陸地10%の民間人収容所地区 / 農業インフラの破壊 / 教科書の編集「アオイソラ ヒロイウミ」/ 生きるための軍作業
米軍の動向
米軍の住民移住計画
沖縄島で米軍が設置した12の民間人収容所区域
1 辺土名収容所 … 上島・兼久・桃原・比地・大兼久・大宜見・喜如嘉・謝名白・田嘉里・根路銘・饒波
2 田井等収容所 … 親川・川上・田井等・仲尾次・真喜屋・呉我・古我知・伊差川・山田・我部祖河 … 孤児院・養老院・精神科
3 瀬高収容所 … 二見・大川・大浦・瀬嵩・汀間・三原・安部・嘉陽
4 大浦崎収容所 … 久志・辺野古・大浦崎・豊原
5 古知屋収容所 … 古知屋・高松
6 宜野座収容所 (福山収容所) … 宜野座・福山・大久保・惣慶 … 野戦病院
7 漢那収容所 … 中川・漢那・城原
8 石川収容所 … 石川・伊波・山城
9 平安座収容所 … 浜比嘉・伊計・平安座・宮城
10 前原収容所 … 古謝・川田・具志川・幸崎・塩谷・高江洲・前原・南風原・桃原・豊原
11 コザ収容所 … 嘉間良・越来・室川・安慶田 … 孤児院
12 知念収容所 (百名収容所) … 百名・仲村渠・下茂田・志喜屋・山里・具志堅・知念・久手堅・屋比久・伊原・新里 … 孤児院
米軍の住民移住計画 (resettlement program) で、住民は自分の土地から追い立てられ、基地建設が変更され進展するたびに収容所から収容所へと移送された。住民の住居区域は沖縄島のわずか10%の土地に制限され、その土地の過半は住居に適さない土地であった。
米陸軍公刊報告書からの翻訳
【訳】(この変更が沖縄島と伊江島にかなりの衝撃を与えた。もともとは沖縄島と伊江島にあわせて10の飛行場を建設する予定だったものが、沖縄島に18の滑走路、伊江島に4つの滑走路が計画された。5月末までに、22の滑走路のうち10が建設中であり、沖縄の基地展開計画で求められていた建設は戦闘の終わりまでに完了しなかったが、その基地建設はますます多くの地所を接収することとなり、おもに島の北部の荒れ果てた小さな区域に民間人の居住を限定することとなった。
これらの進展を懸念するあるオブザーバーは、戦術部隊が軍事施設のために沖縄島の多くを占有したため、「現住民のためのスペースは実質的にひとつも残っていなかった」と述べている。避難民に割り当てられた地域は、戦術部隊のニーズが拡大するにつれて変化し続けた。多くの地域で、避難民の絶え間ない移動が作物の植え付けを完全に妨害し、その結果、食糧事情の悪化の一因となった。民間人が地方の共同体を擁することのできないような小さな点在するポケットにどんどん追い込められていくなか、軍政府のチームはほとんどそうした民間人の状況には対処することはなかった。
… これらの民間人避難者が移送された軍政地域は、沖縄島の陸地の約10%に過ぎず、その割合のうち、おそらく半分は定住目的にはまったく不向きな土地であった。
この困難な時期を通して、沖縄県民は苦難にもかかわらず冷静で協力的であり続けた。そしてそこに苦しみと苦悩苦しみがあった。たとえば、6月22日、881人の避難者がトラックで久志に輸送されていた際、1台のトラックが数十人をのせ、その中で3人の死者、つまり2人の子供と1人の年配女性が死んだ状態で到着した。
《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 57-59》
米軍が収容所と呼んだ場所。
米国海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island.
米軍占領後、収容所内での日本人の生活の様子。
農業インフラの喪失と深刻な食糧危機
また、住民を生活基盤から引き剥がし強制収容した以上、軍政府はすべての住民に食糧を提供する必要があったが、その供給は次第に枯渇していく。沖縄の農業インフラは、戦争と軍事基地建設によって大きく破壊、喪失された。
【訳】琉球作戦が正式に完了(1945年7月2日)する頃には、軍事政府チームは食糧事情の悪化に直面していることが判明した。6月中、軍政府は1日平均19万6,000人の人口に食料を供給したが、輸入した食料はわずか22%だった。7月までに、その人数が295,000人に上り、日々の食糧の59%が輸入された。これらの統計は、部分的には、沖縄戦の最後の数日間に軍政府の保護を受ける民間人が急増したことを示唆している。しかし、増加には別のより深刻な理由があった。7月までに回収された食料は枯渇し、さらにかなりの被害が島の農作物に降りかかった。数多くの段々畑の擁壁と、長年にわたって開発された複雑な灌漑システムが損傷した。戦闘段階が終了すると、ブルドーザー、大型トラック、グレーダーが基地建設計画に従い、戦車と大砲によってすでに開始されていた破壊作業を継続した。
《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. P. 47.》
基地建設の労働力 - 軍作業
米軍は、捕虜収容所の捕虜や、民間人収容所の住民を基地建設に従事させた。
Native laborers at Naha, Okinawa, Ryukyu Islands, digging trenches, where ground wire will be laid.
那覇の地元の作業員が、アース線を埋設するための溝を掘っている様子。(1945年8月1日撮影)
Native labor being used at supply areas, Naha, Ryukyu Islands.
那覇の補給地区で働かされている地元の作業員。(1945年8月1日撮影)
Okinawan natives make up a Labor Bn.
労働班を編成する現地住民(1945年8月1日撮影)
第32軍の敗残兵
終わらない戦争
恩納岳: 沖縄の終わらない戦場を生きている敗残兵は、昼間は山に、夜間に食糧をもとめて徘徊する生活が続いた。
8月に入ると、谷茶部落のあとの左右にひらけた山裾の田圃には、地元の住民たちが戦いのさなかに月あかりをたよりに植えたのであろう、ところどころに米がみのりはじめた。この「米」は敗残兵たちにとって、万金にも値するとうといものとなった。月夜の田圃には、どこからともなく敗残兵が現れて、せっせと穂をつむ風景がみられた。
この穂をつむ兵隊たち数名は「石部隊」の生き残りだそうだが、ほとんどの者が負傷していて、片腕を首から吊っていて穂をつむ姿は痛ましかった。この兵隊たちから私は「ドイツの屈伏」もきいた。みんな「ドイツはここまでよく戦ったなあ」と嘆声をもらした。
収穫した籾は避難民が山に残していった石臼(月の世界の兎が餅をつくような可愛いいもの)が役立った。2枚重ねてある石臼の上部に小さな穴が開けてあって、そこから籾米を入れて、柄のついているハンドルを、片手でグルグル臼を廻すと、すり合わされた籾米の中から、一度に半分くらいの殻が剥げた白い玄米が獲れた。みんなこの発明に歓声をあげた。
昼は敵の掃討戦を警戒してジッとしている私たちに、そのひいた籾米をみんなで1粒1粒より分けてすごしていると、フシギに緊張感を解きほぐしてくれるようであった。私はフト故郷のことを想った。
籾米は長期持久に備えてせっせと貯えた。山小屋の中は少し勾配になっていたので、夜は貯蔵用の籾米を低くなっている足元の方に積んで眠ったが、ネズミがこの籾米をねらって群がり、集まってくるのには往生した。
夕方からの活動のとき、食糧を求めて月の浜といわれる海岸地帯を仲泊の方まで、トボトボ歩いていって、忽然と米軍幕舎が建並んでいるところにゆき当たり、拳銃でパーンと射たれて驚いて逃げ帰ったことがあった。
沖縄県立工業高校では、校長が御真影奉護隊として天皇の写真を戦火から守ろうと懸命になっているとき、生徒97名教師7名が動員、そのうち生徒88名が戦死、実に動員された学徒の95%が犠牲になった。
生き残った者は海岸へと向かった。崖を夢中で下り、岩陰に身をひそめた。6人いた。しばらくすると、敵陣地から「センソウハオワッタ」とのアナウンスが流れた。23日夜、残った者で北部に突破しようと海岸沿いを進んだ。与座の壕で8月までいたという。
師範鉄血勤皇隊 - 民間人収容所で先生になる
日本は戦前の教育審議会で教育の指針を「皇国の道による国民の錬成」と定め、師範学校は皇民化のための国民学校教員の「錬成」が目的とされていた。戦争への道は教育現場から始まり、学校は兵士養成のための過程となった。
1937年12月に内閣直属の諮問機関として教育審議会が設置された。教育審議会は義務教育、中等教育、高等専門教育、師範教育、社会教育などの制度、教育内容・方法におよぶ全面的な改革策を審議し、1941年10月までの間に7つの答申と4つの建議を行った。根本理念は「皇国ノ道ニ則ル国民の錬成」であった。… 改正 (1943年) 師範教育令第1条は「師範学校ハ皇国ノ道ニ則リテ国民学校教員タルベキ者ノ錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と定めた。1886年の師範学校令以来、3気質と言われた「順良親愛威重」という語はなくなった。すでに1941年制定の国民学校令第1条は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」としていた。師範学校の目的は、「皇国民錬成」のための国民学校の教員を養成することとなったのである。
沖縄戦では、21校の旧制中学から多くの学徒が動員された。その実数は未だに不明である。また国民学校や青年学校から召集された少年兵も含めると、膨大な数になる。
学徒兵や少年兵は捕虜となると日本兵と同じように扱われ、彼らの多くがハワイやアメリカ本土の捕虜収容所に移送された。しかし中には厳しい訊問をかわし、民間人収容所に潜りこむことができた少年兵もいた。
師範学校本科2年 (14歳) から鉄血勤皇隊に編成された平仲孝栄さん証言
具志頭の港川に集められた捕虜たちは、そこで米軍の取り調べを受けた。尋問に当たったのは2世の通訳で、平仲孝栄さんにも戦闘に加わったのかどうかを確認した。最初、現役兵ではないかと疑われたが、キッパリと否定。すると今度は「鉄血勤皇隊だったんだな」と厳しい追及が続く。ドキッとした平仲さんだったが、とっさに次のように答えた。
「確かに私は師範学校の学生です。でも長いこと病気で休んでいて鉄血勤皇隊には編入されていません。戦争が始まってからはいくぶん体が良くなったので炊事の手伝いくらいはしなければと思い、近くの部隊に加勢に行ったことはありますが…」平仲さんは思いつくままデマかせを並べ、鉄血勤皇隊ということを強く否定した。通訳は「ウソをつくと銃殺されるぞ」と盛んに念を押したが、かたくなな平仲さんの態度に根負け。結局、参戦した兵隊たちとは別に振り分け、民間人のグループに入れた。
捕虜になった翌日、玉城村の百名まで連行されてきた数十人の民間人は、そこで流れ解散のような形でバラバラになった。平仲さんは住む家を求めて歩き回り、知念の山里地区までやって来た時にバッタリ知人に出会った。その人のやっかいになることになり、地アックに雨露がしのげるほどの小屋を建て、住み付いた。
「山里にやって来た当時の思い出と言えば、軍作業の死体片付けですね。具志頭まで駆り出され、一帯に散乱している日本兵の死体をくぼ地に集めて石ころをかぶせるんです。弾痕が生々しくて忘れられませんよ」
この作業はとても耐えられず、一遍で嫌になったという。作業中、せっけんがなくなってしまうという出来事があり、米兵から泥棒呼ばわりされて、一層腹が立ち、作業に出ることを拒否している。
そんなことがあってからは、何の目標もなく、ただ漫然と過ごす日々が続いた。干しブドウにイースト菌を混ぜて発酵させた“ドブ酒”だけが楽しみになり、いつも暁になるとホロ酔い状態。「酔ってみじめな気持ちをまぎらせていた」という。
怠惰な生活に明け暮れていたころ、隣近所で親しくしていた山里区長の嶺井藤正さんが「小学校を始めるので先生をやらないか」と夢のような話を持ち掛けてきた。降ってわいたような話に平仲さんは飛び上がらんばかりの喜びよう。「元はと言えば教員志望だったんですから断る理由がない。知念市役所に呼ばれて当時の親川市長から辞令をもらった時はうれしさで震えたものです」
昭和20年7月21日、平仲さんらを教員に迎えて山里初等学校が開校した。校舎といえば、空き屋敷に米軍の野戦用テントを張っただけ。教科書はもちろん、ノートや鉛筆さえなかったが、そこには「希望」があった。50人の子どもたちの「未来」と「夢」があふれていた。平仲さんの担当は国語と算数。「知っていることのすべてを子どもたちに授けてやりたいと夢中でした」。休み時間には米軍おさがりのバレーボールで大いにはしゃいだ。「あの時の無邪気な子どもたちの姿は永遠に忘れられない」と平仲さん。「私たちが受けた“人殺しの教育”をこの子らには教えていけないと肝に銘じ、以来40年も教師を続けています」と話していた。
そのとき、住民は・・・
新しい教科書作り「アオイソラ ヒロイウミ」
1945年8月1日、アメリカ海軍政府のウィラード・ハンナ少佐が中心となり、石川市東恩納の軍政府内に初の沖縄教科書編集所が設置された。沖縄県師範学校女子部ひめゆり学徒隊を引率した教師で後の琉球語言語学者仲宗根政善らが新しいガリ版刷りの教科書に取り組んだ。仲宗根は、初等学校一年生「ヨミカタ」の最初のページに「アヲイ ソラ ヒロイ ウミ」と記した。
アメリカ軍は日本の軍国主義などの思想を排除するため、子どもたち向けの沖縄独自の教科書を作る編集所を軍政本部内に設置します。沖縄戦のさなか、すでに中北部にはアメリカ軍が収容所内に学校を開設。学校には子どもたちの元気な声が戻り、授業が行われていましたが、教科書などは戦火で消失、教材も不足してました。
アメリカ軍は沖縄独自の教科書を編集するため、8月1日に石川の東恩納に沖縄教科書編集所を設置します。「沖縄の戦後教育史」によると「国語」という表現は使わず「読方」にするよう注意されたり、原稿はすべて英文に翻訳された上、軍国主義的な表現は一切許可されないなど厳重な検閲の下で作られたのです。
うるま市の石川資料館には、当時編集所で作られた教科書や教材が並び、アメリカ軍が日本の軍国主義的な教育からの脱却を目指したことが伺えます。
仲宗根は、牛島満司令官が自決した1945年6月23日に米軍の捕虜となって、沖縄本島北部の宜野座村松田にあった古知屋の収容所に移動させられる。そこにいる時、米軍政府の教育係将校ハンナ大尉が山城篤男(県立二中校長、現在の那覇高校一筆者注)を迎えに来て、当時最大の収容所があった石川に連れていかれた。その後、「山城さんから『君も石川に来い、教科書の編修をしたいから』と言われたんです。しかし、ぼくは負傷してもいたし、とても再び教育にたずさわる気にはなれませんでした。南風原陸軍病院撤退のとき重傷患者といっしょに壕に残して来た生徒が、米兵に救助されて宜野座の病院に連れて来られて、オフ・リミッツ(禁止区域)をくぐりぬけて見舞って来た直後でしたから......。ただ妻子がどこにいるのか、まだわからなかったものですから、ひょっとしたら石川へ行けば、妻子の消息はわかるかもしれないと思って、石川の山城さんのテント小屋に行ったわけです」(仲宗根政善「米軍占領下の教育裏面史」(『新沖縄文学44号』沖縄タイムス、1980年 158頁)。
教科書の編修に意欲が湧かなかった仲宗根であったが、目の前に、ある光景、が飛び込んできた。この光景こそが仲宗根に教科書編修への参加を決意させた。......石川の街頭をうろついている学童を見ると、スパスパ、タバコをすっているんです。レーション(米軍の野戦食)の中に入っているやつをすっているんですね。人々の服装も男か女かほとんど見分けもつかない。アメリ力さんの洋服をつけたり、つぎはぎのよれよれの服をまとって、夢遊病者のようにうろつきまわっている。はだしの者も多い。いちばんショックだったのは、チリ捨場にたかっている学童の群れを見たときでした … (仲宗根政善 p. 158) 。
《川平成雄「収容所の中の住民と生活の息吹」(2008) 琉球大学経済研究(76)》
生きるための軍作業
ミニッツ宣言ですべての経済活動が停止された無貨幣時代、圧倒的に不足する食料を補うためには軍作業が不可避となった。
1945年4月1日以降、米軍は沖縄本島中部を中心に住民を収容して、北谷・嘉手納海岸での軍需物資の陸揚げ、住民が避難していなくなった集落をまわり、マラリアを防止するため蚊の発生源である水ガメ割り作業に従事させる。これが軍作業のはじまりであった。のちに、男たちは、兵舎の修理、軍用車輌のパンク修理・グリス差し、道路の建設工事、戦線から送られてくるアメリカ兵の戦死体の埋葬処理、シェルター建設、軍施設の建設、女たちは、兵舎内の清掃、軍服の洗濯作業をおこなうようになった。
《川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(2008年) 》
米海軍: Native people of Kushi, Ryukyu Islands at their tasks. Civilian nurse cleaning pot.
労役に従事する地元民。沖縄本島の久志にて。地元看護要員がポットを洗う様子。 名護市久志 1945年 8月6-7日
Okinawan natives make up a Labor Bn.
労働班を編成する現地住民(1945年8月1日撮影)
軍作業では、戦争捕虜 PW と区別し民間人には CIV とペンキで塗られた服を着用した。
Okinawan natives make up a Labor Bn.
労働班を編成する現地住民(1945年8月1日撮影)
やんばるの収容所 - 子どもたちの栄養失調
喜如嘉では7月16日までに避難民は山を下り辺土名収容所地区に収容された。
こうして、隣組のみなさんと一緒に喜如嘉の集落まで下りてきました。そこで男女に分けられ、男の人達はそのまま一週間ぐらい何処かに連れていかれました。女の人達だけが、部落に残されました。しばらくして、喜如嘉の国民学校が収容所となり、そこへ移りました。そこでは配給がありましたが、その配給だけではとても足りませんでした。その後、喜如嘉は爆撃に遭わずに済んだので、戦前の綺麗な家がたくさんあって、そこにみんなが分宿するようになっていました。浦添の方々もいらしたことを覚えています。…
収容所での多くの人々の死
収容所内の病院では、喜如嘉の出身で平良※※先生という六十歳余りの医師(せんせい)が、子供達を診察しておられました。そこで、私は看護婦でしたと言ったら、「じゃ、あなた手伝いに来なさい」という事で、そこに勤めることになりました。病院では、薬品は米軍支給品で、名前も英語で書かれていたので、先生に「これは、ビタミン剤、これは何々だよ」と教えてもらいました。
子供達は、ほとんどが栄養失調でした。生きていても、皮膚に黒い斑点が出ており、肉が腐っていたのです。これは、ピンセットで取るとすぐ取れましたが、子供達も生きながらにして皮膚が腐っているという状態でした。また噛む力もなく、お腹も膨れ上がって、毎日バタバタと亡くなっていきました。大人もウシヌクブー(後頭部)がすごくへっこんでいました。見ると、体の上にかろうじて頭が付いているというぐらいで、次々と亡くなっていきました。
毎日、多くの死体が荷車に積み上げられて、近くの浜で埋葬されていました。そんな状態が続くと、死ぬことも恐くなくなるもので、いつか自分達もこんなふうになるという気持ちで、死者に手を合わすという事もしないようになっていました。涙も出なくなり、「アイヤー、今日も亡くなられたんだねー」という状況の中で、親戚のおじいちゃん、おばあちゃん達も亡くなり、向こうの浜に埋葬されました。
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その時、本土では