1945年 8月2日 『国頭突破するためには』

〝沖縄〟という米軍基地

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高射砲隊の陣地は敵味方全ての飛行機を識別するこの観測局によって強化される。SCR584パラボラレーダーは長方形の敵味方識別装置が作動する時に追跡を開始。レーダーは中継で発信点から目標までの直線距離をコンピューターと那覇飛行場を守る第98高射砲隊D砲兵隊の砲撃目標追跡装置に送る。(1945年8月2日撮影)

Anti-aircraft positions are fortified by this radar station that detects all aircraft - friendly or enemy. The SCR 584 Parabolic radar is on track as the rectangular IFF (Identification, Friend or Foe) indentifies the plane as friendly or enemy. While on the target, the radar relays the slant range to the computar and tracker of Battery D, 98th Anti-Aircraft Artillery gun battery defending Naha Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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第98高射砲大隊D砲兵隊の管制室。90mm高射砲部隊が那覇飛行場に位置する。敵機の位置が戦闘機管制センターの高射砲制御装置から無線でこの管制室へ送られ、敵機位置の座標は図示板でチェックされる。SCR584パラボラレーダーの範囲内では、砲兵隊が追跡を開始し4台の90mm高射砲の射程距離に敵機が入ると射撃を開始する。(1945年8月2日撮影)

Control room of the 98th Anti-Aircraft Artillery Battalion, Battery D, a 90mm anti-aircraft battery located at Naha Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto. Position of enemy plane was sent to control room by radio from AAA Controller at Fighter Control Center and plots of the enemy plane's position are checked on plotting board. When in range of SCR 584 Parabolic radar, the battery starts tracking and will open fire when the plane is within effective firing range of its four 90mm anti-aircraft guns.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍の動向

掃討作戦

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北部の掃討作戦中国頭村安田から約3マイルの山を登っていく偵察隊を指揮する第27師団第105連隊第2大隊H中隊の部隊長ホロウェイ2等軍曹。(1945年8月2日撮影)

S/Sgt. Ralph Holloway of Marion, IND., platoon leader of company H, 2nd Bn., 105th Regiment, 27th Division, leads a patrol upstream in the mountains of northern Okinawa, about three miles west of Ada, during the mop-up operations in the area.
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沖縄本島北部山中をパトロールのSCR300無線機を操作する第27師団第105連隊第2大隊司令部中隊ネーア軍曹。無線機を担いでいるのは地元住民(1945年8月2日撮影)

S/Sgt. William A. Naire, Pasadena, Cal., Headquarters Company, 2nd Battalion, 105th Regiment, 27th Division, operates an SCR 300 radio at Company ”H” Command Post, While patrolling in the mountains of Northern Okinawa. The set is carried by a native Okinawan.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

恩納(おんな): 第4遊撃隊

『谷茶部落の壊れた民家の床下には、まだ、小学生が勉強中の地理、歴史、国語、理科、数学など、そのほか「家の光」などといった本が沢山散乱していて、これを唐米袋の中に一杯詰めて山に運んできた私たちは、久しぶりで紙を使うようになった。同時に、沖縄の地理や歴史の勉強をことごとく身につけることもできた。

谷茶部落の少し南側に寄ったところの、山が海岸まで迫っている溢路の木立の中に、小さな滝があった。日中、暑い海岸道路を往来する米兵たちが、この天然の滝に立寄って水浴びをするらしい---ここを発見したのは岡本上等兵であるが、夜か朝早くいって見ると、真新しい、タオルや石鹸、それに剃刀までがたくさん捨ててあって、私たちは以来不自由しなくなった。久しぶりで熱帯疥癬のために、太ももから尻にかけて流れでている膿のために、洗濯板のように固くなっているズボンをバリバリ剥がして、体を洗い髭をそってみな生き返ったようになった。また、昼間、海岸道を米兵が裸になってブルドーザーを駆使して、道路の拡張工事をしているのを樹間からよく見さだめておいて、夜になって付近の雑草の中にかくしてある缶詰の食糧を盗んできた

と同時に放置してあるブルドーザーの中からガソリンや油も抜きとってきて、夜は小屋の中で明かりを灯すようになった。

この灯りのお陰で、夜の食糧徴発は、留守居役の窪田伍長が谷間の入口まで灯をともして迎えに来てくれるようになったから、その晩のうちに小屋にかえって来られるようになった。笑いを忘れ、もうどうにでもなれ・・・といってうらみつらみでむすばれていた戦友たちの顔も、久しぶりにほぐれて明るくなってきた。』(252頁)

『私たちは決して平穏に暮らせるようになったのではない。日中になると10名くらいの敵のパトロールが石川岳の稜線の方にもやってきた。パトロール隊は主に、屋嘉岳の東西横断道路を西海岸方面から、日本兵が潜んでいそうな谷間や灌木内に向かって、ダダダダダーッと機銃を浴せながら登ってゆき、標高250メートルの頂上につくと、こんどは南側の石川岳と北側の伊芸岳の谷間に向かって迫撃砲を乱射するのが、日課のようになっていた。その迫撃砲弾が私たちのいる谷間にも轟然と炸裂して、スワ、と色めきたったこともあった。』(253頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 252、253頁より》

 

「解散命令」後の学徒たち

沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊(略称・沖縄一中鉄血勤皇隊)

一中鉄血勤皇隊にいた学徒の1人は、家族と共に兼城村照屋の壕にいた。そこには、『かなりの数の兵隊がかくれていた。昼は壕にこもり、水汲みや食糧探しは夜やるので、…戦闘がどうなっているかは全くわからなかった。』(338頁)

7月下旬、『…南から逃れてきた兵隊の情報で、日本軍は摩文仁で壊滅したことを知った。また「生きている将兵国頭の恩納村に集結し、本土からの指示を待て」との軍司令部の命令がもたらされていたので、壕の兵隊は数人ずつグループを組んで国頭突破に出て行った。』(338頁)

学徒と家族が『国頭めざして照屋の壕を出たのは7月下旬だった。照屋にいる間に2人の死者がでていた。まず祖母が栄養失調で死亡、つづいて末の妹(2歳)も死んだ。栄養失調になった人は次第にやせ細り、元気がなくなって最後に灯が消えるように死んでしまった。重態だった叔母も国頭突破に同行したものの動けなくなり、食糧を分けて途中の民家に残してきた。(この叔母はのちに米軍に救出されてコザ市の胡屋病院に収容されたが、そこで間もなく死亡した。)』(338-339頁)

『…国頭突破のコースは照屋の壕潮平武富南風原村長堂饒波川という、かつて南下してきた道をほぼ山伝いに北上するコースだった。…総勢13名の家族があてもなく北上するのだから、用心に用心を重ねて行動した。

…しばらく歩いては周りの様子をうかがい、異常があれば物陰に隠れて時を待ち、…安全をたしかめてからそろそろ歩きだすといった調子で、歩行距離は一晩せいぜい3キロ程度だった。道々、ゲートル姿の友軍の死体を目にした。

北上の途上、米軍の陣地によくぶつかった。そにたびに匍匐前進したり迂回したりして通り抜けたが、一番の難所は津嘉山の米軍駐屯地帯だった。山の上から見ると、饒波川がわれわれの行く手をさえぎるように流れ、その背後に米軍の幕舎群が続いていた。日が暮れると幕舎のライトが周辺をあかあかと照らし、これまでの方法ではとても突破できそうになかった。

…長堂集落の手前の山に、2、3日ひそんで突破計画を練った。その結果、頃はちょうど台風シーズンだから台風を待つしかない、台風になれば、駐屯地のライトは倒壊し真っ暗闇になるから幕舎の間隙を縫って行けば突破できる、突破はこれしかない、ということになった。

…幾日もたたぬうちに天気は荒れ模様となり、台風のやってくる兆しが見えた。』(339-340頁)

8月2日…台風の通過する日、…夕方から突破の準備にとりかかった。…先ず饒波川を渡らねばならないが、折からの豪雨で増水している川を胸まで浸かって渡っていった。

米軍の駐屯地は予想にたがわず兵隊は幕舎に引っ込み、無警戒になっていたので難なく通り抜けることができた。しかし…篠つく雨をついて国場方面から引っ切りなしにやってくるトラックは、サーチライトの光芒のように道路をあかあかと照らしながら走っていた。

この道路はなんとしてもその夜のうちに渡らなければならない。…トラックの流れがとぎれると、…駆け足で道路を横断…全員が横断するのに時間がかかったが、…無事通過することだできた。』(341-342頁)

《「証言 ・沖縄戦 沖縄一中  鉄血勤皇隊の記録(下)」(兼城一・編著者/高文研) 頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/9/99/Noha_river.jpg

饒波川 - Wikipedia

 

 

そのとき、住民は・・・

やんばる山中にいた避難民

避難民の日誌より: 8月2日

昨夜見た夢は白米と魚の煮付。ばあさんがもっと食べョ食べョとすすめるがどういう訳か喉を通らない。無理にのみこもうとして喉につかえて、せき込んで目がさめた。残念。せめて夢の中ででも腹一杯食べさせてくれたらよいのに…。ハイジーで大雨にあいズブぬれとなる。山路は滑るし、荷物は重いし、やっと川まで降りたら大雨で増水し渡れず。芋カズラとパパヤの根の三食がつづく。米とは言わないがせめて味噌汁が食べたい。』

《「沖縄の慟哭 市民の戦時 戦後体験記/戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 480-481頁より抜粋》

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月2日(木)

 

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