〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月11日 『戦争マラリア』

天願桟橋 / 日本軍とマラリア / 離島残置工作員「山下」

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

住民不在: 米軍は住民を収容所に排除したうえで次々と米軍基地を建設した。

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Marine Cpl. Paul R. Stransky, 19, Milwaukee, Wisc., parachute rigger attached to a fighter sqd of a MarAir Wing, has two pet kittens he found in an abandoned native village on Okinawa. He has named them Argonne and Chateau Thierry. He is the son of Mr. and Mrs. Joseph Stransky, 4060 N. Farwell Ave., Milwaukee.

村人のいなくなった沖縄人の村で見つけた子猫を育てる海兵隊航空団戦闘飛行隊所属パラシュート整備員ストランスキー海兵隊伍長。アルゴンとシャトー・テリーと名づける(1945年7月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

海軍のミツバチとも称される建設大隊(シービーズ)は、1945年に5万5千人が沖縄に上陸*1、4月1日以来、建設に建設を続けた。

天願桟橋

米海軍は沖縄島の東海岸を基地化。金武湾と中城湾にずらりと諸施設を建設する。7月、天願桟橋を完成させる。

現在の米海軍基地「天願桟橋」

【訳】天願桟橋はさまざまな種類の武器や弾薬を搬入するため使用される。天願桟橋はキャンプ・コートニーの正門から北に約1.6 km(1マイル)の場所にあり、金武湾のPOL貯蔵施設  (註・陸軍貯油施設) は、桟橋のすぐ隣に位置する。

U.S. Navy: Tengan Pier

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第7建設大隊による工事。沖縄にて。弾薬運搬用桟橋と杭打ち機。(1945年7月11日撮影)

Construction by 7th CB on Okinawa, Ryukyu Islands. Ammunition pier and pile driver.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 海を埋め立て水上機基地を建設。しかし1945年9-10月の台風で大破し解体された。

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第7建設大隊による工事。沖縄にて。水上機基地。駐機場と2本の舗装道路が見える。(1945年7月11日撮影)

Construction by 7th CB on Okinawa, Ryukyu Islands. Seaplane base, showing apron and two causeways.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Construction by 7th CB on Okinawa, Ryukyu Islands. Coral pit, showing shovels and drilling operations supplying coral for seaplane base fill.

第7建設大隊による工事。沖縄にて。珊瑚を掘削して出来た穴。ショベルや掘削機を使った作業の様子。水上機基地の埋立建設に使う珊瑚を掘り出すために行われている。(1945年7月11日撮影)
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

マラリア防疫隊 - マラリアとは

マラリアという感染症

マラリアとは、マラリア原虫を持つハマダラカという種類のメスの蚊に刺される事によって感染する病気です。

八重山のマラリア史

【訳】太平洋戦線 (PTO) で日本軍と戦う米兵は非常に多くの課題と危険に直面した。戦争の歴史によって見過ごされがちな、これらの中で最も陰湿なものの1つはマラリアです。この病気は、通常、感染した兵士にとって致命的ではないが、戦闘で負傷したかのように、長期間にわたって戦力外の状態にさせる。米陸軍のマラリアとの戦いは、人間 vs. 自然の興味深い物語であり、日本との戦争でのアメリカの成功がかかったものであった。

The Other Foe: The U.S. Army’s Fight against Malaria in the Pacific Theater, 1942-45 –

読谷飛行場 - 米軍のマラリア防疫隊が軍用輸送機C-47でDDTを散布する。

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A Douglas C-47 ”Skytrain” of the 316th Troop Carrier Command, spraying malaria infected areas of Okinawa.

マラリアの汚染した地域に薬を散布する第316兵員輸送部隊ダグラスC-47スカイトレイン。沖縄。(1945年7月11日撮影、撮影場所、散布地域不明)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Interior view of a Douglas C-47, 316th Troop Carrier Command, after DDT tanks had been installed. Capacity of each tank is 275 gallons. Yontan Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto.

DDT(殺虫剤)タンク取付後のダグラスC-47内部。第316兵員輸送部隊。タンク容量は275ガロン。読谷飛行場(1945年7月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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A view of a spray jet attached to a Douglas C-47 of the 316th Troop Carrier Command. Four C-47s are used for spraying native villages, in infected areas, with DDT. Yontan Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto.

第316兵員輸送部隊ダグラスC-47に取り付けられた噴霧器汚染地域に4基のC-47でDDTが散布される。読谷飛行場(1945年7月11日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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A Douglas C-47 ”Skytrain” of the 316th Troop Carrier Command, spraying malaria infected areas of Okinawa.

マラリアの汚染した地域に薬を散布する第316兵員輸送部隊ダグラスC-47スカイトレイン。沖縄。(1945年7月11日撮影、撮影場所、散布地域不明)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Malaria control team. マラリア防疫隊(撮影地: 安慶名)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍と「戦争マラリア

「戦争マラリア」とは

1920年代後半から記録されたデータでは八重山においてマラリアによる死者はほとんど見られなかった。

日本軍も八重山に駐屯する際、マラリアの有病地帯については把握していました。しかし1945年6月、日本軍は住民たちを有病地帯へ強制避難(退去)させる命令を下しました。… 日本軍のマラリア有病地帯への強制避難命令によって、16,884名マラリアにかかり、3,647名が命を落としました。このことを、戦前のマラリアとは区別して「戦争マラリアと呼んでいます。

八重山のマラリア史

日本軍は八重山の住民をマラリア有病地に強制移住させた。

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八重山のマラリア史

 

黒島 - 命じられた全家畜の屠殺

暁部隊の広井修小隊長は軍獣医で、島の1600頭の牛を解体し塩漬けにして石垣島に搬出、ほとんど空襲もない黒島の島民をマラリア有病地に強制疎開させた。波照間の離島残置工作員「山下虎雄」が行った。

黒島で挺身隊として牛の解体作業に従事させられた島民の証言

こういう事情から推して、暁部隊の黒島駐屯の任務は島民を避難と称して追い出し、牛を奪って食糧を確保することにあったと思うのである。牛は伊古部落の海岸で潰しておったが、1600頭の島の牛は三か月後には全滅して、浜には牛の骨で異様な山ができていた。... 役場からの命令が出て、島をはなれて避難をはじめたのは四月に入ってからである。

避難の指揮は山川がとっていた。この男は前の年に学校の教員として来ていたが、赴任する時は校長も教頭も、視学さえも知らなかった。ちようど時を同じくして、波照間には山下、西表には山本、与那国には山里と、みんな山のついた名まえの教員が赴任しているが、その中のひとりである。もちろんみんな偽名で四人とも軍人であった。島の人々にとって山川はまっく得体の知れない男で、スパイではないかとささやき合うこともあった。学校へもきちんと行っているのか、道で子どもたちとふざけあっていることがよくあった。学校では教員は足りているのだから行ってもすることはなかったわけである。夜は時々青年や婦人を集めて話しをしたりしていた。

暁部隊が来てからはほとんど部隊と行動をともにしていたかれが、避難命令が出ると俄然威圧的となった。まだ二十四、五歳であったが、軍人の本性をまる出しにして居丈高となり、島の人々に怒鳴り出した。黒島の人々は西表島のカサ崎へ避難したのであるが、五つの部落の避難していく家の順序も山川が命令した。輸送は暁部隊の大型発動艇がとることもあったが、島のサバニが出ることもあり、その時の船頭も山川が命令した。

《「島民追いだして牛の強奪」沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

波照間の離島残置工作員「山下虎雄」

波照間島 - 波照間島の豊かな家畜資源も日本軍によって全屠殺され加工されて石垣島に搬送された。住民は「山下虎雄」によってマラリヤ蔓延地域に強制疎開させられた。

疎開が開始されると軍は波照間の豊かな家畜を目当てにその徴用にやってきた。当時波照間では私が畜産組合長押してその増産奨励を行ってきた。就任当初は牛は300頭しかいなかったが疎開前は800頭へ、豚75頭から400頭へ。鶏も一千羽から5千羽へと増産がめざましかった。特に鶏は全郡一の豊かさで、全郡の卵の需要を波照間の卵で満たしており、卵は波照間として特に知られていた。… 徴用に来たのは軍の獣医広井少尉であった。日本軍は横暴で島の住民に向かって抜刀して脅し家畜の徴用を命じた。…「家畜は一匹たりとも残すな、残したら米軍の食料になるから全部殺させよ。」と日本刀を振りかざして指導に回った。当時島のいたるところに肉だけ取って残った頭、骨、内臓が森や洞窟に捨てられ、また肉さえ取らないでそのまま腐らした牛がる所に捨てられ、その腐敗した匂いといい、その様相は家畜の生き地獄さながらであった。

《 「波照間の疎開死線を越えて沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

青年学校教員として波照間島に来ていた「山下虎雄」は、実は第二護郷隊として西表島へ配置された陸軍中野学校出身の離島残置工作員だった。

彼は軍隊について知っている者は島には彼以外にいないと考え、また彼より強そうな者は必ず負かして彼の支配下におこうとした。彼は島の人たちを畜生同様に考え、馬鹿にしていた。島には日本軍人は彼一人であるし、彼は軍政下だから軍人である彼には何でもできると錯覚したのか、島のすべての権力の上に君臨し、学校長、巡査、区長、該員などすべて彼の軍刀支配下においた。

疎開地へ最後に運航した晩、山下は巡査をはじめ住民30-40名に暴行を加えた。それを見た仲底善祥はそのことを次のように話した。

「その晩は前、名石、富嘉部落などの最後に残った疎明民が出発することになっていたが、集合が遅いし、また、船の能力も考えないで勝手に荷物を積んであるということで、巡査もいながらこんなことをするのかと言って、巡査をはじめ、部落の大人たち三~四〇名が彼にたたかれた。特に亀浜巡在はひどくたたかれ、けられ、溝に仰向けに押し込まれ、暗がりで見ていた人々には、巡査は死んでしまったのではないかと思われるほどだった。彼は巡査であろうが、職員であろうが、彼の思うとおりにいかなければ、抜刀してかかってきて子ども扱いにしたものだ。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)164-165頁 》

住民虐待

山下が数人の男女へ暴行しているのを目撃した女性の証言

それは、山下が波照間からくん製にして持ってきた自分の牛肉の俵が見つからないのは班長に責任があるということで北と南部落の班長を南部落の一班小屋の前に集め、一例に並べて手を上にあげさせて、生竹の一メートルぐらいあったものでたたき、それが割れ、ちぎれ、一節になるままでたたいた。私たちはかくれて見ていたが、あとは恐ろしくて見かね、また、山下に見つかったら大変だということで、ばあさんたちが、こんなものは見た人に罪があり、見ない人には何の罪もないというので逃げてきた。
沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)165頁 》

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潮平正道戦争絵画作品

石垣国民学校に駐屯していた朝鮮人軍属が過酷な作業で両足を怪我し作業に行けないため、一日中炊事場のハエ取りを命じられ、夕方撮ったハエの数を報告して夕食の許しを得ているところ。西隣の家 (宮良宅) から二人の少年がこの様子を見ている。

石垣字会戦争資料展

当時、西表では蠅が多くいたため、山下が命令して、青年たちや挺身隊だけでなく、小学校の生徒にも、その蠅を取らせていた。竹の筒や瓶、壷に蠅を取ってくることを命じ、その数が決められた数より少ない生徒たちには、一列に整列させ、竹で殴るという体罰を加えている。その時、小学生であった富底利雄さんは、「蠅を取るのは、西表では蠅が多いので、衛生上の理由からでした。蠅を取るのが少ない人は体罰を受けることになっていました。学年によって、によって、竹でたたかれる回数は決まっていて、一年は一回、二年は二回、三年は三回、高等一年は六、七回というふうでした」と証言している。 この体罰は、上級生に対して、よりいっそう厳しいものであった。

体罰による死亡事件

体罰を受けた生徒の中には、蠅を集めるには集めたが、それを山下に見せる時点でこぼしてしまい、たたかれる生徒もいた。山下は理由などいっさい聞き入れず、竹の棒が割れるほど殴るのである。外間イクさんの証言によると、「決められた数の蠅を捕まえることができず、そのために山下と、彼の部下であるI先生にもたたかれた阿利という姓の小学校四、五年くらいの子は、その体罰がもとで、病気になって死んだんです」と述べている。

さらに、富底利雄さんのお兄さんである富底康祐さんは、その体罰で殺されたのである。その時のことを富底さんは、「その日、康祐兄さんは決められた量より少しすくなかった。兄さんは数えきれないくらいたたかれました。康祐兄さんは最初、新品の竹でたたかれていましたが、それが割れると、今度はI先生が履いていた軍靴で四回ぐらい蹴りました。兄さんは竹でたたかれた時から、少し口から血が出ていました。そして、靴で蹴られてからはグアーッと血を吐きました。目の前で自分の兄さんが打たれている姿を見るのは胸が締め付けられる思いでした。体罰は十五分ぐらい受けたと思います。 体罰は一年、二年と学年順にズラッと並べられて、みんなの目の前でたたかれました。 私も側に居て、兄さんが倒れる所まで見ていました。兄さんは一番上級生でしたので、最後にたたかれました。

兄さんはI先生や生徒が帰った後、歩ききれないものだから、はって浜に行ったらしい。兄さんは砂を掘って血を吐いて波照間に向かって死んでいました

石原ゼミナール戦争体験記録研究会『もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島』おきなわ文庫 》

台湾人の虐殺

西表島の炭鉱は閉鎖状態にあったが、働かされていた台湾人らが残っていた。

山下は疎開する前は怖くありませんでしたが、疎開してから怖くなりました。どうしてかというと、南風見で彼が台湾人を虐殺する現場を目撃したからです。山下は、後ろ手にしばられてつながれた四人の台湾人を川のそばに連れて行って、次々と彼らの首をハネました。この光景を見て私たちは心臓がつぶれそうになるぐらい怖くなりました。… 山下は一言もしゃべらず、凶行を行ないました。台湾人たちは首をハネられた瞬間は血は出ませんでした。しかし、しばらくしてから一気に首の根元から血が噴き出しました。私は人間が犬畜生のように殺されるのを見て、いたたまれない気持ちになりました。山下は四人の首を落とすと、台湾人の胴体を川に放り込みました。

《『もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島』石原ゼミナール戦争体験記録研究会、おきなわ文庫 》

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孝子さん一家11人全員がマラリアにおかされ、孝子さんと妹のたった2人だけが生き残りました。西表島への疎開を指揮したのは誰だったのか。二人はこう話します。「ある日、突然島にやってきて、疎開を指揮し、戦後こつ然と姿を消したヤマトンチューがいた」と。…

酒井清輔、別名・山下寅雄。スパイ活動やゲリラ戦などを専門とする陸軍中野学校出身者でした。川満さんは疎開は、住民の安全のためではなく、別の目的があったのではと指摘します。

川満さん「石垣島にいた日本軍の食料を確保するために。住民が邪魔だから西表島に強制疎開させたんじゃないのかという論がある。あの論の推測は高いと思う」

山下軍曹自身もこんな証言を残しています。『殺した牛や馬などを焼いて、軍の糧秣として石垣島へ送り出した』

さらに、驚くべき事実も明らかになりました。当時、沖縄には42人もの陸軍中野学校出身者が送り込まれていたというのです。山下軍曹のように離島に潜伏した者は全部で11人。沖縄全域にわたっていました。その目的とは…。

川満さん「第32軍が壊滅したあとも、彼らが残って持久戦をやると。遊撃戦。いわゆるゲリラですね。西表島に米軍が上陸したら、(波照間の)挺身隊も遊撃させる。そういう計画があったのかな、と僕は考えます」

琉球朝日放送 報道部 » Qリポート 強制疎開迫った人物は

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玉城功一さん「だからこういう辺鄙な島の、小さな住民がどうなってもいいかと、そういう考え方じゃないか。と私たちはそう見るんですがね。」

軍隊は住民を守らない。戦争マラリアの歴史は、戦争の教訓をいまに伝えているといいます。

玉城功一さん「いままた最近これが見えてきている。軍事基地をいつまでも沖縄に置こうとか、自衛隊を与那国に、石垣にも配置することを考えているかもしれない。戦争マラリア沖縄戦もそうですけど、過去にあった出来事だけでは済まされない。」

Q+リポート 戦争マラリアの劇を通して – QAB NEWS Headline

 

そのとき、住民は・・・

八重山の戦争マラリア

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住民避難計画は軍の作戦上からなされたものである。… それよりも軍が、複郭陣地内指定地区へ住民を“退去”させたのは、防諜や住民の動向監視のためである。陣地構築、弾薬運搬に動員され、軍事施設の場所を知り尽している住民は軍にとって危険な存在であった。そのため敵の上陸する恐れのある海岸地区居住の住民は強制的に山岳地帯へ追いやられたのである。住民が退去させられた指定地域は、マラリアを媒介するハマダラ蚊の生息地であった。… 45年のこの年、八重山群島において3674人マラリアによって死亡した。

《「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) 188、189頁より》

ルポライター鎌田慧さんは、生き残った住民に聞き取りをした上で、著書『日本列島を往く(1) 国境の島々』の中で、「住民を強制移住(強制疎開)させようとする軍部の方針は、住民に対する不信感によっている。米軍が占領したあと、住民が敵に寝返りを打つかもしれない、との恐怖心の表れでもある。住民を丸ごと追い払い、牛を殺して食糧とする、それが山下に与えられた任務だった」と、日本軍の食料調達という目的のほかに、捕虜になった住民がスパイとして敵軍に利用され、自軍が不利になることを恐れたのだろうと述べ、「日本軍が島ぐるみ強制退去させたのは、住民の庇護というよりは、あくまでも大本営の戦術のためである。それもひとりの二〇代はじめの若い残置諜者の命令だけで、島のひとたちがマラリア地獄のなかに叩きこまれた」と結論付けています。

もう一つの沖縄戦 "戦争マラリア" を知っていますか? |AERA dot.

七月半ば疎開地ではマラリアの罹患者も増し、五十名を越えるマラリアの死亡者が続出していた。波照間島の住民はマラリアの恐怖におののいていた。また、確保してある食糧も底をつきはじめていた。このような悲惨な状況のなか、波照間島の住民が、このままでは全滅は目に見え、早く安全地帯である波照間島に帰りたいと思うのは当然のことであった。波照間島の人々が、前に波照間島に帰りたいと山下に要請したが、山下は「島には帰さない」との一点張りであった。そして、波照間島住民を使って山の奥の方に避難小屋をつくらせていた。そこで山下は命令による集団死を一部の女の人に示唆していたという。『県史』10 で、上盛ミツさんは次のように証言している。「山下は疎開地の婦人たちに、『近いうちに避難小屋に行くから一張羅の晴着を用意しておけ』というので自分たちを殺すつもりかも知れないと思って非常用袋を用意した。

《『もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島』石原ゼミナール戦争体験記録研究会、おきなわ文庫 》

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潮平正道戦争絵画作品

山に移住して10日ほどたつと、ハマダラ蚊に刺されマラリアの病状が出始める。まず強い寒気がして、ふるえがくる。しばらくして40°前後の高熱が出る。この症状が3,4日おきに繰り返し襲ってくるので、身体はだんだん衰弱して死に至る

石垣字会戦争資料展

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アメリカ軍の上陸も、地上戦もなかった島で、住民は、マラリアにり患し、高熱と栄養失調で島民の3分の1が死亡しました。

Q+リポート 戦争マラリアの劇を通して – QAB NEWS Headline

 

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書籍紹介

果たしてそれは75年前の昔話なのだろうか。

 

沖縄の地図を広げて見ると、ここ数年で新たな自衛隊基地が次々と建設されている。西から与那国島にレーダー基地(2016年3月配備完了)、石垣島ではミサイル基地の工事が進み、宮古島でもすでに存在する航空自衛隊基地に加えて新たに陸上自衛隊ミサイル基地が建設され、今年3月には部隊が配備された。さらに沖縄本島では既存の米軍基地32施設に加えて、辺野古新基地の建設が進められている。琉球列島の北に位置する奄美大島にも新たな自衛隊基地が建設された。それぞれの場所で反対の声をあげる地元住民たちを切り捨てながら、日米両政府による琉球列島全体の軍事基地化が強行されている。

 

2009年からの10年間、私が戦争マラリアの取材の中で出会った戦争体験者たちは、八重山諸島への自衛隊配備について誰もが危機感を持ち、反対の声をあげていた。 波照間島出身の玉城功一さんは「戦前と今は似ている」と語った。...  (中略)  ...

 

「国防」の名の下に琉球列島を覆っていく軍事基地。それは「皇土防衛のための不沈空母」の名の下に、沖縄に日本軍基地が急ピッチで建設されていった沖縄戦前夜の光景と酷似している。戦争マラリアから今現在へと繋がるレールの上を私たちはもうとっくに歩き出しているのではないか。民よりも国体を優先した沖縄戦当時の国家のシステムは、今現在も地下水脈のように私たちの足元に脈々と続いているのではないか。
軍隊と住民が雑居した時に起きた悲劇。75年前の戦争マラリアの歴史が証明した教訓は、いまだ全く学ばれないままだ。

 

危うい時代である今こそ、沖縄戦を学び直そうと声を大にして伝えたい。それは「沖縄戦は残酷だった」と涙を流すことでも、「沖縄県民はいつも可哀想だ」と同情することでもない。問われているのは、75年前と同じ手段でまたも騙されつつある日本国民全員だ。私たちにとって、最後の砦は、歴史から教訓を得ることであり、今の時代を見極める知恵を得ることであると思う。いつの時代も国家の捨て駒にされるのは、私たち国民なのだ。

【寄稿】もうひとつの沖縄戦「戦争マラリア」│ 大矢英代

 

沖縄「戦争マラリア」-強制疎開死3600人の真相に迫る [ 大矢英代 ]

 

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