいる。(1945年6月11日撮影、場所不明)

Natives of Okinawa crowd around Marine truck eager to go to civilian collection point for food, cothing and shelter. They were glad to get out of battle area.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

壕の奥深くに潜んでいた上等兵の証言:

『「住民を我々の中に入れておくわけにもいかないんですよ。かといって、私らが離れて入口に住むわけにもいかないし。住民たちはアメリカ兵に見つかっても、殺されないだろうとは思っていました。兵隊は自分の身を守るだけでやっとこさ、そういうことからいくとね、わからない。案外住民を(盾として利用したかもしれない」』(154頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 154頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/325724.jpg

アメリカの前線の後方で沖縄の少女の傷の手当をする海軍医エドワード中尉。住民ボランティアが助手を務める。(1945年6月11日撮影)

Lt. (JG) E.W. Edwards, Navy doctor, treats the wounds of a young Okinawan girl at the rear of the Yank lines. A civilian volunteer works assists.
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

収容所の様子

屋嘉(やか)収容所: 石川市

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124673.jpg

6月11日、沖縄最大の収容所のある石川市で開かれた演芸会に集う1万8千人の人々。(注記:写真日付は1945年5月だが、キャプション原文では6月11日となっている)

FIRST WORK, AND THEN PLAY… This is part of the crowd of 18, 000 Okinawans who recently participated in an engeikai, or native festival, which was held June 11 at ishikawa, the largest civilian Refugee center on the island.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124669.jpg

6月11日最大の民間人収容所のある石川市で開かれた演芸会で愛情を表現した舞を披露する沖縄の若き婦人。

The Love Dance is performed by two young Okinawa ladies at the engeikai, or native festival, held on June 11 at Ishikawa, the largest civilian refugee center on the embattled island.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月11日(月)