1945年 7月13日 『ハンセン病患者と沖縄戦』

そのとき、住民は・・・

ハンセン病患者と沖縄戦

『日本のハンセン病に対する政策は、1907年制定の法律「癩予防に関する件」以来、患者を隔離するというものだった。それが1931年に全面的に改正されて「癩予防法」となり、全患者の隔離が打ち出された。ハンセン病は治療法のない恐ろしい伝染病であるから患者を隔離するという考え方で、療養所では患者に対する断種までおこなわれた。

ハンセン病は慢性の伝染病であるが、伝染力はきわめて弱く、通常の接触では感染せず、感染してもほとんど発病しない病気であり、患者の完全隔離は必要ないし、患者の人権の観点からも問題があることは当時のヨーロッパではすでに認識されていたが、日本はそれに逆行して完全隔離政策を採用した。

ハンセン病患者についての最初の全国調査がおこなわれたのは1900年であるが、このときの調査では患者数は3万359人(沖縄は547人)と報告されている。その後、患者数は減りつづけるが、沖縄では逆に増加し、1940年には全国で1万5763人と半減したのに、沖縄では1453人になっている。この時点で有病率(人口比)において、沖縄は本土の18.5倍という高い比率を示していた犀川 202、265頁)ハンセン病は生活水準の向上によって急速に減少していくものであり(伝染しても発病しない)、沖縄の生活水準の劣悪さが本土との格差を生み出していたと言ってもよいかもしれない。

1936年から内務省は、「患者1万人収容計画」の実施に取り組みはじめ、各地の療養所を国立に移管して定員も大幅に拡大し、隔離政策を進めた。各県でも「無らい運動」、すなわち全患者を療養所に隔離する取り組みが実施された。この結果、1941年には入所患者数が初めて1万人を超えた(在宅患者数は42年時で4583人)

沖縄では取り組みが遅れ、1931年宮古島に県立宮古保養院(のち宮古南静園)が、38年本部半島のすぐ側の屋我地島に臨時国立国頭愛楽園(52年に沖縄愛楽園)が設けられた。41年7月に両者とも厚生省の管轄となり正式に国立となった。43年1月末時点で県下のらい病患者は2つの療養所に収容させている者718名、未収容者624名、計1342名となっている(『沖縄県史料 近代1』416-420頁)。』(148-150頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 148-150頁より》

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日本軍の大収容(早田皓「戦時と敗戦直後の沖縄のらい」1973年)

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 / 吉川由紀 / 沖縄国際大学非常勤講師 | SYNODOS -シノドス-

『愛楽園が開設されたのは1938年であるが、それまで沖縄本島には、らい療養所がなかった。いくつかの候補地は地元の反対で挫折するが、とくに大きな社会問題となったのは1931年から32年にかけての嵐山事件だった。これは北部の羽地村嵐山(現名護市)に県が密かに療養所を建設しようとしたことに始まった。村ぐるみの反対運動は周辺の町村をも巻き込んで拡大したが、32年6月には県下の警察官が大動員されて弾圧がおこなわれ、100人以上が検挙されるまでにいたった。結局、県は療養所の建設を断念した犀川 194-195頁)。』(152頁)

『こうしたなかで沖縄戦を迎えることになった。第32軍が44年3月に創設されてまもなくの6月11日、渡辺軍司令官が愛楽園を訪問し講話をおこなった。その4日後には広池文吉軍医らが訪問している。それに前後して5月には読谷から、7月には伊江島から患者が送られてきた。飛行場建設にあたって村内にいた患者を退去させたと見られる。日本軍がハンセン病患者の問題に当初から注目していたことは間違いない。その後、8月初めに牛島司令官が着任してから事態が動いた。日戸軍医がハンセン病対策の担当となり、本島内を調査し、9月に大規模な強制収容をおこなった。各地から乱暴なやり方で連行して収容したとみられ、野良仕事をしているときに有無を言わせずに連行するようなこともおこなわれ、手荷物の持参さえ許されない者も少なくなかったという。9月末には愛楽園の収容者は定員450人の倍を超える913人に膨れ上がった。当時の早田晧園長も軍に在宅患者の死を求めていたようであり、従来からの内務省厚生省の完全隔離政策を、多数の日本軍が進駐してきたのを機会に一気に実現しようとしたと見られる。また軍の立場から言えば、兵士が感染して戦力が低下することを防ぐために隔離しようとしたものと見られる(『命ひたすら』にくわしい)宮古南静園でも同様に強制収容がおこなわれ、定員300人(41年時点での実員は231人)のところに400人余りが収容された(みやこ・あんなの会『戦争を乗り超えて』190頁)

日本軍の記録では、45年2月10日に南部の玉城村にいた独立混成第15連隊がl「地区内癩病患者退去命令を発」して村内の4人を退去させている(沖縄150)。この4人の名前まで記されているが、30歳、31歳、44歳、53歳の男である。彼らは愛楽園に収容されたのだろうか、わからない。この4人は前年の強制収容のさいには免れていた者たちだろう。

2つの療養所に収容された患者たちは自活を余儀なくされた。愛楽園の早田皓園長が45年3月に、遠縁にあたる第62師団長本郷中将を訪問したさいに、入園者に手榴弾を支給してもよいと申し出を受けたが、「非戦闘員である患者は当然無抵抗で対処すべきだと固辞」したという。しかし4月に米軍の砲爆撃によって65棟のうち62棟を失い、ほとんど灰燼に帰した。4月21日米軍が上陸してきたが、ここがらい療養所であることを説明すると米軍は誤爆を陳謝した。その後、米軍が食糧や建設資材を提供して沖縄戦終結前には復興しはじめたという(『命ひたすら』118-119頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 150-151、152頁より》

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過酷な労働や栄養失調、マラリア等で多くの患者が亡くなった早田壕

沖縄愛楽園早田壕 | たびらい

防空壕などに避難していたために米軍の砲爆撃による死者は幸い1人だけで済んだが、1945年一年間の入園者の死者が252人、入園者の27パーセントに達している。それまでの年では死亡率は数パーセント(42年2.3パーセント、43年3.3パーセント、44年6.2パーセント)にすぎなかったが、長い壕生活や栄養失調、マラリアアメーバ赤痢などによって、多くの犠牲者を出した犀川 97-98頁)

宮古南静園でも、米軍の上陸はなかったが、空襲によって施設は壊滅的に破壊され、職員が職場を放棄して避難のたために、患者たちは海岸付近の壕などに隠れたが、400人あまりの患者のうち110人が飢えやマラリアなどによって死亡した(『戦争を乗り越えて』174-177頁)。直接戦火の犠牲になったわけではなかったが、社会から隔離されたなかで、多大の犠牲を出したのである。

…米海兵隊員として北部に行ったH・L・ピーターセンさんの証言によると、北部でハンセン病患者が小屋に閉じ込められていた。住民から、「誰にも感染させたくないので、小屋を焼き払いたい、しかし患者を閉じ込めたままでは焼きたくないので、患者は外に出して米軍の手で殺して欲しい」と頼まれた。住民は小屋に火を放ち、髪が垂れ下がった患者を縄で縛って連れてきた。軍医の許可を得て、米兵が射殺したという(吉田健正『沖縄戦 米兵は何を見たか』148-9頁)。』(151-152頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 151-152頁より》(投稿者注: 「米兵に射殺された」という事件は、『ハンセン病差別被害の法的研究』93頁によると、吉田健正『沖縄戦 米兵は何を見たか』に記述された事件発生時期は、1945年4月とのこと。》

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愛楽園内に残る防空壕。園長の名をとって「早田壕」と呼ばれている(2015年1月沖縄愛楽園自治会撮影)

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 / 吉川由紀 / 沖縄国際大学非常勤講師 | SYNODOS -シノドス- | ページ 2

『…沖縄のハンセン病隔離政策の第4期はアメリカ統治下の沖縄であり、戦後第1期から戦後第3期に細区される。各期を概観して戦後本土復帰前の沖縄における絶対隔離政策による差別被害を明らかにしたい。…戦後第1期(1945〜52)は、沖縄における第3次の療養所への大規模収容が行われる時期である。その始期は、宮古群島では米軍が進駐する1945年12月であると考えることができるが、沖縄島・周辺諸島ではこの始期を確定するのは難しい。というのは、米軍が愛楽園のある屋我地島に上陸するのは1945年4月21日であり、同月27日には軍医らが愛楽園を視察して、屋我地島において療養所を維持せしめ、「隔離と治療のために沖縄のすべてのらい患者をそこに移送すること」等の5項目の勧告を行っている。同時にこの視察団は「田井等の4人のらい患者」(「4人のうち3人は前入所者であった」)を愛楽園に連行していた。記録に現れる米軍による最初期の収容である。さらに5月27日にも愛楽園の視察が行われ次の3点が報告されている。「(a) 深刻な食糧不足。これが原因でらい患者の中には沖縄本島に渡っていく者がいる。(b) 不十分な住居。その結果、500人以上の患者が依然として洞穴に暮らしており、そのため管理統制は殆ど不可能になっている。(c) 医薬品と医療器具の不足。そのため医師の診察を受けてきた患者や近隣住民の適切な治療が妨げられている」。この状況を改善するために、2日後の5月29日に食糧や医薬品が愛楽園に届けられた。

しかし!いずれにせよこの時期は交戦中であり、日本兵も愛楽園に来て食糧の提供を要求している。また、…米軍により破壊された施設内で壕生活を強いられた入所者に多数の死亡者が出たのは、十・十 空襲後の約一年間においてである。』(180頁)

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 180頁より》

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 【沖縄戦の絵】「空襲を受ける沖縄愛楽園」

『昭和19年の10・10空襲で、当時国民学校6年生…が学校帰りに見た光景。昼ごろ雑木林の中を歩いていると5、6機の戦闘機が現れ、日本軍機と思って手を振ると機銃掃射を始めたので、とっさに松の木陰に隠れた。翼には米軍機を示す星のマークが見えた。戦闘機はハンセン病療養所の現在の沖縄愛楽園へ向かい、機銃を撃ちながら急降下を繰り返し、建物のセメント瓦の屋根が銃撃で砕けた。急上昇する機体からは黒い爆弾が落とされた。
米軍機に憎しみを感じると同時に、攻撃のすさまじさに圧倒された。…沖縄愛楽園の自治会で入所者の証言などを集め編集している事務局によると、10・10空襲については当時の園長の手記に、爆弾の破片で2~3人が軽いケガをしたと記されているとのこと。攻撃の理由は、軍事施設と思われたのではないかとも言われているが、正確なことは分かっていない。』

空襲を受ける沖縄愛楽園 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『…米軍は屋我地島上陸の6日後に「隔離と治療」の方針を早くも打ち出しており、「戦争中四散した患者や新患者を発見次第、愛楽園に送り込んだので、愛楽園はますます、衣食住の問題で混乱し、虚脱状態になり生き地獄の様相を示した」。』(181頁)

『米軍は、1945年3月26日、慶良間諸島に上陸し、また同年4月1日、沖縄島に上陸すると、ニミッツ布告を発して軍政を敷くことを宣言する…公衆衛生に関する布告は9号であり、同1条1項は、「占領地において免許状を有する医者、歯科医、薬剤師、看護婦、産婆其の他の者にして病人を治療し、病気の予防治療をなし、又は薬剤を配給する者は追て軍政府より命令ある迄各自其の業務を継続すべし」と規定し、同2項は、軍政が右業務従事者に「免許状を下附」すると規定する。愛楽園において業務を継続する医師とは早田と松田であり、看護婦とは三上らである。』(184頁)

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 181、184頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/344747.jpg

ハンセン病療養所の主任医師早田氏と勤務中のスタッフ。(1945年7月13日撮影

Dr. Hayata, standing, is head doctor in the leper colony and office staff at work.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…読谷村楚辺で民間人のために病院を開設したロバート・リビングストンら6人の軍医は、同時に付近にハンセン病患者らの囲いを設けた。しかし、米軍が本部半島を制圧すると、「屋我地島で日本人によって運営されていたらい療養所が現在もあり、2人の日本人医師がその施設で勤務の継続を許可されている」ことを知らされ、その数日後に彼らは、「私たちの15人のらい患者をこれらの医師の1人である早田皓医師のもとに護送するように連絡を受けた」。15人のうちの何人かは愛楽園の前入所者であった。「早田は私よりも私の患者らをより温かく迎えた」、とリビングストンは感じた』(184-185頁)

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 184-185頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/344754.jpg

ハンセン病療養所の墓地。(1945年7月13日撮影

View of the burial tomb for the leper colony.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月13日(金)