1945年 5月23日 『泥と死体とウジ虫と』

首里に迫る米軍

5月23日の午前中、第1海兵師団と第6海兵師団の境界線が右翼(西)方向に移され、第6海兵師団は陣容を立て直すことになった。第5連隊第3大隊は延びた前線を埋めるべく、第1海兵師団の右翼に入った。』(373頁)

 《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 373頁より》

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Chapter 09 | Our World War II Veterans

 

西部〜中央戦線

クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

『頭上を砲弾がけたましくとびかうなか、われわれは大名峡谷西側の新たな攻撃地点に移動した。前線を形成するK中隊の兵士たちは2人、3人と、ハーフムーン・ヒルと呼ばれる、砲撃も生々しい草木一本ない泥だらけの丘へと進み、先陣部隊が使っていた壕におさまった。われわれ迫撃砲班は丘のふもと、最前線のおよそ100メートル後方にあるちょっとした高みの陰に位置を定めた。…その向こう、砲煙を透かして左手前方にひときわ高く見えるのが、日本守備軍司令部のある首里高地だった。そのまがまがしい難攻不落の自然の要塞の上に、わが軍の大砲、重迫撃砲、砲撃支援艦が、緩急をつけながら絶えず攻撃を加えていた。だが、敵もひるまない。目標をしっかり見きわめて、大砲や重迫撃砲でこちらの攻撃陣地をくまなく襲ってくる。そんな反撃が連日、昼も夜も絶えることなく続いた。』(376頁)

『K中隊は第5連隊第3大隊の右翼をにない、ハーフムーンのふもとを西へと進んだ。日本軍は南方向に三日月状に張り出した二つの山腹の洞窟群を占領して、頑強に抵抗を続けていた。…砲を壕に据え、目標に向けた試し撃ちを行い、弾薬も準備して、ようやく初めて陣地の周囲に目をやった。そこには、身の毛もよだつ地獄のような光景があった。以前ここは、草のそよぐ低地を絵のように美しい小川がうねり流れる、牧歌的な谷間だったはずだ。それが見渡すかぎり、目をそむけたくなるような泥だらけの荒れ地に変わっている。死と腐敗と破壊がないまぜになった異様な気配に、息が詰まりそうだった。』(379頁)

 《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 376、379頁より》

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ハーフムーンヒル

HALF MOON HILL and the corridor leading to the Kokuba Gawa as seen from Sugar Loaf.

Chapter 09 | Our World War II Veterans

『…遺体はとりあえずそこに置かれて、やがて埋葬のため後方へ運んでもらえる時を待っているのだ。…あたりは砲弾のえぐった穴がそこかしこに口を開け、爆発に巻き込まれた土や泥が一面に飛び散っている。どの着弾跡にも半分水がたまり、その多くには海兵隊員の遺骸があった。痛ましいことに、遺骸の多くは死んだときの姿勢のまま、錆びた武器をつかんで、なかば泥水に浸かっているそのまわりを巨大なハエの大群が飛び回っている。』(379-380頁)

『激戦のなかで息絶えた日本兵の死体も、いたるところに転がっていた。アメリカ軍、日本軍を問わず、さまざまな歩兵用の装備も散らばっている。ヘルメット、ライフル、ブローニング自動小銃、背嚢、弾薬帯、水筒、軍靴、弾薬箱、薬莢、機関銃用の弾薬帯・・・それらがわれわれのまわりから丘の上まで、ハーフムーン全域に点々と落ちていた。…死体の周囲1、2メートルまでは泥だまりをウジ虫が這っているが、もっと先になると、雨水に押し流されていく。丘には高木も低木もいっさい残っておらず、遮蔽物一つなかった。砲弾が草地をずたずたに裂き、もはや緑はないに等しい。夕刻にはまた土砂降りになった。泥また泥の世界に砲声が響き、砲弾がえぐった穴からは濁水が溢れ出し、もの言わぬ哀れな死者が腐臭とともに横たわっている

…たちこめる屍臭は圧倒的だった。そのとてつもない恐怖に耐える方法は一つしかなかった。自分を取り巻く生々しい現実から目をそむけ、空を見上げること。そして頭上を過ぎる鉛色の雲を見つめながら、これは現実じゃない、ただの悪い夢だ、もうすぐ目が覚めてどこか別の場所にいることに気づくはずだ、と何度も何度も自分に言い聞かせることだった。だが、絶えることなく押し寄せてくる腐臭はごまかしようもなく鼻腔を満たし、呼吸するたびに意識しないわけにはいかなかった。』(380-381頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 379-380、380-381頁より》

 

シュガーローフ: (52高地)

『ついに第6海兵師団は、シュガーローフの占拠を確たるものにした。しかし、祝賀ムードはほとんどなかった。埋葬しなければならない海兵隊員の死体があまりに多かったからである。』(374頁)

死体収容作業をした海兵隊員たちの証言:

『「軍曹が、…〝多くの死体は、もう5日間も放置されており、このままだと溶解して、地面にとけて染み込んでしまう…〟と言ったんだ、まったくその通りだったよ」(374頁)

「ある死体は、負傷して治療中に死んでおり、包帯をまいたままだった。その中に、自分で腹部の傷に包帯をまいた状態で死んでいった者もあったが、腐敗して膨張していた」(375頁)

「…雨は土砂ぶりで、くるぶしまで泥に埋まりながらだった。作業していると、時折ジャップの狙撃兵が発砲してきたし、狂ったように迫撃砲弾が落下してくることがあった…」(376頁)』

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 374、375、376頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/126262.jpg

日本軍の死体が散乱する丘を越えて行く海兵隊(撮影場所・日時は不明)

Marine patrol advancing along hill which is littered with enemy dead.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『荒れ果てたシュガーローフ一帯には、数百、数千もの日本兵の死体が散乱していた。その大半は、独立混成第15連隊の兵士たちだった。…死体はあらゆる場所に散らばっており、突き出た手や足が「まるで子供のボーリングゲームのピンのようだった」…それ以外の日本兵もシュガーローフの地下トンネルや、洞窟で腐って横たわっていた。勇気をふりしぼってシュガーローフの裏側斜面の入り口から洞窟の1つに入った海兵隊員は、3人の日本兵が機関銃のかたわらに横たわっているのを見つけた。軍服の内側はドロドロしており、溶解した皮膚が辛うじて骨に張りついている状態だった。…「可能なかぎり日本兵の上に土をかぶせたよ」「そしたら、あろうことか雨がふり出して、洗われた死体が地面からふたたび出てきてしまった。頭部が見えたので歩み寄ってみたら、足から全身、蛆虫が張りついており、耐えられない悪臭がただよっていたんだ」日本兵の死体は死んだ場所で土をかけられるか、あるいは、そのまま放置されて腐っていった。』(377-378頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 377-378頁より》

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“シュガーローフ”--1ヶ月後。反対斜面にある無人の日本軍壕を調べる海兵隊員。手前には、日本兵の死体やガスマスク、ライフル銃の残骸がある。手前右の包帯に巻かれた日本兵の頭蓋骨に注目。

SUGAR LOAF - A month later Marine probing into empty Jap cave on reverse slope. In foreground remains of Jap soldiers body, gas mask, rifle. Note: Jap skull with bandage right, foreground.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『一方、海兵隊員の死体はアムトラックに載せられて、第6海兵師団の師団墓地に埋葬するために運ばれた

埋葬班の一員だった、ある海兵隊員は18から20体の死体とともにアムトラックに搭乗した。アムトラックの床面には10センチほどの水がたまっており、車両が坂道を登ったり降りたりするたびに、死体の山が水の中で前後に転がりはじめた。手すりにしがみついていた海兵隊員は、死体の山と水の直撃をうけバランスを失ってしまった。…「死体の頭が、目の前にせまってきたかと思うと、つぎに腕の部分がせまってきて、気がつくと死体の山に押しつぶされそうになっていた」…「そのうち、水も流れてきて、色んなものが口の中に入ってきた。水に、蛆虫に、肉片も。〝やめてくれ〟〝やめてくれ〟〝やめてくれ〟って叫んだけど、そのうち気を失ってしまった…」』(378頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 378頁より》

 

安里(あさと): (首里の南東、弁ガ岳方面から那覇を東西に横断するように流れる)

23日の未明から午前10時ころまでのあいだに、偵察隊は日本軍からのたいした応酬も受けずに、およそ400メートルほども南の方に進出した。米軍は前進を開始してから1時間半後には、すでに2個大隊が煙幕の下に、安里川を渡った。兵は胸までつかる流れの中を12人1組になって、担架で戦死傷者を後方に送ることにした。

川を渡るのに困ったのは車輌だ。第6工兵大隊はこのため23日の夜、車輌用の架橋をしようと苦心し、ガダルカナルの経験を利用して5台のLVTを流れにつっ込み、それで堤防のようなものをこしらえようとした。ところが、LVTが、途中、堤防で2台が敷設地雷にやられ、結局この計画は頓挫してしまった。』(402-403頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 402-403頁より》

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那覇港と安里川を結ぶ運河。運河にかかる橋が破壊されていることに注目。

Excellent view of the Naha Canal, linking the Asato Kawa and Naha Ko. Note the wrecked bridges across the canal.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『日本軍左翼での戦闘は新しい段階にはいった。5月23日安里川上流を渡った第6海兵師団の右翼部隊は、その後ずっと日本軍の抵抗にあい通しだった。なかでも第4海兵隊のほうでは、豪雨で泥沼と化した低地帯や、粘土質の小高い丘を攻めようとして、大損害をこうむっていた。

…この日は、第1大隊は牧志を占領はしたものの、豪雨のため橋は流され、付近は湿地帯で戦車は通れず、海兵隊は前進しても、いたずらに死者を出すだけであった。』(405-406頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 405-406頁より》

  

中央〜東部戦線

与那原(よなばる)・コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

5月23日の雨の日の朝、第2大隊と第3大隊が、この一連の丘陵奪取をめざして、まず攻撃の火ぶたを切り、その日の終わりには村役所跡後方の山にいるG中隊と〝高嶺〟を占領したL中隊のあいだにわずかに前線のギャップが生じただけで、馬天港の海岸線から雨乞森村役所跡後方の山高嶺にいたる強固な前線を確立することができた。

2日間も降りつづいた雨の中を、第184連隊は、与那原南の日本軍防衛線を1800メートルほども奥深く突破した。そして、第32歩兵連隊のほうでは、包囲作戦の第2の局面、しかも決定的局面を展開すべく進撃を開始できたのである。』(409頁)

『第32連隊の主力は、…第184連隊のグリーン大佐から、ぶじ通過したという無線電話による連絡を23日の朝に受けてから、進撃を開始した。その日の午前10時45分、同連隊の第2大隊は、与那原を通過して西へ向かった。最初の目標は、与那原の西側、那覇ー与那原街道から南になっている一筋のひも状の丘陵地帯だった。与那覇村落のすぐそばには高い山があり、これをオーク・ヒルと名づけた。

日が暮れるまでに、第2、第3の両大隊は、与那原の南西で1キロにおよぶ散兵線を展開し、西に面して首里包囲作戦に運命を託す用意をととのえた。

このときまでには、すでに日本軍の重機関銃は火を吐き、米軍の進撃速度を落としていたが、これは明らかに今後の反撃は激しくなることを物語るかのようであった。

降りつづいた雨は、コニカル・ヒル北に集結した戦車群を泥の中にめり込ませ、各指揮官が先攻隊として期待していた装甲車隊もその機能を果たせなくなった。その他、重砲類も同じように動きがとれなくなり歩兵は独自で進撃をつづけていかねばならなかった。』(410-412頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 409、410-412頁より》 

youtu.be

那覇首里ー与那覇戦線の米軍

Battle of Okinawa US Marines & Army Soldiers in Combat Naha Shuri Yonabaru Line with Sound WW2 - YouTube

 

 

第32軍の動向

捨て石にされた沖縄県

前日22日、第32軍は首里の司令部壕を放棄し、沖縄本島南端の喜屋武へ撤退することを決め、そこで最後の一兵まで戦うつもりでいた。

大本営陸軍部(参謀本部)はかねてから「沖縄は本土決戦準備のための捨て石であり、時間稼ぎのための楯である」との方針を固めていたが、軍司令部はそれを忠実に守ったのである。牛島司令官の「残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、沖縄の島の南の涯、尺寸の土地の存す限り、戦いを続ける」との言葉にそれは表れていた。

だが、それは南部へ逃れている県民約15万人を巻き込んで、島尻全域〝戦場の村〟と化す悲劇の始まりであった。逃げ場のない島の南端に追い詰められる県民の運命は、一顧だにされなかった。』(156頁)

《「ざわわざわわの沖縄戦  サトウキビ畑の慟哭」(田村洋三/光人社) 156頁より》

『これを知った島田知事は県民保護の立場から「首里を捨てて島尻南端の水際まで下がれば戦線は拡大し、県民の犠牲がいっそう大きくなる」と強硬に反対したが、軍は聞く耳を持たなかった。それどころか首里放棄・南部へ撤退の方針すら県や報道機関には明示せず、非戦闘員の南部避難のみを指示した。南部へ追い詰められる県民の運命は、初めから眼中になかったのである。』(318頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318頁より》

 

軍司令部

『軍司令部はその夜のうちに、新たな司令部壕として島尻郡南端・摩文仁村の「摩文仁の丘」(標高が89メートルあるので、軍は89高地と呼んだ)西部にある一部構築の自然洞窟を確保した。また移動可能な負傷者と軍需物資の後送を命じると共に、軍司令部要員の首里脱出は同27日、第1戦主力部隊の撤退は29日ごろと決めた。軍司令部壕の第4、第5坑道にいた第5砲兵司令部の撤退も27日と決まった。』(318頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318頁より》

『…首里撤退が決定されて、32軍は、29日に予定された主力の後退を援けるために、豪雨のなか、第一線の配置換えを行なった。首里北方の備えは、しっかりしていた。西には、有力部隊を32軍に派遣しながらも、約8千名の海軍陸戦隊が、大田実海軍少将の指揮下に、堅固な陣地を築き、立てこもっていた。北と西とは、戦線も比較的安定しており、防いでみるだけの自信があった。ところが、東部戦線が、極度に堅迫していた。

運玉森の陣地に拠って、南進する米軍を食いとめていた部隊が、東方の中城湾に浮かぶ米艦艇から撃ちかけてくる艦砲射撃があまりにも猛烈なので、艦砲弾の飛んでこない丘の西側の陣地に避難していた夜なか、叩きつけるような大雨のなか、米7師団に闇の運玉森の東のスソをスリぬけられた。難所を突破した米軍部隊が、勢いを増し、与那原から西に向かって、さらに進撃をつづけそうな様子が見えていた。』(275-276頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 275-276頁より》

 

沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊(略称・沖縄一中鉄血勤皇隊): (隊長: 篠原保司陸軍中尉)

『一中勤皇隊本部が首里で重大な決定が成された気配に気付いたのは、保栄茂グスクの壕に入って1週間目の5月23日ごろである。雨が降ったり止んだりの鬱陶しい空模様の下、第62師団野戦病院(石5325部隊、62野病)の自力で辛うじて歩ける〝独歩患者〟数十人が突然、保栄茂グスクの壕へ撤退してきたからである。

全員、血と汗と脂と泥にまみれた軍服、銃にすがってヨロヨロと歩くあまりの落魄ぶりに、勤皇隊員は愕然とした。中に火炎放射器で顔を真っ黒に焼かれた少年兵がいて、一日中うめきどおしで痛々しかった。撤退してくる負傷兵はその後も増え続け、篠原隊長は野病の幹部と協議の末、勤皇隊本部が入っていた広い上の壕を明け渡し、下の壕へ移った。』(319頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318頁より》

 

 

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