1945年 4月10日『米軍、津堅島に上陸』

北進する米軍

本部(もとぶ)半島

4月8日から11日にかけて海兵第29連隊は、本部半島一帯を偵察した。

『海兵第3大隊は、4月の10日に渡久地に着いたのだが、その途中、日本軍砲兵隊の砲撃を2回も受けたり、迫撃砲の猛襲にやられて16名の犠牲者を出した。

名護からは、海兵第1大隊が北西部へ進撃し、途中、小部隊による伏兵を掃討しながら伊豆味村落へ近づいた。海兵第29連隊の第1大隊と第3大隊は、いまや本部渡久地と伊豆味の間わずか8キロの小径をへだてただけで、ほとんど八重岳を包囲してしまった。

しかし、この八重岳の包囲をせばめてゆくことは至難のわざだった。海兵第3大隊が渡久地から東方内陸部へ進撃を試みたとき、満名地峡で迫撃砲や機関銃の猛烈な掃射をあび、前進を阻止されてしまった

一方、海兵第1大隊は、伊豆味から進路をとり、丘陵スロープで側面をへだてられている曲がりくねった小径を前進していったが、これも満名近くに達し、海が見えるところまで来たとき、日本軍が上から迫撃砲や機関銃弾をあびせて来た海兵隊は伊豆味へ退却し、その途中、またもや日本軍の伏兵から攻撃を受けることとなった。

海兵第6師団の情報部では、4月10日までには、本部半島の地図に大きく赤鉛筆で円を画き、日本軍の抵抗線をかなり正確に表すことができた。』(131頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 131頁より》

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THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

南進する米軍

嘉数(かかず)

4月10日午前6時45分より、15分間の準備砲撃が開始された。しかし、イーズレイ将軍は、その着弾が目標線に対して十分有効に発揮できないのを認め、さらに15分間の砲撃を命じた。歩兵第381連隊の第2大隊は、宇地泊郊外から躍進を起こし、西部嘉数に向かったが、たちまち敵の迫撃砲と機銃の猛火を受けるに至った。』(242-243頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 242-243頁より》

宇地泊(うちどまり)方面から進撃した大隊の一部は、谷間北側で日本軍からの攻撃を受け、身動きがとれなくなるも、その一部は前進しようと努力した。

『日本軍はあらかじめ谷間に沿うて火網を構成していたので、第2大隊の兵士たちは、敵火を避けようとして谷間の岩角へすがりついた。熾烈な迫撃砲は、部隊の前進をめがけて落下した。

午前8時5分、第2大隊の先頭部隊は谷間を進出し、争奪点たる西嘉数の北方斜面を登って行った。抵抗は激しくなかった。西嘉数頂上の敵機銃は小迂回によって撃退した。午前9時30分西部嘉数上に達した部隊は、…急遽陣地の構築に努めた。間もなく2個中隊が同地に達した。』(243頁)

午前11時までに、第381および第383連隊の部隊は西部嘉数の頂上、その北斜面、西部嘉数と嘉数高地間の鞍部の一部を占領した。…正午ごろ、第381連隊第3大隊は、嘉数高地と西部数間の鞍部に向かい、東面して高地を奪取する意気込みで攻撃した。』(244頁)

『攻撃部隊は100ヤード前進したが、嘉数高地からの機銃および迫撃砲火のため阻止された。かくするうちに雨が降ってきて、行動はますます困難になった。第381連隊第2大隊は、西部嘉数高地上を南に向かって地歩を進め、嘉数部落や、西部嘉数の敵方斜面を制し得る地域を占領しようとした。諸隊は若干の地歩を獲た。ところがたちまち敵の激しい逆襲を受け、西部嘉数北側の旧位置に撃退された。

…日本軍は、アメリカ軍の前進を阻止はしたが、昨日敢行したように嘉数から撃退し得るほど有力ではなかった。

午後1時45分、イーズレイ将軍は、歩兵第381連隊第1大隊に命じて、鞍部にある歩兵第383連隊の部隊の右(西)側を経て攻撃せしめ、一方第383連隊には、増援の到着まで、その位置を確保すべきを指示した。』(245頁)

午後2時30分ごろ、第381連隊第3大隊は、鞍部にある第383連隊第3大隊の救援に到着した。しかし遺憾ながら、有効な増援の時機はすでに過ぎてしまった。第3大隊の一部は日本軍の猛攻に屈し、増援部隊が到着したとき、そこにいるはずのアメリカ兵は姿を見せず、日本兵がいた。でも第1大隊は、嘉数高地に沿い、南東に向かい攻撃した。しかしこの攻撃は力攻とまではいかず、失敗に帰した。』(246頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 244、255、256頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]

 

 

日本海軍の総攻撃

海軍第五航空艦隊: 「菊水2号作戦・延期」

4月10日、三日つづきの雨が、午後、ようやくやんだ。…10日に決行する計画であった「菊水2号」作戦を11日に延ばし、さらに12日に延ばさねばならなくなった。…4月8日から11日までの間、雨のため、九州からの飛行機は、一機も沖縄周辺の敵を攻撃することができなかった。10日の午後から、十航艦を主体とする特攻機が、急いで九州に進出してきた。』(201頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 201頁より》

  

第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島: 宇土部隊

10日に、米軍の一部は渡久地から、一部は伊豆味から、一部は並里方面から、宇土部隊の主陣地八重岳の攻撃を始め、両軍の戦闘が展開された。』(248-249頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 248-249頁より》

 

中南部戦線 

嘉数(かかず)・和宇慶(わうけ)

『4月9日未明から続いた嘉数高地の死闘は、いったん夕方までに敵を撃退したが、米軍の死傷が多かったと同様、日本軍の損傷も、惨烈なものがあった。独立歩兵13大隊の戦力は極度に低下したが、昼すぎ、命によって棚原高地から応援に駆けつけた独立歩兵272大隊が、引きつづき居残って、頑張っていた。

前日の大失敗にコリた米軍は、10日朝、かれ本来の鉄量戦法で、攻めかかってきた。米96師団から2コ連隊(9日は1コ連隊)を出し、砲兵7コ大隊(84門)。それに艦砲射撃と海軍戦闘機3コ中隊が、それを支援した。だから、嘉数の長さ1キロの狭い高地は、砲爆撃で、まったく掘りかえされたようになった

そうしておいて、米軍は、北西側と北側の二手に分かれて、歩兵が高地によじ登ってきた。日本軍の砲兵と迫撃砲は、これに向かって集中砲火を浴びせ、北東側は奮戦の末、撃退したが、北西側の端と北の斜面が、ついに敵手に陥ちた。もうそれは、100から200メートルしかないところで撃ち合う凄惨な死闘で、逆襲の連続。どちらが勝ったかよくわからない土煙のなかで、いや、午後から降り出した雨の中での接近戦だった。西側にいた272大隊は、嘉数高地の南側緩斜面陣地に退き、沖縄特有の墓地を活用しながら、頑強な抵抗をやめなかった。

そのほか、東海岸和宇慶から嘉数にいたる正面では、米軍の激しい攻撃をハネ返し、依然、陣地を確保して動かなかった。』(207-208頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 207-208頁より》

 

津堅島(つけんじま)

米軍は、沖縄本島の南部を本格的に攻める前に、本島周辺の離島を制圧し、安全を保つ必要があった。4月6日、米軍の偵察隊が津堅島に上陸するも一旦退去。4月10日には米軍の上陸部隊が来襲した。

津堅島は、沖縄本島上陸を阻止する防波堤として、昭和16年から陣地の構築が進められました。』(NHK沖縄放送局)

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津堅島の陣地壕(うるま市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

津堅島には亭島秀雄大尉率いる球師団4152部隊、…約70人の防衛隊に加え、10・10空襲以後、陣地構築のため本島から応援に来ていた独立混成第15連隊およそ60人の合計350人が駐屯。三つの陣地に分かれ守備についていた。』(42頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 42頁より》 

 日本軍の部隊は、島の南側集落にある新川城跡の壕を拠点とした。

『新川城跡壕は、元をただせば昔の士族の霊を弔っていた自然壕。平たんな津堅島を一目で見渡せる小高い丘の士族墓を基に、岩山を下に掘り下げた3階建ての構造で、各層を木階段でつなぎ、下部(1階)には出口が造られていた。』(42頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 42頁より》

『司令部が置かれた壕は中が3階建てで縄ばしごで行き来する構造になっていたといいます。』(NHK沖縄放送局)

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津堅島の陣地壕(うるま市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『軍がかねて判断していた通り、何か日本軍が湾内に仕掛けをしているのではないかと警戒し、敵艦隊は、敢えて中城湾には侵入して来なかった。しかし4月6日に至り、湾口の津堅島に、敵の一部が上陸を始めた。数十年前の旧式加農砲2門を有するわずか百余名の堀内中尉指揮下の同島守備隊は、これを軽く一蹴撃退した。これは敵の偵察攻撃であったらしく、越えて10日早晩敵は舟艇約80隻をもって、真面目の攻撃を開始した。』(212-213頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 212-213頁より》

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youtu.be

戦後70年の地平から「津堅島での戦闘」

津堅島での戦闘 | 琉球放送

『「米軍の攻撃は都合4度。上陸―戦闘―沖縄の艦艇に引き揚げ―のパターンで平均して、3、4日ごとにありました」』(42頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 42頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

嘉数(かかず)集落

『1944年(昭和19年)ごろ、住民は184世帯820人であった。最初第9師団(武部隊)が駐屯したが、台湾へ移動したあと、独立歩兵第13大隊の1200人がきた。これが60戸に分宿した。住民より軍人の方がはるかに多い。嘉数高地の陣地構築のため住民は輪番制で動員された。4月1日の米軍上陸直後は平静で、艦砲射撃で2、3軒焼失した程度だった。子どもたちは庭のガジュマール樹にのぼって米軍上陸の模様を見物していた。ところが6日から艦砲射撃が激化、家庭防空壕ではしのぎきれなくなった。天然壕に分散避難することになった。チジフチャーガマに400人、寺ガマに100人、マーヒガマに30人、アンガーに100人入った。ガマというのは洞窟のことだ。4月7日から10日にかけて住宅はわずか2戸を残して焼け落ちた。』(88-89頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 88-89頁より》

 

津堅島(つけんじま)

津堅島沖縄戦突入前に一大軍事要塞の島となり、私は11歳の時に陣地構築のためモッコで土運びをやらされました、島は要塞ですから、昭和19年の10・10空襲には徹底的に攻撃をうけました。日本軍は、住民に全員疎開命令を出していたようです。学童疎開も行われていますが、国頭や勝連半島の平敷屋あたりに疎開しています。軍の命令を聞かない者は罰するという「ふれ」がまわっていました。…ところが軍の命令に背いて、一部の人は津堅の山に逃げています。…その引き揚げといっても、軍は船を提供するわけではなく、ただ追い出すだけで自分で船を調達できない人は、そのまま島に残るし、行ける能力はあっても出て行かなかった人もいるのです。
4月10日か中旬頃、…中城湾に面した海岸の自然壕には入りましたが、その途端、機関銃がダッダッダッ、ダッダッダッ・・・と激しく音をたてました。夜が明けてみると、自然壕の前のヤシ、木麻黄などの防潮林がなぎ倒されているのです。日本兵は1〜2人戦死しています。埋葬されるのを見ています。はじめての戦死者でした。トマイバマ海岸です。それ以後3〜4回米軍が襲撃して来ました。』(412-413頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記/戦時編」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 412-413頁より》

 

 

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NHK沖縄放送局】[戦跡と証言] 津堅島の陣地壕(うるま市)

うるま市与勝半島の沖に浮かぶ津堅島は、人口500人あまりの小さな島です。津堅島で唯一の高台は海抜36メートルで、戦時中36高地と呼ばれた日本軍の要さいでした。一帯には今も陣地の一部だった壕や、爆弾の投下を受けた跡が残っています。「新川・クボウグスク周辺の陣地壕群」です。司令部が置かれた壕は中が3階建てで縄ばしごで行き来する構造になっていたといいます。

津堅島は、沖縄本島上陸を阻止する防波堤として、昭和16年から陣地の構築が進められました。沖縄県史は津堅島の守備隊に島の若者たちが組み込まれ、部隊が崩壊するまで行動を共にしたと記しています。
昭和20年4月、アメリカ軍は艦砲射撃や爆弾の投下の末、津堅島に3度にわたり上陸しました。2度目の上陸で、攻撃は司令部壕に達しました。

部隊は壊滅状態となりましたが、壕のいちばん下の階に避難していた人たちは、アメリカ軍が引き上げたあと、奇跡的に助け出されました。』

www.nhk.or.jp

 

琉球新報】[戦禍を掘る] 津堅島・新川城跡壕 (上・中・下)

[13 津堅島・新川城跡壕(上)]まだ眠る多くのみ霊 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

[14 津堅島・新川城跡壕(中)]傷を海水で消毒 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

[15 津堅島・新川城跡壕(下)]火の海となった壕内 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース