1945年 6月17日 『生命を助けるビラ』

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためである。6月15日には、普天間飛行場の滑走路建設にも着手した。

読谷飛行場

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読谷飛行場 / View of the Yontan Airfield.

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『5月末までに、沖縄本島伊江島に建設中の爆撃機用ならびに戦闘機用滑走路は、10本。このうち、完成の間近なのは、読谷と嘉手納飛行場、それに伊江島の、それぞれ1本ずつであった。沖縄でつくられた米軍最初の滑走路読谷にできた長さ2100メートルの中距離爆撃機用で、6月17日に完成された。』(446頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 446頁より》

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読谷飛行場のアーノルド大将——読谷飛行場に到着し、日本本土に最も近い米国の基地を初めて視察する米陸軍航空隊司令官アーノルド大将。第10陸軍戦術航空軍司令官ウッズ海兵隊少将と話すアーノルド大将は自信に満ちて満足げな様子

ARNOLD AT YONTAN---5 star Gen. Henry Arnold, commanding U.S. AAF, got his first look at the American base nearest Jap home islands when his plane landed at Yontan airfield, Okinawa. Looking pleased and confident, he is shown here talking to the commande.

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南進する米軍

『…米軍は、6月13日から17日まで5日間も攻略戦を続行したが、それはあたかも狩にも似たようなものだった。戦車群はいつものように歩兵の先に進んで、砲弾と機関銃弾をたえまなく撃ち込み、弾丸に当たって砕けた岩石が、粉となって飛び散った。

戦場は火炎砲戦車隊があばれまわるには、あつらえむきにできていた。戦車隊は、洞窟、岩の裂け目、あるいは灌木の生い茂ったところを求めて、火炎を放射し、あるいは日本兵を見つけては、これを殺したり、または機関銃弾の河のなかに彼らを追いやった。5日間の戦闘で、第713火炎装甲車大隊は、3万7千ガロン以上の〝燃えるガソリン〟を日本軍陣地めがけて流し込んだ。』(497頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 497頁より》

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火炎放射器燃料混合作業場。手前はガソリンのドラム缶。台の上にあるのはミキサー。

The flame thrower fluid mixing plant. Gas drums in foreground, mixer on platform.

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最後の追い込み

『米第10軍は、6月17日の夕方までに、やっと国吉丘陵から具志頭村の153高地、115高地の峰づたいに前線を確立した。これで、米軍ははじめて、南のほうに約12平方キロにわたる地域を占める日本軍の防衛陣をのぞむことができたのである。最後の防壁からも駆逐され、いまや壊滅を防ぐなにものもない、と認識することを余儀なくされた牛島中将の軍勢は、とたんにくずれ出してきた。さすがの日本陸軍精神も兵の士気も、80日間もの負け戦をつづけては弱くなる。いまは完全に敗北を喫した第32軍は、一つの単なる暴徒の集団と化してしまった。』(497-498頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 497-498頁より》

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115高地へ進む兵士と砲座の後ろに潜む日本兵へ火炎を放射する戦車

Men advance to Hill 115; flame - throwing tank spraying Jap emplacement w/soldiers in rear.

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『日本軍の勢力が、最初に弱くなったと思われだしたのは、16日、第7海兵連隊が全戦線でいくらか進撃できてからであった。第2大隊は、17日の未明に、第22海兵連隊と交替し、この比較的新鮮な第22連隊が、17日にはかなり進撃して、日本軍の抗戦力もほとんどなくなった。』(494頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 494頁より》

 

心理作戦: 宣伝ビラ

『…米軍機は、3月25日から組織的な戦闘が終わる日までに、およそ800万枚の宣伝ビラを沖縄島に撒布した。このビラは、まず6月中旬までには民間人や兵隊に、米軍は信じていいということを知らせ、その後は、日本の負けていることを知らせるのが狙いであった。』(505頁)

6月17日、第7師団はもっと効果的な投降勧告をやろうと思い、全軍が1時間砲撃を中止した。通訳兵が携帯用のラウドスピーカーを持ち出して、投降を呼びかけた。数人の日本兵が出てきた。米軍のほうに近よってきて、2、3分立ちどまって見ていたが、急に姿を消した。と思ったら、米兵1人が負傷し、ラウドスピーカーに3つも穴があいた。こういうやり方は、まったくきき目がなかった。その同じ日、米軍は攻撃を続行し、第7師団では、通訳兵が仲座南東の断崖の上に、ラウドスピーカーを置いて呼びかけた結果、海岸の絶壁にある自然壕のなかから、500人から600人の民間人がぞろぞろと出てきた。このグループの中から通訳兵が、すでに軍服をすて、民間人に化けて、ぶじ通りぬけようとした日本軍の軍人を、70人以上も発見した。』(506-507頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 506-507頁より》

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沖縄で自決するよりも降伏を選んだ大勢の日本兵。身なりはみすぼらしくひどく衰弱しているが、投降する日本人の数は彼らがようやく正気を取り戻してきていることを表しているといえる。

One batch of the large number of Japs who chose to surrender rather than be killed or commit hara kiri on Okinawa. Those who surrendered were a poorly garbed, emaciated lot--but the number surrendering indicated that the japs finally were coming to their senses.

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バックナー中将の勧告

『6月10日の朝、バックナー中将は、牛島中将あて書簡をしたため、それを戦線後方に投下して、日本軍の集団降服をつぎのように勧告した。

「閣下の率いる軍隊は、勇敢に闘い、善戦しました。歩兵の戦略は、閣下の敵である米軍から、ひとしく尊敬されるところであります・・。閣下は本官同様、長年学校と実戦で経験を積まれた立派な歩兵の将軍であります・・。したがいまして、本官が察するところ閣下もすでにご存知のことと思いますが、全日本軍がこの島で壊滅することは、いまや時間の問題であります・・」

こうしてバックナー中将は、牛島中将に降服交渉に応ずるように説いた。もちろん米軍は誰ひとりとして、牛島がこの降服勧告に応ずると、まじめに考えた者はいなかった。2日後に、米軍はふたたび、3万枚のビラを日本軍のいる地上にばらまいた。こんどは牛島中将が降服勧告を拒絶したこと、そして、それは全軍を破滅に導こうとする、利己主義な考えであり、将兵は、将軍の考えに同調してはならぬこと、などを強調した。

6月14日、ふたたび降服勧告がなされた。後でわかったことだが、牛島将軍が、最初の降服勧告書を実際にうけとったのは、6月17日になってからだった。それがおくれてしか入手できなかった理由は、連絡や通信網の欠如と、さらに軍自体が混乱状態におちいっていたからだった。だが、牛島も、参謀長の長将軍もこの降服勧告を一笑に付し、かかる勧告に応ずることは〝サムライ〟の面目にかかわることだといった。』(505-506頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 505-506頁より》

 

 

第32軍の動向

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

八原高級参謀の回想:

『…アメリカ軍は断崖下の海上から、宣伝放送を始めた。流暢な日本語だ。来る日も来る日も執拗に続ける。

「住民諸君!生命は保証する。食糧も薬品も与える。今のうちに、早く港川方面に避難せよ!」

「兵士諸君!諸君は日本軍人の名に背かず実によく戦った。しかし戦いの勝敗はすでに決定した。諸君の任務は終わったのである。これ以上戦闘を続けるのは、無意味である。生命は保証するからすぐ海岸に降りて、我々の舟に泳いでこい

敵は海上からのみでない。空中から、砲撃に劣らぬ規模で無数の宣伝ビラを撒布する。いずれの伝単もいわゆる宣伝ビラ式のあくどさがなく、極めて自然に、日本の敗戦必至や、指導者たちの無能、恣意を理解するよう記述してある。私は司令部洞窟内の将兵に及ぼす影響に絶えず注意を怠らなかった。少なくとも表面上は動揺の色なく、アメリカ軍が勝手なことばかり述べておるわい、などつぶやく者もいる。唯一人、それも軍人か住民かわからないが、断崖下の哨戒艇の方に泳いで行った奴がいるとの報告をきいた

6月17日、敵将シモン・バックナー中将からの牛島将軍宛ての降伏勧告文が、第1線の手を経て司令部に届いた。その文意は次の通りであった。

「歩兵戦術の大家である牛島将軍よ。予もまた歩兵出身の指揮官である。貴官が孤立無援のこの島で、劣勢な兵力を率いて、長期にわたり善戦されたことに対し、予始めわが軍将兵は称賛措くあたわざるものである。さりながら、今や戦勢は決定した。この上惨虐な戦闘を継続し、有為な多数の青年を犠牲にするのは、真に忍び得ないし、また無益である。人格高潔な将軍よ。速やかに戦いを止め、人命を救助せられよ明12日摩文仁海岸沖の軍艦上に、当方の軍使を待機せしめむべきをもって貴軍においても軍使5名を選び、白旗を持たせ、同海岸に差し出されよ」

すでに期日の過ぎ去ってしまったバックナー将軍の提議である。もちろん、多年の伝統に培われた日本将兵である。誰も真面目にこの提案を考える者はない。牛島将軍は、「いつの間にか、俺も歩兵戦術の大家にされてしまったな」と破顔一笑されてしまった。』(409頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 409頁より》

  

崩れゆく防衛線

『敵第7師団は東方より八重瀬岳の完全攻略を図るとともに、さらに北方より八重瀬、与座両高地の中間部断崖の比較的緩やかな部分から滲透攻撃を開始した。歩兵第89連隊、捜索第24連隊および工兵第24連隊の第24師団の諸隊は北方および東南両方向より挟撃され、その奮闘にもかかわらず、6月17日には与座の山頂は敵手に落ちてしまった。』(404頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 404頁より》

『部隊としての独混第44旅団は、その本部のある具志頭の第115高地が、米軍に攻略されたとき逃れ得たもの、わずか数名という悲惨さであった。第62師団に編成された兵も、第89高地の師団本部を、まもりとおすことはできなかった。第24師団の兵員400人、これは第32連隊の生き残り全部であったが、国吉丘陵付近で、あちこちの洞窟に身をひそめ、戦場が南に移動してしまうまで、ずっとそこにいた。残りは153高地の南西1キロもはなれていない真栄平村落近くの本部に退いた。

153高地が、第17歩兵連隊の手におちて数時間後、牛島中将は文書による、つぎのような命令を出した。

153高地は全軍の運命を託した重要な地点である。この高地が看過され、たびたび命令書をださねばならぬとは本軍司令官の誠に遺憾とするところである」

中将は、1大隊に同高地を朝までにふたたび確保せよと命令を下した。』(498頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 498頁より》

 

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

『…17日を迎えた。伊東のいる大隊本部の壕は、長さ10メートルぐらいの東西に筒抜けになっている自然洞窟を坑木で補強したもので、ここには20名足らずの本部要員がいた

この壕に対して、敵は山頂から両方の入口に榴弾黄燐弾梱包爆薬で攻撃してくる。伊東が東側の入口にいると、反対側の入口で、爆発音と兵のうめきがほとんど同時に聞こえた。数名の負傷者が出たようだ。…眼に火の玉が飛び込み、轟音が耳をつんざいた。腹部に鉄槌を感じた。…腹部の痛みが表面的で、深く食い込んでこない。…傷を調べると、顔と腹に数か所の擦過傷を負っただけだった。それでも左手はあげることができず、つんざくような音が耳にこびりついている。衛生兵に治療してもらった。

傍らを見ると、無線兵がうめき声をあげていた。…「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳、天皇陛下万歳・・」3度目はかすかな声だったが、それが彼の最期の言葉となった。…黄燐弾の攻撃で、手持ちの弾薬箱の小銃弾が誘爆し、先ほどからバンバンと破裂音をさせている。ついに坑木が燃え出した。手持ちの水を掛けて消したものの、夏の日盛りですぐに乾き、また燃え出す。細かい粒子が飛び散っているため、完全に消火することができないのだ。乾ききった喉を潤す水筒の最後の一滴さえも、消火に使ってしまった。やむなく燃えている箇所を踏んだり叩いたりするのが、効き目がなかった。今度は小便を飯盒に集めて消火を試みたが、小便はすぐに出なくなった。』(244-245頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 244-245頁より》

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/maps/USMC-V-21.jpg

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-10.html

『火の勢いは、まるで伊東たちを焼き尽くすかのように次第に強くなっていく。この厄介な黄燐の火に炙り出されて外に飛び出せば、たちまち敵の餌食になってしまう。依然として、爆雷と黄燐弾の攻撃は続いていた。いよいよ最期だ。小なりといえども部隊長としての誇りがある。伊東はその散り際を割腹か拳銃自決か、斬り込みかと懸命に思案していた。

…とっぷりと日が暮れた頃、大隊本部のもう一つの洞窟にいた兵3名が、水を持って火を消しに来てくれた。伊東たちが炙り出されようとしているのを知り、駆け付けてくれたのだ。しばらくして、独立速射隊の廣瀬小隊長から伝令がきて告げた。「今の壕は危険ですから、もう一つの本部の壕に至急移られることをお勧めする」廣瀬少尉は、かつてこの付近の築城を担当して、陣地の状況に通じていたのだった。

そのとき、もはや諦めていた工藤中尉率いる第3中隊が撤退してきた。隊長以下20名ほどで、あとの半数弱は途中ではぐれたり敵にやられたりしたという。伊東は現在の壕を第3中隊に任せ、約20メートル東側にあるもう一つの壕へと移った。伊東たちがその壕に落ち着くと、間もなく伝令がきた。第3中隊長の書面を持っている。

「現陣地を守ることは困難なり。よって犬死にするよりは斬り込みをします。今までのご指導を謝す」と、したためてあった。伊東はすぐさま第3中隊の壕に下士官を遣った。「ただいま聯隊本部に伝令を出した。その結果を持ち最後の命令をする。それまで現陣地を守れ」しかし下士官が壕に着いたときにはすでに遅く、負傷者が2名いるだけで他の者の姿はなかった。』(245-247頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 245-247頁より》

 

捕虜になった日本兵

沖縄戦も終末に近づくと、米軍は幾万枚もの〝降服勧告ビラ〟を日本軍の頭上にばらまいた。日本軍は、前面に米軍の攻撃をうけ、背後に海をひかえるにおよんで、兵のあいだには、しだいに政府がこれまでいってきたこと、および軍部が約束したことなどに対して疑問が湧きはじめていた。それと同時に、投降した者は人道的に取り扱うという米軍に対して、やがてその真実性について真剣に考えるようになってきた。』(506頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 506頁より》

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手作りの担架で負傷兵を運ぶ日本兵捕虜。(1945年6月17日撮影)

Captured Jap soldiers carry their wounded back on a home made stretcher.

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『6月なかばの公式の作戦終了の1週間前から、かなりの日本兵が投降しはじめた。それまでは、平均して1日4名であった。アメリカ軍の中隊の多くは、8週間から10週間戦っても1人の捕虜もなかった死体の他にまったく敵兵を見なかった・・・爆撃や砲兵の射撃で肉体的、精神的に無能力にならない限り、降伏したり捕虜になることを認めたりする者は1人もいなかった。』(308頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 308頁より》

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第4海兵師団に殺されることよりも降伏を選んだ日本兵。沖縄。(1945年6月17日撮影)

Japanese soldiers who preferred to surrender rather than be killed by our fast moving troops of the Fourth Marine Division, Okinawa.

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『日本軍は、米第10軍によって水際まで追いつめられるまでは、集団投降はしなかった。しかし、心理作戦を強化して以後というものは、この投降が目立ってふえてきた。』(507頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 507頁より》

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18歳と20歳の2人の日本兵捕虜。一緒に写っているのは、体格の大きな朝鮮人少年。(1945年6月17日撮影)

Two captured Japanese soldiers, one 18 years old and the other one 20. One of the bigger Korean boys is shown with them.

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そのとき、住民は・・・

『海岸地帯への艦載機の機銃掃射、ロケット弾攻撃も執拗になり、掃海艇からの砲撃も頻繁になった。2、3隻がそろって砲門を開く。岩石が砕けとび、硝煙の臭いが鼻をつき刺す。続いて海岸に接近する。甲板で水兵が小銃を構えている。面白半分の射撃を始める。降伏勧告のビラが降ってくる

米軍は降伏する者をを殺さない

「降伏すれば、水や食べ物を与える。負傷者は軍医が治療に当たる」

という内容であった。ビラを読むことは、日本人の誇りが許さないはずであったが、兵隊も避難民もむさぼるように読んだ。…米軍は降伏したものを殺さない・・・捕虜収容所もある。これは、岩陰の人々にとって「」への光明であった。また、「降伏するときには、このビラをかざして歩きなさい」という「降伏切符」のようなものもあった。』(66-67頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 66-67頁より》

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811号降伏勧告ビラ/生命を助けるビラ : 那覇市歴史博物館

『降伏勧告ビラに「米軍は捕虜を殺さない」と書かれているとしても、それが事実であるとの保証はない。捕虜収容所の記事や写真も、うそかもしれない。疑問が生まれる。それに「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本精神の幻が立ちはだかる。一縷の望みがある。この「生」への本能と「日本精神」の実態を、私は、目の前で、はっきりした「形」として見ることになる。

6月の17か18日であった。多分、昼過ぎであったと思う。艦載機や掃海艇からの攻撃がピタリと止んだかと思うと、ピーイッという異常に高い音響が、岩壁に跳ね返った。それが、スピーカーの音量調節であることはすぐに分かった。「オ、ヨイ、デェクオイ・・・」音域の異なった発声であった。「コチ、コイ、レテキ、ナサイ」意味不明の言葉に、音量調節の雑音が入り交じって、ますます分からなくなる。』(68頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 68頁より》

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米軍がばらまいた降伏を促すビラを手に降参する地元住民(1945年6月17日撮影)

Four Okinawans surrender, bringing the leaflets that was dropped by our Army with surrender instructions.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『突然、それが、流暢な日本語に変わる

日本軍将兵の皆さん、避難民の皆さん・・・

「沖縄での戦闘が始まってから3カ月、皆さんは勇敢に戦いました。皆さんは、皆さんに課せられた責任を立派に果たしました。これ以上戦う必要はありません。いつまでも、壕の中や岩陰に隠れていると、アメリカ軍から攻撃されます。ですから、すぐそこを出て、降伏しなさい。アメリカ軍は降伏した者は殺しません。皆さん、命は大切にしてください」

勧告は続く。

これから2時間、この一帯への攻撃を停止します。その間、舟艇を海岸の近くまで寄せます。泳いで来てください。アメリカ軍は、水、食料、医薬品を用意して待っています」

そのまま「生」への希望につながる言葉であった。活字でなく声で、言葉で命の保証をしたのだ。私は胸の高鳴りを聞いていた。勧告はなおも続く

戦友諸君、自分は右大腿部に盲貫破片創の重傷を受け、死を覚悟しているところを米軍に発見され、病院に送られました。米兵は鬼畜ではなかった。私は助かった。だから、戦友諸君に言う。安心して出て来てくれ。一つしかない命だ大切にしよう。故郷には、帰りを待っている家族がいることを思い起こしてくれ。今、すぐ、武器を捨てて、投降してくれ。もう、死ぬ必要はないのだ

熱っぽい勧告は消えた。戦場の轟音、振動のすべてが消え、喜屋武岬一帯は静寂に包まれた。その中で、私は波の音を聞いていた。』(70-71頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 70-71頁より》

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COOPERATIVE PRISONERS call upon other Japanese to surrender. Note man at water's edge preparing to swim out to the LCI.

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-10.html

降伏した日本兵の降伏勧告には説得力があった。掃海艇は海岸から3、40メートルほどの近くまで接近してきた。泳いで行ける距離だ。私は岩の隙間から海の方を見ていた。母たちと一緒にいた岩陰から、いつ、ここに移ったか分からない。ただ、敵艦へ泳いでいく者が現れるのを胸を躍らせながら待っていた。私だけではない。喜屋武岬海岸にひそんでいる人々のほとんどが耳目をそばだてていたはずだ。

水打ち際に2、3人の兵隊が現れた。そのうちふたりがズボンを脱ぎ始めた。素早い動作だった。確か上衣は着けていなかった。褌一本になったふたりが海に入った。彼らは、岸に残った戦友を促しているようであったが、やがて、抜き手を切って泳ぎ出した。海に入ることをためらっていた兵隊があわて出した。あっという間に裸になって海へ入った。

信じられないことが目の前で起こっていた。驚きよりも、全く違う世界の出来事を見ているような感じであった。だが、これは喜屋武岬海岸の現実であった。…泳ぎ始めた3人の兵隊に対して、私たちの背後の崖の上から機関銃の射撃が始まった。兵隊のまわりに水飛沫が立った。掃海艇に甲板の米兵たちの動きがあわただしくなった。ボートが下された。…米兵が漕ぎ出すのと、甲板の機関銃の射撃開始が同時だった。…私は戸惑った。

日本兵に機関銃を浴びせかけたのは日本兵、助けようとしたのが米兵

敵はどちらか

私は混乱した。

3名の日本兵は救助されて掃海艇に移乗した。私はホッとした。「なぜ日本兵日本兵を射撃したか?」という疑問に対して、私「降伏する者への怒り」「徹底した軍人精神の現れ」と簡単に解釈をしていた。もちろんそれもあっただろう。それよりも深層意識の「生命保持の願望」が屈折して友軍への射撃になったと、今は理解する。

降伏」とは、未知なるものへの突入である勇気を必要とする。また、これまで信奉してきた「軍人精神」「皇国観」などにも背をむけなければならない。降伏への行動は、こうしたいくつかの介在物をはねのけねばならない。それを3人の兵隊がやってのけたのだ。降伏行動をとった兵隊に対して、降伏に踏み切れない者の羨望、焦燥、嫉妬が重なり合って機関銃の乱射になったのだと思う。生への本能と軍人精神相克を見た、と私は思っている。』(71-74頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 70-74頁より》

  

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