1945年 8月3日 『沖縄人のための野戦病院』

〝沖縄〟という米軍基地

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このサーチライト・レーダー泡瀬飛行場上空に飛来した日本軍機を追跡する準備ができている。SCR268レーダーの技師は設備のチェックをしている。8億燭光のサーチライトは3万フィートのカーボンアーク・ビームを投げかけ、いつでも作動できるようになっている。(1945年8月3日撮影)

This radar for searchlights was ready to track Japanese planes if they came over Awase Airfield area on Okinawa, Ryukyu Retto. The operator of the SCR 268 radar is at the scope checking the equipment. The 800 million candlepower searchlight can be seen in the background ready to spring into action, throwing its carbon arc beam 30,000 feet.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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第230高射砲大隊A砲兵隊の製図室。ここの通信システムを通じて他の部隊の航路が入ってくる。「ボギー(国籍不明の飛行機)」の位置が位置記入板に示される。ボギーの高度と可航距離といった情報がレーダーから届けば位置記入板のそばのボックスに情報は移される。(1945年8月3日撮影)

Searchlight plotting room of the 230th Anti-Aircraft Artillery Battalion, Battery A, where tracks of other units were received over its communications system. Location of “Bogie“ was plotted on this small grid board. When the information as to range and height of the “Bogie“ was received from the radar set, it was remoted to the plotting box located on the floor at the base of the plotting board.

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サーチライト・レーダーからの敵機位置が送られてくる製図室の第325大隊A砲兵隊管制係ハーレー大尉。大尉は受話器を手に、サーチライト部隊からの敵機航路を聞く。位置記入板には基準線網が見える。(1945年8月3日撮影)

Capt. Harley, Controller, of A Battery, 325 Battalion in the searchlight battery plotting room where plots from searchlight radars were sent to be plotted. Here Capt. Harley is shown at the phones receiving tracks from his searchlight units. Plotting boards has grid of area marked on the board.

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第32軍の敗残兵

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

『伊東の友人だった砲兵中隊長は、観測班と共に壕の中にいた。…彼は乱戦によって部下の砲隊と遮断され、手元の兵を次から次へと伝令に出し、最後の兵も出したが、いずれも戻らなかった。孤独に苦しみ、2か月にわたる陰湿な洞窟生活がそれに拍車をかけ、とうとう熱病にかかってしまった。

「おい、貴様も身体を大事にしろよ」

と、伊東に向かって時おり、不気味な笑みを浮かべながら話しかける。

「わかった、わかった」

と答えるものの、伊東とて我が身を大切にする何らの手立てもない。

彼につけた当番兵は心配し、米軍の食糧や民家から拾ってきた味噌などで、懸命に食事の準備をしたが、なお不満そうだった。大隊長である伊東さえ、味噌など一口もありついていない。そのうち、味噌汁を勧めてもひと口も飲まなくなった。まれに熱が下がって気分が良さそうなときには、

「俺も永くないよ」

と、決まって言うようになった。頬はこけ、エヘエヘと不気味に笑う。不思議と眼は大きく開いていたが、瞳は力を失っていた。うわ言で母親や、最後に出した伝令の名を呼ぶこともあった。伊東が水浴に出かけている間に、彼は死んだ。胸が締め付けられる思いだった。』(263-264頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 263-264頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

米軍野戦病院: 久志村

『…私が入院した米軍の第13病院は、久志村豊原と辺野古の中間、より正確に言うと辺野古坂寄りに建っていた。私はそこで三カ月余の入院生活を送ることになる。』(105頁)

『この病院は、島尻(沖縄島南部)の激戦地から送られてくる沖縄人負傷者のために急遽設置されたC13海軍病院」だと聞かされた…。』(106頁)

『病院のスタッフは、海軍軍医大尉を院長に10人内外の看護兵が、ABCDの4つの大型テントで、百四、五十名ほどの負傷者の治療に当たった。各テントには村の娘さんたちが看護婦見習いとして、4、5人配置されていた。軍作業のハシリであろう。そのほかに炊事場で働く10人ほどの婦人たちがいた。炊事場には活気があった。歌声が流れていた。体内の鉄片を取り出して人心地がついた私は、歌声の明るさに、なかば驚きを覚えていた。疲労困憊した心身に、にわかに射し込んできた陽光に似ていた。

病院の広場で米兵と子どもたちが、笑い、叫びながら走り回っている。看護婦見習いの娘さんたちも米兵からアメリカの歌を習っている。米兵に恐怖や憎しみの目を向けるものはいない。ここでは米兵は、もはや〝敵〟ではなかった。』(107頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 105、106、107頁より》

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輪になって遊ぶ地元の子供たち。海兵隊員が見ている。(1945年5月撮影、場所不明)

Native children playing in circle while Marines look on.

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『日が経つにつれ回復して歩き回る者がではじめ、テント内が明るくにぎやかになった。食事の時間が近づくと、食器を出してはしゃいだ。食器は缶詰の空き缶であった。朝と晩はたいてい握り飯とわかめか野菜を浮かべた味噌汁。昼は米軍の野戦食の〝レーション〟であった。米や味噌は、日本軍の糧秣を押収したものであるとの風聞があった。

昼に配られるアメリカ・レーションは珍しさも手伝って評判がよかった。蝋引きの箱の中にはビスケット、缶詰、コーヒー、チュウインガム、煙草などが入っていた。しばらくの間、ハッカ入りの煙草が毎朝2本、配給された記憶がある。

炊事の小母さんたちは「握り飯」のことを「ライス・ボール」と呼んでいた。見事な英訳だと感心した。』(113頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 113頁より》

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農作業を行う人のために握り飯を作っている地元の女性。沖縄本島の石川にて。

Native girls making rice cakes for farm workers at Ishikawa, Ryukyu Islands.

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『私に病状は、はかばかしくなかった。傷口がしまらない。微熱が絶えない。膿も出るので2度目の手術を受けることになった

最初の手術のときに切った傷の下に、もうひとつ、新しい切り口をつけ、一番上の傷口(破片の入ったところ)から下の切り口まで、3本の排膿管が通された。

私は日増しに快方に向かった。夜明けのさわやかさが分かるようになっていた。静かだ。風がさわやかだ。蝉の声を聞いた。時々姿を見せる母の顔にも、ようやく安堵の色が見えるようになっていた。

母は久志の近くにある病院へ作業に出ていた。その病院は、私たちの病院よりはるかに大きい「G6病院」と言うらしい。』(113-114頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 113-114頁より》

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少年の足の手術を行なうトロシンスキ医師(左)と衛生兵。沖縄人看護要員は、可能な限り治療の手助けをしている。女性看護婦は、縫合(の技)に特に習熟している。(撮影日、場所不明)

Operation on Okinawa boy's leg by Dr. Trosinski, left, and corpsmen. Okinawan nurse's aid assists whenever possible. Women Nurse's Aids are especially adept at sewing.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月3日(金)

 

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