米軍の動向
奇襲上陸・特攻機対応と被害
明け方から午前10時ごろまでに、米海軍は「カミカゼ」の攻撃をうけっぱなしだった。特攻4機が、駆逐艦モリソン号に突っ込み、艦は8分間で轟沈、154名の損害を出した。〝バカ・ボンブ〟がシーア号に命中し、艦は火災を発生して、25名の戦死者を出し、4室に浸水したが、さいわいにも沈没はまぬがれた。また渡具知方面の輸送船団の上を飛んでいた1機は、一斉射撃の砲火をあびたが、そのまま、真下にいたバーミンガム号の第2砲塔めがけて突っ込んだ。飛行機のエンジンは、三甲板をつきやぶり、250キロ爆弾は、艦内病室で爆発した。戦死傷は90名をかぞえた。
攻撃を受けた「バーミンガム号」
Damage caused by a Kamikaze which struck the ship's deck just aft of her Number Two gun turret, during operations off Okinawa on 4 May 1945.
日が暮れて、日本軍の特攻はますますひどくなった。1機が小型空母サンガモン号に突っ込み、甲板の上にあった21機を破壊した。甲板は火につつまれ、レーダーやブリッジ・コントロールが使えなくなった。5月3日の夜から4日の夜中にかけて、日本軍の飛行機は米軍艦17隻を撃沈し、あるいは破損させ、682名の死傷者が出た。だが一方、米軍も、飛行機や対空砲火で121機を撃墜した。
砲撃戦
5月4日、日本軍の全火砲が地表に現した 。沖縄戦中、はじめてのことだった。あらゆる砲という砲が地上にひっぱり出され、そこから総反撃にあたって、1万3千発の砲弾を撃ち込んできた。大砲の周囲は、主として75ミリ高射砲で固めて米軍に小型機にそなえ、発砲にあたっては、砲火のきらめきをかくすため、煙幕弾を使用した。だが、この作戦は、かえって失敗を招いた。それは、米軍砲兵隊が攻撃したところ、日本軍が高射砲隊で応戦してきたので、その間隙を利用して、米軍機は、多くの日本軍砲兵陣地に対して正確な爆撃を加えることができたからである。
この日、米軍の砲兵隊は、日本軍の砲19門を破壊し、さらにつぎの2日間で40門も破壊した。このため日本軍は、その後ふたたび大砲を壕内にひき入れざるをえなくなった。
翁長(おなが)・小那覇(おなは)
米第7師団は、太平洋戦争でこれまで長いあいだ戦ってきたが、5月3日の夜ほど激しい砲撃をうけたことはなかった。日本軍のこの猛烈な砲火は、4日の夜中までつづいた。彼らは20ミリ砲にいたるまで、ありとあらゆる砲を使用して、5千回も撃ちつづけてきた。(306頁)
… 日本軍は、夜明けまでには、米第24軍団戦線の左翼に対して総攻撃を加えてくるだろうということが、しだいに明らかになってきた。… 日本軍の第89連隊が命令どおり「遮蔽物を最高度に利用して敵に接近」しつつあったのだ。彼らはコニカル高地(西原村運玉森)の東側スロープを、気づかれないように前進して、低くなったところに出て、翁長東方の丘の周辺に集結した。(307-308頁)
…第184連隊の第3大隊は、200名からなる日本軍の攻撃をうけたが、これを撃退した。すると日本軍は、つぎには小那覇の、いまは廃墟と化した村落に陣取って迫撃砲による砲撃を開始した。…米軍もまた、第32連隊の第3大隊が、この迫撃砲陣地に対して猛烈な砲火で報いた。この迫撃砲戦で日本軍は敗れた。しばらく激しい砲撃があって、それがやんだとみるや、日本軍の一将校が軍刀を抜いて、広場に兵を集めた。米軍の迫撃砲はこれを見て、兵が集まってくるのを見計らって、猛烈な砲火をあびせた。
しかし、この将校は、これにひるむことなく、さらに兵に集合命令をかけた。だが、それは、結局、部下をむざむざ米軍の砲火のもとにさらすことにしかならなかった。ついに、彼自身も砲弾に当たって戦死した。
…午前8時までに、第7師団は、その前線から、日本軍を手榴弾の着弾距離外まで撃退することができた。だが、日本軍はそれで攻撃を諦めたわけではなかった。おそらく、〝最後の一兵〟まで戦うよう命令をけていたからであろう。しかし、彼らは、米軍の餌食となるばかりであった。米軍は、日本軍の退路を重砲火で完全に遮断した。日本軍は、いまやにっちもさっちもいかなくなり、攻撃態勢に移ることもできない。かといって、退却もかなわず、米軍の砲火の前になすすべもなかった。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 306、306-307、307-308、309-310頁より》
Preparing the way for an infantry advance, Marine M-7 tank destroyers, mounting 105 mm guns, move against the Japs entrenched in the hills before Naha.
歩兵部隊の進撃路を開きつつ、那覇の手前の丘にある塹壕に身を隠している日本軍を攻撃する105ミリ砲を装備した海兵隊のM-7型駆逐戦車。(1945年5月4日撮影)
This pack contains shots of ”A” Co, 2ndBn, 5thMar, as they go over the top of a ridge where they had been held up for 48 hrs. by a strong Jap force. The push was a success and Japs were flushed with bazookas and flame throwers.
第5海兵連隊第2大隊A中隊の写真。この部隊は手強い日本軍の攻撃により48時間も足留めを食らった場所である、丘の頂上を越えていく。この進軍は成功し、日本軍はバズーカ砲撃と火炎放射砲撃を浴びた。(1945年5月4日撮影)
Marines assault a ridge supported by bazookas. Strong enemy forces. This was two miles north of Naha.
バズーカ砲の掩護射撃の下、丘陵を猛攻する海兵隊員。手強い敵の軍勢。那覇の北方2マイル(約3.2キロ)の地点(1945年5月4日撮影)
第32軍の動向
「菊水作戦・5号」発動
5月4日、晴。総攻撃に呼応する「菊水5号」作戦が、4日真夜中から開始され、陸海軍機59機が北・中と飛行場物資集積所を爆撃、海軍機37機が沖縄泊地の米艦船を攻撃、8時半から特攻機64機と「桜花」7機が突入した。なんといっても、機数が少なくなりすぎていた。
米国海軍 Jap ”Tony” making a suicide dive on the USS SANGAMON (CVE-26). Kerama Retto in Okinawa Gunto. Plane missed by about 25 feet or less.
護衛空母サンガモン(CVE-26)に急降下の特攻を行う日本軍の三式戦闘機 「トニー(飛燕)」。慶良間列島にて。同戦闘機は、約25フィート以内まで近接したが特攻に失敗した。1945年 5月 4日
総攻撃・初日「少なくとも米鬼一名を必殺すべし」
5月3日に第32軍司令部壕で「戦勝前祝会」の酒宴が開かれたその同じ頃、決死の総攻撃を命じられた部隊は続々と北上を開始した。
日本軍の逆上陸計画
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]
「部隊は総力を結集し、各員、少なくとも米鬼一名を必殺すべし」
5月4日、アメリカ軍の様子を記録した映像には、煙幕をたき大勢が走りぬけるアメリカ軍の姿があります。この日の早朝、第32軍は普天間を目標に反撃を開始。前方だけではなく海上から後方にまわり、アメリカ軍を挟み撃ちする作戦を展開。アメリカ軍の上陸以来、最大規模の攻撃となりました。しかしその反撃はたった1日で失敗、牛島満軍司令官は中止の判断を下します。多くの航空機を失い、海岸からの逆上陸も失敗。第32軍はこのときすでに全兵力の75%を失っていました。
日本軍は前日の5月3日に1000名以上もの兵を沖縄島西海岸に逆上陸させようとしたが、作戦は失敗し、ほとんどが海岸で殲滅された。
日本軍上陸艇(諜報用か)(1945年5月4日撮影)
Jap landing craft (possibly for intelligence)
Marines coming back from Patrol step over sleeping Marines. These Marines have been up all night. repulsing Jap Landing on Beach.
哨戒から戻り、寝ている海兵隊員をまたいで行く兵士たち。彼らは徹夜で、上陸する日本軍を撃退した。(1945年5月4日撮影)
東部戦線
5月4日午前4時50分、日本軍の大砲約200門はいっせいに猛烈な砲撃を始めた。東部戦線の米第77師団(浦添高地東側)と第7師団(東海岸道)はこの日、約1万2千発の砲弾をあびた。夜明けとともに日本軍(第24師団)は大規模に煙幕を使い、陣地をでて突撃を開始した。
JAPANESE LAND OFFENSIVE of 4-5 May was opened by rocket barrages. The erratic paths of enemy fire shown above are in sharp contrast with those of more accurate American weapons.
5月4~5日の日本陸上攻勢は、ロケット弾で幕を開けた。上に示した日本軍の砲撃の不規則な進路は、より正確なアメリカの兵器の進路とは対照的だ。
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]
午前5時、2つの火箭があがると、河が氾濫するような勢いで射撃がはじまり、東部戦線の西原高地では、身体ごとぶつかり合う白兵戦が、山々の尾根で戦われた。戦場は、夜が明けるとともに、大規模に使った煙幕がおおい、いんいんとなりはためく砲声とともに、悽絶を極めた。
八原高級参謀の回想:
午前4時50分、友軍砲兵数百門が一斉に砲門を開いた。一瞬轟々たるわが砲声は敵を圧し、沖縄の全戦野に轟き渡った。識名付近に陣する高射砲隊の砲弾が、ひときわかん高い音を立てながら、私たちの頭上を越えて、敵陣に落下するのも印象的である。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 277頁より》
棚原高地の奪取: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)
夜明け、敵機は相変わらず我が物顔で飛び回っていた。…こんな状況では勝利の要因は何もない。総攻撃を中止すべきだ。…伊東は、聨隊長に攻撃中止を申し入れた。しかし聨隊本部からは、同情的な言い方ではあったものの攻撃を続行するよう命令してきた。…こうなったからには、すべてを今夜に賭けよう。今夜こそ突進の遅れを取り戻してみせる。たとえ全滅しても、必ず棚原高地を奪取するのだー。
第24師団の〝先鋒〟部隊は、米軍前線に体当たりして砕け、大損害をこうむったにもかかわらず、師団長の雨宮将軍は、ふたたび5月4日の夜から攻撃を行うよう命令を下した。まず、第32連隊の第1大隊と、付属独立歩兵第26大隊は、幸地北西部の米第24軍団前線に夜襲を決行せよとの命令を受けた。
5月4日22時、伊東大隊は第2中隊を第1線にして前進を開始した。…120高地西端斜面を匍匐前進することにした。…相変わらず頭上から敵の砲弾が注ぐ。…一弾が伊東のすぐ後ろで猛烈な音を立てて炸裂した。伝令兵など一度に20名ほどやられてしまった。しかしここで止まるわけにはいかない。ひたすら前進を続ける。右手から曳光弾がしきりに飛んでくる。排撃隊が闇の中に消えて、やがて敵火が沈黙する。これを繰り返し、敵を排除しつつ巧みに敵陣内に侵入していく。… 伊東大隊は敵の二重の防衛線を突破、ついに120高地の後方へ出た。右手の平坦地に、敵砲弾の薬莢が小山をなして積まれていた。敵砲兵は見当たらない。おそらく日本軍の進出を察知して、東へと退却したのだろう。
大隊本部の後ろにいた、江淵隆中尉(56期)が率いる工兵隊が左手に出てゆく。前田高地東端の114高地に向かったのだ。まもなく銃声がしきりと聞こえてきた。しかし暗くて詳しい状況はわからない。いまや伊東大隊は、前田ー幸地の線まで進出したのだ。空が明るくなるまであと3時間。…「前進!前進!」…やがて大きな岩壁にぶつかった。…目標の棚原154・9高地は、まぎれもなくここだった。
米国海兵隊 ”A” Co. 2ndBn, 5thMar, as they fight on top of a ridge. The Japs are in force on the next ridge and are holding ”A” Co from moving forward. The shots are of a regular infantry combat action before a push.
丘陵の頂上で戦う[米海兵隊]第5連隊第2大隊A中隊。隣の丘陵に陣取る日本軍の大軍は、A中隊の進撃に足止めを食らわせている。これは、進撃前の正規歩兵隊による攻撃 1945年 5月 4日
前田・浦添丘陵: 歩兵第32連隊
5月4日の未明、第32連隊は、9輌の軽戦車をもつ第3大隊を先攻に、米第77師団306連隊に対して攻撃開始を指示し、まず187高地の南東から攻撃をはじめ、首里から宜野湾に向かう第5号線道路の浦添丘陵の東端で、米第77師団に攻撃をしかけ、前田の近くで第306連隊の第1大隊の前線に突入した。このとき米軍の防禦陣は手薄だったが、米軍の自動砲火は、よくこれを迎撃して日本軍を撃退した。日本軍は、この攻撃で、わずかに一つの丘の上を米軍の手から奪還した。だが、戦果はそれだけであった。
擱座した日本軍の軽戦車
A knocked-out Japanese light tank is examined by a 96th Division soldier. All enemy tanks used in the predawn offensive 4 May were destroyed.
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]
日本軍の戦車に対し、米軍は砲火をもって戦った。数輌の戦車が転覆し、残りの戦車も米軍歩兵の攻撃にあって退却した。日本軍歩兵が、夜明け前、その最初の目標である187高地東部の占領に失敗すると、怒った戦車第27連隊長村上大佐は、大胆にも戦車連隊の兵をもって、自ら歩兵1個中隊を編成し、攻撃してきた。米軍砲兵隊は、このうちの1小隊を撃退して、かろうじて村上隊の攻撃を阻止できたと思ったが、陽があがってから、日本軍の残りの部隊も、米軍戦線の向こう側で、全滅状態にあるのを発見した。村上大佐は、後退命令をだしたが間に合わず、ついに全滅の憂き目にあったのであった。(311頁)
…攻撃を支援した全軽戦車は破壊されてしまった。米第306歩兵連隊は、午前7時30分までには日本軍を駆逐した。午前8時0分、第32連隊の第3大隊長は、ついに、「前田南東高台線では、中央部に進出、確保したが、それ以上の前進は、熾烈な敵砲火のため、きわめて困難であります。戦車隊の協力も得られません」と連隊長に報告した。(312頁)
八原高級参謀の回想:
前田、仲間の高地が、相も変わらず薄気味悪く、戦場に突出している。それから手前、経塚、沢岻、石嶺のあたり、重畳する丘陵上には、焼け残った樹幹のみが枯れ薄のようにパラパラと立ち残り、部落という部落は、皆姿を消し、硝煙は谷間を這うて緩やかに動き、大小の砲弾は、所嫌わず全戦野に落下して黒煙を吹き上げている。春煙模糊たりしかつての平和郷も、今や幾万の将兵の血を吸うて、悪鬼羅刹の様相に一変している。…硝煙の間に間に、前田高地上に人影が見える。「米兵だろう」「いや友軍だ」と監視兵らが思い思いの意見を述べる。同高地は彼我争奪中だから、どちらともいえぬ。しかしその悠々たる行動よりすると、同高地を馬乗り攻撃中の敵兵と考えるのが至当のようだ。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 277頁より》
第32軍司令部の落胆
午前中、軍司令部には、とくに東部戦線からの勝報がしきりに飛んで、歓声があふれた。
正午やや前から、主力攻撃部隊である第24師団の状況がぼつぼつ判明した。「師団の右翼第89連隊は、予定の如く敵線に突入、小波津北方高地斜面を進撃中」の第一報に皆気をよくする。続いて、二つ三つ景気のよい、しかし摑みどころのない報告が来る。
お昼ごろには、軍を始め各司令部は、何か大きなものを期待する空気が充満して、人々は攻勢の前途に自信を強めたかに見える。… 中央歩兵第22連隊からは未だ確たる報告なく、攻撃前進しているのかさえさっぱりわからない。左翼歩兵第32連隊からは、前田高地を完全に奪回したとの報告に接しない。首里山上の監視哨は、正午過ぎから戦場一帯の煙幕が薄れつつありと報ずる。発煙筒を使用し尽くしたのであろう。
朝焼けの後は雨だ。戦勢は急速に悲観的になる。本攻勢の花形、歩兵第89連隊の戦況は漸次不吉を訴えてくる。曰く、「第一線は、上原高地脚にへばりついたままである」。曰く、「敵艦砲や迫撃砲の集中で死傷者甚大」等々。(279頁)
… 左逆上陸は昨夜の攻撃相当成功したようではあるが、その後報告に接せず、右逆上陸は与那原出発後、間もなく敵に発見され、壊滅的打撃を受けた模様である。
5月4日の夕陽は、全軍悄然たるうちに第4坑道口の南方、集中する敵砲爆に黒煙濛々たる識名高地の彼方に没した。第24師団の攻撃は完全に失敗した、と判断して間違いはない。縦長兵力のない師団が、攻撃の初動において大損害を受け、しかもさしたる戦果を挙げていない現状は、攻撃失敗の明瞭な証左である。
… 得々然と気負い立って攻勢を主張した軍首脳部の人々は、うなだれて一言も発せず、お通夜のようなありさまである。いよいよ明日は、全軍玉砕を覚悟し、幸地付近に総突撃を敢行しなければならぬ。(280頁)
軍の攻撃態勢 ー攻撃活動はすでに実質的に死滅し、格好ばかりの攻撃態勢となっているー は5月4日夜からさらに5日に続いた。(282頁)
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 279、280、282頁より》
外間守善の沖縄戦
後に「おもろさうし」の研究で琉球文学研究の第一人者となる外間守善は、沖縄師範学校から第24師団歩兵第32連隊第2大隊(志村隊長)に配属され前田高地に送られた。外間守善は、5月4日に負傷した。
この戦いで、800人から1000人いたと思われる大隊のうち、9月3日の投降までに生き残ったのはわずか29人。そのうち沖縄初年兵は、私を含め9人しかいませんでした。しかも三月に入隊した沖縄の初年兵は、名簿さえ残っていないのです。…
大田昌秀氏 (元沖縄県知事) は、私より半年年上で、学徒兵 (鉄血勤皇隊) に取られました。でも私は正式の兵隊でした。それは、1944年の12月で法律が変わって、45年の3月までのわずか4ヶ月間の間ですが、徴兵年齢が引き下げられ、19歳の青年が正式の兵士として召集されることになったからです。
前田高地では、相手のアメリカ兵士は海兵隊でした。彼らも若くて、私たちが銃剣で突っ込んでいっても逃げませんでした。前田高地は小さな丘で、その眼と鼻の先に米軍がいて、若者同士が取っ組み合いのようにして戦ったのです。前田高地にある為朝岩 (ニードルロック) の周りをグルグル回って追いかけっこをしているようでした。銃は撃っても当たらないので手榴弾を投げあったり、相手の投げた手榴弾を投げ返したりしました。最後は石まで投げました。アメリカ兵にも家族や友人がいるだろうに、なぜここで死ななければならないのか、可哀想にも思いましたが、とにかく、殺さなければ殺される。そして、こんな狭いところで1,000人もの兵隊が死んでいったのです。本当に思い返すのも嫌なんです。
米国海兵隊: As a Marine photographer records the action, a Leatherneck heaves a grenade at Jap positions on the side of a road.
道路わきの日本軍陣地へ手榴弾を投げる海兵隊員と、その様子を撮影する従軍カメラマン 1945年5月6日
沖縄戦が始まるときに、日本はすでに沖縄を見捨てていたのです。サイパン、硫黄島が落ちた後、次は沖縄か台湾だといわれました。そのとき、閣議決定で、沖縄の人間を台湾に二万人、九州に八万人疎開させることが決まったのですが、次が台湾か沖縄と言われているときに、なぜ台湾に疎開などさせるのでしょう。つまり、初めから日本軍は沖縄に米軍が来るこどを予期していたわけです。しかも、沖縄の若者が集まっていた精鋭の武(たけ)部隊は沖縄戦の直前に台湾に転出させられて、要求しても補充もされなかった。沖縄は本土の「捨て石」にされたのです。沖縄が一日戦争を延ばせば、本土決戦が一日延びる。おそらく日本軍には初めから沖縄を救おうという意識はなかったと思います。
参謀神直道少佐によれば、当時、参謀たちは第32軍の戦闘能力について 「組織的な統一ある作戦は5月15日をもって限度とする」と判定していた。
そのとき、住民は・・・
収容所生活
キャンディーを与え、子供たちの人気を得る米海兵隊所属マックラナハン一等兵。(1945年5月4日撮影)
A Marine makes a hit with native Okinawan youngsters offering them helpings of candy. The Marine is PFC John S. McClanahan.
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