1945年 7月10日 『弱者たちの沖縄戦』

〝沖縄〟という米軍基地

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グァムからの6時間のフライトを終え読谷飛行場へ入ったC-54ダグラス・スカイマスター。海軍空輸隊のこれらの飛行機は優先度の高い人員、医薬品、補給物資などを運ぶ。グァムへ帰るときには傷病者を乗せていった。(1945年7月10日撮影)

A C-54 “Douglas Skymaster“ comes in from Guam on Yontan Airstrip, after a six hour flight. These planes of the NATS (Naval Air Transport Service) carried high priority personnel, medical equipment and supplies. On the return trip to Guam they carried wounded patients. Okinawa, Ryukyu Retto.

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島司令部第1通信隊の受取場所に水陸両用トラックを降ろすクレーン。(1945年7月10日撮影)

Crane unloading a dukw in the receiving section of depot, ISCOM Signal Depot #1.

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普天間B-29専用滑走路の建設を急ぐ。第806工兵航空大隊の2台のスクレーパーが並んで長さ8500フィート(幅200フィート)、厚さ12インチの石灰岩仕上げの土地をならす。(1945年7月10日撮影)

Speed was essential to meet the deadline for this B-29 strip at Futema. Two scrapers of the 806th EAB are shown as they worked side by side doing their share of work on the 8500 foot strip, (200 ft. wide) with a 12 inch coral surface.

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米軍の動向

野戦病院

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榴散弾で負った傷を手当てして包帯を巻いてもらう地元の女性。治療にあたるのは海軍予備役(衛生兵)のクリステンセン中尉(着帽)で、ウェーバー衛生兵が助手を務めている。軍政府の野戦病院にて。

Native woman treated and bandaged for shrapnel wound in an outdoor AMG hospital Okinawa, Ryukyu Is., by Lt. (jg) N.A. Christensen, (MC) USNR, (with cap) assisting is charles Webber, HA1c.

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『米軍政府は、沖縄本島上陸とともに救護班を編成、戦場の傷病者を野戦病院に収容、民間人収容地区に、テント張りコンセット(かまぼこ型プレハブ)、崩れ残った民家利用などの地区診療所を設けた。ピーク時の45年7月には、北部金武村の中川、銀原の診療所に5,000人もの外来患者があり、731人が述べ997日入院した。

宜野座の病院では、7月10日には南部や中部の診療所から大挙移ってきた患者が、1日で1,500人のピークに達した。90%が外傷患者で、あとの10%は栄養失調、寄生虫結核、下痢その他の疾病。外科手術をしても34%は術後死亡した。容態が悪化しているのと衰弱が原因だった。患者は一時4,000人にも達し、7割が女性だった。』(46頁)

《「那覇女性史(戦後編)なは・女のあしあと」(那覇市総務部女性室 編/琉球新報社)46頁より》

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米軍政府病院の診療室で沖縄の住民のための診療呼集。(撮影地: 宜野座

Sick call for natives in dispensary at AMG hospital.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった学徒たち

1945年7月10日ごろ沖縄県立農林学校から農林鉄血勤皇隊の一員だった学徒の1人は、沖縄本島北部東海岸の大浦湾を望む瀬嵩(せだけ)で捕虜になった。そこで、首をかしげたくなるような光景を目にする。

多くの避難民の中に、黒人兵らと共に炊事をする学校の二期先輩を見かけた。その先輩は、炊事係をしていたためか、太っており、つい最近まで「鬼畜米英」と言って教育されてきたのに、米兵らと仲良くしていたのだ。みんなひもじい思いをしている時期だったから、背に腹は代えられないという気持ちも理解できた。

数日後、大浦湾に南部方面から多数の避難民を乗せた船が入った。学徒は、出身地である南風原(はえばる)の人がいるか、見に行った。すると、顔見知りの人を見つけて話を聞くことができたが、南部は全滅だと言われ、学徒の母や祖母、2人の妹、親族も皆やられてしまい、「あんたの家も全滅だ」と言われてしまった。(農林鉄血勤皇隊・9)

《 [68 農林鉄血勤皇隊(9)]墓標はダム底に - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、要約》

 

 

そのとき、住民は・・・

ハンセン病患者と沖縄戦

ハンセン病は、以前は「らい病」と呼ばれ、らい菌によって感染する病気で、皮膚の表面に症状が出るほか、知覚麻痺や運動麻痺、身体障害を起こす。ただ病原性が弱いので、感染力は弱く、感染しても抵抗力があれば発病しない。経済が発展し、食生活が豊かになると急速に減少するし、また戦後まもなくプロミンという特効薬が開発されて完治する病気になった。

1940年時点で日本全国に1万5763人の患者がいたが、沖縄では1453人だった。有病率(人口比)では沖縄は本土の18.5倍という高い比率を示していた犀川 一夫『ハンセン病政策の変貌』202頁、265頁)

1931年宮古島県立宮古保養院(のち宮古南静園に)、38年本部半島のすぐ側の屋我地島臨時国立国頭愛楽園(52年に沖縄愛楽園に)が設けられ、41年7月に両者とも厚生省の管轄となり正式に国立となった。43年1月末時点で県下のらい病患者は2つの療養所に収容させている者が718名、未収容者624名、計1342名となっている(『沖縄県史料 近代1』416-420頁)

日本軍が沖縄にやってくると、療養所に収容されていない患者を警戒し、収容を進めていった。9月に大規模な強制収容がおこなわれ、各地から乱暴なやり方で連行し収容された。野良仕事をしている時に有無を言わせずに連行するようなこともおこなわれ、手荷物の持参さえ許されなかった者も少なくなかったという。9月末には愛楽園の収容者は定員450人の倍を超える913人に膨れ上がった。』(107-108頁)

《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 107-108頁より》

www.nhk.or.jp

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ハンセン病療養所の台所跡地。この地域の建物は沖縄戦の初期に空襲による被害を受けた。

Ruins of kitchen which was used by the entire leper colony. During the early part of the campaign buildings in the area were damaged by U.S. planes.

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『2つの療養所に収容された患者たちは自活を余儀なくされ、なおかつ壕堀や食糧増産作業に駆りだされた

4月21日米軍が上陸してきたが、その前の砲爆撃によって65棟のうち62棟を失いほとんど灰燼に帰した。上陸してきた米軍にらい療養所であることを説明すると米軍は誤爆を陳謝した。その後、米軍が食糧や建設資材を提供して沖縄戦終結前には復興しはじめたという。防空壕などに避難していたために米軍の砲爆撃による死者は幸い1人だけで済んだが、長い壕生活や栄養失調マラリアアメーバ赤痢などによって、4月37人、5月47人、6月43人、7月22人もの死者を出した。愛楽園に保存されている「翼賛会日誌」によると、44年9月から45年末までの死者は289人にも達した(吉川由紀「ハンセン病患者の沖縄戦」)。それ以前の死亡率は年間で数パーセント(42年2.3パーセント、43年3.3パーセント、44年6.2パーセント)であったのに比べると急増した(『ハンセン病政策の変貌』97-98頁)。』(108-109頁)

《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 108-109頁より》

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『これは米軍が1945年7月の愛楽園を記録した映像を編集したものである。同じ時期、沖縄島南部ではまだ戦闘が続いている地域もあった。米軍は、愛楽園にたびたび訪れ敗戦から間もない園内の様子を撮影した。米軍が撮影した愛楽園の映像がどのように利用されたかは不明である。

【解剖 1945年7月7日撮影】 
 ハンセン病療養所の医師たちは入所者が死亡すると遺体を解剖していた。それは遅くとも1920年頃には始まり、1980年頃まで続いたと考えられる。(「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」2005年より)』

ハンセン病国立療養所「沖縄愛楽園」 展示資料/神奈川新聞(カナロコ) - YouTube

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ハンセン病療養所で検死を行う早田医師とスタッフ。検死テーブルだけが空襲の被害から逃れた。1945年7月10日撮影

Dr. R. Hayata and staff perform autopsy on leper patient in leper colony. The autopsy table in the only remaining part of the autopsy building which was destroyed by bombing.

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『戦前から、ハンセン病患者たちは強制的に隔離され、強制断種強制堕胎により、徐々に絶滅させていく政策がとられた。さらに戦時中、沖縄だけでなく各地のハンセン病療養所に強制収容された人たちが、飢えや病気などで多く犠牲になったことも明らかにされてきた。

沖縄を占領した米軍は隔離政策を継続したハンセン病は戦後まもなく治療薬が開発され、「治る病気」になったが、日本本土では1953年絶対隔離政策を継続する「らい予防法」が強い反対運動を抑えて制定された。ハンセン病患者の隔離政策が、日本において否定されるのはようやく1996年のことだった。』(109-110頁)

《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 109-110頁より》

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屋我地島ハンセン病療養所(1949年6月23日撮影)

Leprosarium on Yagaji Island.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 ハンセン病患者が体験した沖縄戦

 

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