1945年 3月26日 『米軍、慶良間列島に上陸』

住民を巻き込んだ地上戦の始まり

米軍の慶良間(けらま)攻略

慶良間列島攻略の理由

沖縄戦は昭和20年3月26日、A.D. ブルース少将の率いる米第77歩兵師団の慶良間列島上陸で幕が切って落とされた。慶良間攻略のねらいは、つぎに来るべき沖縄本島上陸作戦にそなえて水上機基地と艦隊の投錨地を確保するにあった。』(12頁)

慶良間列島の軍事的価値は、いずれも水深が40メートルから70メートルほどの慶良間海峡と阿嘉海峡があり、適当な避泊所として利用しうる天然の錨地が44カ所もあること。米軍が、慶良間列島への上陸が、本島上陸後になるものと想定していた沖縄守備軍の裏をかいて、まず最初に慶良間を攻略したのもその理由からであった。』(13頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 12、13頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2]

沖合に集結する米攻撃部隊

3月26日午前4時30分、南西諸島攻撃部隊は久場島慶良間諸島の西南端に位置)の西方約6マイル(約9.6キロ)の洋上に集結した。そのあと水陸両用トラックター小艦隊だけが上陸予定地点に更に移動し、そこで2群に分かれた。第1群戦車揚陸艦〈LST〉と中型上陸用舟艇〈LSM〉合わせて14隻などで編成)が久場島の南南西約2マイル(約3.2キロ)に、第2群戦車揚陸艦4隻)は屋嘉比島慶良間諸島の西北端)の北方約2マイル沖にそれぞれ移動し、上陸作戦の準備を整えた。間もなく、重巡洋艦2隻(サンフランシスコとミネアポリス)、駆逐艦4隻、小型砲艦24隻などで編成した上陸支援艦隊が、各上陸地点の海岸や日本軍施設に砲撃を開始する。』(71頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 71頁より》

 

沖縄戦で最初の航空機による特攻攻撃

慶良間列島の沖合に米軍の攻撃部隊が集結している頃、航空機での特攻攻撃を遂行するため、石垣島から出撃する日本兵らがいた。

『陸軍八飛師麾下の誠第17飛行隊長・伊舎堂用久大尉陸軍士官学校55期)は、たまたま出身地の石垣島飛行場に展開していたが、「南西諸島に敵が来れば、故郷を守るために真先に突っ込む」と宣言、隊員の同意を得ていた。26日午前4時、「慶良間群島周辺の敵機動部隊ヲ攻撃シ之を覆滅スヘシ」との命令を受けると、4機を率い、掩護の独立飛行第23中隊の6機と共に出撃、同群島西方洋上の敵空母群に全機で突入、2隻を撃沈破した。沖縄航空特攻の第一陣だった。』(132頁)
《「特攻に殉す 地方気象台の沖縄戦」(田村洋三/中央公論新社) 132頁より》

『米軍が慶良間に侵攻した1945年3月26日早朝(6時24分)沖縄県八重山出身の伊舎堂用久大尉(戦死後、中佐に2階級特進)が率いる特別攻撃隊(「誠第17飛行隊」を基幹に編成)が同海域に集結していた米艦船を襲った。これは米軍が阿嘉島に上陸するわずか約1時間半前のことで、沖縄戦では最初の特攻攻撃とされる。』(166頁)

『…約10機の特攻機が飛来し、いきなり輸送艦隊に襲いかかった。攻撃は30分ほど続いたが激しいものだった。…攻撃を受けた駆逐艦は4人の死者と57人の負傷者を出した。(中略)対空砲火が止んだ後、東方海上を遠望すると米軍艦艇による慶良間諸島への艦砲射撃がすでに始まっていた。』(167頁)
《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 166、167頁より》

この特攻攻撃による米軍の損害は、上で引用したもののように、文献によって内容が異なる。それは、誰の発表したどの資料をもとに執筆したかで異なる記述になったことは推測できる。しかし、日本軍によって報じられた「戦果」が正しいものかどうかの指摘は、以下の通り。

 『この八飛行師団の誠第17飛行隊長は、沖縄県八重山郡石垣島出身の伊舎堂用久大尉であった。誠第17飛行隊は、石垣島に配置され、26日午前4時出発、慶良間列島西方洋上にあった米空母群にたいし、父母兄弟の見ている前で、壮大な体当たり攻撃を行い、戦死した。特攻6機、支援機8機のうち、特攻4機、支援機6機が未帰還。戦果、空母1撃沈、空母1撃破、以上確実。空母2、戦艦1撃沈または撃破、以下不確実と報ぜられた。戦後発表された海軍省編「米海軍作戦年誌」によるとこの日、米空母の損傷、沈没したものは一隻もない。おそらく支援機の視認の誤りかとも思われるが、すくなくともその時点では、日本軍は、米空母1隻が確実に減ったものと判定したことになる。

…戦争にかぎらず、一つの行動には、かならず結果を伴うが、その成果の判定を下すのは、ことに戦闘の場合、このくらいむずかしいものはない。伊舎堂大尉が、父母のいます石垣島の砂を蹴って発進し、祖国を守るため、その面前で敵艦に突入した。大尉の、その父母兄弟の、隣人の人々の、糸を引いたように中天から弧を描き、大火柱とともに若い生命を国に捧げて死んでいった心、その死を見守る心を推しはかると、痛惜にたえないが、だからといって、かれらが挙げた戦果と報ぜられたものが、果たしてそのとおりであったか。見誤りはなかったか。支援機8機のうち6機が帰って来られなかったほどの激烈な抵抗にあって、敵戦艦機と死物狂いの銃撃戦を交えながら、その間に、人間の目は、果たして空母と駆逐艦とを、見誤らずにいられるものか。あるいは、無念の敵弾をエンジンに受け、舵が利かなくもなり、敵艦を狙ったはずが水面に撃突、海面に散ったガソリンがまっ黒な煙をあげて燃え、それを果たして空母撃沈と見間違えずにすむものか。

情の世界と、理の判定とは、まったく別に考えるべきである。理のなかに、情が入ることはあっても、それはケジメのあるべきものであり、管理され、制御されているべきものである。人の生命と引き換えになされたものだから、空母が撃沈されていなければならないと考えるのは、間違っている

ところが、この間違いが、大きな顔をしてまかり通る。その結果が、九州沖航空戦、台湾沖航空戦の誤判断になったし、また、現地から報告してきた戦果の数字を、参謀が目をつぶって天引き計算するといった、支離滅裂な話にもなる。』(136-138頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 136-137頁より》

 

 慶良間(けらま)列島への進撃開始

 『午前6時40分久場島戦車揚陸艦上で待機していた第1群の上陸部隊は、水陸両用車(LVT = Landing Vehicle Tracked)に乗り換え、海軍の先導艇(通常小型上陸用舟艇 = LCVP)を先頭に進路を一斉に北東に取り進撃を開始した。上陸部隊は途中阿嘉島沖で二手に分かれた。1個大隊(第305連隊第3大隊の約300人)は阿嘉島集落の正面海岸(米軍はゴールド・ビーチと称した)へ、ほかは慶留間島の正面海岸(イェロー・ビーチ、第306連隊第1大隊)と外地島(ブルー・ビーチ、同第2大隊)へとそれぞれ進撃した。』(71頁)

午前7時半ごろ、ついに島の沖合約2キロまで侵入してきた巡洋艦や砲艦などの砲門が一斉に開いた。沖の艦艇と連絡を取っているのか、上空にはトンボ(偵察・誘導機)も翼を左右に振りながら旋回している。砲撃は集落正面の海岸から約800メートルほど離れた湾内の水面から始まり、角度を上下左右に変えながら、海岸そして陸地へと迫ってきた。…間もなく、タキバル一帯にも艦砲射撃や艦載機による銃爆撃が始まった。周辺の木々は硝煙弾雨のなか、なぎ倒されていった。至近弾も容赦なく降ってきた。』(98頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 71、98頁より》

【英語版: 慶良間島上陸と激しい艦砲射撃】

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 米軍の上陸が始まる

慶良間列島への上陸作戦は、3月26日午前8時すぎ、まず第77歩兵師団第305連隊の阿嘉島上陸から始まった。同連隊の第2上陸大隊は、上陸すると同時にいわゆる「ニミッツ布告」(米国海軍軍政府布告第1号)に日付を入れて公布した。それによって同地域における日本国政府の行政権、および司法権は、すべて停止された。』(17頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 17頁より》

 

阿嘉島(あかじま)上陸

『この慶良間に最初に上陸した米軍は、第305戦闘旅団の第3上陸大隊で、3月26日の午前8時4分、阿嘉島海岸に上陸した。この島は格好も悪く、面積は長さが3.5キロ、幅が2.7キロぐらいであった。島には山並みが走っていて、高さ162メートルと190メートルの二つの頂上をつくっていた。阿嘉島を米軍は、〝幸福なすみっこの島〟と名づけたが、実際は群島内では中央部にあった。米軍の上陸に対して阿嘉島にあった200のボートにいた日本軍や朝鮮人労務者が、機関銃や迫撃砲で散発的に応戦してきたが、米軍に損害はなく、上陸部隊はすみやかに海岸を占領して、町まで進撃したので、日本軍はけわしい島の中央部に退却した。』(62-63頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 62-63頁より》 

上陸部隊は迫撃砲で攻撃し24人の日本兵を倒し、日本軍の陣地を撃滅した。I中隊は慎重に前進したが、機銃掃射を受ける。しかし、日本軍陣地を攻略するとともに小型船8隻と装備類や爆薬を壕内で押収した。1時30分トーチカを爆破する。L隊は偵察を終え夜間の陣地に戻る。その日住民3人、日本兵2人を捕虜にする。第3大隊の戦死及び負傷者は各1人。日本兵約25人を射殺する。』(75頁)
《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 75頁より》

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 『米軍は、阿嘉島上陸につづいて3月26日中に慶留間外地座間味屋嘉比の島々に進撃した。この作戦には、第305、第306連隊のほか、予備部隊の第307連隊も参加した。そして大した抵抗を受けることもなく、これらの島々を占領した。』(18頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 18頁より》

 

慶留間島(げるまじま)上陸

『…慶留間島は、直径1キロの丸い島で阿嘉島の南にあった。ここには、第306連帯の第1上陸大隊が島のほぼ真中の幅の狭い海岸に、8時25分に上陸したが、ここでも長距離から銃弾がとんでくるほかにはさしたる抵抗もなく、米軍は、約3時間で20名ほどの日本軍を掃討し、島を確保した。』(63頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 63頁より》

 

座間味島(ざまみじま)上陸

『3月26日の午前9時、第305連隊の第1上陸大隊は、座間味島に進撃した。日本軍は、最初はある程度の応戦を試みてきた。…部隊は装甲車とともに、南部海岸に深く入りこんでいる湾から上陸した。海岸には高さ5メートルの護岸があり、装甲車の前進を阻んだため、兵は徒歩で進撃をつづけた。米軍は散発的に日本軍の迫撃砲や機銃弾をうけながら、ついに海岸の真うしろにある座間味の村落まできた。日本軍の一個中隊と推定される部隊が、およそ300名の朝鮮人労務者とともに、この村落から北方の山の中に退却していった。』(64頁)

座間味島では、第305連隊の第1上陸大隊の前進隊が、午後になってから日本軍と対戦したが、その後は、夜襲の連続で、一挺の機関銃を数名が交替して撃つ、という激戦もくりかえし、時にはまたすさまじい白兵戦もともなったが、結局、日本軍は100名以上が戦死し、米軍もまた戦死7、負傷12名の犠牲をだした。』(65頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 64、65頁より》

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 座間味島に上陸した米軍

 LANDINGS IN THE KERAMAS, made by the 77th Division, met little opposition. Zamani Island (above) was taken by the 1st BLT, 305th Infantry, some soldiers of which are shown just before the started inland. Amtracks were unable to negotiate the seawall and were left at the beach. 

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座間味島に上陸した米軍のいう「日本軍と対戦」は、座間味島に配置されていた海上挺進第1戦隊による斬り込みだった。

『その夜、戦隊の第1中隊、第2中隊による激しい斬り込みが行われた。武器は、小銃、軍刀、拳銃だった。それしかなかった。米軍は、猛攻を受け、迫撃砲、機関銃など、射手を代えること数回に及んだ。格闘また格闘。すさまじい格闘戦が繰り返された。防衛隊も加わった。青年も、若い女性も突撃した。しかし、素手で機関銃に立ち向かうに等しいこの斬り込みは、味方におどろくほどの被害を出して、終わった。第1中隊、ほとんど全滅。第2中隊、大部分戦死。米軍、戦死7、負傷12。』(121頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 121頁より》

 

外地島(ふかじしま)上陸

『この日の上陸作戦で最も簡単に行われたのは外地島だった。この島は、長さが約1.5キロ、幅が0.8キロで慶留間の南2、300メートルの地点にあって、二つの群島につづく環礁で相接していた。第306連隊の第2上陸大隊の外地島上陸は、午前9時21分、抵抗らしい抵抗もなくこの島を確保した。』(63頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 63頁より》

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外地島星条旗が掲揚された (1945年3月26)
The Battle of Okinawa The Typhoon of Steel and Bombs / Masahide Ota / 9頁

 

屋嘉比島(やかびじま)上陸

『26日のこの進撃はじつにスムーズにいったので、ブルース将軍も、昼までにはもう一つの島が占領できるかもしれないと思い、今度は、第307連隊の予備軍として待機させてあった第2上陸大隊に、慶良間の最北西部にある長さ1.5キロほどの屋嘉比島の占領を命じた。午後1時41分、この大隊は、屋嘉比島に上陸し、軽い抵抗にあいながらも、すみやかに日本軍を掃討した。』(64頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 64頁より》

 

慶伊瀬島(けいせじま/別名: 神山島)偵察

慶伊瀬島は、渡具知海外の南西方およそ17.5キロ、那覇西方13キロの海上に浮かぶ4つの小さな珊瑚礁群だが、島の面積やその地形に不釣り合いなほど沖縄攻撃にさいしては重要な価値をもっていた。南部沖縄は慶伊瀬島からだと155ミリ砲の射程距離内にある。…第10軍は沖縄攻撃支援軍として、第24軍団野砲部隊に対し、慶伊瀬に155ミリ砲2大隊を配置するよう命令を出した。3月26日、第77師団配属艦隊の海兵上陸偵察大隊は、日本兵や民間人に遭遇することもなく慶伊瀬を偵察した。』(68頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 68頁より》

 

投錨の準備

『慶良間海峡は水深約35〜60メートルで、広さは大型艦船が一度に約75隻も碇泊可能な手頃な投錨地。米軍が慶良間諸島に上陸した3月26日午後には、同海峡の入口で早くも防潜網の設置作業に取り掛かり、その日の夕方までには艦船の航行ルートを標示するブイを設置した。(153-154頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 153-154頁より》

 

第32軍の動向

軍司令部

『26日午前9時ころ、軍司令部の目が、沖縄本島に撃ちこまれる艦砲射撃と爆撃に吸い寄せられていたとき、誰も気付かないうちに慶良間列島の座間味は白い煙に包まれていた。ただならぬ気配が、島々をおおった。水陸両用戦車を先頭に立てた米上陸部隊が、座間味、阿嘉、慶留間の3島に襲いかかった。こんな山ばかりの島に、わざわざ上陸してくるはずはないと考えていたのは、軍司令部だけではなかった。海上挺進戦隊の誰もが、島を守るための手筈には、注意を向けていなかった。』(110頁)

3月26日、台湾の八飛行師団に向かう武剋特攻9機が、中飛行場に滑りこんだ。軍航空参謀神直道少佐から命令が与えられ、27日早朝、眼前の米艦艇に突入することとされたとき、隊長広森達郎陸軍中尉は、隊員8名を集め、訓示した。』(138頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 110、138頁より》 

 

慶良間に配置された日本軍の任務、兵力、装備

 『日本軍は、座間味島に海上挺進第1戦隊、阿嘉島慶留間島に第2戦隊、渡嘉敷島に第3戦隊を配置のうえ、各戦隊に特攻艇100隻、計300隻を秘匿させていた。慶良間諸島を守るためではなく、米軍の本島上陸地を南部の西海岸と想定し、背後から特攻艇によって逆襲する。だが、本島に先立つ慶良間諸島への米軍上陸で、作戦に大きな誤算が生じた。

逆襲の拠点を突如として襲われ、海上挺進隊は特攻艇を秘匿壕に残したまま、うろたえた。上陸の米軍に、特攻艇を破壊された。特攻が主任務で、地上戦に必要な兵員や武器を充分に備えていない海上挺進隊は、座間味島の第1戦力隊が軍刀、拳銃、小銃による斬り込みをした。力及ばず、100人余りが敵前に倒れた。阿嘉島の第2戦隊も、58人が死体になった。』(85-86頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 85-86頁より》

 

海上挺進第1戦隊: 米軍上陸時の兵力・装備と対応 (座間味島)

『3月26日午前9時ころ、米77師団の一コ隊が、座間味に上陸してきた。第1戦隊長梅沢祐少佐、28歳拳銃、軍刀、手榴弾しか持たない特攻隊員約100名。陸上戦闘訓練など、ほとんどしたことのない特殊勤務部隊約300名と、機関銃9、小銃250、擲弾筒2。それに武器を持たぬ朝鮮人軍夫300名が、かれのもつ全戦力である。上陸を迎え撃つ常道の水際撃滅戦など、成り立たない。まず特攻艇の破壊と、陣地のある、島で一番高い所山(143メートル)への集結を下令した。あとは斬り込みしかない。夕方までに結集したのは、1、2中隊。第3中隊は、途中で米軍とぶつかり、格闘戦になって多数の死者を出し、前に進めず、舟艇壕に逆戻りしていた。(120頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 120頁より》

 

 海上挺進第2戦隊: 米軍上陸時の兵力・装備と対応 (阿嘉島慶留間島)

 『海上挺進第2戦隊の兵力、装備、編成は、座間味とほぼ同じ(阿嘉に2、3中隊、慶留間に1中隊を配置)。戦隊長野田義彦少佐26歳阿嘉島では、すでに男子青壮年は防衛隊にとられ、13歳からの男子(中学生)80名は義勇隊として、海上挺進隊各中隊に3、4名ずつ配属させられていた。…野田戦隊長は、空襲と艦砲射撃の被害を避けるため、部隊を島の中央にある最高地(168メートル、野田山といった)に集結、住民をその山あいの谷に集めた。』(122頁)

『野田戦隊長は、26日夜半に総攻撃を行う斬り込みを敢行するとともに、特攻艇は全力をあげて出撃することを命じた。…慶留間島にいる第1中隊に、出撃を伝えるため、水泳達者な特攻隊員篠崎純一伍長が選抜され、出発した。』(124頁)

『艦砲射撃で、第3中隊の特攻艇は全壊しているので、出撃可能は約70隻。出撃した特攻艇は、攻撃が終わったら、できれば沖縄本島に行き、戦況報告を行うこととされた。若い野田戦隊長は、午後8時、「阿嘉島守備部隊最後ノ一兵ニ至ルマデ勇戦奮闘、悠久ノ大義ニ生ク」と訣別電を打ち、出発する斬込み隊と水盃を交し、烈しい訓示をした。

「総力をあげて斬込みを敢行し、戦隊将兵は出撃する。無電は最後の連絡を打って破壊した。われわれの行くてはもはや玉砕あるのみである。われわれは日本の捨て石となってここに玉砕し、悠久の大義に生きる。卑怯な行動をする者は即時処罰するーー」…斬込みで、16名の戦死者が出た。』(124-125頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 122、124-125頁より》

 

海上挺進第3戦隊: 米軍上陸時の兵力・装備と対応 (渡嘉敷島)

赤松嘉次大尉』(36頁)

『このとき渡嘉敷島に配備されていた日本軍の装備を防衛庁の戦史から見ると、海上挺進第3隊は、104名に対して機関短銃5(弾薬6000発)、各人拳銃(1銃につき弾薬4発)、軍刀、手榴弾(数の記載なし)、勤務隊(161名)には重機関銃2(弾薬1200発)、軽機関銃6、擲弾筒7、小銃152、黄色薬550キロ、整備中隊(55名)には小銃45、特設水上勤務中隊(14名の将兵と朝鮮人軍夫210名)には「少数の小銃」となっている(防衛庁「沖縄方面陸軍作戦」244頁)。』(39頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 36、39頁より》

25歳の赤松戦隊長』(128頁)

26日は、渡嘉敷に関するかぎり、猛烈な砲爆撃だけに終わった。…赤松戦隊長は、とりあえず海岸にあった戦隊本部を山地(旭沢)に移動し、非戦闘員多数を含む戦力のない軍夫部隊を、北部山中の最高峯につくった急造の複郭陣地地帯に集めた。』(119頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 119、128頁より》

 

慶良間列島における集団自決

『米軍の慶良間諸島上陸をきっかけにその日、1945年3月26日に、座間味島および慶留間島において住民が集団で命を断つ、悲惨な事態が起きた。(86頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 86頁より》

 

座間味島

座間味島には、座間味、阿佐、阿真の三つの集落があったが、「集団自決」がおきたのは、島の中心であり港や役場があった座間味だけである。その犠牲者は177人とされている。その詳細がわかっている135人のうち、12歳以下の子どもが55人13歳以上では女性が57人を占めている。合わせると83%にのぼる。一部は手榴弾の爆発で亡くなっているが、多くは大人の男たちによって殺されている。犠牲が出た34世帯中20世帯で、家長によって直接手を下されたという(宮城晴美「同化政策の結末」54頁)。』(30頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 30頁より》

 

慶留間島

『山の中に逃げ込んだ島民たちは1中隊の壕の方に行こうとしたが、米軍の攻撃で近づけない状況にあった。島民のなかから「兵隊たちは玉砕している。私たちも自決しないと」という声があり、島中央部のサーバルの壕で「自決」が始まった。その「自決」の話が伝わり、ほかでも「自決」がおこなわれた。…慶留間ではひもを使って首を絞めたり首を吊って「自決」が行われたケースが多かった。「自決」しようとした人たちはみな、島民たちは全員死んだと思い込み、「島に生き残ったのはきっと自分たちだけなんだ」と思っていた(宮城恒彦247頁)。』(32-33頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 32-33頁より》 

 

阿嘉島

阿嘉島では、様々な要因が重なり、集団自決が決行されなかった。(ブログ担当者注:その点に関しては、只今建設中)

『26日午前8時ごろ、米軍が戦車40台と兵員300人で上陸すると、住民の間には、日本兵にもらった手榴弾で「集団自決」を試みようとした者や、山中を彷徨しながら「集団自決」の場所を探し求めていた家族もいた。また、同日夜、日本軍が米軍への斬り込み攻撃に出た後に、将兵が機関銃を住民に向けて待機し、住民の間でも「集団自決」の気運が高まった。』(16-17頁)

《「証言 沖縄「集団自決」ー慶良間諸島で何が起きたか」(謝花直美 / 岩波新書) 16-17頁より》

 『日米両軍による地上戦が始まると、住民が避難したシジヤマにも、野田山の日本軍陣地周辺で炸裂する米軍の迫撃砲弾の破裂音や、応戦する日本軍の機関銃などの発射音が、終日、間断なく響きわたった。しかし、戦況が全くわからない住民は、「日本軍は玉砕したかもしれない」「間もなく米軍がシジヤマにやって来る」など、いろいろ憶測が飛び交い、米軍の攻撃と捕虜の恐怖におののいた。それでも、ほとんどの住民は、同避難所を逃げ出すことはなく、玉砕を覚悟でそこに留まった。そんななか、「集団自決」を促す声が、避難所のどこからともなく聞こえてきた。住民の中には、自決用のヒモ(首を絞めるための)やカミソリなどの凶器を準備する者など、「集団自決」の危機は目前に迫っていた。だが、いざ実行となると、そう簡単に事は運ばないもので、家族のなかでも死の恐怖(本能的な)のあまり、その場を逃げ出す者などが続出した。(106-107頁)

 《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 106-107頁より》

 

沖縄本島への攻撃が本格化する

米軍は、慶良間列島に上陸しながら沖縄本島にも攻撃を加え続けていた。この日、北飛行場(旧読谷補助飛行場)と中飛行場(現米空軍嘉手納飛行場)に砲撃を開始した。

 『3月26日、いよいよ上陸前ぶれの本格攻撃が開始された。それまで南部の島尻地区に砲撃を集中していた米艦艇が西海岸に現れ飛行場地区の砲撃を始めたのである。…発砲の閃光が見えてから、砲弾が命中し、ものすごい炸裂音と地ひびきが起きるまでに、30秒かかった

北飛行場への砲撃は8時から11時までに約60発。が、12時からの湊川、知念半島地区には、午後1時40分までの間に、550発。平均10秒に1発もの大量の砲弾を撃ちこんだ。それが終わると、行きがけの駄賃のように、那覇の南方、糸満付近に10発。そして、中飛行場地区に70発を撃ちこんだ。あきらかに、これは、ワザとそう撃ったのであった。』(108頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 108頁より》

この日、米軍は実際に上陸地点ときめていた本島中部ではなく、本島南部への砲撃を多く行い、日本軍の目を欺いた。

『しかし、いつも貧乏者の戦争しかしてこなかった軍司令部は、これにひっかかった。まさか上陸もしないところに、10倍もの砲弾を撃ち込むはずはない、としか思えなかった。三日間の艦砲射撃の方向からみて、「明27日以降、主力をもって糸満付近、一部をもって湊川付近に上陸してくる」ものと判断した。これは誤判断だった。

…この艦砲射撃の状況を見た連合艦隊長官と10方面司令官は、それぞれ26日、「天一号作戦発動」を下令した。(108-109頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 108-109頁より》

  

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知覧特攻平和会館

「遺書・手紙類 <伊舎堂 用久(いしゃどう ようきゅう) 中佐>」

伊舎堂用久

 

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戦跡 → ポイント学習・慶良間諸島 

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沖縄国際平和研究所より

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