1945年 6月15日 『戦利品への執着』

南進する米軍

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墓の外の日本人の死体。もう一体は偵察兵に引きずりだされるところ。壕内の暑さでほとんど着るものを身に付けていない。(1945年 6月15日撮影)

One dead Jap already outside, another is pulled out by a Marine scout. Japs take off most of their clothes on account of the heat in cave.

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『「沖縄戦は峠を越した。あとは最後の追い込み戦だけだ

バックナー中将は、6月15日沖縄戦をこう観測した。米軍戦線の将兵も、牛島中将の第32軍の崩壊が、差し迫っているのを感じとっていた。それは、何も日本軍の一人一人の戦意におとろえが見えた、というのではなく、日本軍の戦争遂行に必要な物資が尽き部隊間の協調連絡がきかず、さらには兵器を十分に利用し得ない、という点に現れていた。全体としてみて、十分といえる抗戦力は、日本軍にはもうなかったのだ。』(495頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 495頁より》

西部戦線

小禄(おろく)半島日本海軍司令部壕の捜査

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小禄半島の壕で日本兵や重要文書を探す海兵隊

Marines look for Japs and valuable documents in cave on Oroku Peninsula.

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『沖縄を占領した連合軍は、日本の陸海軍司令官の遺体確認に躍起となった。このうち豊見城村の海軍司令部壕には、組織的抵抗が止んで2日後の6月15日、攻撃部隊である米第6海兵師団のG2(情報関係幕僚)情報部長トーマス・ウィリアムズ中佐(のち大佐で退役)ら8人が、早々と入っている。第6海兵師団長 L・C・シェファード海兵少将の命令だった。

…壕に入ったのはウィリアムズ中佐、日本語将校のタド・バンブラント中尉、カメラマンのコナリー軍曹、海兵隊員3人と、遺体確認のため同行した捕虜の山崎来代一海軍少佐(昭和42年他界)下士官1人の計8人である。』(458-459頁)

ウィリアムズ中佐(階級は当時)の回想:

『《…日本海軍の司令部壕に着くと、最大の壕の入口に向かった。前日、われわれは5つあるいは6つの入口を確認していたのだ。壕に入ると、数人の日本軍の負傷兵が転がっていた。その1人が私の足をつかんだのだぎょっとしたよ。その時、われわれの懐中電灯の照明の先に、1人の日本兵がパッと姿を現したので、われわれはとっさに発砲してしまった。おかげで、敵に知られず、こっそり忍び込むという作戦はオジャンになってしまった。(中略)

山崎少佐の案内で司令官室にたどり着き、そこに大田實提督の外に5人の死体を発見したのだ。もちろん、死体の身元の確認は山崎少佐がやってくれた。現場写真を撮影したのがコナリー軍曹だった。』(459頁)

『《…われわれが目にしたのは、おそらくこれまで知られた中でも最もおぞましい日本人の狂気を示す壮絶な場面であった。畳があげられた床には6死体が仰向けに並び、(注)それぞれノドを切られていた。死後3、4日たつものと思われる。死体は清潔なオリーブ色のズボンと上着を着ていた。(中略)

死体の身元確認に関しては、捕まったばかりの捕虜山崎海軍少佐によって決定的となった。少佐は大田提督の死体を確認し、さらに前川大佐、棚町大佐、羽田大佐も確認した。他の2人は不明である。》』(459-460頁)

(投稿者注: 米軍側の記録では「ノドが切られた」となっているが、後に司令部壕に入り遺体を確認した日本兵は、「頭部に銃弾が貫通した跡があった」と米軍とは異なる証言をしている)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) より、458-459、459、461-462頁に記載された平成4年・上原正稔 寄稿/沖縄タイムス連載の『続 沖縄戦 トップシークレット』でウィリアムズ大佐を取材した際に得た証言の内容および459-460頁に記載された昭和60年・上原正稔 寄稿/沖縄タイムス掲載の『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』の内容含む》

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換気孔。豊見城にあるこの丘には大田海軍中将の巨大な壕があった。日本軍は写真のような換気孔を造ることで、巨大地下壕の通気を確保した。壕には、会議室、司令室、調理室、鋼鉄製の引き戸などがあった。

A ventilation port in the hill that contained Admiral Ota's vast cave in the Tomigusuki area. The Japanese solved the problem of ventilation of the vast cave below by constructing such ports as these. The cave itself contained chambers, operations rooms, galleys, sliding steel doors, etc.

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『《…写真撮影が終わると、われわれは別の場所の捜索を続けた。その時、だれかが「エイッ」と叫び、次の瞬間、爆発が起き、私は吹き飛ばされた。日本兵が手りゅう弾を投げたのだ。意識もうろうとなって立ち上がったが、握っていたピストルも懐中電灯もない。ようやく、正気を取り戻してピストルと懐中電灯を見つけ、あとは一目散、壕の出口に向かって走った。自分の後ろで、手りゅう弾が爆発し、何か柔らかいものを踏んづけ、電線に引っかかり、無我夢中で走り、気が付いてみると壕の外にいた。そこには顔面蒼白になった部下たちが、あえぎながら待っていた。(中略)

命からがら逃げ出したものの私の気持ちはおさまらない。私は部下2、3名に命じて、第4海兵隊から持てるだけの硫黄弾を持ってこさせた。彼らがどっさり運んでくると、私は偵察隊を数チームに分け、指示した。「これから、日本海軍司令部壕にガス弾を投げ込むんだ。入口は5ヵ所わかっているが、それぞれの入口の前で『ガス弾を投げるぞ』と日本語で叫び、それからガス弾をぶち込むんだ。日本兵があぶり出されたら、武器を取り上げて保護しろ

「ガス弾は日本語で何と言うのでしょうか」。部下の1人が聞いた。「ガスは日本語でもガスだ」と日本語将校のバンブラント中尉が言った。各チームは5ヵ所の入口で硫黄弾を次々投げ込んだ。うまくいった。壕から出てくる日本兵はいなかった。壕内でガス弾がズシン、ズシンと響いた。

われわれは日本海軍司令部壕の近くで日本兵捕虜を捕らえた。捕らえたというよりも拾ったというべきだろう。彼らはもう戦う意志を失くしていた。素直にわれわれの指示に従った。負傷した日本兵2人は仲間に担がれて山を下り、われわれと一緒に司令部に向かった。私の任務は終わった。だが、悲しいことに私は2人の部下を失った。…死んだ敵の写真を撮るために私は2人の大事な部下を死なせてしまったのだ。敵の大将の命を取るならまだしも、死体の写真を撮って、命を捨てるなどばかばかしい限りだ。

第6海兵師団のシェファード将軍に事の顛末を報告すると、将軍は勲章をやろうと言った。勲章!そんなものをもらっても部下の命が戻るものか。私は腹の底からうんざりして将軍に言ったんだ。「将軍、私はあなたの命令に従って日本海軍司令部壕に戻り、大田提督の死体の写真を撮ったにすぎません。私は自分の任務を忠実に遂行しただけであり、勲章にふさわしいことはしておりません。そういうことですから勲章をお受けするわけには参りません」。これが私の精いっぱいの抵抗だった。》』(461-462頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) より、458-459、459、461-462頁に記載された平成4年・上原正稔 寄稿/沖縄タイムス連載の『続 沖縄戦 トップシークレット』でウィリアムズ大佐を取材した際に得た証言の内容および459-460頁に記載された昭和60年・上原正稔 寄稿/沖縄タイムス掲載の『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』の内容含む》

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小禄半島の至るところにある日本軍が使用していた数ある壕の1つを視察し終え出てくる、第6海兵師団司令官シェパード少将

Major General Lemuel C. Shepherd, Jr., Commanding General of 6th Division coming out, after inspection of one of the numerous caves used by the enemy throughout Oroku Peninsula Okinawa.

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西部〜中央〜東部戦線

国吉(くによし・くにし)丘陵与座(よざ)八重瀬(やえじゅ・やえせ)

『…、われわれは与座岳にいる第1連隊第1大隊の救援に向かった。道沿いを進むうちに、枝が残らず砲弾に吹き飛ばされたやせた木の横を通った。その木には通信用電線が何本もさまざまな角度で引っかかっており、大きなモップを逆さに立てたように見えた。私と前を行く兵士とのあいだを銃弾が唸りを生じて跳ね飛び、道ばたの乾いた茂みに突っ込んで、わずかな砂塵を巻き上げた。またあの人肉粉砕機の中に逆戻りするのか。そう思いながら、激しい銃声や砲声の轟く山腹へと登っていった。

与座岳はいかにも恐ろしげに見えた。…右手に国吉丘陵左手には八重瀬岳の急斜面が見える。陸軍の戦車隊が、機関銃や75ミリ砲の攻撃をかいくぐって、八重瀬岳に肉薄しようとしていた。われわれが与座岳で散発的な反撃を受けているころ、国吉では第5連隊第2大隊が第7連隊に加わって、丘陵の残りを制圧すべく過酷な戦闘に挑んでいた。日本軍の砲座や洞窟は猛烈な砲撃にさらされた。』(443-444頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 443-444頁より》

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国吉丘陵(手前右)、与座岳(中央上)と八重瀬岳(中央奥)

KUNISHI RIDGE, with Yuza-Dake and Yaeju-Dake Escarpments in background. From the ridge the enemy fired on troops attacking Yuza peak. (photo taken 10 October 1944.)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

『第7海兵連隊は、15日に占領地域を拡張しようと、砲兵隊15個の大隊の支援砲撃を得て進撃をこころみたが、それは、かえって米軍に、さらに35人の損害を出させる結果となってしまった。国吉丘陵での二日間にわたった戦闘で、第1海兵連隊の第2大隊は、150人もの損害を出し、ついに日が暮れてから、第5海兵連隊の第2大隊と交替した。』(494頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 494頁より》 

『行き詰まっていた戦況が、進展らしい進展をみせるようになったのは、6月15日、第382歩兵連隊の第2大隊が、第383歩兵連隊の中央大隊と交替して、丘陵の北部斜面を占領してからである。

第383歩兵連隊は、35日間もぶっとおして第1線にいたので、疲労の色も濃く、翌16日になって予備軍に入れられた。これとかわった第382歩兵連隊(連隊長ディル大佐)は、与座岳戦線の中核部をめざして進撃していった。』(489-490頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 494頁より》

 

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためである。

普天間飛行場

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普天間飛行場の設計を話し合う第1878工兵航空大隊第1181工兵建設群の隊員ら。沖縄。

Men of the 1181 Engineering Construction Group, 1878th Engineer Aviation Battalion, discuss the layout of Futema Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto.

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普天間B-29スーパーフォートレス用滑走路の南に位置する石灰岩の丘は、進入路を作るために取り除かれた。その石灰岩は滑走路、誘導路、駐機場の表面仕上げに使われる。写真は、TNT火薬を用いて採石場から取り出した石灰岩をトラックに積むロレイン・ショベル。細かいものは基盤と表面に、玉石は溝を埋めるのに使う。第806工兵航空大隊が、この7500フィート(約2286m)の滑走路建設に着手したのは、1945年6月15日で、完成は9月1日の予定。

(投稿者注: 上の説明文は、投稿者が下の原文を元にリンク先の和訳に加筆したもの)

Located at the south end of the B-29 “Superfortress“ strip at Futema is this coral hill, which was removed to clean the approach for the super bombers. The coral taken from this hill was used for surfacing of the strip, taxiway and hardstand. At the time this picture was taken Lorrain shovels were busy filling trucks with the loosened coral that was blasted free from the quarry by TNT. Crushed and small pieces of coral were used for the base and surface, while the large coral boulders were used to fill gullies that crossed the field. The 806th EAB started work on this 7500 foot strip on 15 June 1945 and expected it to be completed by the 1st of September 1945. Okinawa, Ryukyu Retto.

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普天間飛行場で他のターンナプル(整地用重機)のために、ターンナプルを押して地ならしをするブルドーザー

Bulldozer pushing a turnapull to scrape load for another turnapull at Futema airfield.

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米兵の行動

戦利品への執着 ①

土産物には不思議な熱意が示された。もし、日本人の死への決意がたいていのアメリカ人には説明しても受け入れられないとしたら、ほとんど無価値な日本の工芸品に対するアメリカ人の情熱も、奇怪といえる。歩兵のエネルギーの一滴たりとも無駄にせず、生き残ることが要求された作戦では、いちばん恐ろしいことのひとつが土産品狩りに行くことは全員が知っていた。…老練の兵士でも、あれほど苦しい思いをして身に付けた戦闘知識の基本原則を破った。冷静で注意深い男が、何かいいものを発見するために洞窟に入っていく危険を冒したこともあった。』(317頁)

 『アメリカ兵の本国宛の手紙のかなりの多くが、戦利品のこと、それが没収された時の恨みごとを書いていた。「これを手に入れるのには命懸けだったんだ。それをどこかの馬鹿者がもっていきやがった」と、…自分の愚かさをさらけ出しているのにも気づかないで、不平をこぼしていた。前線で戦った者の多くは、後方勤務の部隊が自分たちのために宝物を盗んだと確信していた。中には禁制の武器として没収されたものや、公式に禁止されている死者の切断の証拠として没収されたものもあった』(319頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 317、319頁より》 

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兵士達は時間ができるとすぐに戦利品の箱詰め作業に取り掛かる。故郷に送るため、日本軍のライフル銃を箱に詰めているイリノイ州出身のワール一等兵。(1945年 6月15日撮影)

As soon as time permits the boys start boxing up souvenirs. Here is Private First Class Russell I. Wahl, Cornell, Illinois, boxing up his Jap rifle to send home.

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『アメリカ兵は、彼らの自由な時間を使って過度に「収集」に熱中していた…日本刀は最高の記念品であった。その他、珍重されたものは、日章旗、中でも特定の部隊の全員が署名した大きな旗、さらに、腹巻があり、これは愛する母親が兵士の家の近所にいる千人の女性に一針ずつの寄進を懇願したものだった。…手紙類、、ベルト、人骨、下着、黄色くなったスナップ写真、汚い帽子、時計、小銃、櫛、茶碗、液につけた指など様々だった。

それは軍隊のものでなくてもよかった。どんな質素な沖縄住民の家にも、壁に家族の写真がかけてあり、…軍服や着物、上着をつけて写っていた。それも戦利品になった。』(317-318頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 327-318頁より》

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沖縄侵攻の様子。海兵隊員や陸軍兵が日本兵から奪った日章旗

Scenes during the invasion of Okinawa. Jap battle flags, carried by each Nip fighter until deprived of it by a marine or soldier.

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第32軍の動向

沖縄島からの脱出

神(じん)航空参謀の沖縄脱出 ⑤

大本営に対し沖縄への「一大航空攻撃」を具申するために東京へと派遣されることになった神直道航空参謀は、5月30日、防衛隊員として召集されていた糸満の漁夫6人が漕ぐ刳舟で沖縄島から脱出し、6月9日ごろまでには、徳之島に到着した。その後、神参謀は東京を目指した。

6月15日見事に大本営にいたり沖縄の戦況を報告するが、そこで初めて大本営が沖縄作戦を「本土決戦」にきりかえたのを知り愕然とした。

2日後、神参謀は、長参謀長から「追腹を切る覚悟を以って航空出撃を強調すべし」という親展電報を受け取った。そして約2時間ものあいだ大本営航空軍の出撃を懇願したが、彼がえたのは「この期に及んで出撃強請とは何事か」という冷たい答えだけであった。』(129頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》

 

西部〜中央戦線

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

15日朝、胸に貫通銃創を受けた沖縄の防衛隊員が、山頂から数メートルもある珊瑚礁の岩場めがけて飛び降りるという離れ業をやってのけた。伊東のいる洞窟へ駆け込んできて、息苦しそうに告げた。

台地の裏側は敵に左後方から攻めたてられ、居合わせた防衛隊員5名は素手でどうしようもなく、捕虜になってしまいました。自分だけが隙を見て逃げてきました」

すでに大隊本部も背後から敵の攻撃を受けていた。何とか稜線の一角を保持して侵入を防いでいるものの、前面の敵は火炎放射で一斉に攻撃を仕掛けてきている。配属の独立機関銃第2中隊長の中村中尉から、「壕が破壊されて重傷を負い、ここで死ぬ」と報せてきた。』(241頁)

『…他の諸隊との連絡も困難になってきた。…夜を迎えた。劣勢な日本軍にとって、夜は唯一の憩いの時間である。凄惨を極めた戦いも、夜になれば銃砲声は衰え、両軍の手榴弾の応酬が途切れとぎれに聞こえるのみである。その夜も、第3中隊は撤退してこなかった。』(241-242頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 241、241-242頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

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那覇南方の山から降りてきた貧しく無力な地元民と、それを受け入れる米海兵隊員。60日以上壕に隠れていた者もいる。多くの人が怪我を負い、餓えに苦しんでいた(1945年 6月15日撮影)

Marines receive poor, helpless civilians from hills south of Naha. Some had been hiding in caves for 60 days or more, many were wounded and starving.

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沖縄の病院で牽引病棟の患者の状態をチェックする米軍政府病院の医療班。患者はすべて地元住民。(1945年 6月15日撮影)

Personnel assigned to the American Military Government medical unit check the condition of patients in the traction ward at the hospital on Okinawa, Ryukyu Retto. All the patients are natives of the island.
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衛生看護婦として訓練され、米軍政府病院の至る所で看護助手をつとめる沖縄の女性たち(1945年 6月15日撮影)

Okinawan natives, trained as corpsmen, act as nurses aides throughout the American Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

死の泉

摩文仁付近には多くの自然壕があり、そこには民間人も数多くいた。夕方になると…水くみ場には多くの人たちが集まって来た。艦砲射撃も〝休息〟に入り、戦場でわずかに許されたのどかな時間だった。それがある日を境に一変した。』

県出身将校の証言:

『「6月の15、6日ごろだと思うが、水くみ場に集まるのを米軍が知って初めて艦砲射撃を受けた。多数の犠牲者が出て、住民もその時から他へ移動を始めた」』

[121 32軍司令部壕(6)]島田知事最後の別れ - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース 

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail24_img.jpg

 沖縄戦の絵】「水を求めて撃たれる人々」

『…水をくみに行った糸満市摩文仁の井戸の様子摩文仁には井戸がここ1か所しかなく、避難していた住民も兵士も生き延びるためには欠かせない水を求めて集まった。その井戸がたびたび米軍に攻撃された。海上を埋め尽くす米軍の艦船から絶え間ない機銃掃射が浴びせられ、井戸のまわりには多くの犠牲者が連なって倒れていた。…井戸の中にのめりこむように倒れていた兵士の遺体を引きずり出して水をくみ、砲弾の雨の中を壕に戻った。…次に水くみを命令された兵士は、壕に戻らなかったという。』

水を求めて撃たれる人々 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

八原高級参謀の回想:

『敵は、摩文仁付近一帯の将兵や避難民が、例の海岸の泉に水汲みに集まるのを知るや、哨戒艇をその直前に配置し、これを妨害し始めた。この泉に辺りには、いつしか水筒や飯盒を手にした死体が見られるようになり、死の泉と恐怖されるようになった。しかし生きるためには、水は絶対必要だ。夜間ちょっと敵の油断を窺って、皆勇敢に水汲みに突進する。そして海岸の洞窟で焚いた食事は、敵前数百メートルの断崖の道を山頂の洞窟に、挺身斬り込みの要領で当番兵たちが運ぶのである。

この危険な任務に服する当番兵たちの表情は、日ごとに深刻になる。参謀長の当番兵の1人が、断崖の中腹で犠牲になったのも、このころであった。』(382頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 382頁より》

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月15日(金)