読谷飛行場の完成 / 心理戦 / 降伏勧告 /「後始末」の意味 / 少年兵 / 生命を助けるビラ / 背中から撃つ日本兵
米軍の動向
後方で進む基地建設 - 読谷飛行場滑走路の完成
米軍は、沖縄に上陸した直後から、後方で基地建設を進めながら侵攻し、6月15日には普天間飛行場の滑走路建設にも着手。4月1日に読谷の日本軍北飛行場を占領した米軍は2ヶ月半で読谷飛行場を拡張し完成させた。
5月末までに、沖縄本島と伊江島に建設中の爆撃機用ならびに戦闘機用滑走路は、10本。このうち、完成の間近なのは、読谷と嘉手納飛行場、それに伊江島の、それぞれ1本ずつであった。沖縄でつくられた米軍最初の滑走路は、読谷にできた長さ2100メートルの中距離爆撃機用で、6月17日に完成された。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 446頁より》
ARNOLD AT YONTAN---5 star Gen. Henry Arnold, commanding U.S. AAF, got his first look at the American base nearest Jap home islands when his plane landed at Yontan airfield, Okinawa. Looking pleased and confident, he is shown here talking to the commande.【訳】読谷飛行場のアーノルド大将——読谷飛行場に到着し、日本本土に最も近い米国の基地を初めて視察する米陸軍航空隊司令官アーノルド大将。第10陸軍戦術航空軍司令官ウッズ海兵隊少将と話すアーノルド大将は自信に満ちて満足げな様子。1945年6月撮影
心理戦: 宣伝ビラ「米軍は皆様の友達です」
軍は常に「友達」の顔をする。日本軍は住民に「友軍」と呼ばせ、一方、米軍は情報戦に力を入れ、住民に「皆様の友達」と。
標高900Mの山が連なる本島北部。沖縄戦ではこのやんばるの森に2,000人余りの日本兵と数万人の住民が身を潜めましたアメリカ軍は首里方面での戦いに精力を注ぐため北部の早期の制圧を目指していました。その時使われたのが日本兵や住民に投降を呼びかけるビラでした。航空機からビラを大量に撒いたのです。アメリカ軍は様々な種類のビラを用意していました。「米軍は皆さんの友達です。」「皆さんのために十分な食料を準備してあります。」4月10日までの4日間で37万5千枚ものビラが撒かれていたことがアメリカ軍の内部資料で分かっています。一方、日本軍の司令部が北部の部隊に送った文章にはビラに強い危機感が示されていました。ビラが繰り返し巻かれれば住民に影響を及ぼしかねないと指摘。これを防ぐためアメリカ軍に対する住民の敵意を高めるよう部隊に指示していたのです。
…米軍機は、3月25日から組織的な戦闘が終わる日までに、およそ800万枚の宣伝ビラを沖縄島に撒布した。このビラは、まず6月中旬までには民間人や兵隊に、米軍は信じていいということを知らせ、その後は、日本の負けていることを知らせるのが狙いであった。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 505頁より》
本部半島の基地化と住民の犠牲
米軍は4月末まで本部(もとぶ)の掃討を続けた後、やがて本部半島を米軍基地化し、それに伴い、住民は管理のずさんな北部の収容所へと強制収容されるようになる。
…こうして守備軍側に2千数百名、米軍側に約250名の戦死者を出して攻防戦は終わった。その間、名護は師団本部として全部隊を指揮する中枢部となっただけでなく作戦用物資を陸揚げするための心臓部の役割をもはたした。
《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 103頁より》
名護は、師団本部として全部隊指揮系統の中枢であった。作戦用物資は、この地域に至る道路がすべて放棄されていたのでそのままLST船で港に降ろすことができた。名護南方の道路管理は海兵隊本部に移され、師団工兵隊は本部半島の架橋資材を集めはじめた。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 133-134頁より》
Aerial views of it. Nago, Okinawa. 航空写真、名護
南進する米軍 - 燃えるガソリン
…米軍は、6月13日から17日まで5日間も攻略戦を続行したが、それはあたかも狩にも似たようなものだった。戦車群はいつものように歩兵の先に進んで、砲弾と機関銃弾をたえまなく撃ち込み、弾丸に当たって砕けた岩石が、粉となって飛び散った。
戦場は火炎砲戦車隊があばれまわるには、あつらえむきにできていた。戦車隊は、洞窟、岩の裂け目、あるいは灌木の生い茂ったところを求めて、火炎を放射し、あるいは日本兵を見つけては、これを殺したり、または機関銃弾の河のなかに彼らを追いやった。5日間の戦闘で、第713火炎装甲車大隊は、3万7千ガロン以上の〝燃えるガソリン〟を日本軍陣地めがけて流し込んだ。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 497頁より》
Youtube: WW II : RARE COLOR FILM : OKINAWA : JAPAN'S LAST STAND
ナパームは1943年にアメリカで開発・実用化された油脂焼夷弾。粉末のナパーム剤とナフサを使用前に混合し、ドラム缶につめ、火炎放射器に充填する。ナパームはその焼夷性のため付着して消火することは困難である。また燃焼に大量の酸素を必要とするため酸欠・窒息を生じさせ、馬乗り攻撃など沖縄戦での塹壕戦においても多用された。
The flame thrower fluid mixing plant. Gas drums in foreground, mixer on platform.【訳】火炎放射器燃料混合作業場。手前はガソリンのドラム缶。台の上にあるのはミキサー。
第32軍の動向
バックナー中将の「降伏」勧告
軍司令部: 摩文仁(まぶに)
アメリカ軍は既に摩文仁岳にあった日本軍司令部壕まで前進していました。アメリカ陸軍総司令官のサイモン・バックナー中将はこの時、日本軍の終わりを見ていました。この日、(10日の) 降伏勧告状がやっと牛島中将のもとに届けられましたが、牛島中将はこの手紙を笑いと共に捨てたと伝えられています。
しかし、日本軍の通信網や指揮系統はすでに断裂。牛島中将は18日「最後まで戦い、国のために命を捧げよ」という最後の恐ろしい「玉砕命令」を下すこととなります。沖縄戦の終わりと勝利を確信していたバックナー中将。糸満・真栄里の丘に上がり、前線の視察を行なっていたこの直後。彼に皮肉な結末が待っていました。
6月10日の朝、バックナー中将は、牛島中将あての書簡を戦線後方に投下した。
6月14日、ふたたび降服勧告がなされた。後でわかったことだが、牛島将軍が、最初の降服勧告書を実際にうけとったのは、6月17日になってからだった。それがおくれてしか入手できなかった理由は、連絡や通信網の欠如と、さらに軍自体が混乱状態におちいっていたからだった。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 505-506頁より》
八原高級参謀の回想:
6月17日、敵将シモン・バックナー中将からの牛島将軍宛ての降伏勧告文が、第1線の手を経て司令部に届いた。その文意は次の通りであった。
「歩兵戦術の大家である牛島将軍よ。予もまた歩兵出身の指揮官である。貴官が孤立無援のこの島で、劣勢な兵力を率いて、長期にわたり善戦されたことに対し、予始めわが軍将兵は称賛措くあたわざるものである。さりながら、今や戦勢は決定した。この上惨虐な戦闘を継続し、有為な多数の青年を犠牲にするのは、真に忍び得ないし、また無益である。人格高潔な将軍よ。速やかに戦いを止め、人命を救助せられよ。明12日摩文仁海岸沖の軍艦上に、当方の軍使を待機せしめむべきをもって貴軍においても軍使5名を選び、白旗を持たせ、同海岸に差し出されよ」
すでに期日の過ぎ去ってしまったバックナー将軍の提議である。もちろん、多年の伝統に培われた日本将兵である。誰も真面目にこの提案を考える者はない。牛島将軍は、「いつの間にか、俺も歩兵戦術の大家にされてしまったな」と破顔一笑されてしまった。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 409頁より》
崩れゆく防衛線 - 八重瀬岳と国吉台地
米第10軍は、6月17日の夕方までに、やっと国吉丘陵から具志頭村内の153高地、115高地の峰づたいに前線を確立した。これで、米軍ははじめて、南のほうに約12平方キロにわたる地域を占める日本軍の防衛陣をのぞむことができたのである。最後の防壁からも駆逐され、いまや壊滅を防ぐなにものもない、と認識することを余儀なくされた牛島中将の軍勢は、とたんにくずれ出してきた。さすがの日本陸軍精神も兵の士気も、80日間もの負け戦をつづけては弱くなる。いまは完全に敗北を喫した第32軍は、一つの単なる暴徒の集団と化してしまった。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 497-498頁より》
Men advance to Hill 115; flame - throwing tank spraying Jap emplacement w/soldiers in rear.【訳】115高地へ進む兵士と砲座の後ろに潜む日本兵へ火炎を放射する戦車
日本軍の勢力が、最初に弱くなったと思われだしたのは、16日、第7海兵連隊が全戦線でいくらか進撃できてからであった。第2大隊は、17日の未明に、第22海兵連隊と交替し、この比較的新鮮な第22連隊が、17日にはかなり進撃して、日本軍の抗戦力もほとんどなくなった。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 494頁より》
敵第7師団は東方より八重瀬岳の完全攻略を図るとともに、さらに北方より八重瀬、与座両高地の中間部断崖の比較的緩やかな部分から滲透攻撃を開始した。歩兵第89連隊、捜索第24連隊および工兵第24連隊の第24師団の諸隊は北方および東南両方向より挟撃され、その奮闘にもかかわらず、6月17日には与座の山頂は敵手に落ちてしまった。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 404頁より》
国吉台地の戦闘 (Kunishi Ridge)
歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)
…17日を迎えた。伊東のいる大隊本部の壕は、長さ10メートルぐらいの東西に筒抜けになっている自然洞窟を坑木で補強したもので、ここには20名足らずの本部要員がいた。この壕に対して、敵は山頂から両方の入口に手榴弾、黄燐弾、梱包爆薬で攻撃してくる。伊東が東側の入口にいると、反対側の入口で、爆発音と兵のうめきがほとんど同時に聞こえた。… 火の勢いは、まるで伊東たちを焼き尽くすかのように次第に強くなっていく。この厄介な黄燐の火に炙り出されて外に飛び出せば、たちまち敵の餌食になってしまう。依然として、爆雷と黄燐弾の攻撃は続いていた。いよいよ最期だ。小なりといえども部隊長としての誇りがある。伊東はその散り際を割腹か拳銃自決か、斬り込みかと懸命に思案していた。
《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 244, 247頁より》
強いられる「玉砕」と負傷兵の「後始末」
具志頭: 独立混成第44旅団
《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 》
生き残った部隊に送り付けられる容赦のない「指令」
部隊としての独混第44旅団は、その本部のある具志頭の第115高地が、米軍に攻略されたとき逃れ得たもの、わずか数名という悲惨さであった。第62師団に編成された兵も、第89高地の師団本部を、まもりとおすことはできなかった。第24師団の兵員400人、これは第32連隊の生き残り全部であったが、国吉丘陵付近で、あちこちの洞窟に身をひそめ、戦場が南に移動してしまうまで、ずっとそこにいた。残りは153高地の南西1キロもはなれていない真栄平村落近くの本部に退いた。
153高地が、第17歩兵連隊の手におちて数時間後、牛島中将は文書による、つぎのような命令を出した。
「153高地は全軍の運命を託した重要な地点である。この高地が看過され、たびたび命令書をださねばならぬとは本軍司令官の誠に遺憾とするところである」
中将は、1大隊に同高地を朝までにふたたび確保せよと命令を下した。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 498頁より》
戦時国際法で保護の対象となるべき負傷兵は、一兵の捕虜も許さない日本軍によって「後始末」という名のもとに殺されていった。
6月17日だったと思います。隊長が兵を集めて、『総斬り込みを行う』と告げましてね。… 決死の総斬り込みに向かう直前、洲本市出身の陸軍兵○○さんは隊長に呼び止められる。たばこを1本。そして特別な任務を命じられた。「全部、後始末しろ」
命令を言い渡した隊長は数十人の部隊を引き連れ、陣地を出て行った。残されたのは1班の4人。片山さんとフクダという初年兵、現地で召集された学生と防衛隊の隊員。階級は片山さんが一番上だった。すぐに「後始末」の意味を理解した。
「集落の外れに、負傷兵を集めた小屋があったんです。僕はそこへ行って、手りゅう弾を投げ込みました。小屋の中に何人おったか、生きとったか死んどったか、なんも分からんです。とにかくアメリカに捕まって、情報を流されたらあかん。そういうことです … けがをしたら治療はないんです。誰も助けてくれへん。ついて来れるならついて来い、ついて来れへんかったら、そこでおしまい。それが沖縄戦でした」
日本兵として扱われる少年兵
米軍は日本軍が沖縄の少年を通信兵やゲリラ兵として使っていることを十分に承知していた。下の写真は、18歳と20歳であると主張する少年兵であるが、どう見ても10代前半の子どもである。日本軍に兵として使われた少年兵は、捕らえられた後も親元に帰ることができず、捕虜として収容される。沖縄の少年兵の中には11歳の子どももおり、彼らの多くは後にハワイの捕虜収容所に送られた。
Two captured Japanese soldiers, one 18 years old and the other one 20. One of the bigger Korean boys is shown with them.【訳】18歳と20歳の2人の日本兵捕虜。一緒に写っているのは、体格の大きな朝鮮人少年。(1945年6月17日撮影)
1st Lt Hart H. Spiegal, 217 Elmwood Ave Topeka, Kansas talks to two Jap soldiers. The one on the left is 18 years old and the right is 20.【訳】2人の日本兵に話しかけるスピーガル中尉(カンザス州出身)。左が18歳で、右が20歳。(1945年6月17日)
生命を助けるビラ - 死か投降か
海岸地帯への艦載機の機銃掃射、ロケット弾攻撃も執拗になり、掃海艇からの砲撃も頻繁になった。2、3隻がそろって砲門を開く。岩石が砕けとび、硝煙の臭いが鼻をつき刺す。続いて海岸に接近する。甲板で水兵が小銃を構えている。面白半分の射撃を始める。降伏勧告のビラが降ってくる。
「米軍は降伏する者を殺さない」
「降伏すれば、水や食べ物を与える。負傷者は軍医が治療に当たる」
という内容であった。ビラを読むことは、日本人の誇りが許さないはずであったが、兵隊も避難民もむさぼるように読んだ。…米軍は降伏したものを殺さない・・・捕虜収容所もある。これは、岩陰の人々にとって「生」への光明であった。また、「降伏するときには、このビラをかざして歩きなさい」という「降伏切符」のようなものもあった。
《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 66-67頁より》
Four Okinawans surrender, bringing the leaflets that was dropped by our Army with surrender instructions.【訳】米軍がばらまいた降伏を促すビラを手に降参する地元住民(1945年6月17日撮影)
沖縄戦も終末に近づくと、米軍は幾万枚もの〝降服勧告ビラ〟を日本軍の頭上にばらまいた。日本軍は、前面に米軍の攻撃をうけ、背後に海をひかえるにおよんで、兵のあいだには、しだいに政府がこれまでいってきたこと、および軍部が約束したことなどに対して疑問が湧きはじめていた。それと同時に、投降した者は人道的に取り扱うという米軍に対して、やがてその真実性について真剣に考えるようになってきた。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 506頁より》
Captured Jap soldiers carry their wounded back on a home made stretcher.【訳】手作りの担架で負傷兵を運ぶ日本兵捕虜。(1945年6月17日撮影)
6月なかばの公式の作戦終了の1週間前から、かなりの日本兵が投降しはじめた。それまでは、平均して1日4名であった。アメリカ軍の中隊の多くは、8週間から10週間戦っても1人の捕虜もなかった。死体の他にまったく敵兵を見なかった・・・爆撃や砲兵の射撃で肉体的、精神的に無能力にならない限り、降伏したり捕虜になることを認めたりする者は1人もいなかった。
《「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 308頁より》
Japanese soldiers who preferred to surrender rather than be killed by our fast moving troops of the Fourth Marine Division, Okinawa.【訳】第4海兵師団に殺されることよりも降伏を選んだ日本兵。沖縄。(1945年6月17日撮影)
日本軍は、米第10軍によって水際まで追いつめられるまでは、集団投降はしなかった。しかし、心理作戦を強化して以後というものは、この投降が目立ってふえてきた。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 507頁より》
Wounded Nip soldier taken from blasted cave is brought up Hill by Marine. Mezado Ridge.【訳】爆破された壕で捕らえられ、海兵隊員に丘へ連行される負傷した日本兵。真栄里丘陵。(1945年6月17日撮影)
うちなーぐちと日本語による投降の呼びかけ
多くの日系や沖縄系米兵が語学兵、通訳兵として最前線で活躍していた。特にアメリカ本土出身者は全財産を奪われ「敵性外国人」として日系人収容所に収容されながらの志願であった。
T. Sgt. Hiroshi "Bud" Mukaye (left) and S. Sgt. Ralph Minoru Saito (center), 7th Infantry Division, question a Japanese sailor, Okinawa, 17 June 1945.【訳】第7歩兵師団の(左)ヒロシ・バド・ムカイと(中央)ラルフ・ミノル・サイトー、沖縄の日本人船員に質問。1945年6月17日。
6月17日、第7師団はもっと効果的な投降勧告をやろうと思い、全軍が1時間砲撃を中止した。通訳兵が携帯用のラウドスピーカーを持ち出して、投降を呼びかけた。数人の日本兵が出てきた。米軍のほうに近よってきて、2、3分立ちどまって見ていたが、急に姿を消した。と思ったら、米兵1人が負傷し、ラウドスピーカーに3つも穴があいた。こういうやり方は、まったくきき目がなかった。その同じ日、米軍は攻撃を続行し、第7師団では、通訳兵が仲座南東の断崖の上に、ラウドスピーカーを置いて呼びかけた結果、海岸の絶壁にある自然壕のなかから、500人から600人の民間人がぞろぞろと出てきた。このグループの中から通訳兵が、すでに軍服をすて、民間人に化けて、ぶじ通りぬけようとした日本軍の軍人を、70人以上も発見した。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 506-507頁より》
「わんねー、うちなーやいびーん」断崖で命を救ったうちなーぐち。
摩文仁の第32軍司令部壕
… アメリカ軍は断崖下の海上から、宣伝放送を始めた。流暢な日本語だ。来る日も来る日も執拗に続ける。
「住民諸君!生命は保証する。食糧も薬品も与える。今のうちに、早く港川方面に避難せよ!」
「兵士諸君!諸君は日本軍人の名に背かず実によく戦った。しかし戦いの勝敗はすでに決定した。諸君の任務は終わったのである。これ以上戦闘を続けるのは、無意味である。生命は保証するからすぐ海岸に降りて、我々の舟に泳いでこい」
敵は海上からのみでない。空中から、砲撃に劣らぬ規模で無数の宣伝ビラを撒布する。いずれの伝単もいわゆる宣伝ビラ式のあくどさがなく、極めて自然に、日本の敗戦必至や、指導者たちの無能、恣意を理解するよう記述してある。私は司令部洞窟内の将兵に及ぼす影響に絶えず注意を怠らなかった。少なくとも表面上は動揺の色なく、アメリカ軍が勝手なことばかり述べておるわい、などつぶやく者もいる。唯一人、それも軍人か住民かわからないが、断崖下の哨戒艇の方に泳いで行った奴がいるとの報告をきいた。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 409頁より》
NOT TO BE RELEASED-- Some Jap wounded are carried back from the front on trucks--to an emergency field hospital.【訳】解放されるわけではないが前線から臨時野戦病院へトラックで搬送される数人の負傷した日本兵。(1945年6月17日撮影)
摩文仁の丘での体験は、強く印象に残っています。ハロルド・オクムラさん「出てきなさい。僕はハワイの2世だから大丈夫。早く出てきて。こどもも出して。軍の命令だ」しかし、呼びかけにも関わらず死を選ぶ人の姿も目にしました。
6月の17か18日であった。多分、昼過ぎであったと思う。艦載機や掃海艇からの攻撃がピタリと止んだかと思うと、ピーイッという異常に高い音響が、岩壁に跳ね返った。それが、スピーカーの音量調節であることはすぐに分かった。「オ、ヨイ、デェクオイ・・・」音域の異なった発声であった。「コチ、コイ、レテキ、ナサイ」意味不明の言葉に、音量調節の雑音が入り交じって、ますます分からなくなる。突然、それが、流暢な日本語に変わる。
「日本軍将兵の皆さん、避難民の皆さん・・・」
「沖縄での戦闘が始まってから3カ月、皆さんは勇敢に戦いました。皆さんは、皆さんに課せられた責任を立派に果たしました。これ以上戦う必要はありません。いつまでも、壕の中や岩陰に隠れていると、アメリカ軍から攻撃されます。ですから、すぐそこを出て、降伏しなさい。アメリカ軍は降伏した者は殺しません。皆さん、命は大切にしてください」
勧告は続く。
「これから2時間、この一帯への攻撃を停止します。その間、舟艇を海岸の近くまで寄せます。泳いで来てください。アメリカ軍は、水、食料、医薬品を用意して待っています」
そのまま「生」への希望につながる言葉であった。活字でなく声で、言葉で命の保証をしたのだ。私は胸の高鳴りを聞いていた。勧告はなおも続く。
「戦友諸君、自分は右大腿部に盲貫破片創の重傷を受け、死を覚悟しているところを米軍に発見され、病院に送られました。米兵は鬼畜ではなかった。私は助かった。だから、戦友諸君に言う。安心して出て来てくれ。一つしかない命だ。大切にしよう。故郷には、帰りを待っている家族がいることを思い起こしてくれ。今、すぐ、武器を捨てて、投降してくれ。もう、死ぬ必要はないのだ」
熱っぽい勧告は消えた。戦場の轟音、振動のすべてが消え、喜屋武岬一帯は静寂に包まれた。その中で、私は波の音を聞いていた。
《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 70-71頁より》
COOPERATIVE PRISONERS call upon other Japanese to surrender. Note man at water's edge preparing to swim out to the LCI. 【訳】協力的な捕虜たちがほかの日本人に降伏するよう呼びかける。水際のところで LCI 歩兵上陸用舟艇 まで泳ごうとしている人物に注目
喜屋武岬 - 背中から撃つ日本兵
… 私だけではない。喜屋武岬海岸にひそんでいる人々のほとんどが耳目をそばだてていたはずだ。水打ち際に2、3人の兵隊が現れた。そのうちふたりがズボンを脱ぎ始めた。素早い動作だった。確か上衣は着けていなかった。褌一本になったふたりが海に入った。…
信じられないことが目の前で起こっていた。驚きよりも、全く違う世界の出来事を見ているような感じであった。だが、これは喜屋武岬海岸の現実であった。… 泳ぎ始めた3人の兵隊に対して、私たちの背後の崖の上から機関銃の射撃が始まった。兵隊のまわりに水飛沫が立った。掃海艇に甲板の米兵たちの動きがあわただしくなった。ボートが下された。…米兵が漕ぎ出すのと、甲板の機関銃の射撃開始が同時だった。…私は戸惑った。
日本兵に機関銃を浴びせかけたのは日本兵、助けようとしたのが米兵。
敵はどちらか?
私は混乱した。
3名の日本兵は救助されて掃海艇に移乗した。私はホッとした。「なぜ日本兵が日本兵を射撃したか?」という疑問に対して、私「降伏する者への怒り」「徹底した軍人精神の現れ」と簡単に解釈をしていた。もちろんそれもあっただろう。それよりも深層意識の「生命保持の願望」が屈折して友軍への射撃になったと、今は理解する。
「降伏」とは、未知なるものへの突入である。勇気を必要とする。また、これまで信奉してきた「軍人精神」「皇国観」などにも背をむけなければならない。降伏への行動は、こうしたいくつかの介在物をはねのけねばならない。それを3人の兵隊がやってのけたのだ。降伏行動をとった兵隊に対して、降伏に踏み切れない者の羨望、焦燥、嫉妬が重なり合って機関銃の乱射になったのだと思う。生への本能と軍人精神相克を見た、と私は思っている。
《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 70-74頁より》
そのとき、住民は・・・
なによりも兵隊が一番こわかった
喜屋武岬は、もう南の果てだから、そこから逃げるとしたら、座をおりるしかないから、そこが本当に最後のところですよ。海岸のすぐ上の、崖の岩の下の壕に、兵隊も避難民も、小人数塊って、隠れていました。私たちはそこの一つの壕に、一週間ぐらい入っていました。その頃、水汲みに行くときも、一番こわかったのは、友軍の兵隊でしたよ。子供が泣くと、兵隊が出てきて、子供を殺しやしないかと、大変こわかったですよ。兵隊に殺された話も聞いていましたから......。また友軍の兵隊は、食べ物がなくなると、銃剣を持って出てきて、避難民に食べ物を要求してよ、出さないと、あんたたちは戦争の邪魔だから、殺してしまえ、という命令が出ているぞ、と言っておどしたりしていましたよ。こっちも、米は残り少ないんだから、少しずつしか出さなかったんですけれど、兵隊は海岸の岩の間に、あっちこっちに大勢いましたから、なによりも兵隊が一番こわかったんですよ。
私たちと同じ壕にいる兵隊たちは、いつも壊の一番奥の方に隠れていて、何もしないで、私一人で水汲みに行ったりしていました。私の主人は、足を怪我していましたので、寝たっきりでした。私が御飯を炊いて、食べるときになると、兵隊たちは寄ってきて、もう少し味噌を舐めさせろ、と手を出したりしていましたよ。そんなにして一緒に食事をしていても、私の子供が泣き出すと、この餓鬼、みんなを犠牲にするつもりか、と怒り出し、泣き止まないと、ものすごく怒って、誰か早く首を締めて殺してしまえ、と言っていましたよ。
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