〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月15日 『死の泉』

普天間飛行場の建設開始 / 持久戦の末に / 「死の泉」

 

米軍の動向 -「最後の追い込み戦」

沖縄戦は峠を越した。あとは最後の追い込み戦だけだ

バックナー中将は、6月15日沖縄戦をこう観測した。米軍戦線の将兵も、牛島中将の第32軍の崩壊が、差し迫っているのを感じとっていた。それは、何も日本軍の一人一人の戦意におとろえが見えた、というのではなく、日本軍の戦争遂行に必要な物資が尽き、部隊間の協調や連絡がきかず、さらには兵器を十分に利用し得ない、という点に現れていた。全体としてみて、十分といえる抗戦力は、日本軍にはもうなかったのだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 495頁より》

 

北部 - 久志岳 - 日本軍要塞への攻撃

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久志岳には第一護郷隊の陣地があった。5月25日から28日にかけてに第二護郷隊の陣地がある恩納岳を掃討した米軍は、次に久志岳の掃討に入った。

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An F4U carrying firebombs and rockets at the start of its attacking run against the Japanese stronghold on the mountain-peak of Kushi Take, central Okinawa.

焼夷弾とロケット弾を搭載したF4U機が久志岳頂上の日本軍要塞攻撃のために出発(1945年6月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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MARINE MADE VOLCANO. Smoke from the F4U fire-bomb attack billows up into the sky above the mountain peak strong hold of the Japs at Kushi-Take, central Okinawa.

火山を作った海兵隊F4Uから久志岳山頂の日本軍要塞めがけて焼夷弾を投下した結果、噴煙が上がる(1945年6月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍 - 国吉・与座岳・八重瀬岳

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

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A Marine Battalion sets up its CP on top of this knoll on outskirts of Itoman.

海兵隊の大隊は、糸満郊外にある丘の頂上に司令部を設置した。(1945年6月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

、われわれは与座岳にいる第1連隊第1大隊の救援に向かった。道沿いを進むうちに、枝が残らず砲弾に吹き飛ばされたやせた木の横を通った。その木には通信用電線が何本もさまざまな角度で引っかかっており、大きなモップを逆さに立てたように見えた。私と前を行く兵士とのあいだを銃弾が唸りを生じて跳ね飛び、道ばたの乾いた茂みに突っ込んで、わずかな砂塵を巻き上げた。またあの人肉粉砕機の中に逆戻りするのか。そう思いながら、激しい銃声や砲声の轟く山腹へと登っていった。

与座岳はいかにも恐ろしげに見えた。…右手に国吉丘陵左手には八重瀬岳の急斜面が見える。陸軍の戦車隊が、機関銃や75ミリ砲の攻撃をかいくぐって、八重瀬岳に肉薄しようとしていた。われわれが与座岳で散発的な反撃を受けているころ、国吉では第5連隊第2大隊が第7連隊に加わって、丘陵の残りを制圧すべく過酷な戦闘に挑んでいた。日本軍の砲座や洞窟は猛烈な砲撃にさらされた。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 443-444頁より》

第7海兵連隊は、15日に占領地域を拡張しようと、砲兵隊15個の大隊の支援砲撃を得て進撃をこころみたが、それは、かえって米軍に、さらに35人の損害を出させる結果となってしまった。国吉丘陵での二日間にわたった戦闘で、第1海兵連隊の第2大隊は、150人もの損害を出し、ついに日が暮れてから、第5海兵連隊の第2大隊と交替した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 494頁より》

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Tenth Army troops of the 96th Division approach the top of ”Big Apple Hill”, heavily fortified position, captured during an intense battle with Jap troops on 15 June 1945.

6月15日の日本軍との激戦の後占拠した“ビッグアップル・リッジ“ (八重瀬岳) の頂上に登っていく兵士。(1945年6月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

行き詰まっていた戦況が、進展らしい進展をみせるようになったのは、6月15日、第382歩兵連隊の第2大隊が、第383歩兵連隊の中央大隊と交替して、丘陵の北部斜面を占領してからである。

第383歩兵連隊は、35日間もぶっとおして第1線にいたので、疲労の色も濃く、翌16日になって予備軍に入れられた。これとかわった第382歩兵連隊(連隊長ディル大佐)は、与座岳戦線の中核部をめざして進撃していった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 494頁より》

 

後方で進む基地建設 - 普天間飛行場建築に着工

普天間飛行場の建設が始まる。

中部地域の米軍基地 (1972年当時)

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沖縄県『米軍基地環境カルテ』(2017年) より作成

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Men of the 1181 Engineering Construction Group, 1878th Engineer Aviation Battalion, discuss the layout of Futema Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto.

普天間飛行場の設計を話し合う第1878工兵航空大隊第1181工兵建設群の隊員ら。沖縄。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Located at the south end of the B-29 “Superfortress“ strip at Futema is this coral hill, which was removed to clean the approach for the super bombers. The coral taken from this hill was used for surfacing of the strip, taxiway and hardstand. At the time this picture was taken Lorrain shovels were busy filling trucks with the loosened coral that was blasted free from the quarry by TNT. Crushed and small pieces of coral were used for the base and surface, while the large coral boulders were used to fill gullies that crossed the field. The 806th EAB started work on this 7500 foot strip on 15 June 1945 and expected it to be completed by the 1st of September 1945. Okinawa, Ryukyu Retto.

普天間B-29スーパーフォートレス用滑走路の南に位置する石灰岩の丘は、進入路を作るために取り除かれた。その石灰岩は滑走路、誘導路、駐機場の表面仕上げに使われる。写真は、TNT火薬を用いて採石場から取り出した石灰岩をトラックに積むロレイン・ショベル。細かいものは基盤と表面に、玉石は溝を埋めるのに使う。第806工兵航空大隊が、この7500フィート(約2286m)の滑走路建設に着手したのは、1945年6月15日で、完成は9月1日の予定

(投稿者注: 上の説明文は、投稿者が下の原文を元にリンク先の和訳に加筆したもの)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

6月撮影の写真では、まだ普天間の松並木らしき面影が整地用重機の向こうに見える。

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Bulldozer pushing a turnapull to scrape load for another turnapull at Futema airfield.

普天間飛行場で他のターンナプル(整地用重機)のために、ターンナプルを押して地ならしをするブルドーザー。普天間 (6月)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

B-29スーパーフォートレス用滑走路の建設

… 沖縄は、日本本土への最終攻撃のための広大な空軍、海軍、地上軍の基地となることが期待されていた。上陸直後、GHQ 太平洋陸軍 (AFPAC) の主任技術者が偵察を行い、すでに予定されていた大規模な飛行場建設計画に、超重爆撃機の基地を追加することを提案した。全部で26の航空工兵大隊が降伏前に沖縄に到着し、陸軍建設部隊とシービーズとともにAFPACの指揮の下で任務に就いた。… 沖縄に到着すると、経験豊富な航空技術者の多くは、まず快適なキャンプを慎重に確保し、飛行場建設に備えて整地を開始し、採石場を開き、アスファルト工場を設置した。7月に始まり、戦争が終わる頃には沖縄は恐るべき基地へと変貌しつつあった。

Army Air Forces in WWII: Volume VII: Services Around the World [Chapter 10]

 

 

 

小禄半島: 日本海軍司令部壕の捜査

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9]

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Marines look for Japs and valuable documents in cave on Oroku Peninsula.

小禄半島の壕で日本兵や重要文書を探す海兵隊員。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

沖縄を占領した連合軍は、日本の陸海軍司令官の遺体確認に躍起となった。このうち豊見城村の海軍司令部壕には、組織的抵抗が止んで2日後の6月15日、攻撃部隊である米第6海兵師団のG2(情報関係幕僚)情報部長トーマス・ウィリアムズ中佐(のち大佐で退役)ら8人が、早々と入っている。第6海兵師団長 L・C・シェファード海兵少将の命令だった。… 壕に入ったのはウィリアムズ中佐、日本語将校のタド・バンブラント中尉、カメラマンのコナリー軍曹、海兵隊員3人と、遺体確認のため同行した捕虜の山崎来代一海軍少佐(昭和42年他界)下士官1人の計8人である。

ウィリアムズ中佐(階級は当時)の回想:

日本海軍の司令部壕に着くと、最大の壕の入口に向かった。前日、われわれは5つあるいは6つの入口を確認していたのだ。壕に入ると、数人の日本軍の負傷兵が転がっていた。その1人が私の足をつかんだのだ。ぎょっとしたよ。その時、われわれの懐中電灯の照明の先に、1人の日本兵がパッと姿を現したので、われわれはとっさに発砲してしまった。おかげで、敵に知られず、こっそり忍び込むという作戦はオジャンになってしまった。… (中略) … 山崎少佐の案内で司令官室にたどり着き、そこに大田實提督の外に5人の死体を発見したのだ。もちろん、死体の身元の確認は山崎少佐がやってくれた。現場写真を撮影したのがコナリー軍曹だった。

… われわれが目にしたのは、おそらくこれまで知られた中でも最もおぞましい日本人の狂気を示す壮絶な場面であった。畳があげられた床には6死体が仰向けに並び、(注)それぞれノドを切られていた。死後3、4日たつものと思われる。死体は清潔なオリーブ色のズボンと上着を着ていた。… (中略) … 死体の身元確認に関しては、捕まったばかりの捕虜山崎海軍少佐によって決定的となった。少佐は大田提督の死体を確認し、さらに前川大佐、棚町大佐、羽田大佐も確認した。他の2人は不明である。

(投稿者注: 米軍側の記録では「ノドが切られた」となっているが、後に司令部壕に入り遺体を確認した日本兵は、「頭部に銃弾が貫通した跡があった」と米軍とは異なる証言をしている)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 458-459、461-462頁》

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A ventilation port in the hill that contained Admiral Ota's vast cave in the Tomigusuki area. The Japanese solved the problem of ventilation of the vast cave below by constructing such ports as these. The cave itself contained chambers, operations rooms, galleys, sliding steel doors, etc.

換気孔。豊見城にあるこの丘には大田海軍中将の巨大な壕があった。日本軍は写真のような換気孔を造ることで、巨大地下壕の通気を確保した。壕には、会議室、司令室、調理室、鋼鉄製の引き戸などがあった。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

…写真撮影が終わると、われわれは別の場所の捜索を続けた。その時、だれかが「エイッ」と叫び、次の瞬間、爆発が起き、私は吹き飛ばされた。日本兵が手りゅう弾を投げたのだ。意識もうろうとなって立ち上がったが、握っていたピストルも懐中電灯もない。ようやく、正気を取り戻してピストルと懐中電灯を見つけ、あとは一目散、壕の出口に向かって走った。自分の後ろで、手りゅう弾が爆発し、何か柔らかいものを踏んづけ、電線に引っかかり、無我夢中で走り、気が付いてみると壕の外にいた。そこには顔面蒼白になった部下たちが、あえぎながら待っていた。(中略)

命からがら逃げ出したものの私の気持ちはおさまらない。私は部下2、3名に命じて、第4海兵隊から持てるだけの硫黄弾を持ってこさせた。彼らがどっさり運んでくると、私は偵察隊を数チームに分け、指示した。「これから、日本海軍司令部壕にガス弾を投げ込むんだ。入口は5ヵ所わかっているが、それぞれの入口の前で『ガス弾を投げるぞ』と日本語で叫び、それからガス弾をぶち込むんだ。日本兵があぶり出されたら、武器を取り上げて保護しろ 」

「ガス弾は日本語で何と言うのでしょうか」。部下の1人が聞いた。「ガスは日本語でもガスだ」と日本語将校のバンブラント中尉が言った。各チームは5ヵ所の入口で硫黄弾を次々投げ込んだ。うまくいった。壕から出てくる日本兵はいなかった。壕内でガス弾がズシン、ズシンと響いた。

われわれは日本海軍司令部壕の近くで日本兵捕虜を捕らえた。捕らえたというよりも拾ったというべきだろう。彼らはもう戦う意志を失くしていた。素直にわれわれの指示に従った。負傷した日本兵2人は仲間に担がれて山を下り、われわれと一緒に司令部に向かった。私の任務は終わった。だが、悲しいことに私は2人の部下を失った。…死んだ敵の写真を撮るために私は2人の大事な部下を死なせてしまったのだ。敵の大将の命を取るならまだしも、死体の写真を撮って、命を捨てるなどばかばかしい限りだ。

第6海兵師団のシェファード将軍に事の顛末を報告すると、将軍は勲章をやろうと言った。勲章!そんなものをもらっても部下の命が戻るものか。私は腹の底からうんざりして将軍に言ったんだ。「将軍、私はあなたの命令に従って日本海軍司令部壕に戻り、大田提督の死体の写真を撮ったにすぎません。私は自分の任務を忠実に遂行しただけであり、勲章にふさわしいことはしておりません。そういうことですから勲章をお受けするわけには参りません」。これが私の精いっぱいの抵抗だった。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 461-462頁 》

那覇近郊の亀甲墓にて

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One dead Jap already outside, another is pulled out by a Marine scout. Japs take off most of their clothes on account of the heat in cave.

墓の外の日本人の死体。もう一体は偵察兵に引きずりだされるところ。壕内の暑さでほとんど着るものを身に付けていない。(1945年6月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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MARINE SCOUTS AND THEIR CATCH--This shows two dead Jap soldiers outside an Okinawan tomb they had used as a hiding place near Naha. Jap hide in tombs because they know Marines are ordered not to molest burial places.

墓の外の日本兵の死体。墓に隠れていた日本軍は、海兵隊員が墓地に危害を加えてはならないと命令されていることを知っていた。左からゲイラー一等兵、デマリス一等兵、ドライデン伍長(1945年6月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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小禄半島の至るところにある日本軍が使用していた数ある壕の1つを視察し終え出てくる、第6海兵師団司令官シェパード少将。

Major General Lemuel C. Shepherd, Jr., Commanding General of 6th Division coming out, after inspection of one of the numerous caves used by the enemy throughout Oroku Peninsula Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

国吉台地の戦闘

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Chapter 10 | Our World War II

国吉 (くによし・くにし) : 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

15日朝、胸に貫通銃創を受けた沖縄の防衛隊員が、山頂から数メートルもある珊瑚礁の岩場めがけて飛び降りるという離れ業をやってのけた。伊東のいる洞窟へ駆け込んできて、息苦しそうに告げた。

「台地の裏側は敵に左後方から攻めたてられ、居合わせた防衛隊員5名は素手でどうしようもなく、捕虜になってしまいました。自分だけが隙を見て逃げてきました」

すでに大隊本部も背後から敵の攻撃を受けていた。何とか稜線の一角を保持して侵入を防いでいるものの、前面の敵は火炎放射で一斉に攻撃を仕掛けてきている。配属の独立機関銃第2中隊長の中村中尉から、「壕が破壊されて重傷を負い、ここで死ぬ」と報せてきた。… 他の諸隊との連絡も困難になってきた。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 241、241-242頁より》

 

神航空参謀の沖縄脱出 - 持久戦の末に

大本営に対し沖縄への「一大航空攻撃」を具申するために東京へと派遣されることになった神 (じん) 直道航空参謀は、5月30日、防衛隊員として召集されていた糸満の漁夫6人が漕ぐ刳舟で沖縄島から脱出し、6月9日ごろまでには、徳之島に到着した。その後、神参謀は東京を目指し、16日、ついに大本営にて報告に至る。しかし避難住民を盾にした第32軍の持久戦の末、大本営の対応は冷たいものだった。

6月15日、見事に大本営にいたり沖縄の戦況を報告するが、そこで初めて大本営が沖縄作戦を「本土決戦」にきりかえたのを知り愕然とした。

2日後、神参謀は、長参謀長から「追腹を切る覚悟を以って航空出撃を強調すべし」という親展電報を受け取った。そして約2時間ものあいだ大本営に航空軍の出撃を懇願したが、彼がえたのは「この期に及んで出撃強請とは何事か」という冷たい答えだけであった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》

 

 

永岡隊 (安国寺住職・一中教諭 永岡敬淳大尉)

沖縄特設警備隊第223中隊 (永岡隊) に看護要員として加わった県立第一高等女学校生の翁長安子 (15歳) 証言

6月中旬、糸満の壕にいた少女を爆撃が襲います。那覇市の翁長安子さんは、看護要員として首里の住職が隊長の永岡隊と行動をともにしていました。糸満の糸洲の壕では戦車砲や火炎放射に襲われ、命からがら逃れますが、喜屋武の海岸近くの壕に向かうときに見た光景はまさに地獄でした。翁長安子さん「もうほんとに恐ろしいほどの道端の人、死体。自分が背負っている子どもの首がないのも分からずにおんぶしてるお母さんもいるし」

6月中旬、海岸近くの壕にたどり着きますが、そこから近くの井戸に水を汲みに行くため壕を出たそのときです。翁長さん「隣の看護婦さんの集団の中から、私たちも一緒に行きますよということで、私と向こうから二人、表の広場に出たとたん直撃弾が近くに落ちたんです。それで二人は後ろに爆風でこうやられて、私は前にのめったんです。そしたら二人は即死」

数日後、隊はまた別の壕へ移動することになり、15歳の少女は恐怖で足がすくみます。翁長さん「もうこんな目にはもう遭いたくないという気持ちもあって、どこに行くんですかーと。子どもの本音が出たんでしょここでは『もう行きたくないここにいたい…』」それでも翁長さんは先輩の看護要員たちに励まされ、夜の戦場を進みました。

65年前のきょうは1945年6月15日(金) – QAB NEWS Headline

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15歳で従軍、翁長安子さん「なぜ戦争が起きたのか、歴史を学ぶことを疎かにしては平和な社会はつくれない」 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

傷つき疲弊した住民

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Marines receive poor, helpless civilians from hills south of Naha. Some had been hiding in caves for 60 days or more, many were wounded and starving.

那覇南方の山から降りてきた貧しく無力な地元民と、それを受け入れる米海兵隊員。60日以上壕に隠れていた者もいる。多くの人が怪我を負い、餓えに苦しんでいた。(1945年 6月15日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍政府病院で働く女性たち

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衛生看護婦として訓練され、米軍政府病院の至る所で看護助手をつとめる沖縄の女性たち。(1945年 6月15日撮影)
Okinawan natives, trained as corpsmen, act as nurses aides throughout the American Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米国空軍: A Native Okinawan who is suffering from an eye infection is treated in the Ear, Eye, Nose and throat clinic of the American Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Retto. Some of his countrymen await turn for medical attention.
米軍政府病院の眼科・耳鼻咽喉科で目の伝染病の治療を受ける沖縄の住民。他にも数人の住民が順番を待つ。沖縄。1945年 6月15日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/15-59-1.jpg

精米所で米を粉に引く地元住民。できあがった穀粉は米軍政府病院で利用されることになっている。沖縄。(1945年6月15日撮影)

Natives pound rice into flour at a rice mill on Okinawa, Ryukyu Retto. The resulting product will be used by the American Military Government hospital on the island.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米国空軍: Personnel assigned to the American Military Government medical unit check the condition of patients in the traction ward at the hospital on Okinawa, Ryukyu Retto.
沖縄の病院で牽引病棟の患者の状態をチェックする米軍政府病院医療班。1945年6月15日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

摩文仁の「死の泉」

戦争はいのちの水源ですら「死の泉」に変えた。

チンガー (金井戸) 摩文仁の人々の主な飲料水源、生活用水源であったカー(井泉)。沖縄師範健児之塔への降り口から海へと下る途中にある。かつて元旦にはワカミジ(若水)を汲んだ。

糸満市糸満市の歴史と民俗を歩く・旧摩文仁村

摩文仁付近には多くの自然壕があり、そこには民間人も数多くいた。夕方になると…水くみ場には多くの人たちが集まって来た。艦砲射撃も〝休息〟に入り、戦場でわずかに許されたのどかな時間だった。それがある日を境に一変した。

県出身将校の証言:

6月の15、6日ごろだと思うが、水くみ場に集まるのを米軍が知って初めて艦砲射撃を受けた。多数の犠牲者が出て、住民もその時から他へ移動を始めた」

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 194頁より》

翌日また水くみに行ったらね、泉の周辺は全部死体だった。頭を井戸の中に突っ込んで血だらけの水になっていた。

<未来に伝える沖縄戦>命懸けの井戸の水くみ 吉嶺全一さん(81)下 - 琉球新報

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 【沖縄戦の絵】「水を求めて撃たれる人々」

…水をくみに行った糸満市摩文仁の井戸の様子摩文仁には井戸がここ1か所しかなく、避難していた住民も兵士も生き延びるためには欠かせない水を求めて集まった。その井戸がたびたび米軍に攻撃された。海上を埋め尽くす米軍の艦船から絶え間ない機銃掃射が浴びせられ、井戸のまわりには多くの犠牲者が連なって倒れていた。…井戸の中にのめりこむように倒れていた兵士の遺体を引きずり出して水をくみ、砲弾の雨の中を壕に戻った。…次に水くみを命令された兵士は、壕に戻らなかったという。

水を求めて撃たれる人々 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

八原高級参謀の回想:

敵は、摩文仁付近一帯の将兵や避難民が、例の海岸の泉に水汲みに集まるのを知るや、哨戒艇をその直前に配置し、これを妨害し始めた。この泉に辺りには、いつしか水筒や飯盒を手にした死体が見られるようになり、死の泉と恐怖されるようになった。しかし生きるためには、水は絶対必要だ。夜間ちょっと敵の油断を窺って、皆勇敢に水汲みに突進する。そして海岸の洞窟で焚いた食事は、敵前数百メートルの断崖の道を山頂の洞窟に、挺身斬り込みの要領で当番兵たちが運ぶのである。

この危険な任務に服する当番兵たちの表情は、日ごとに深刻になる。参謀長の当番兵の1人が、断崖の中腹で犠牲になったのも、このころであった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 382頁より》

 

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