〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月10日 『沖縄愛楽園』

一中鉄血勤皇隊・摩文仁を生きのびて「友軍が怖い」 / 沖縄の日本軍とハンセン病・愛楽園と強制収容 /

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

中南部全域が基地化され、生き残った住民は民間人収容所へと排除された。

1945年8月31日作成 米軍部外秘 沖縄マップ - Basically Okinawa

読谷飛行場、輸送機で補給物資を運びこみ、また傷病兵を乗せて送り出す。

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A C-54 “Douglas Skymaster“ comes in from Guam on Yontan Airstrip, after a six hour flight. These planes of the NATS (Naval Air Transport Service) carried high priority personnel, medical equipment and supplies. On the return trip to Guam they carried wounded patients. Okinawa, Ryukyu Retto.【訳】グァムからの6時間のフライトを終え読谷飛行場へ入ったC-54ダグラス・スカイマスター。海軍空輸隊のこれらの飛行機は優先度の高い人員、医薬品、補給物資などを運ぶ。グァムへ帰るときには傷病者を乗せていった。(1945年7月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

普天間基地6月15日に着工。地元の建造物は破壊され、巨大な地ならし機が導入された。

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Speed was essential to meet the deadline for this B-29 strip at Futema. Two scrapers of the 806th EAB are shown as they worked side by side doing their share of work on the 8500 foot strip, (200 ft. wide) with a 12 inch coral surface.【訳】普天間B-29専用滑走路の建設を急ぐ。第806工兵航空大隊の2台のスクレーパーが並んで長さ8500フィート幅200フィート)、厚さ12インチ (30cm) の石灰岩仕上げの土地をならす。1945年7月10日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は沖縄上陸の数年前から普天間飛行場の建設計画を検討していた。

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1943年10月に米軍内部で検討された資料で示された沖縄本島の滑走路建設候補地。現在の嘉手納飛行場普天間飛行場那覇空港と同じか、極めて近い位置に候補地が示されている … 一方、別の米機密文書「琉球諸島の制圧」(1943年11月18日付)は、米海軍地理事務所の分析として、望ましい建設候補地を(1)豊見城市嘉数(2)同市伊良波(3)宜野湾市志真志-の土地を座標で示して列挙。いずれも現在の那覇空港普天間飛行場から数キロの地点となっている。同文書はこの3地点は「サトウキビ畑」とも記しており、ハーグ陸戦条約を無視して滑走路建設が検討された可能性が高い。

米軍、1943年に普天間飛行場検討 沖縄戦の1年半前 - 琉球新報

 

第32軍の敗残兵

摩文仁を生きのびた学徒

戦場に送り出された生徒は、生き残っても身内のいる民間人収容所に入ることはできなかった。兵士として捕虜収容所に収容され、屋嘉捕虜収容所からハワイやアメリカ本土にまで移送されたが、まれに厳しい尋問をかいくぐって民間人収容所に入ることができた学徒もいた。

首里(学校)/沖縄県立第一中学校 養秀寮(興亜学徒錬成道場) : 那覇市歴史博物館

石垣島から一中に進学した宮城真一さんは、死の海を泳ぎ、摩文仁を生きのびる。

摩文仁の海で、しかも夜ですからね、… ゆっくりゆっくり、砂に引っかかるまで平泳ぎでゆっくりゆっくり行った。… そしたら死んでいる兵隊が浮かんでいる、いっぱい。その中を一人で泳いできた。… アメリカの船が来ているんだね。それに向かって兵隊が泳いでいくの。泳いでいると(日本軍が)後ろから撃つの。だから泳いでいるのは兵隊、撃ったのはもちろん兵隊だろうな。それは米軍が撃つんじゃない。

一中学徒・宮城真一さんの証言 (NHKドキュメンタリー (戦場の少年たち」) - Battle of Okinawa

民間人収容所の女性たちに息子としてかくまってもらうが、その収容所ですら安全ではなかった。食糧を狙う敗残兵が夜間に民間人収容所を襲撃する。

民間人収容所でかくまわれていた一中鉄血勤皇隊の宮城真一さん証言

恐い。かえって、日本軍が恐かった。日本軍は友軍、友達の軍で友軍と言っていたが、友軍が恐い。夜、襲われておった。それは、まだ後の話だけどね。(収容所で) そのアラザト・イサオのお母さんが、いろいろ、おれを息子さんの代わりにシラミがたかっている洋服を洗ってくれたりしていた。「あんたたちは奥の方に寝なさいよ」と言われた。「表の方はわたしたちが寝る」。「逆じゃないの」と思ったんだけど、「女が外の方に寝るとあれじゃないの」と言っていたのよ。夜中に兵隊が3人来た起きろ、食糧を出せと。おばさんたちが説得した。ここに僕たちが、男がいたら、男は連れていかれて、もしあれだったら殺される。あのときはほんとに困った。そのおばさんたちのグループがいろいろ「兵隊さん帰ってちょうだい」と。「わたしたちは女だけしかいないから、恐いから帰ってくれ」と。帰って、それを翌日までに米軍に報告したら、すぐ米軍の兵隊が来てね、家探しじゃない、野良探しをした。恐かったね、友軍が。夜中から何をするかわからない。

一中学徒・宮城真一さんの証言 (NHKドキュメンタリー (戦場の少年たち」) - Battle of Okinawa

一中では、動員された学徒273人のうち、153人が犠牲となっている。

癒されない心の傷

… もうおれたち同級生は、みんなそうだけどね。酒飲むとね、みんな泣いちゃってね。気持ちが荒れちゃって。戦争の被害というのが。ちょうど、ベトナム戦争のときは米軍がそうだった。おれたちがそうだった。だから、それ治るまでは20年以上かかったね。つい最近まで、何かのときはもう思い出して。だから、家族が大変なんだよ。どう慰めていいか、どう処理していいか、わかんない。… 2人とも友達で、酒一緒に飲むんだけどね。ほとんど戦争の話、何も触れない。何ていうのかなあ。あの気持ちだけは本当に、あんた、今、質問された、何か自分でも解きたいとは思うけどね、どうだろう。 

一中学徒・宮城真一さんの証言 (NHKドキュメンタリー (戦場の少年たち」) - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

日本軍とハンセン病

沖縄の療養施設 - 南静園と愛楽園

1931年、宮古島南静園が、1938年、屋我地島愛楽園がつくられた。

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名護市・屋我地島北部、済井出地区のハンセン病療養所「沖縄愛楽園」は、国の隔離政策にもとづいて、昭和13年につくられました。那覇市から北に60キ口のこの施設も、戦時中アメリカ軍の攻撃対象になりました。今も施設には、戦争の傷あとが残されているといいます。
昭和19年10月10日、のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島各地を襲いました。その一部は愛楽園を攻撃し、施設の90%が破壊されました。愛楽園は、整然と並んだ病棟が日本軍の兵舎に間違われ、その後も繰り返し攻撃を受けました。水タンクが破壊され、十分な治療ができなくなった愛楽園では、元患者のおよそ30%、289人が亡くなりました。

名護市 愛楽園と戦争【放送日 2008.9.17】|NHK 戦争証言アーカイブス

ハンセン病は、以前は「らい病」と呼ばれ、らい菌によって感染する病気で、皮膚の表面に症状が出るほか、知覚麻痺や運動麻痺、身体障害を起こす。ただ病原性が弱いので、感染力は弱く、感染しても抵抗力があれば発病しない。経済が発展し、食生活が豊かになると急速に減少するし、また戦後まもなくプロミンという特効薬が開発されて完治する病気になった。

犀川一夫『ハンセン病政策の変貌』202頁 》

1931年宮古島に県立宮古保養院(のち宮古南静園に)、38年本部半島のすぐ側の屋我地島に臨時国立国頭愛楽園(52年に沖縄愛楽園に)が設けられ、41年7月に両者とも厚生省の管轄となり正式に国立となった。43年1月末時点で県下のらい病患者は2つの療養所に収容させている者が718名、未収容者624名、計1342名となっている。

《『沖縄県史料 近代1』416-420頁 》

東京港区出身の早田晧は長島愛生園 (岡山県) 勤務の後、1944年家族と共に沖縄に渡り愛楽園の園長となっている。1946年に多磨全生園 (東京都) に転任。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

Leper Colony. ハンセン病療養所(1945年撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

1944年 - 日本軍の強制収容

沖縄でのハンセン病の強制収容は、日本軍によって日本軍の読谷飛行場と伊江島飛行場の建設に伴い始められた。1944年

軍による患者の強制収容は、1944年5月の読谷村が最初といわれており、7月には伊江島でも行われました。これらの地域はいずれも、県内で先行して日本軍の飛行建設が始まっていた所です。

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 / 吉川由紀 / -シノドス-

8月に読谷に駐屯した日本軍はハンセン病を「敵」とみなし排除しようとした。

「第24師団防疫給水部 (山1207部隊) が、一番先にぶつかった敵は、米軍ではなくて、沖縄のレプラ患者だった。」

(元兵士からの聞き取りを記録した「七師団戦記 あゝ沖縄(33)」『北海タイムス』1964年5月3日)。

1944年9月1日、第9師団(通称武部隊)の軍医中尉、日戸修一は、愛楽園の早田園長と連携し徹底した強制収容を進めた。いわゆる日戸収容と呼ばれる。日戸は東京の全生園に勤務していた皮膚科の医師であった。

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 逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 / 吉川由紀 / -シノドス-

日本軍が沖縄にやってくると、療養所に収容されていない患者を警戒し、収容を進めていった。(1944年) 9月に大規模な強制収容がおこなわれ、各地から乱暴なやり方で連行し収容された。野良仕事をしている時に有無を言わせずに連行するようなこともおこなわれ、手荷物の持参さえ許されなかった者も少なくなかったという。9月末には愛楽園の収容者は定員450人の倍を超える913人に膨れ上がった。

《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 107-108頁より》

日戸による回想

昭和19年牛島兵団は作戦上の必要から沖縄本島の癩を全部隔離しなければならなくなり召集された僕がその仕事にぶつかった。野戦地には国立愛楽園があり、早田皓がいた。癩隔離の必要を全住民に説き本島全土をまわり全島民を一人のこさず検診した。参謀が癩と同居していた。200名に近い癩患者を見つけた。そして収容した。

厚生労働省ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』》

入所者の証言

まず第一に日戸収容というのがあるんです。これは軍の収容なんです。日戸という軍医の名をとって日戸収容といっているんです。…(中略)… 日戸収容がきた時にはですね、日本の軍が沖縄の方に進駐してきた、それで民宿にするから在野の思者たちはみんな収容すると。その収容がですね、非常にひどかったんですよ。抜刀して、野良にいる人をそのまま連れてくる。そして軍刀でもっておどして、着のみきのままですよ。野良にいってるのは野良着のまま、何も持たさないです。あっちに行けば布団もある。衣類も何もかもあるというふうにして、御飯も充分あるといいながら、さっき話しましたように、布団は一人の半分、支給品もそうする、食べ物は半分、そんな強制収容してきて450名というものをワァーッと入れたんですよ。人権ってないですよ。半分の人権もない。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

1944年は沖縄の救癩史に特筆すべき年であった。早田園長先生の計画そのときを得、駐屯の軍部と提携して全島の患者の一斉収容が行われた。私はその準備工作として検診のため、那覇の球部隊に軍医長を訪ねた。… かくして緊急にリストは出来上がった。… それがあんな風に利用されるとは知らず真剣であった。収容は9月1日を期して開始され、全部軍部の手で実施された。銃剣を持つ兵士達によって行われた暁の急襲は深刻な衝撃を与えたようで、送られて来た病友達の顔は不安に固くなっていた。

《松田ナミ「ちぎれぐも」、国頭愛楽園『愛楽誌創刊』(1952年)  from 厚生労働省ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』》

使われなかった赤十字の旗

療養所が兵舎と誤認され激しい空爆を集中的に受けたが、赤十字の旗を掲げるなどの対策はとられなかった。*1

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Ruins of kitchen which was used by the entire leper colony. During the early part of the campaign buildings in the area were damaged by U.S. planes.【訳】ハンセン病療養所の台所跡地。この地域の建物は沖縄戦の初期に空襲による被害を受けた。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

入所者の証言

ここは病院だといって赤十字のマークをつけたら爆弾が落ちないんですよ。で、それ進言したわけですよ。赤い赤十字をたてるといったらですね、(ブログ註・早田園長が) ここに爆弾を集中させておけば、軍人のほうは軽くすむんじゃないか、だからあんた方はこれで耐えておけと。爆弾をたくさん落さしておけば、それで儲けものだと、それだけ軍隊のほうに落ちないからいいんじゃないかとー。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

過酷な避難壕掘り「早田壕」

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愛楽園内に残る防空壕。園長の名をとって「早田壕」と呼ばれている(2015年1月沖縄愛楽園自治会撮影)

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 / 吉川由紀 / SYNODOS

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沖縄愛楽園自治会長・金城雅春さん「手足の麻痺している(ハンセン病)患者がみんな壕堀りしたために、こういう手になって。貝塚の層を掘らすというんもは非常に無茶だろうなと。結局(貝は)刃物ですから死になさいと一緒なんです。ハンセン病の人たちにああいうことさせるというのは、傷もできてしまって刃物ですのでね」

戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 ハンセン病患者が体験した沖縄戦 – QAB NEWS Headline

 

4月23日 - 米軍、愛楽園に侵攻

運天港の第27​魚雷艇隊及び第2鮫龍隊の特殊潜航艇基地に近いため、兵舎とみなされ、愛楽園は激しい空爆を受ける。4月23日、米軍が運天港から上陸、ハンセン病療養施設と判明し誤爆を謝罪、それ以降、米軍占領下におかれる。

敗残兵に狙われた愛楽園

米軍の管理下にありつつ、数々の住民虐殺で周囲を粛清していた今帰仁の敗残兵 (白石部隊) との対応に苦労する。敗残兵の狙いは米軍が提供する食糧だった。病院は米軍と日本軍とのあいだで双方から危険な立場に追われることとなった。

その頃、強気な父に対していろいろと流言が飛び交っていた。10月空襲を言い当てたこと、米軍医師らと親しげにハンセン病の学術交流などしていたことで、米軍のスパイに違いないと日本軍に密告するものが出た。軍による父の処刑が計画され、父の片腕になって働いてくれている職員も仲間とみなされ一緒に拘留された。厳しい取り調べの結果、冤罪と分かり無罪放免となってホッとしたのも束の間、今度は園接収後、怪我をした日本兵を手当てしたこと、食料を日本軍に横流ししたことなどで、米軍に日本軍のスパイだと密告するものが出た。再び父の側近もろとも逮捕され、頭に銃を突き付けられて激しく尋問されたが、機転の利く職員に助けられ、これも危機一髪で冤罪を証明して、無罪放免となった。

屋我地島のドン・キホーテ - 大白泰子 http://archive.is/XjvSb 

愛楽園の職員 儀部朝一 さん証言

今帰仁に白石部隊がおって、竹下中尉 (ブログ註・武下) という人がいた。わたしはものずきでいろんないいものを持っておったのです。兵隊はなんかとりたいために、いろいろなスパイ容疑をかけて、それで屋我地から出るときには必らず屋我地の駐在所の許可を得て出るようにしなさいと、白石部隊から駐在に連絡してから、駐在所からわたしに伝達があったのです。わたしはどうしても合点がゆかないで、また駐在所の人も、この人もとっても懇意にしておるのですね、わたしが責任を持つから自由にしなさいということで、なんともなかったんです。そのころ米軍は上陸はしておるんだが、白石部隊から竹下中尉つかって、わたしを殺してきなさいということになったのですよ。(中略)今帰仁あたりでは通訳とか校長 (ブログ註 4月17日) とか警防団長の謝花喜睦 (ブログ註 5月12日) さんなんか、みなやられたのですよ、三名か四名。それで[宮里]政安さんが、園長と泉正重さん(庶務課長)とわたしと三名が白石部隊から呼ばれているから非常に用心しなさいと伝言がきたんです。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

2005年、米軍資料から戦死した海軍第27魚雷艇隊の兵士の軍用手帳が発見される。

軍用手帳には、ハンセン病患者が入園していた愛楽園に食糧を供出させていたことも記録されていた。… (中略) … 当時の早田皓園長(故人)の論文記録では、竹下中尉らは兵二百人分、毎月米六石を要求。「凶刃を振るわれては一大事なので、泡盛を振舞ってお引きとりを願い、要求を引き受けた」とある。

沖縄タイムス日本兵「スパイ殺害」記述 / 沖縄戦 住民虐殺裏付け」2005年12月28日 》

この竹下ハジメとは、6月18日に米軍に射殺された白石部隊の武下一少尉。米軍の保護下となった愛楽園は、日本兵から食料を供出するよう脅迫され、一方では米軍に情報を提供せざるを得ない状況に立たされた。武下は3日後に米軍によって射殺される。

武下少尉らは最後、地元で真利山と呼ばれる地域の小さな川の上流にアジトを作っていた。拳銃以外に何の武器も携行せず部下二人と共に眠っていたところを、ピンポイントで探し当てた海兵隊第三師団のパトロール隊によって射殺されていることから、当時から密告説が囁かれていたようだ。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社、2020年 》

米軍とハンセン病、また宮古島の南静園については別項目で扱う。

 

宜野座収容所と宜野座野戦病院

中南部から次々と収容者が送られ、宜野座村だけでも10万人余となった。収容所内の野戦病院は7月にピークを迎え、多くの民間人が亡くなったといわれる。

宜野座野戦病院 (現在の宜野座小学校周辺)

90%が外相患者で術後死亡率34%、70%が女性。これが意味する沖縄戦の実態とは。

銀原の診療所

米軍政府は、沖縄本島上陸とともに救護班を編成、戦場の傷病者を野戦病院に収容、民間人収容地区に、テント張りコンセット(かまぼこ型プレハブ)、崩れ残った民家利用などの地区診療所を設けた。ピーク時の45年7月には、北部金武村の中川、銀原の診療所に5,000人もの外来患者があり、731人が述べ997日入院した。

宜野座野戦病院

宜野座の病院では、7月10日には南部や中部の診療所から大挙移ってきた患者が、1日で1,500人のピークに達した。90%が外傷患者で、あとの10%は栄養失調、寄生虫結核、下痢その他の疾病。外科手術をしても34%は術後死亡した。容態が悪化しているのと衰弱が原因だった。患者は一時4,000人にも達し、7割が女性だった

《「那覇女性史(戦後編)なは・女のあしあと」(那覇市総務部女性室 編/琉球新報社)46頁より》

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米陸軍: Sick call for natives in dispensary at AMG hospital.【訳】米軍政府病院の診療室で沖縄の住民のための診療呼集。撮影地: 宜野座

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

宜野座(現在の宜野座村宜野座・惣慶・福山)
五月中旬頃、地元の住民と玉城村・東風平村・南風原村・大里村・佐敷村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が幾つかの収容所を経て送りこまれた。収容所は、宜野座・大久保・惣慶・福山のブロックに分かれていたが、行政は宜野座市・惣慶市・福山市となっていた。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争

写真13 収容地の診療所(字漢那)(宜野座村立博物館所蔵)

総務省|一般戦災死没者の追悼|宜野座村における戦災の状況(沖縄県)

ひとびとはこの地でおびただしい遺体を埋葬した。

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「宜野座野戦病院跡 」 沖縄の戦跡 | 沖縄総合事務局

宜野座村教育委員会の発掘調査員

あれはもう墓とは呼べません。穴の壁に背をもたれた遺骨のそばで、うつぶせ、あおむけの遺骨が折り重なっていて、投げ捨てられた状態でした。いくつかは遺骨のそばに遺品が置かれ、墓と呼べるようなものもありました。当時としては精いっぱいの弔いだったと思います。

「戦禍を掘る」取材班)1983年8月14日掲載

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沖縄総合事務局「沖縄戦時の共同墓地 」 沖縄の戦跡

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宜野座村立博物館に、村内の収容所ごとにつくられた、共同墓地に埋葬された人の名簿が残っています。

宜野座村 野戦病院共同墓地|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

7月10日には中南部の診療所から宜野座野戦病院に移送された患者が、1日で1,500人に達した。

玉城村から国頭に疎開しヤンバルから収容された16歳少女の証言

1983年7月1日の沖縄タイムスに「野戦病院跡から遺骨ぞくぞく、宜野座村体育館の建設現場」という見出しで三十八年ぶりに戦病死者の遺骨が発掘されたという記事を見て、我が目を疑いました。それはまがいもなく私達が米軍の野戦病院で看病をし空しく死んでいった人たちの遺骨だったからです。...  (中略)  ...

数日たったある日、班長さんから「明日島尻から大勢の負傷者が運ばれてくるので、若い娘たちは看護のため病院に行くように」との伝達を受けました。島尻からと聞き、もしや父もその中にいるのではと、たかぶる気持ちを抑えて米軍の野戦病院に急ぎました。

病院とは名ばかりで、畑の上に長いテントが張られ野戦用ベットが並べてあるだけです。その長いテントが10棟程あったと思います。間もなく負傷者を乗せたトラックが次々到着しました。トラックから降ろされベットに移された患者のあまりのむごたらしさに怖さを感じました。衣服も包帯も血にまみれ傷の痛さに呻いています。手や足を失い或は体中傷だらけでが沸いている者、全身火傷の者、家屋の下敷きになった者、三歳位の子供から国民学校子供学徒隊防衛隊一般避難民とほとんどの人が家族と離れ一人で収容されていました。私は第五テントに配置され患者の食事の世話や便の世話をしました。収容された人に知った人はいないか、何よりも我が村や父の消息が知りたくて捜しまわりました。

沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) - Battle of Okinawa

写真は糸満の臨時救護所。

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海兵隊: Jap nurses take care of wounded civilians as they are brought to Itoman. The nurses work very fast and do very good work.【訳】負傷して糸満に収容された民間人を手当する日本人(地元の)看護要員。彼女たちの働きぶりは敏速、且つ有能である。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

毎日のように死者を運ぶ。

傷の治療は米軍の衛生兵が担当していましたが、時には私達も手伝いました。ガーゼを替え消毒し白い粉薬をふるだけの簡単な治療でした。手術室は他にあって腐った手足の切断や破片の摘出をしているようでした。私たちは夜間も交代で患者の世話にあたりましたが、毎日のように死亡者がでました。朝になるとベットの上やテントの外に出て死んでいるしかばねが見つかります。制服を着て髪を三つ編みにした女学生が破傷風にかかり引きつけを起こして死んでいきました。

死体を担架に乗せ死体置場まで運ぶのも私たちの仕事でした。死体置場には沢山の死体が並べられていました。祖国の勝利を信じ祖国防衛のため戦闘に参加し傷を負い屍となって並べられている姿に無念の涙を禁ずることができませんでした。

私たちのテントから少し離れた病棟で異様な光景を見ました。若い女性が全裸になり大声でわめきながら土の上を転げまわっています。その側に一歳位の男の子が座っています。衛生兵や看護婦が見守っているようでした。そんな状態が二、三日続いた頃、看護婦がその女の体をきれいに洗っていました。しばらくして、その場所を通りかかった時には病院着を着せられ静かになっていました。注射を打たれたのだろうとの話でした。若い美しい母親の死顔でした。

沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) - Battle of Okinawa

 

宜野座孤児院と朝鮮人慰安婦

野戦病院構内の一棟のテントに朝鮮から連れてこられた慰安婦が収容されていました。その数は4、50人位いたと思います。...  (中略)  ... 朝鮮から徴用で沖縄に送られ日本兵相手の慰安婦にされていたそうです。そして悲惨な沖縄戦に遭遇した彼女らは米兵に保護され一ヶ所に集められていてひたすら故郷へ帰る日を待っているのであろうか。同じ女性として彼女らの境遇を気の毒に思いました。

沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) - Battle of Okinawa

収容所の元朝鮮人慰安婦たちは、8歳で一人ぼっちになった少女を引きとり父親が現れるまで世話をしていた。

1945年7月、戦災孤児となった私は、宜野座野戦病院で看護婦だった朝鮮の女性たちに引き取られ、11月まで一緒に暮らしました。8月か9月にキャンプ・コザに移動。フサさんと呼ばれた女性は私を朝鮮半島に連れていくか迷ってコザの孤児院を訪れましたが、『慰安婦』だったことを子どもたちにからかわれたため、いたたまれない様子で私を連れテントへ戻りました。

【司法が認めた沖縄戦の実態㉕】独りぼっちになったツルちゃん | InFact / インファクト

大久保孤児院の少年(宜野座村立博物館所蔵)

総務省|一般戦災死没者の追悼|宜野座村における戦災の状況(沖縄県)

 

 

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  1. 厚生労働省ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』第十六 沖縄・奄美地域におけるハンセン病政策

*1:赤十字条約 (ジュネーヴ条約) 参照