1945年 6月2日 『破壊された琉球の文化財』

南進する米軍

中央戦線

首里(しゅり)・首里城

『汚れた狭い舗装道路は、高爆発性爆弾でこなごなに砕かれ、どんな車輌も通れぬほど、爆弾の穴でいっぱいになっていた。たくさんの屋敷の石垣がくずれて散らばり、瓦礫や砕かれた屋根の赤瓦がうず高く積もっていた。建物の枠は、マキ材のように散らかっていた。日本兵のぼろぼろになった軍服の切れはし防毒面ヘルメット帽(これがいちばん多く見られた)や、また沖縄の民間人の、暗い色の衣服が無数にとび散っていた。この、まるで月の噴火口のような光景を呈しているところに、なんともたとえようのない腐った人間の屍臭が、いつまでも宙にただよっていた。』(440頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 440頁より》

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日本兵も投降する--この4人の日本兵は、彼らを首里城付近の壕に追い詰めた海兵隊員との戦闘を続けることや自決することよりも、投降することを選んだ。ぬかるみの中、3人の日本兵は傷が重い仲間を運んだ。このぬかるみは、銃撃されたときに首里城へ物資を運んでいた第1海兵連隊の進軍を遅らせた。海兵隊員は雨と砲弾から身を隠そうと壕に入った。中にいた日本軍の狙撃兵が彼らめがけて榴弾を投げたが、負傷者は出なかった。彼らは持っていた榴弾で応戦した。負傷した仲間を引きずって出てきた3人の日本兵は、必死の身振り手振りで投降を伝えた武器を持って日本兵の後についている海兵隊員は、日本兵の気が変わらないように警戒している

JAPS DO SURRENDER--These four Japs chose to surrender than commit suicide or continue the fight against Marines who trapped them in a cave near Shuri castle on Okinawa Shima. Three Japs carry a more wounded comrade through mud that slowed Marines of the First Regiment who were carrying supplies to the castle when fired upon. Seeking refuge from rains and bullets, a group of Marines started to enter a cave. A grenade was thrown at them by the snipers, inside. None of the Marines were hurt. They retaliated with a grenade of their own. Out came the three Japanese soldiers dragging their wounded comrade and making frantic gestures of surrender. The weapon-carrying Marines following them are taking care that the Japs do not change their minds.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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首里城下の壕から救出された捕虜と話すジフィン・カメラマン(1945年 6月2日撮影)

Photographer Giffin stops to talk to prisoner who was dug out of cave under Shuri Castle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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首里城へ向かう途中、食糧や弾薬を積んだ毛むくじゃらのモンゴルロバが泥の中で働く。(首里城では)4日前に(日本軍の)元要塞地を占拠した海兵隊第1連隊の海兵隊員が、占領以後物資の不足にあえいでいる。

(投稿者注: 2017年6月現在のリンク先の和訳では、原文の「Mongolian ponies」を「モンゴルロバ」と訳しているが、は「モウコウマ」のことと思われる。米軍が持ち込んだ馬ではなく、沖縄で集められた馬を使用したならば、米軍が呼んだ「Mongolian ponies」は、与那国馬の可能性あり)

En route: Loaded with food and ammunition, shaggy Mongolian ponies labor thru the mud on their way to Shuri Castle, where Marines of the 1stReg have suffered a supply shortage since taking the former fortress four days before.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

中央〜東部戦線

『追撃作戦の初日以後というものは、降りつづく雨の方が、かえって日本軍の反撃より米軍の頭痛のたねとなった。第184歩兵連隊のほうは、南へ、そして東へ、雨を吸い込んで、やわらかくなった知念半島の緑の連丘を、苦心しながら乗り越えていった。そこでは、たいした抵抗もなく、明らかに日本軍としては、そこら一帯を防備する計画がないことを示していた。』(453頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 453頁より》

 

 

第32軍の動向 

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

第32軍司令部は、南部へ移動した各部隊との連絡・調整を行うため、津嘉山にあった軍司令部の経理部の壕に薬丸参謀を残していた。

八原高級参謀の回想:

『薬丸は茶屋本大尉以下要員10名を配属され、6月2日夕までに津嘉山に踏み止まり、各兵団の退却状況を的確に掌握して、時報するとともに適切な意見を具申し、克く任務を達成した。特に退却掩護部隊として一時第24師団に属した独立歩兵第22大隊が、権威のない歩兵第64旅団命令で過早に首里を撤せんとして両兵団の間に悶着を生ずるや、適切にこれを処理した件、津嘉山周辺に、相連繋して陣地を占領した歩兵第64旅団および歩兵第32連隊の両司令部を津嘉山の同一場所に開設させて、その協同連繋を良好ならしめた件、ならびに6月2日、第62師団が饒波川の線に拠る歩兵第22連隊との連繋を失して、後退せんとするのを看破して迅速に報告し、軍司令官をして適時これを調整せしめ得た件等、さすが薬丸なりと称賛せざるを得なかった。

6月2日夜半、彼が任務を完了して摩文仁に帰ってきた際、私は風邪を引いていて39度の高熱を発し、気分勝れなかった。

疲労困憊雨にぐっしょりぬれた彼を迎えて、快く労せず、かえって「指導積極に過ぎ、持久抵抗と防御準備が主客顛倒にならねばよいが」と皮肉な言葉をもらしてしまった。傍らで聞かれていた参謀長が、薬丸がやり過ぎたとでも思われたのか、さらに同じようなことを軽く注意された。彼の悄然たる姿を見て、実に気の毒でならなかった。』(371-372頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 371-372頁より》

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南風原町津嘉山にたたずむ小高い丘。この丘の中に総延長およそ2キロに及ぶ、巨大な人口地下壕がありました。旧日本軍の後方陣地だった「津嘉山壕」です。戦後、入り口が埋まり、正確な位置がわからなくなっていましたが、平成16年、道路建設に伴う発掘調査で、初めて確認されました。
もともと軍の司令部としてつくられ、およそ3千人もの兵士らが配属されていた津嘉山壕。
そこに16人のひめゆり学徒も動員されていました。町並みが変わりゆく中、わずかな痕跡さえも残していない津嘉山壕。しかし、その記憶をとどめる人たちの手で平和への願いが受け継がれています。』(戦跡と証言・津嘉山壕)

津嘉山壕(南風原町)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

沖縄本島北部の日本軍

恩納(おんな): 第4遊撃隊

『…6月2日、今日こそはと、頂上の完全占領を目ざす敵は、迫撃砲弾を頂上に集中、まるで耕すようにして瀬良垣登山道から猛攻撃を開始してきた。わずか百メートルくらいの下方から、カポン、カポン、とひっきりなしに発射音が鳴り、それが流星のように飛び出して、ヒュルヒュルと空気をひき裂くようにして、弾丸が後方へぬけてゆくときの気持ちはたとえようもなく、全身の筋肉が凝縮する思いだ。…傷兵のうめき声が砲煙のなかにあちこちから起こり、まさに阿鼻叫喚の巷と変ってきた。何人の生存も許さないような猛砲撃、このままでは戦死は寸秒のあいだだ。私は自分の部下分隊…をうながして陣地を放棄することに決し、…頂上から北西側山脚の尾根に布陣している護郷隊一中隊のなかに飛び込んだ。と、同時に、いままで私たちがいた陣地上に砲弾が轟然と炸裂し、間一髪で生命は救われた。と、そこでは護郷隊の…伍長が、弾薬手などとともに、勇敢にも旋回機銃を射ちながら、すでに右台上に迫った敵に、ダダダダダー、猛射を加えながら攻め登っていった。

だが、…伍長は激しい交戦のあと、たちまち頭に重傷を負い、血だらけになって後退してきた。』(221-222頁)

『…米軍は無尽の火力に物をいわせて頂上の一角にとりついたらしい。裂け散る閃光のなかに、迫撃砲弾が谷間を狂気のように飛び、米兵たちの怒声が手にとるように聞こえる。最早や恩納岳の命運もつきたようだ。戦いに戦って力つきたいま、もう悲憤の涙も出ない。

…あわただしく雑囊に米を押しこんでいる補給中隊の残兵は「これから石川岳にゆく」という。わが分隊も同行できるよう、私は青木准尉にお願いした。迫撃砲と機銃の集中射撃を浴びて、西側頂上の一角を米軍に占領された恩納岳は、全戦線が崩壊の危険にさらされて、すでに陣地の放棄がはじまっていた。…「ゆくぞ!」住民の着物をまとって変装した青木准尉が先頭に立って下りはじめた。次々にみんながつづいた。

地獄の戦場から逃げるのだ」という群衆心理に私は完全に呑まれてしまった。見栄も誇りも失った、むき出しの敗残兵の姿がそこにあった。敗残兵は木につかまりながら山をすべりおりていった。』(223-224頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 221-222、223-224頁より》

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侵攻の様子。逃げ足の早い日本兵を追い、弾薬を持って一列縦隊で茂みに入る歩兵。(撮影場所、撮影日は不明)

Scenes during the invasion of Okinawa.
Infantryman, toting ammunition single file into the brush after the elusive Japs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦場をさまよう学徒たち

沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊(略称・沖縄一中鉄血勤皇隊): (隊長: 篠原保司陸軍中尉)

那覇首里一帯のの戦況が悪化しつつあった頃の5月14日、学徒らは、それまでいた首里の壕を離れ、各々、配属先が決まった部隊へと向かった。その際、篠原隊長は、身体の弱い学徒19名を除隊させ、家族の元へ帰るよう命じた。

除隊を命じられた一中鉄血勤皇隊学徒の体験談:

『…家族を探しに南部あたりに行く途中、避難先から食糧を取りに帰る部落の人たちに会って、私の祖母…が大里村の西原の壕にいること…がわかり、…私はその足で祖母がいる壕を探しあて、家族が玉城村の親慶原の壕(現在、琉球ゴルフ東側)にいることを聞き、夜の明けるのも待たずに親慶原へ発った。明け方、朝霧がたちこめるなか親慶原の部落入口で奇しくも本家…の叔母さんに会って、父と姉のいるタチアブー壕に連れて行かれて、幸いにも家族に合流することができた

親慶原でのつかの間の家族水入らずの壕生活も長続きしなかった。6月2日米軍に壕を襲撃されたので、夜陰に乗じてそこを抜け出して、知念半島に避難したが、米軍が後を追うようにして侵攻して来たので、そこにも居れず南部方面に避難。途中玉城城跡付近で米軍の機銃によって左手甲を貫通され負傷した。怪我しながら玉城村ヤンバル山一帯を彷徨。南部一帯も猛烈な砲爆撃下に曝されているのを見て、行き先を失い、どうせ死ぬなら自分の家でと決意して、すでに米軍に占領されている所を突破して那覇に戻ることにした。途中、大里村の真境名で食糧を調達し、山の中で炊いて、久しぶりに米のご飯にありつけた。』(224頁)

《「戦世の南風原--語る のこす つなぐ--」(南風原町編集委員会/沖縄県南風原町) 224頁より》

 

 

廃墟と化した古都首里

首里城は町の南寄りの、高くなった円形の台地の上にあった。珊瑚礁岩で積んだ石垣は、下のほうで厚さ6メートルもあり、高さ12メートル、約1.1平方キロの敷地を囲っていた首里城が現在のかたちに建造されたのは1544年のことで、その建築様式は支那を基調としている。ここで歴代の王が沖縄を統治してきたのである。』(440-441頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 440-441頁より》

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玉陵で、仕掛けられた罠に用心しながら埋葬室の鋼鉄の扉に近寄る海兵隊

SHURI CASTLE: Marine approaches steel doors of a burial vault cautious of booby traps in Castle Shuri.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

しかし、この巨大な砦も、米軍艦砲の35センチ砲弾でたたかれ、満足な形をとどめているのは、わずか2、3ヵ所。城の内部は砕けた石でおおわれ、砲弾の穴だらけになった広場の外郭だけが、やっと識別できるぐらいだった。かつては、このあたり一帯を、幽玄な場所にしたであろうすばらしい巨木も、いまやまっ黒い骸骨となって、空をついていた。』(441頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 441頁より》 

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日本の玉陵石彫獅子を見つけて詳しく調べる海兵隊第1連隊第2大隊の兵士(1945年6月2日撮影)

Marines of the 2nd Bn., 1st Reg. stops and inspects a Jap idol in the court-yard of Shuri Castle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

首里城正殿の立っていた場所で、廃墟の中から米軍は2つの青銅のつり鐘を発見した。1つは高さ1メートル50センチ、もう1つは1メートルほどのもので、砲弾で削られた跡があり、破片の痕跡が残っていた。(注)1550年に鋳造されたもので、つぎのような漢文の銘がくざまれていた。(441頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 441頁より》

投稿者注: 沖縄県立博物館・美術館によると鋳造されたのは、1458年とのことである → 沖縄県立博物館・美術館

琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車(ほしゃ)となし、日域を以て唇歯(しんし)となして、此の二つの中間にありて湧出せる蓬莱(ほうらい)島なり、舟楫(しゅうしゅう)を以て万国の津梁(しんりょう)となし、異産至宝は十方刹(さつ)に充満し、地靈人物は遠く和夏の仁風を扇ぐ。故に吾が王、大世(おおよ)の主、庚寅(かのえのとら)に慶生す。尚泰久(しょうたいきゅう)なり。茲(ここ)に、宝位を高天に承(う)け、蒼生(そうせい)を厚地に育む。三宝を興隆し、四恩に報酬せんがために、新たに巨鐘を鋳(い)て、以て本州中山国王殿の前に就(つ)け、これを掛着(かいちゃく)す。憲章を三代の後より定め、文武を百王の前よりあつめ、下は三界の群生(ぐんせい)を済(すく)ひ、上は万歳の宝位を祝ふ。辱(かたじ)けなくも、相国の住持、溪隠安潜叟(けいいんあんせいそう)に命じて、銘を求む。銘に曰く。須弥(しゅみ)の南畔、世界洪宏(こうこう)たり。吾が王出現して、苦しめる衆生(しゅうせい)を済ふ。流れを截(た)つ玉象、月に吼(ほ)ゆる華鯨(かげい)、四海に泛溢(はんいつ)し、梵音声(ぼんおんじょう)を震はし、長夜の夢を覚まし、感天の誠を輸(いた)す。堯風(きょうふう)は永く扇ぎ、舜日(しゅんじつ)は益ます明らかなり。』

知事応接室の屏風について/沖縄県

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p401.jpg

SHURI CASTLE BELL, with an American officer standing by. Bell is a companion to one brought to U.S. Naval Academy by Commodore Perry.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 15]

http://www.tsunagaru-map.com/application/upload/points/image_file_pic1_20161220b0a41d4ebee49705d2a7a257bd86056d9ae2523a.jpg

旧首里城正殿鐘(万国津梁の鐘) [琉球王国第1尚氏時代の隆盛を象徴する鐘] - 沖縄県立博物館・美術館 | 博物館 常設展示ガイド

 

 

そのとき、住民は・・・

宜野座(ぎのざ)初等学校 ①: 設立者の体験談

『…幼児や家族に与える食糧も尽きて、そのままでは餓死するほかないので、…5月15日を期して避難している有銘の東海岸伝いに宜野座(最初に避難していた所)へと向う。途中三原部落で一泊し、5月16日に瀬嵩を経て歩き続け、二度、三度途中で米軍の尋問を受け、遂に辺野古の崎で捕虜となる。その後久志部落の村はずれに集結させられた4、50人の避難民と共に宜野座の収容所に運ばれる。

収容所ではCICの取り調べがあり、これまで女学校の教師であったことが問題となり「篤志看護婦養成に協力しなかったか」など、日本軍への協力についていろいろと詰問された。ところが幸いにCICで仕事を手伝っている顔見知りの人がいて、自分達の友達であるなどと取りなしてくれたので無事釈放されたが、一時はどうなることかと思った。

6月2日CIC本部から…呼び出され、学校設立について意見を聞かれた。当時未だ沖縄作戦中であり、山から下ろされた避難民が自失の態で生命の恐怖に晒されている頃なので、学童を収容することの至難であることを知り、なお、従来の教育と米国の教育とに対する心配などもあって、一応は辞退したけれども、この心配は米軍将校と暫く会談をしている間に消えてしまった。

最初から米国式の教育を無理に押しつけるのでなく、当分の間従来の沖縄での教授方法で構わない。それよりも子供達を一カ所に集めて貰い度い。子供たちは父兄、母姉が作業に出るのに足手まといになり、天幕内に置くことは何かと悪さも高ずるから・・との事であった。私は幾度か自問自答を試みた。

衣、食、住に安定のない父兄を持つ子供たち、長い間の山生活、壕生活で老い込んだような不潔になった子供たち、砲声弾雨の中からやっと生還はしたものの、中には父母、兄弟の屍をまたいで来た悪夢にさいなまれた子供たち、あの顔色、恐怖に戦く子供心をどうすればよいのだ・・と。教育方法の何のと従来の教員の殻から抜け切れない自分に、「今は戦争中であり目の前の子供たちを救わねばならぬ」といい聞かせ、何かしら熱いものが胸につき上げて来る。暫くして「やって見ましょう」と米軍将校に答えた。(119頁)

《「忘られぬ体験  市民の戦時・戦後記録 第二集」(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会/那覇市史編集室内) 119頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/117798.jpg

赤ん坊を背負う沖縄の子供 / Okinawan child carries baby.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 戦火をくぐり抜けた平和の鐘

 

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