〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月4日 『宜名真・辺戸住民斬殺事件』

独立記念日の沖縄 / 宜名真・辺戸住民斬殺事件 / 捕虜収容所の画家 / やんばるの飢餓

 

米軍の動向

7月4日 - 米独立記念日の沖縄

7月4日は、米国の祝日であり、米独立宣言と憲法の理念を思い起こし記憶 (commemorate) する日でもある。

米国陸軍通信隊: Gen. Joseph W. Stilwell, Commanding General, U.S. Tenth Army, speaks over the radio during a 4th of July broadcast on Okinawa. Public Relations Office, Island Command, 1945.

7月4日のラジオ放送で語る第10陸軍総司令官ジョセフ・W・スティルウェル元帥。司令部広報室、1945年。沖縄

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

1776年7月4日アメリカの13の州が批准した「独立宣言」は、基本的人権国民主権、生命、自由、幸福の追求、市民的不服従の権利など重要な民主主義と人権の理念を明確に言語化し、1787年の合衆国憲法に影響を与えた。

アメリカ独立宣言 (1776)

われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。

独立宣言(1776 年)|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN

日本の当時の「大日本帝国憲法」の皇国理念とは対照的な米国憲法民主主義と基本的人権の理念は、日米両軍の軍の様式と戦略に徹底的な違いをもたらし、特に民間人や負傷兵、捕虜への対処は天と地ほどの格差が存在した。しかしながら、米軍が統治する「アメリカ世(ゆ)」の沖縄に、この合衆国憲法が適応されることは決してなかった

「ようこそ読谷へ。毎晩が7月4日。」

米国海兵隊: It's more than a Fourth of July, says Marine Captain William L. Thompson, ordnance officer of Marine Aircraft Group 31, commenting on the air terminal sign on Yontan Airfield at Okinawa.
読谷飛行場のターミナルの看板について、「独立記念日以上だよ」と話す海兵隊トンプソン大尉。第31海兵隊航空群兵站部の将校である。 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

憲法なき沖縄27年間の「アメリカ世(ゆ)」

1945年4月1日沖縄戦開始とともに、米軍は沖縄における大日本帝国の行政権・司法権行使を遮断した(法的表現としての「ニミッツ宣言」。… その間27年 … このような四半世紀を超える憲法の空白は,世界の近代憲法史上他に例を見ないものであると思われる。

《小林武「沖縄施政権返還と日本国憲法」》

沖縄は「米国の施政権下」に置かれたのではない、「米支配下」に置かれた。

そもそも「施政権」とは、信託統治制度における司法・立法・行政の三権をいう。では、沖縄は信託統治制度の下にあったのだろうか。答えは否である。…

では、米国は沖縄を信託統治制度の下に置くことを提案するつもりだったのだろうか。これも答えは否である。…

米国は当時のソ連との冷戦という国際情勢からして、「排他的で戦略的な沖縄の支配」のために、沖縄を併合することも国連の監督下で信託統治を行うことも事実上不可能だと知っていた。だからこそ、米国は国際的には脱植民地化を装う一方で、憲法・安保等の一切の制約を受けずに沖縄を軍事利用するため、「信託統治がされるまで米国は沖縄を統治する」というサンフランシスコ講和条約3条というレトリックを生み出したのである。つまり、「日本国の施政権から分離された」「米国の施政権下にあった」等の記述は、米国支配の本質を覆い隠すものであるといえるのだ。

安里長従『沖縄は米国の「施政権下」にあったのか』 | OKIRON

U.S. Independence Day Reception at the Top of the Rock Club. トップ・オブ・ザ・ロックで開かれた゛アメリカ合衆国独立記念日祝賀会  北中城村瑞慶覧

1969年7月4日 ライカム将校クラブで米国独立記念日祝賀会を開催。右端は崎浜秀英琉球銀行総裁

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

独立記念日は軍政下の沖縄でも毎年盛大に祝われたが、その宣言の「すべての人間」のなかに、沖縄人は入っていたのだろうか。

This Fourth July is yours, not mine.

You may rejoice, I must mourn.

この7月4日はあなた方のものであって、私のものではありません。

あなた方は祝うかもしれませんが、私は嘆き悲しむのです。

--- フレデリック・ダグラス (1852年7月) *1

MARINE PROGRAM 海兵隊プログラム 1955年7月4日

Henoko Celebrates Independence Day

辺野古独立記念日を祝う 琉米親善 久志村辺野古 1957年7月4日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設

米軍は11の飛行場およそ20の小飛行場、その他おびただしい軍事施設を構築し、沖縄島全土を軍事拠点となした。「統治される側の合意」はどこにもなかった。

牧港飛行場

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Construction progress of 1166th Engr. Combat Group at the Machinato airstrip.

牧港飛行場の第1166工兵隊による基地建設工事。(1945年7月撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊江島飛行場

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This peculiar looking piece of apparatus called a ”wobble wheel packer” is used to work moisture out of coral on runways. The men at right is Pfc. Edward Zender of Chicago, Illinois. Ie Shima, Ryukyu Retto.

一見変わったこの機器は「ウォブル・ホイール・パッカー」と呼ばれ、滑走路の石灰岩から水分を取る働きをする。右はゼンダー一等兵伊江島(1945年7月撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍陣地の調査 - 小禄の海軍陣地

小禄の海軍陣地と先原崎 (さちばるざち) 灯台

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那覇市にある那覇空港の滑走路の北側に、塔がそびえる小高い丘があります。ここにはかつて大きな灯台が立っていました。先原埼灯台跡です。先原埼灯台は、明治29年に沖縄で初めて建てられた灯台で、高さは12メートルでした。この純白の灯台の近くには日本軍の飛行場があり、昭和19年10月10日の空襲や、その後の地上戦でアメリ軍の標的になり、灯台は跡形もなく姿を消しました。いまは台座だけが残っています。

那覇市 先原埼灯台跡|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

1945年(昭和20)の沖縄戦灯台は破壊され、跡地は米軍により航路標識塔が建てられた。現在、付近一帯は那覇航空交通管制部の敷地となっているが、岩礁の上には煉瓦の礎石や米軍の標識塔が残されている。

先原崎灯台跡 | 那覇市観光資源データベース

先原崎灯台の検索結果 文化遺産オンライン

今回の取材では追い詰められた旧日本軍の傍若無人な振る舞いの記録も見つかりました。昭和31年の雑誌「灯光」です。沖縄戦当時、佐千原崎灯台に勤務した灯台長の手記が残されていました。戦況が悪化するなか、灯台長は旧日本軍の司令官に呼びつけられました。「君、今頃灯台の明かりをつけて何になるのかね。利敵行為と言われても仕方がないではないかね」さらに司令官は灯台の破壊までほのめかして脅迫します。「若い連中は元気が良いから、やっつけてしまいと言って聞かないんだよ、今後どんな事態が起きても私は責任を持てないからのう」威圧的な司令官灯台長は怒りを押し殺して命令に従わざるを得ませんでした。「まったくもって驚いた。今までたびたびの空襲に一度も姿を現さなかった軍が、弱いものに対してはいかに元気がよいか味方の軍に爆撃されてたまるかと思ったが、その翌日より灯台の灯は消え、その後永久に灯すことはなかった。」敵味方なく人間性が失われる沖縄戦の姿です。

那覇市 先原埼灯台跡|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス 

日本海軍陣地の検証

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Main entrance to Corridor leading down into Barracks on Hill directly south of Sakibaru lighthouse. The entrance was near the crest of the hill. Note the base of the hill holding Sakibaru Lighthouse in the center background.

原崎灯台の真南の丘にある兵舎へ続く、通路の正面入り口。この入り口は丘の頂上近くにあった。後方中央に見える、先原崎灯台がある丘のふもとに注目。(1945年7月4日撮影、小禄半島)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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A view within the messhall in the hill directly south of Sakibaru Lighthouse. This messhall with barracks, office, and storage quarters was located [80] feet below the surface of the earth. Note the rifle racks, the length of the room, the logs used for buttressing purposes, and the tables in this elaborate underground dining chamber.

原崎灯台の真南に位置する丘の地下にある食堂内部。兵舎や執務室、貯蔵室も備えたこの食堂は、地下80フィートの場所にある。手の込んだ造りの地下食堂にある、ライフル用の棚や部屋の奥行き、補強に使われている丸太、テーブルに注目。(1945年7月4日撮影、小禄半島)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

捕虜収容所の画家 - 金城安太郎

防衛隊として徴兵されていた画家の金城安太郎は、捕虜収容所で芸術家として評価され、広報局の要請で営倉の外に出て絵を描くことを許可される。

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Various shots of Yasatura Kaneshiro, an Okinawan artist, former member of Okinawa home guard. He was captured by the 6th Marine Division and was allowed out of the stockade to paint pictures at the request of the 6th Marine Division Public Information Section.

かつて沖縄国防義勇兵で、画家の金城安太郎氏。第6海兵師団に捕らえられたが広報局の要請で絵を描くため営倉の外に出ることを許可された。(1945年7月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

9月3日に捕虜となり屋嘉収容所に送られた外間守善 (沖縄師範学校生) の証言 

私は作業員の人員点呼をする仕事のほか芝居小屋の美人画家だった金城安太郎さんたちといっしょに米軍将校宿舎の装飾用の絵を描くことをしていた。米兵たちは帰還する時のお土産用にといって下駄の台に富士山を描き、下の方にOKINAWAと書いてくれと注文した。沖縄に富士山はない、といっても彼らはきかなかった。注文は殺到し、代価はアメリカ煙草二ボール(一ボールはラッキーストライクなど一〇箱入り)だった。一日に一〇ボールくらい稼いだ。当時、学校の教員の月給二二〇円で煙草が二ボールくらい買えた。だから相当良い仕事だった。私は煙草は吸わないので兄守栄用にストックしたほかはみんなに上げて喜ばれた。

外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川学芸出版 (2006) 電子版》

琉球の春》 1990年

美術館コレクションギャラリー1「金城安太郎展」 | 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)

戦前から新聞、雑誌の挿絵画家としても人気を博し、沖縄における数少ない日本画家として活躍した金城安太郎(1911〜99)。戦後にあたっては、ニシムイ美術村の建設に参加し、沖縄美術の復興に貢献したことでも知られている。

金城安太郎展(沖縄県立博物館・美術館 コレクションギャラリー1)|美術手帖

1945年の沖縄戦で、西森(ニシムイ)の松林は、日本軍陣地壕構築のため伐り倒され、米軍の首里攻撃で焼失した。沖縄戦終結後、ウィラード・ハンナ海軍少佐等の指導の下、芸能家や画家が集められ、収容所への慰問公演や米軍人の注文で肖像画やクリスマス・カードの製作等が行われた。これらの芸術家が集められた石川市東恩納(現うるま市石川東恩納)には、沖縄陳列館や東恩納美術村が造られた。1947年7月、東恩納に集められた画家達は、沖縄美術家協会を結成し、さらに、古都首里での活動を希望し、米軍の許可・援助により、西森での美術村建設 (ニシムイ美術村) が実現した。

美術村跡(ビジュツムラアト) : 那覇市歴史博物館

 

宜名真・辺戸住民惨殺事件「紫雲隊の伊沢」

7月4日、国頭村の辺土名と宜名真の住民が敗残兵に襲われ男性4人が殺された。国頭村の伊地、桃原、半地では、日本兵が住民をスパイとして惨殺する事件が相次いでいた。3地区で少なくとも計9人が日本兵に殺害された。「紫雲隊の伊沢」とは第56飛行場大隊紫雲隊・井澤清志曹長のことであり、わかっているだけでも7名の沖縄人の殺害に関与している。

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男女十数人は羽地(現名護市)の田井等収容所から解放され、県道を歩いて地元へ帰る途中、伊地の開墾地跡で、追い掛けてきた日本軍の「紫雲隊の伊沢」ら敗残兵グループに襲われた。女性らは逃げたが、男性4人が斬殺された。「伊沢」は「収容所に入った者はスパイだ」と話したという。

日本兵、国頭で住民虐殺 スパイ嫌疑で9人 事件詳細、村史に初記録 琉球新報

伊地では1945年7月4日、宜名真、辺戸の住民4人が斬り殺された

日本兵が沖縄・国頭で住民虐殺 証言複数、村史新刊に掲載 | 沖縄タイムス

(井澤は) 大宜味村喜如嘉の知名定一巡査、国頭村宜名真と辺土名の四人、浜の二人(読谷村からの避難民と見られる)の殺害に関与したとされる。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22)》

「上に松の木に(避難してきた人を)ロープでくくって4、5人なんだよね、殺されたのは。そうして結局、日本刀で。銃じゃなくて切り殺して殺したんです」

『捕虜の民間人を襲撃したのは日本兵』地域で語ることはタブー 民間人殺害の背景 | TBS NEWS

 喜如嘉の当山には紫雲隊と称する十数名の敗残兵グループがたてこもっていた。隊長格の紫雲直道大尉の名からそう呼ばれたのである。紫雲隊はそもそも第56飛行場大隊に属し、紫雲大尉は補給中隊長であった。4月1日の米軍上陸、そして同日中に北、中の飛行場は占領され、飛行場大隊は沖縄戦の緒戦が壊滅し、大隊長以下ほとんどの将校が戦死し、部隊は四散してしまった。かろうじて生きのこった紫雲大尉は三、四十名の部下を率いて北部の山に敗走した。4月22日タニュー岳[多野岳]に到着、宇土大佐の率いる国頭支隊(宇土部隊)の隷下に入り、24日には宇土部隊と共に伊湯岳に転進した。国頭支隊は4月末に分散命令が出て小グループに分れて遊撃戦(ゲリラ戦)の名目で四散した。紫雲大尉の率いるグループは山づたいに喜如嘉の山にたどりついてそこに定着したというわけである。… 後に問題になる伊沢曹長もその一人である。鼻ひげを立てたこの伊沢曹長が喜如嘉周辺での残虐行為の中心人物であった。彼らは初めから住民を敵視していたらしく、スパイ容疑者の名簿をつくり住民から情報を集めたりして〝処刑〟の手はずをととのえていた。そして、よく知られているA氏の虐殺事件 (ブログ註・知名巡査) が起っている。

《福地曠昭『村と戦争―喜如嘉の昭和史』(1975年)》

読谷飛行場建設の際、設営隊の係だった井澤曹長は、荷馬車による土砂などの運搬回数を割増してくれたりして渡慶次の人に便宜を図ってくれた。それで、儀間※※班長を中心に渡慶次の人夫達が井澤曹長を招待して山羊料理をご馳走したこともあった。昭和20年3月頃、儀間※※と儀間※※の二家族は、井澤曹長が手配してくれた軍のトラックで国頭村辺土名に避難した。そんな関わりのあった井澤曹長が国頭の山中に逃げて来た時には、みんなで米を出し合って助けた。渡慶次に部隊が駐屯している間は、兵隊との間に大きなトラブルはなかった。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第二節 各字の戦時概況(字概況)

知名巡査の処刑直後に井澤は村のリーダーたちの会合にやって来て「挙動不審につき知名巡査を只今処刑してきた」とわざわざ報告したという。それは明らかに軍を裏切る者は処刑するという見せしめであったと福地さんは見ている。そしてもう一つの虐殺事例が、7月4日、収容所から解放されて家に戻る途中の、国頭村の辺土名と宜名真の住民の一団が伊地にさしかかったところ、後ろから追いかけてきた井澤ら敗残兵に襲われ男性4人が殺された。死体はそのままになっていたという。井澤らが言うには、収容所に入ったものはみなスパイということだった、と『村と戦争』に書かれている。… また、ほかにもいくつかの家族や個人がスパイ嫌疑をかけられた事例がある。医者の平良真順さんがスパイリストの41番目に載せられていて、しつこくつけ狙われたという顚末も書かれている。このままでは集落みんな餓死するからと、集落の幹部が紫雲隊の方にお願いに行って下山許可をもらった、というほど、紫雲隊は集落全体を掌握していたと福地さんは語っている。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22)》

敗残兵たちは米軍と住民が持っている食糧が目当てだった。

遺族の陳情書の抜粋

私たち遺族にとって、どうしても納得のいかないことです。私の夫が、沖縄戦も終った昭和20年7月3日、日本兵に殺されたことについて、日本政府はどのようなつぐないをしてくれるのでしょう。… 以上のような残虐行為に対し、私達遺族は悟りを感じ、睡眠も充分にとれない日も多くあります。部落民の話によりますと、夫が羽地収容所よりの煙草並に食糧を持っていたとのことで、それを欲しさにスパイ容疑をかけたとのことであります。

「国の責任を」沖縄戦 国頭村 - Battle of Okinawa

日本兵に命を狙われた玉城長盛さん(1975年の取材)
「全住民が山から下りたんですよ。下りたらですね、敗残兵の方々が徒党を組んで殺害に来たわけですよ。玄関に日本兵が15、6人きて、まだ午前3時もならんのに、おはようございますと三回怒鳴る。日本兵だと直感した。ここ(家の裏手)を這い上がって午前2時半か3時頃私は逃げた」

『捕虜の民間人を襲撃したのは日本兵』地域で語ることはタブー 民間人殺害の背景 | TBS NEWS

 

そのとき、住民は・・・

やんばるの避難生活 - 国頭村

日本軍が命じた終わりなき戦争は、食糧戦争でもあった。こうして沖縄北部やんばるに避難した人々に深刻な飢餓をもたらした。

国頭村奥間の証言者から

私の父は国頭国民学校の教頭をしていましたが、若い教員は兵隊にとられて、夜おそくまで残業が多く、また、軍部の宣伝を真に受けて、友軍は水際作戦で敵をせん滅するのだと信じて、また人にもそんな話ばかりやっていましたので、こんなに早く米軍がくるとは思っていなかったわけです。… (中略) ... 私の家だけが中南部からの避難民同様に食糧も持たずに着のみ着のままで逃げるハメになったわけです。… (中略)

私の家族も栄養失調で骨と皮になっていましたが、それよりもっとひどいのは町方からの疎開で、私たちが落した芋の皮を金蠅がたかっているのもかまわずに母親と女の子が争って食べていたのを覚えています。七月のはじめごろになると、山道には栄養失調で動けなくなった者、餓死した者がどろどろころがっていました。そこを通ると悪臭がたちこめて、銀蠅がブーンと飛び立って、いつかは自分もああなるだろうかとたまらない気持になったものでした。… (中略)

国頭 辺土名高等学校 ソテツ

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

七月になっても沖縄戦が終ったということは全然わかりませんでした。日本軍の敗残兵が近くにたくさんかくれていましたが彼らはいつも勝った勝ったとしか言いませんでした。日本兵は毎日のように住民の避難小屋に食糧徴発にやってきました。あと一週間したら連合艦隊がやってくるから隠してある食糧は軍に供出しなさいと、デマをとばすのはまだましな方で、刃物をつきつけたり、手榴弾をふりかざしたりして乏しい食糧を奪っていくのがいました。私の家もやられましたが、床下から天井までさがしてもっていくわけですが、とくに米軍陣地から命がけで盗んできたカンヅメを途中で待ち受けてっていくのもいました。お前はスパイだろう、敵に通じているだろうと脅かして強盗を働くわけです。これは後で捕虜になってからですが、避難小屋に蒲団を取りに行く途中、日本兵の小屋の前を通りかかったんですが、そこは住民の小屋より四、五倍も大きいもので、二段式の寝台まで付いて十二、三名の敗残兵が住んでいるようでした。その小屋の後にアメリカのカンヅメ設が山のように積まれているのを見て憤慨したのを覚えています。私らがカンヅメを持っているのがみつかるとすぐスパイ扱いにされたのに、彼らはそれを取りあげてたらふく食っていたわけです。実際にカンヅメを持っているというだけでスパイ扱いされて処刑されたという話もありました。この兵隊たちが捕虜になったのは9月になってからですが、十四、五名が降伏してきました。なかには餓死寸前の様子で杖にすがって山を降りてきたものもいましたが、ある連中はまるまると太っていたものです。沖縄戦は6月23日に終ったと言いますが、私らは前から後から日本兵と米軍にはさまって、なお一か月もがんばっていたわけです。この一か月でとくに餓死者が増えました。日本軍のデマを信じたのがとくに犠牲を多くしたと思います。米軍が来てから一週間後に山を降りた人たちもいました。この人たちは早くから部落で畑を耕やして当時としては豊かな暮しをしていました。教育のある者がたいていバカをみています。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)

 

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*1:Frederick Douglass (1818年-1895年) 元奴隷で北部に逃亡し奴隷制廃止論に貢献、アフリカ系アメリカ人の権利、また女性の権利のために生涯を捧げた。