〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月3日 『沖縄人のための野戦病院』

人種隔離部隊 / 敗残兵の夏 / 東恩納博物館 / 胡屋野戦病院

 

米軍の動向

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END OF THE FIGHTING FOR NEWLY-WON OKINAWA--Okinawa didn't bring the last of the bad weather, as this picture of a deeply bogged bulldozer will attest

勝利で終わった沖縄戦。ぬかるみに深くはまったブルドーザーの写真が示すように沖縄では天気の悪い日が続いている。1945年8月3日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦利品への執着

米軍は兵士に戦利品を所持し本国に発送することを持ち帰ることを

土産物には不思議な熱意が示された。もし、日本人の死への決意がたいていのアメリカ人には説明しても受け入れられないとしたら、ほとんど無価値な日本の工芸品に対するアメリカ人の情熱も、奇怪といえる。歩兵のエネルギーの一滴たりとも無駄にせず、生き残ることが要求された作戦では、いちばん恐ろしいことのひとつが土産品狩りに行くことは全員が知っていた。…老練の兵士でも、あれほど苦しい思いをして身に付けた戦闘知識の基本原則を破った。冷静で注意深い男が、何かいいものを発見するために、洞窟に入っていく危険を冒したこともあった。(317頁)

 アメリカ兵の本国宛の手紙のかなりの多くが、戦利品のこと、それが没収された時の恨みごとを書いていた。「これを手に入れるのには命懸けだったんだ。それをどこかの馬鹿者がもっていきやがった」と、…自分の愚かさをさらけ出しているのにも気づかないで、不平をこぼしていた。前線で戦った者の多くは、後方勤務の部隊が自分たちのために宝物を盗んだと確信していた。中には禁制の武器として没収されたものや、公式に禁止されている死者の切断の証拠として没収されたものもあった。(319頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 317、319頁より》 

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兵士達は時間ができるとすぐに戦利品の箱詰め作業に取り掛かる。故郷に送るため、日本軍のライフル銃を箱に詰めているイリノイ州出身のワール一等兵(1945年 6月15日撮影)

As soon as time permits the boys start boxing up souvenirs. Here is Private First Class Russell I. Wahl, Cornell, Illinois, boxing up his Jap rifle to send home.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

アメリカ兵は、彼らの自由な時間を使って過度に「収集」に熱中していた…日本刀は最高の記念品であった。その他、珍重されたものは、日章旗、中でも特定の部隊の全員が署名した大きな旗、さらに、腹巻があり、これは愛する母親が兵士の家の近所にいる千人の女性に一針ずつの寄進を懇願したものだった。…手紙類、歯、ベルト、人骨、下着、黄色くなったスナップ写真、汚い帽子、時計、小銃、櫛、茶碗、指、液につけた指など様々だった。…それは軍隊のものでなくてもよかった。どんな質素な沖縄住民の家にも、壁に家族の写真がかけてあり、…軍服や着物、上着をつけて写っていた。それも戦利品になった。

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 327-318頁より》

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沖縄侵攻の様子。海兵隊員や陸軍兵が日本兵から奪った日章旗

Scenes during the invasion of Okinawa. Jap battle flags, carried by each Nip fighter until deprived of it by a marine or soldier.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

歴史的に重要な宝物や文化財・美術品などは、戦争によって破壊され、瓦礫に埋もれたと信じられてきました。しかし、琉米歴史研究会が、失われた文化財や遺品を捜し求め、元ある場所に戻すという大変困難な活動を始めてからは、その多くがアメリカの兵士たちによって戦利品として、または金儲けのために米国に持ち去られたという事実が分かりました。…

写真や旗、銃や武器などを戦利品として持ち帰ることは許されていましたが、沖縄の港では軍の検査官が配置され、沖縄を出発する兵士たちの荷物を検査し、軍事的かつ諜報的な価値を持つものを含め、歴史的、文化的価値を持つものがないか調査していました。 

非営利活動法人 琉米歴史研究会

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Overall shot of the 1st Marine Division Post Office, housing mail bags containing over 21,000 packages for 1st Division Marines. All packages have been held up for front line troops, to be given them after the Division is secured. The post office, built expecially for the packages is 40' wide and 250' long. A tarpaulin covers only the top, packages packed solid can be seen all along the sides.
第1海兵師団の兵士宛の小包21,000個以上が入った郵便袋を保管する、第1海兵師団郵便局の全景。前線にいる部隊のための郵便物の配達は休止しており、師団の安全が確保された後に配達される。小包専用に建てられた郵便局は幅40フィート、長さ250フィートであった。防水シートが上を覆うだけで、脇からは中身の詰まった小包が丸見えである(1945年6月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

戦闘部隊から建設大隊に至るまで、住民が指定の民間人収容所に強制収容され無人となった地域では、まるで休暇のレジャーのように戦利品ハンティングが行われた。米軍が地元から回収し民間人収容所の住民に送る手はずになっていたものすらが奪われた。

米陸軍公刊史

一方、米軍人による土産物探しは、民間人の衣類に深刻な被害をもたらした。深刻な (収容所での) 衣類不足を報告した月に、第27師団は米軍が住宅略奪の罪を犯していると示唆した。オリバー J. チェイカ大尉「最も恥ずべき破壊行為の例…安谷屋では衣服、あらゆるものが家から投げ捨てられた。作戦の非常に早い段階で、慶良間列島座間味村でも、土産物ハンターが第8-9分遣隊の (民間人用に村から) 回収された靴と衣類の倉庫の75%を盗んでいた」

Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950; Center of Military History U.S. Army, Washington, D.C., 1988. p. 51. - Basically Okinawa

 

人種隔離政策と沖縄戦

アメリカでは奴隷制廃止から1960年代の公民権運動に至るまで特に南部では厳しい人種隔離政策 (segregation) が行われていた。アフリカ系アメリカ人に武器を持たせないために黒人は軍隊から排除されていたが、第二次世界大戦になると若干数の黒人部隊が編成され、多くは非戦闘部隊 (non-combat) として後方に配属。一部のヨーロッパ戦線での活躍 (バッファローソルジャーやタスキーギエアメン) を除き、多くの場合黒人部隊は兵站業務や基地建設などに配置された。公民権運動にさきがけ米軍内の人種隔離政策が撤廃されたのはトルーマン大統領による1948年7月26日の行政命令からである。

海軍建設大隊 (CBs) においても、人種隔離部隊のトップに南部出身の白人将校を据えるなど、黒人部隊の運用そのものにも多くの問題が内在した。また太平洋戦線で大型爆撃機用の滑走路建設などに携わった陸軍航空工兵大隊の半分以上は黒人部隊であった。しかし、彼らを記録にとどめた写真は非常に少ない。彼らを「見えない存在」に落とし込む軍内の強烈な人種差別は、また米軍支配下の沖縄にも、さまざまな負の影響をもたらすことになる。

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Negro tent area at the American Military Government hospital for natives on Okinawa, Ryukyu Retto.

米軍政府病院の黒人居住区。沖縄。(1945年6月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

アフリカ系アメリカ人は「ニグロ」と呼ばれ、黒人部隊は隔離された部隊として駐屯した。

沖縄戦最中の45年5月23日、米太平洋地区陸軍は第10軍に対し「戦後軍事編成に際しての黒人部隊の参入」に関する調査を実施している。… 第二次世界大戦下米軍は、軍隊組織において「分離部隊」と呼ばれる人種分離 (隔離) 政策をとっており、沖縄地区での黒人兵調査は時便を得たものであった。

米第10軍の回答によれば、沖縄戦の期間中最大で8,024人の黒人兵が派遣され、このうち3個高射砲大隊を除き、黒人兵全員が戦闘以外の任務についていると報告している。沖縄戦の全期間を通し、18万人から20万人の米兵が駐留したが、黒人兵の割合は全体の5%程度とみてよいだろう。… 報告書からわかるように、沖縄戦で黒人部隊がついた任務は後方部隊任務が中心で、それだけに民間人や日本兵捕虜等と接触する機会が多かったと言える。

保坂廣志沖縄戦下の日米インテリジェンス』(2014/5/20) pp. 183-4》

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Colored troops have a little jive session aboard troop transport enroute to Okinawa in Ryukyus.
沖縄に向かう兵員輸送艦上にて、スイングのリズムにのせてジャズを楽しむ黒人兵ら。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Negro soldiers attend services, 504th Bn.
第504大隊の礼拝に参加した黒人兵 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

歩兵第32連隊 - ある歩兵中隊長の死

沖縄の終わらない戦場は、飢餓との戦いであると同時に、また「孤独」と「狂気」との戦いでもあった。

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。敗北が決定的となった後も、日本軍は戦いを続け、さらなる悲劇を生む。

沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~|NHK 戦争証言アーカイブス

国吉台地に潜む敗残兵たちは終わりなき戦いを戦っていた。

伊東の友人だった砲兵中隊長は、観測班と共に壕の中にいた。… 彼は乱戦によって部下の砲隊と遮断され、手元の兵を次から次へと伝令に出し、最後の兵も出したが、いずれも戻らなかった孤独に苦しみ、2か月にわたる陰湿な洞窟生活がそれに拍車をかけ、とうとう熱病にかかってしまった。

「おい、貴様も身体を大事にしろよ」と、伊東に向かって時おり、不気味な笑みを浮かべながら話しかける。「わかった、わかった」と答えるものの、伊東とて我が身を大切にする何らの手立てもない。彼につけた当番兵は心配し、米軍の食糧や民家から拾ってきた味噌などで、懸命に食事の準備をしたが、なお不満そうだった。大隊長である伊東さえ、味噌など一口もありついていない。そのうち、味噌汁を勧めてもひと口も飲まなくなった。まれに熱が下がって気分が良さそうなときには、「俺も永くないよ」と、決まって言うようになった。頬はこけ、エヘエヘと不気味に笑う。不思議と眼は大きく開いていたが、瞳は力を失っていた。うわ言で母親や、最後に出した伝令の名を呼ぶこともあった。伊東が水浴に出かけている間に、彼は死んだ。胸が締め付けられる思いだった。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 263-264頁より》

  

そのとき、住民は・・・

東恩納博物館

沖縄戦では多くの文物が焼失し、また戦利品として海外に持ち去られた。そんな中、東恩納の小さな民家が展示館としてスタートし、沖縄県立博物館の母体となる。

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沖縄の歴史的建物が“シロアリ”“老朽化”で取り壊しへ…【沖縄発】

東恩納博物館は、米軍人・軍属に沖縄の文化・民俗を理解させることを目的として、当時の米軍政府教育担当のハンナ少佐が焼け跡から蒐集した戦前の陶器、彫刻、織物、漆器などを展示し、1945(昭和20)年8月、東恩納に開設されました。当初は「東恩納陳列館」という名称でしたが、1946(昭和21)年4月、同じく東恩納に設立された沖縄民政府の発足に伴い「東恩納博物館」と改名されました。1953(昭和28)年、首里郷土博物館と統合されて「首里博物館」となり、これが現在の沖縄県立博物館の母体となっています。博物館の建物は、米軍政府のコンセットが建ちならぶ中に、戦災にあわずに残っていた瓦葺きの家屋を修理し、その並びにもう一軒増築して使用していました。屋敷は粟石で囲い、その一角に池を掘り、日本風の庭を造ったといわれています。

うるま市指定の文化財 うるま市

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文化施設/創立当初の東恩納博物館 : 那覇市歴史博物館

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1945年8月、沖縄を占領したアメリカ軍のウイラード・ハンナ少佐は、沖縄の文化の高さをアメリカ兵やその家族に知ってもらおうと、戦災を逃れた文化財を集め、東恩名の民家を改造し「沖縄陳列館」を開館させました。後にその名を「東恩名博物館」と改めた博物館には、沖縄の伝統的な漆器や仏像などが展示され、現在の県立博物館の前身となりました。沖縄の文化を今に伝えたこの建物は市の文化財となりましたが、県や市からの特別な補助はなく、家主がひっそりと守り続けています。 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月3日(金)

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A BELL FOR OKINAWA, Ryukyu Retto - Famous in Okinawa's history which connects the past with the present is this huge bell which hangs in the courtyard at the Ishikawa Exhibit on the north central part of the island. Believed to have been cast by the Japanese, the bell was placed in the Enkakuji Temple at the foot of Shuri Castle in 1945 where it was used twice daily to give a report of the times and remained until the spring of 1945. In style the bell is heavily studded, embossed and engraved. The bell is a favorite with Okinawan children in the Ishikawa Village, who keep the area around it clean at all times.
今と昔を結ぶ沖縄の歴史において有名な石川展示場(東恩納博物館)の中庭に掛かる大きな鐘(円覚寺前鐘)。日本人によって鋳造されたとと思われるこの鐘は1945年には首里城ふもとの円覚寺に設置され、その年の春まで日に2回時を告げるために使われていた。地元の子供たちは装飾や浮き彫り、彫刻がなされたその鐘がお気に入りで、いつでも周りをきれいにしている。撮影地: 石川 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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かつて、この東恩納博物館で働いていた男性がいる。川平朝清(かびら ちょうせい)さん91歳。ジョン カビラさん、川平慈英さんら3兄弟の父親で、沖縄の戦後初代アナウンサー、NHK沖縄放送局の前身、沖縄放送協会の会長も務めた人物。英語が話せた川平朝清さんは、かつて、この東恩納博物館で、アメリカ軍の将兵や家族を相手に通訳を務めていた。川平さんは、当時の博物館の様子をこう語る…

川平朝清さん:
事実は、『オキナワ イグジビット』という英語の名前でしたから『沖縄展示場』程度のものですよね…

戦争で破壊されたところから残ったものを見つけて持ってくる…、あるいは破壊されないようなところ、例えば金武のお寺から仏像を持ってきたりとか、そういうところから集めて展示した。
沖縄戦で多くの寺社建造物が消失した中、戦火を免れた金武観音寺。本堂に佇む4体の仏像は戦後しばらくの間、東恩納博物館に移されていた。当時、貴重な文化財戦利品として沖縄から持ち出されたケースは少なくなかった。しかし東恩納博物館に移された事で破壊や流出が免れたのだ。

沖縄の歴史的建物が“シロアリ”“老朽化”で取り壊しへ…【沖縄発】

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米空軍: AIRMAN HEARS STORY OF GODDESS OF MERCY - Sergeant Phil C. Geraci, of Frederick, Maryland, a photographer assigned to the 1st Air Division, sits in front of a Buddhist temple in the Ishikawa Exhibit house and listens while an Okinawan guide explains that the temple was constructed of ”daigo”, a very light weight local wood, by a famous Japanese artist named Kumakai who disappeared in Okinawa during the war. The figure represents Kwannon, the Goddess of Mercy. Other objects of Okinawan culture are seen on the altar. Okinawa, Ryukyu Retto.
石川展示場(東恩納博物館)内仏教寺の前に座り沖縄人案内の説明に耳を傾ける第1空軍カメラマン、ゲラーシ三等軍曹。この寺はとても軽いデイゴの木で造られており作者は戦争中行方不明になった有名な日本人芸術家クマカイである。像は慈悲の女神観音様である。祭壇には沖縄文化を象徴するその他のものが見られる。石川 1948年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

沖縄県立博物館美術館設立の礎となった東恩納博物館の民家は、保存の声も大きかったが、建物の老朽化のため、2021年に解体された。 

 

沖縄人のための野戦病院

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久志の米軍野戦病院

… 私が入院した米軍の第13病院は、久志村豊原と辺野古の中間、より正確に言うと辺野古坂寄りに建っていた。私はそこで三カ月余の入院生活を送ることになる。(105頁)

... この病院は、島尻(沖縄島南部)の激戦地から送られてくる沖縄人負傷者のために急遽設置された「C13海軍病院」だと聞かされた…。(106頁)

... 病院のスタッフは、海軍軍医大尉を院長に10人内外の看護兵が、ABCDの4つの大型テントで、百四、五十名ほどの負傷者の治療に当たった。各テントには村の娘さんたちが看護婦見習いとして、4、5人配置されていた。軍作業のハシリであろう。そのほかに炊事場で働く10人ほどの婦人たちがいた。炊事場には活気があった。歌声が流れていた。体内の鉄片を取り出して人心地がついた私は、歌声の明るさに、なかば驚きを覚えていた。疲労困憊した心身に、にわかに射し込んできた陽光に似ていた。病院の広場で米兵と子どもたちが、笑い、叫びながら走り回っている。看護婦見習いの娘さんたちも米兵からアメリカの歌を習っている。米兵に恐怖や憎しみの目を向けるものはいない。ここでは米兵は、もはや〝敵〟ではなかった。(107頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社 1998年) 105、106、107頁より》

 

胡屋野戦病院

4月4日、胡屋十字路、コザ・マリンキャンプに隣接して設置された胡屋野戦病院は、やがて現在の沖縄県中部病院の前身となる。7月19日に知念半島の収容所で敗残兵に襲撃され重傷となった3人は久手堅収容所から胡屋の野戦病院に送られた。

敗残兵に襲撃され7月20日から11月まで胡屋野戦病院にいた男性の証言

私たち夫婦に両親伯母の五人がアンブランスで玉城村の百名のテントの仮収容所へ運ばれていった。そのとき米兵の看護人が肉厚の白い大きいコーヒー碗にあついコーヒーを入れてのませてくれた。足は副木を当てたままで繃帯されたがどす黒く血がへばりついて固くなっていた。翌朝私たち夫婦と伯母が重症だったのでアンブランスでゴヤ十字路附近の民家に設営された陸軍病院へ移されてここで11月まで5ヶ月間この病院に入院生活を送ることになった。

病院といってもゴヤの部落の中で残存家屋を使った越来村の役場附近の畑の中に兵隊のテントが張られたりして大きな野戦病院だった。私たちがいる間、南部戦線からたくさんの負傷者が送りこまれてきた。壕から直接かつぎこまれた病人もいたが、その人たちはあくる日は埋葬のため運び出されていった。アメーバ赤痢のおじさんが運ばれて私のベッドのそばに一晩いたが、夜中看護婦たちがヒソヒソ話をして注射をしていたようだが、翌朝は動かなくなりとうとう死んでいた。そしてその人がもってきた行季はあけられ看護婦たちが持ち出していった。

戦争証言証言編 (第2版) 』南城市 (2021年) - Battle of Okinawa 

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米国海軍 G-6 hospital 61 at Koza, Okinawa, Ryukyu Islands. ComPhibPac #264.
Primitive laundry.
コザにあるG-6区第61病院。原始的な洗濯施設。 コザ  1945年5月15日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

また、病院ですら女性にとって安全な場所ではなかった。以下は宜野座と胡屋の野戦病院での証言。

宜野座米軍野戦病院に収容された重傷の女性を、MPが強姦するのを沖縄人労働者が目撃。

 「米兵による戦後沖縄の女性に対する犯罪」archive

敗残兵に襲撃され7月20日から11月まで胡屋野戦病院にいた男性の証言

となりのテントには、2-3才位の子どもたちがひろわれてきて収容されていたが、やせこけた体で裸にされ寝台にねて、泣いていた。三〇名位いた、この子どもたちも次々埋葬のため運び出されていった。大きな台風があり私たちは瓦ぶきの民家にテントが立つまでそこのウラ座にいた。

その台風のときズブ濡れの米兵が夜中から入りこんできたのでびっくりした。17才位の少女が高熱におかされて入院していたが米兵におかされるのをすぐ枕元のテントでみていた。看護婦もアレヨアレヨとさわぎ立てたがとうとうどうすることもできなかった彼女は二、三日後に高熱のためとうとう帰らぬ人となった。私たち目撃者はあれから夜も安心してねられなかったまた黒人におそわれたある島の中年婦人は骨折で入院していたが顔も傷だらけだった。

戦争証言証言編 (第2版) 』南城市 (2021年) - Battle of Okinawa 

 

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その時、本土は

海上封鎖の打開策は松ヤニ増産? 1945年8月3日はこんな日

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