1945年 4月25日 『津堅島と北部山中の悲劇』

南進する米軍

幸地(こうち)

西原村にある178高地から真南およそ3キロのところに、ひときわ高くそびえている円錐形の丘があった。日本軍はこの丘から海岸沿いの通路を守っていた。…翁長の西方2キロのところに幸地村落があり、この二つの村落のあいだに高台があって、その北部を米軍は〝馬蹄ガ丘〟と名づけ、また南部の約500メートルほどの長さの丘陵を〝幸地丘陵〟と呼んでいた。…幸地丘陵の南西にある長い、高い丘を〝ゼブラ高地〟と名づけた。…日本軍はこの幸地付近の丘陵地の三方を固め迫撃砲や機関銃をすえて、幸地に攻めよる米軍があれば、いつでもこれを迎え撃つ用意をととのえていた。
米軍第17連隊の第1大隊は、4月25日、予期に反して驚くほどわずかな抵抗しかうけずに第7師団の右翼にまわって、馬蹄ガ丘の丘腹を占領するため、平地をおよそ550メートルほど進撃した。』(280-281頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 280-281頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p270a.jpg

幸地一帯

※ 中央左に翁長、中央右に幸地丘陵

KOCHI AREA, where the 96th and 77th Divisions attacked vital Japanese positions.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 11]

  

城間(ぐすくま) 

25日の朝、砲撃の第一弾で火ぶたが切っておとされると同時に、…2個小隊が死に物狂いで突進して行った。迫撃砲がとどろき機関銃が鳴り、対戦車砲が火を吹いて攻撃部隊を掩護した。米軍は向かいの日本軍陣地の砲火をあびて、ばたばた倒れた。だが、ついに…頂上まで到達することができた。…そこは、まったくカミソリの刃のようにとがり、岩石や穴がいっぱいあり、草は焼け、木は裂けていた。

…するとこんどは日本軍が〝クモの巣のような穴〟やトーチカ洞窟トンネルから、ぞくぞく出はじめた。米兵は、これを覚悟して準備していたので、…20分間にわたる白兵戦の末、ついに35名の日本兵を殺し、ほかの多くを丘陵から駆逐した。

…何回となく米軍は、丘のうえで前進を試みたが、そのたびに兵を失った。午後、陽が西に傾くころには、24名の戦闘能力のある兵が各人ともわずか小銃6回分の弾薬しか残っていなかった。救急品もなく、衛生兵も皆すでに戦死、無線電話はとだえてしまった。これに反して日本軍のほうは、第一回目の攻撃が失敗に終わったので、包囲陣をつくり、しだいにそれをせばめてきつつあった。

…砲兵隊が10分間にわたる砲撃を行なってから、午後4時5分、…峰まで辿りついたが、その間、やはり日本軍の襲撃をうけて5名の戦死者をだした。

午前零時までには、中隊の全員が丘陵に登っていた。峰の上には100名以上の兵が集まった。』(230-232頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 230-231頁より》

 

米軍にいたウチナーンチュ

比嘉太郎さん

「郷土沖縄を救おう」と、ハワイに移住していた沖縄県出身者や二世らに呼びかけ、沖縄戦災民救済運動を発起した県系二世の比嘉太郎さん。援助物質受け入れのため4月21日に沖縄へと向かった。

『ハワイから戦火の渦巻く沖縄へ飛んできた比嘉太郎一等兵は、4月25日の午後嘉手納飛行場に着いた。彼はそれまでに北アフリカ、ヨーロッパ、南太平洋戦線でじかに目撃した非戦闘員の罹災状況にくらべ、戦場をさまよう沖縄住民の悲惨さは比較を絶するほど苛酷なのにショックを受けた。』(110-111頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 110-111頁より》

 

 

第32軍の動向

北部戦線

沖縄本島北部: 国頭支隊(支隊長・宇土大佐)

本部半島を米軍に占領され、布陣していた八重岳一帯から多野岳へと退却した国頭支隊。その多野岳でも米軍の攻撃をうけ、さらに北上するために移動を始めた。

『…源河部落を経て、25日には有銘の山中まできた。有銘につくと、宇土大佐は、「部隊がやってきたからもう大丈夫だ」と付近の住民に触れ廻らせた。喜んだ付近の農家からは、二頭の豚と、野菜類が本部に供出された。ー淡い希望を燃やして住民はもう、増産を始めていた。米軍は、北部山中に潜む日本軍の残兵掃討を開始したらしく、三原の山にも斥候が入り込み、そのために、何かにつけ住民達と接触しようとする日本軍隊との間に、悲劇がかもされた。三原に入り込んだ3人の米兵が、住民と話しているのを、怒った伝書鳩隊の准将が、てっきり米兵と通じたものと思いこみ、海外近くの小舎に住んでいた那覇から避難してきた親子づれを拳銃で射殺した。』(315頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 315頁より》

 

中南部戦線

津堅島(つけんじま): 球師団4152部隊、独立混成第15連隊部隊

津堅島にいた日本軍は、米軍が10日に同島へ上陸、翌11日に島を制圧した後、沖縄本島へ退却した。

『亭島大尉は「五体満足な者は、与那原にある師団本隊に合流する」と命令。サバニ12隻に分乗し、津堅島を脱出していた。後にとり残されたのは、約40人の負傷兵と13人の准看、それに負傷兵の世話をみるためにとどまった数人の兵隊だけだった。』(新川城壕跡・上)

[13 津堅島・新川城跡壕(上)]まだ眠る多くのみ霊 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

その後、 米軍は沖合に停泊する艦艇を拠点とし、数回にわたって島に上陸。敗残兵を掃討するためか、攻撃を繰り返していた。前日24日夜、命を受けて本島から津堅島へと戻った一部の防衛隊員らは、負傷兵を本島に移送する準備をしていた。

『全負傷兵を運び切らないまま、たちまちのうちに午前3時。「たとえ、これから全員を乗せて本島へ向かうにしても、やがて夜が明けて見つかるだけ」との結論となり、懸命の作業も徒労に終わる。せっかく浜まで運んだ負傷兵をまた壕へと連れ帰り入り口に近い2、3階に横たえたが、皮肉なことに、最後の米軍の攻撃が始まったのはその日。みながクタクタになってまどろんでいた時だった。』(新川城壕跡・中)

『前3回、壕前の浜(現在の漁港)から攻撃を仕掛け、多大な出血を強いられた米軍。この時ばかりは島の北に上陸して南へと攻めてきた。…戦闘は長く続かなかった。抵抗しようにも満足な体力の残っている兵隊はわずか。戦車8両ほどを先頭に攻める米軍の砲火の前に銃撃戦はじきに終わり、壕前を取り囲んだ米兵は、壕入り口から「デテコイ、デテキナサイ」としきりに降伏を促した

そのうち、1人の米兵が壕入り口をのぞき込んだのだが、この壕の悲劇の発端だった。近くにいた負傷兵がこの米兵を銃剣で突き刺したのだ。投降勧告もなくなり、米軍は“馬乗り攻撃”を開始。自然壕の無数にあいている小さな穴からもどんどんガソリンを流し込み、火をつけてきた。瞬く間に燃え上がる床や階段の木造部分。次々と破裂する弾薬。壕を支えていた木材の焼失で崩れ落ちる岩石。』(新川城壕跡・下)

准看護士の証言:

『その最後の攻撃の時、私たち准看13人は数人の負傷兵と一緒に一番下の階にいました。米軍が3階部分の入り口から壕にガソリンを注ぎ、火をつけました。幸い私たちの所までガソリンは流れてきませんでしたが、壕内に蓄積してあった弾薬がドカン、ドカーンとさく裂したり、木造のはしごや床が燃えて煙が充満。“もうこれまで”と覚悟を決め、配られていた手りゅう弾の安全ピンを抜き、いつでも信管をたたき自決する用意をしてました」』(新川城壕跡・上)

[13 津堅島・新川城跡壕(上)]まだ眠る多くのみ霊 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

[14 津堅島・新川城跡壕(中)]傷を海水で消毒 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

[15 津堅島・新川城跡壕(下)]火の海となった壕内 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

民間壕に潜んでいた住民らは、米軍の攻撃が引き揚げた後、塞がれてしまった陣地壕の出口を掘り起こし、壕の一番下の一階部分にいた生存者らを助け出した。

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津堅島の陣地壕(うるま市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

沖縄県庁: (沖縄県知事・島田叡)

沖縄県の行政は…沖縄守備軍の配備以来第32軍の支配下にあったも同然で、作戦目的の為に従属させられた状況であった。…米軍の上陸前空襲が激化する中、3月25日には県庁を首里城下の軍司令部壕に移したが、同31日、米軍第420砲兵大隊が神山島に上陸し、大砲二四門を据えて首里那覇を攻撃するに及び、県庁各課を数か所に分散移転し、島田知事は繁多川の那覇警察署壕に移った。』(読谷村史/県庁職員)

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

http://www.tbs.co.jp/houtama/img/photo/080316_01.jpg

島田 叡(あきら) 沖縄県知事 

報道の魂

『4月24日、島田知事は、軍司令部からの新しい命令を受けた。「非戦闘員は首里から即刻立ち退け」というのである。知事は、このことについてはかねてから考えていたことではあり、軍から正式に要請されては、最早一刻も躊躇すべき時ではない。』(99頁)

『島田知事は…一応首里市内の民間壕にはいっていたが、4月25日の夕刻には、おなじく谷間の中腹に、壕を構えている警察部の壕に加わった。』(98頁)

『県庁員全員が、1カ所の壕に無事に顔を揃えたかと思うと、「その壕を明け渡してくれ」という軍の指示が彼らを驚かせた。「軍隊が掘った壕ならともかく、独力で仕上げたこの壕を、そうやすやすと乗っ取られてはたまらぬ」…作戦上止むを得ぬと息まく軍の使いに、知事は一策を案じた。壕を要求した那覇の船舶工兵隊本部へ、正式に使者を出すことだった。使者が持っていく用件は、「壕明け渡しの条件として、県庁本部を、長堂の軍の壕へ移すこと、県庁側が確保して置いた食料は持ち運びが困難だから、繁多川の食糧は、そのまま運ばずに残し、長堂にある軍の食糧を県庁がそのまま使うことを、許して貰いたい」ということであった。』(98頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 98、99頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail16_img.jpg

沖縄戦の絵】壕からの追い出し

『昭和20年4月、米軍が沖縄本島に上陸して戦闘が始まると、…勤め先の同僚たちとともに那覇警察署の警察官たちがいる那覇市繁多川の壕に逃げ込んだ。しばらくそこでの生活が続いたある日、日本軍の兵士がやってきて「この壕は作戦上、軍が使用するので君たちは出ていきなさい」と日本刀をかざして命令した。…同僚たちとともに、壕を出て本島南部へ逃げた。』

壕からの追い出し | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

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【戦跡と証言】県警県庁壕保存の課題(那覇市)

www.nhk.or.jp