〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年3月26日 『米軍、慶良間列島に上陸』

日本軍の誤算伊舎堂隊「玉砕」とは忠魂碑と「集団自決」

 

米軍、慶良間列島に上陸

3月26日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸し、鉄の暴雨風と呼ばれた沖縄戦が始まりました。1945年3月26日午前8時4分阿嘉島沖を埋め尽くしたアメリカ軍の艦船から放出された水陸両用車が、島の集落前の海岸に向かって銃撃を加えながら上陸。逃げ遅れた住民5人が射殺され、沖縄総攻撃が始まったのです。

65年前のきょう 米軍 慶良間諸島上陸 – QAB NEWS Headline

USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

沖縄戦昭和20年3月26日、A.D. ブルース少将の率いる米第77歩兵師団の慶良間列島上陸で幕が切って落とされた。慶良間攻略のねらいは、つぎに来るべき沖縄本島上陸作戦にそなえて水上機基地と艦隊の投錨地を確保することにあった。(12頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 12、13頁より》

US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2] に加筆

3月26日午前4時30分、南西諸島攻撃部隊は久場島慶良間諸島の西南端に位置)の西方約6マイル(約9.6キロ)の洋上に集結した

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 71頁より》

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《AIによるカラー化》Aerial of ships at anchor in one of Kerama Islands, Ryukyu Islands. 慶良間列島に停泊する船舶の空中写真

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

午前6時40分、慶良間列島への進撃開始

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《AIによるカラー化》Landing craft in Kerama Retto harbor forming for attack on beaches of islands in Kerama Retto Group. 慶良間の海岸へ攻撃に向かう上陸艇

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

午前6時40分久場島沖の戦車揚陸艦上で待機していた第1群の上陸部隊は、水陸両用車(LVT = Landing Vehicle Tracked)に乗り換え、海軍の先導艇(通常小型上陸用舟艇 = LCVP)を先頭に進路を一斉に北東に取り進撃を開始した。(71頁)

午前7時半ごろ、ついに島の沖合約2キロまで侵入してきた巡洋艦や砲艦などの砲門が一斉に開いた。… 間もなく、タキバル一帯にも艦砲射撃や艦載機による銃爆撃が始まった。(98頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 71、98頁より》

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《AIによるカラー化》Ships of US task force shelling beach and hillside caves on Okinawa in Ryukyus. L-6. An LSM (R) moves into fire on shore.【和訳】 上陸6日前、海岸や丘の斜面にある壕を砲撃する機動部隊の艦船。中型揚陸艦(ロケット)LSM (R)が海岸の戦火の中に突入する。
撮影日: 1945年 3月26日

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A US battleship loads up with ammunition after bombarding Japanese shore positions before invasion of Okinawa in Ryukyu Is. 沖縄侵攻に先立ち、海岸にある日本軍の陣地を爆撃した後、弾薬を積む米戦艦。(1945年 3月26日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

午前8時4分、阿嘉島上陸

慶良間列島への上陸作戦は、3月26日午前8時すぎ、まず第77歩兵師団第305連隊の阿嘉島上陸から始まった。同連隊の第2上陸大隊は、上陸すると同時にいわゆる「ニミッツ布告」(米国海軍軍政府布告第1号)に日付を入れて公布した。それによって同地域における日本国政府の行政権、および司法権は、すべて停止された。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 17頁より》

米軍の上陸に対して阿嘉島にあった200のボートにいた日本軍や朝鮮人労務者が、機関銃や迫撃砲で散発的に応戦してきたが、米軍に損害はなく、上陸部隊はすみやかに海岸を占領して、町まで進撃したので、日本軍はけわしい島の中央部に退却した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 62-63頁より》 

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《AIによるカラー化》Amphibious craft on beach of Aka Shima in Kerama Retto. Alt. about 1500'; F.L. 8/25”. Taken by plane from USS MAKIN ISLAND (CVE-93). Southeast beach and town of Aka Shima. Looking northwest. 慶良間列島阿嘉島の海岸に上陸した水陸両用艇。護衛空母マキン・アイランド (CVE-93)の艦載機により、約1500フィート上空から撮影。阿嘉島の南東側にある海岸と町の様子。北西の方角に向かって撮影。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

上陸部隊は迫撃砲で攻撃し24人の日本兵を倒し、日本軍の陣地を撃滅した。I中隊は慎重に前進したが、機銃掃射を受ける。しかし、日本軍陣地を攻略するとともに小型船8隻と装備類や爆薬を壕内で押収した。1時30分トーチカを爆破する。L隊は偵察を終え夜間の陣地に戻る。その日住民3人、日本兵2人を捕虜にする。第3大隊の戦死及び負傷者は各1人。日本兵約25人を射殺する。

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 75頁より》

26日の午後5時までに、阿嘉島の3分の2を占領し、300の日本軍と400の民間人がまだ島に逃げかくれしていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 65頁より》

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そして大した抵抗を受けることもなく、これらの島々を占領した。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 18頁より》

 

午前8時25分、慶留間島上陸

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《AIによるカラー化》Members of 306 Inf., 1st Bat. 77 Div. in the hills on Geruma Shima in Keramas after its invasion by US forces. Stalking snipers in a village on the Island. 米軍侵攻後、慶留間島慶良間諸島)の丘陵地帯に展開する第77師団第306歩兵連隊第1大隊の兵士ら。島の集落で敵の狙撃兵を追跡する様子。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

慶留間島は、直径1キロの丸い島で阿嘉島の南にあった。ここには、第306連帯の第1上陸大隊が島のほぼ真中の幅の狭い海岸に、8時25分に上陸したが、ここでも長距離から銃弾がとんでくるほかにはさしたる抵抗もなく、米軍は、約3時間で20名ほどの日本軍を掃討し、島を確保した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 63頁より》

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《AIによるカラー化》Members of 306 Inf., 1st Bat. 77 Div. in the hills on Geruma Shima in Keramas after its invasion by US forces. Taking it easy in a blasted Jap home. 米軍侵攻後、慶留間島慶良間諸島)の丘陵地帯に展開する第77師団第306歩兵連隊第1大隊の兵士ら。爆破された日本人の民家でのんびりしているところ。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

午前9時、座間味島上陸

3月26日午前9時、第305連隊の第1上陸大隊は、座間味島に進撃した。日本軍は、最初はある程度の応戦を試みてきた。… 米軍は散発的に日本軍の迫撃砲や機銃弾をうけながら、ついに海岸の真うしろにある座間味の村落まできた。日本軍の1個中隊と推定される部隊が、およそ300名の朝鮮人労務者とともに、この村落から北方の山の中に退却していった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 63-64頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p59a.jpg

座間味島に上陸した米軍

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2]

座間味では、第305連隊第1上陸大隊の先遣隊は、午後はなんらの応戦もうけずに高地を占領することができた。しかし、真夜中から翌朝未明にかけて、日本軍は銃、拳銃、軍刀をもって海岸近くの米軍陣地に斬り込んできた。日本軍の攻撃主力はC中隊を襲い、C中隊もまた自動機関銃や迫撃砲で9回にわたって応戦した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 64-65頁より》

 

午前9時21分、外地島上陸

この日の上陸作戦で最も簡単に行われたのは外地島だった。… 午前9時21分、抵抗らしい抵抗もなくこの島を確保した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 63頁より》

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外地島星条旗が掲揚された (1945年3月26日)
The Battle of Okinawa The Typhoon of Steel and Bombs / Masahide Ota / 9頁

 

午後1時41分、屋嘉比島上陸

26日のこの進撃はじつにスムーズにいったので、ブルース将軍も、昼までにはもう一つの島が占領できるかもしれないと思い、今度は、第307連隊の予備軍として待機させてあった第2上陸大隊に、慶良間の最北西部にある長さ1.5キロほどの屋嘉比島の占領を命じた。午後1時41分、この大隊は、屋嘉比島に上陸し、軽い抵抗にあいながらも、すみやかに日本軍を掃討した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 64頁より》

 

慶伊瀬島偵察の偵察

慶伊瀬島 (けいせじま) は神山島ともいわれる。沖縄島攻撃の最重要拠点と見なされていた。

慶伊瀬島は、渡具知海外の南西方およそ17.5キロ、那覇西方13キロの海上に浮かぶ4つの小さな珊瑚礁群だが、島の面積やその地形に不釣り合いなほど沖縄攻撃にさいしては重要な価値をもっていた。南部沖縄は慶伊瀬島からだと155ミリ砲の射程距離内にある。… 第10軍は沖縄攻撃支援軍として、第24軍団野砲部隊に対し、慶伊瀬に155ミリ砲2大隊を配置するよう命令を下した。3月26日、第77師団配属艦隊の海兵上陸偵察大隊は、日本兵や民間人に遭遇することもなく慶伊瀬を偵察した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 68頁より》

投錨の準備

慶良間海峡は水深約35〜60メートルで、広さは大型艦船が一度に約75隻も碇泊可能な手頃な投錨地。米軍が慶良間諸島に上陸した3月26日の午後には、同海峡の入口で早くも防潜網の設置作業に取り掛かり、その日の夕方までには艦船の航行ルートを標示するブイを設置した。

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 153-154頁より》

 

沖縄本島西海岸への空爆と艦砲射撃と掃海

日本軍の飛行場がある読谷と嘉手納へ上陸のための本格的な艦砲射撃が始まる。

26日以降、機雷掃海隊が急速に沖縄沿岸近くの海面を掃海するにおよんで、艦隊はしだいに陸に近づき、より激しい、また、より正確な艦砲射撃を加えることができるようになった。日本軍は、渡具知海岸への水路一帯に、強力な機雷を敷設してあった。したがって、米軍はその掃海作戦が完了するまでは、うかつに海岸近くには寄れなかったのだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 74-75頁より》

3月26日、いよいよ上陸前ぶれの本格攻撃が開始された。それまで南部の島尻地区に砲撃を集中していた米艦艇が西海岸に現れ、飛行場地区の砲撃を始めたのである。…発砲の閃光が見えてから、砲弾が命中し、ものすごい炸裂音と地ひびきが起きるまでに、30秒かかった。

北飛行場への砲撃は8時から11時までに約60発。が、12時からの湊川、知念半島地区には、午後1時40分までの間に、550発。平均10秒に1発もの大量の砲弾を撃ちこんだ。それが終わると、行きがけの駄賃のように、那覇の南方、糸満付近に10発。そして、中飛行場地区に70発を撃ちこんだ。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 108頁より》

 

日本軍と第32軍の動向

… この艦砲射撃の状況を見た連合艦隊長官と10方面司令官は、それぞれ26日、「天一号作戦発動」を下令した。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 109頁より》

 

軍司令部

慶良間諸島各所に特攻艇基地を配置しながらも、米軍上陸は想定していなかった。

26日午前9時ころ、軍司令部の目が、沖縄本島に撃ちこまれる艦砲射撃と爆撃に吸い寄せられていたとき、誰も気付かないうちに、慶良間列島の座間味は白い煙に包まれていた。ただならぬ気配が、島々をおおった。水陸両用戦車を先頭に立てた米上陸部隊が、座間味、阿嘉、慶留間の3島に襲いかかった。こんな山ばかりの島に、わざわざ上陸してくるはずはないと考えていたのは、軍司令部だけではなかった。海上挺進戦隊の誰もが、島を守るための手筈には、注意を向けていなかった。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 110頁より》

八原高級参謀の回想:

一両日来、首里山より望見するに、アメリカ空軍の慶良間群島攻撃が激烈を極めている。… 果然アメリカ軍は26日早朝から同群島に上陸を始めた。無電の報告は断片的で事態は明瞭でない。群島に配置してある独立挺進3個戦隊計300隻は、海上で必死体当たりすれば、相当暴れる力を保持しているはずだが、陸上に攻撃されてはまったく無力である。好機断固として海上に出撃すべきである。願わくば出撃してくれと祈る心も束の間、座間味、阿嘉、渡嘉敷の三島よりの報告はことごとく非である。ついに陸上に急襲されたようである。… 軍は、沖縄本島に挺進戦隊の主力がなお残存するに鑑み、軍船舶隊長大町大佐に対し、「貴官は敵中を突破し、本島に帰還、主力部隊の指揮に任ずべし」との電報命令を発した。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 162頁より》

 

慶良間列島に配置された日本軍の任務、兵力、装備

背後から米軍を襲うはずの特攻艇基地は、米軍上陸で脆くも敗走する。

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1945年3月25日『慶良間列島への上陸作戦前夜』

 日本軍は、座間味島海上挺進第1戦隊、阿嘉島慶留間島に第2戦隊、渡嘉敷島に第3戦隊を配置のうえ、各戦隊に特攻艇100隻、計300隻を秘匿させていた。慶良間諸島を守るためではなく、米軍の本島上陸地を南部の西海岸と想定し、背後から特攻艇によって逆襲する。だが、本島に先立つ慶良間諸島への米軍上陸で、作戦に大きな誤算が生じた。

逆襲の拠点を突如として襲われ、海上挺進隊は特攻艇を秘匿壕に残したまま、うろたえた。上陸の米軍に、特攻艇を破壊された。特攻が主任務で、地上戦に必要な兵員や武器を充分に備えていない海上挺進隊は、座間味島の第1戦力隊が軍刀、拳銃、小銃による斬り込みをした。力及ばず、100人余りが敵前に倒れた。阿嘉島の第2戦隊も、58人が死体になった*1

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 85-86頁より》

日本軍は自ら特攻艇を破壊し退却した。

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米海軍記録「米軍艦への突撃に使われる予定だった、日本軍の「秘密兵器」の特攻艇。大量の爆破薬を搭載して、時速32ノットで進むことができる、全長20フィートの1人乗り艇。沖縄本島南西沖の慶良間列島を侵攻する際、接収された。接収された中の一艇は、護岸で発見された時、木の枝でカムフラージュされた状態で、炎上していた。榴弾の投下を受けた模様。」

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

海上挺進第1戦隊 (隊長: 梅澤祐) - 座間味

3月26日午前9時ころ、米77師団の一コ隊が、座間味に上陸してきた。第1戦隊長梅沢祐少佐、28歳。拳銃、軍刀、手榴弾しか持たない特攻隊員約100名。陸上戦闘訓練など、ほとんどしたことのない特殊勤務部隊約300名と、機関銃9、小銃250、擲弾筒2。それに武器を持たぬ朝鮮人軍夫300名が、かれのもつ全戦力である。上陸を迎え撃つ常道の水際撃滅戦など、成り立たない。まず特攻艇の破壊と、陣地のある、島で一番高い所山(143メートル)への集結を下令した。あとは斬り込みしかない。夕方までに結集したのは、1、2中隊。第3中隊は、途中で米軍とぶつかり、格闘戦になって多数の死者を出し、前に進めず、舟艇壕に逆戻りしていた。(120頁)

その夜、戦隊の第1中隊、第2中隊による激しい斬り込みが行われた。武器は、小銃、軍刀、拳銃だった。それしかなかった。米軍は、猛攻を受け、迫撃砲、機関銃など、射手を代えること数回に及んだ。格闘また格闘。すさまじい格闘戦が繰り返された。防衛隊も加わった。青年も、若い女性も突撃した。しかし、素手で機関銃に立ち向かうに等しいこの斬り込みは、味方におどろくほどの被害を出して、終わった。第1中隊、ほとんど全滅。第2中隊、大部分戦死。米軍、戦死7、負傷12。(121頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 120、121頁より》

 

海上挺進第2戦隊 (隊長: 野田義彦) - 阿嘉島慶留間島

海上挺進第2戦隊の兵力、装備、編成は、座間味とほぼ同じ(阿嘉に2、3中隊、慶留間に1中隊を配置)。戦隊長野田義彦少佐26歳阿嘉島では、すでに男子青壮年は防衛隊にとられ、13歳からの男子(中学生)80名は義勇隊として、海上挺進隊各中隊に3、4名ずつ配属させられていた。… 野田戦隊長は、空襲と艦砲射撃の被害を避けるため、部隊を島の中央にある最高地(168メートル、野田山といった)に集結、住民をその山あいの谷に集めた。(122頁)

野田戦隊長は、26日夜半に総攻撃を行う。斬り込みを敢行するとともに、特攻艇は全力をあげて出撃することを命じた。… 慶留間島にいる第1中隊に、出撃を伝えるため、水泳達者な特攻隊員篠崎純一伍長が選抜され、出発した。(124頁)

艦砲射撃で、第3中隊の特攻艇は全壊しているので、出撃可能は約70隻。出撃した特攻艇は、攻撃が終わったら、できれば沖縄本島に行き、戦況報告を行うこととされた。若い野田戦隊長は、午後8時、「阿嘉島守備部隊最後ノ一兵ニ至ルマデ勇戦奮闘、悠久ノ大義ニ生ク」と訣別電を打ち、出発する斬込み隊と水盃を交し、烈しい訓示をした。

「総力をあげて斬込みを敢行し、戦隊将兵は出撃する。無電は最後の連絡を打って破壊した。われわれの行くてはもはや玉砕あるのみである。われわれは日本の捨て石となってここに玉砕し、悠久の大義に生きる。卑怯な行動をする者は即時処罰するーー」…斬込みで、16名の戦死者が出た。(124-125頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 122、124-125頁より》

 

海上挺進第3戦隊 (隊長: 赤松嘉次) - 渡嘉敷

海上挺進第3隊は、104名に対して機関短銃5(弾薬6000発)、各人拳銃(1銃につき弾薬4発)、軍刀、手榴弾(数の記載なし)、勤務隊(161名)には重機関銃2(弾薬1200発)、軽機関銃6、擲弾筒7、小銃152、黄色薬550キロ、整備中隊(55名)には小銃45、特設水上勤務中隊(14名の将兵朝鮮人軍夫210名)には「少数の小銃」となっている(防衛庁「沖縄方面陸軍作戦」244頁)。(39頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 36、39頁より》

26日は、渡嘉敷に関するかぎり、猛烈な砲爆撃だけに終わった。… 赤松戦隊長は、とりあえず海岸にあった戦隊本部を山地(旭沢)に移動し、非戦闘員多数を含む戦力のない軍夫部隊を、北部山中の最高峯につくった急造の複郭陣地地帯に集めた。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 119頁》

 

鉄血勤皇隊と通信隊、護郷隊の配属命令

25日の第32軍による12校の学徒隊動員命令につぎ、各配属の手続きが行われる。

沖縄県立農林学校

嘉手納にあった 県立農林学校の生徒は、特設第1連隊第2大隊に配属。

1945(昭和20)年3月26日、県立農林学校の配属将校尚謙少尉*2と教練教師の比嘉浩伍長が、北・中飛行場守備隊の青柳隊(第19航空地区司令部)の出頭命令で嘉手納飛行場の本部に出頭して、青柳隊長より鉄血勤皇農林隊の編成を命じられた。そして生徒らは陸軍二等兵に任ずることも伝達された。… 当日、農林学校には1年生から3年生まで約500名の生徒がいたが、空襲の混乱などで、鉄血勤皇農林隊に入隊したのはその約3分の1の170名であった。

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 149頁より》 

 

沖縄県立第三中学校

1945年3月20日、全校生徒に鉄血勤皇三中隊編制のため、自宅に待機しておくよう現地日本軍から命令が発せられた。そして25日には、全校生徒に学校に集合するよう出頭命令が発せられた。

3月26日には鉄血勤皇三中隊が編制され、即日、1、2年生の一部と3年生のうち通信隊には入らなかった生徒、そして4、5年生全員が、独立混成第44旅団第2歩兵隊(宇土部隊)と第3遊撃隊 (第一護郷隊)(村上治夫隊長)に配属されることになり、宇土部隊に147名、第3遊撃隊に約150名が編入された。

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 136頁より》

 

沖縄県立水産学校

水産学校の生徒たちは、宜野湾村の農民道場を本拠地にしての雑作業を続行中の1945(昭和20)年3月26日、第32軍司令官と沖縄連隊区司令官、沖縄県知事三者の連名によって、「沖縄県立水産学校鉄血勤皇隊を編制して、国頭方面球1814部隊に入隊せよ」との命令が発せられた。

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 162頁より》

 

沖縄戦最初の航空機特攻 - 伊舎堂

未明、慶良間列島の沖合に米軍の攻撃部隊が集結している頃、石垣島白保飛行場から沖縄戦で最初の特攻機が飛びたった。石垣島出身の伊舎堂用久率いる誠第17飛行隊、および独立飛行第23中隊、10人の若者だった。

15. 陸軍 石垣島飛行場(白保飛行場) - Basically Okinawa

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前盛さん「(父は) 明け方 (特攻することを) 聞かされて、きょう発つということを聞かされたのですぐ (飛行場に) 向かったそうです」用八さん「発つ前の日に私の祖父母 (用久の両親) は 歩いて10キロ以上の白保の飛行場まで行ったんですがとうとう会えなかった。午前4時、白保飛行場をあとにし、慶良間に向け出発。アメリカ軍の艦隊に突撃、用久、24歳でした。

甥の用八さんは、2013年有志とともに石垣島から特攻した31人の名を刻んだ碑を建てました。用八さん「おじを「軍神」という人もいますが、「軍神」ではない。皆とともに行って戦って、帰らぬ人となっただけでね」用八さん「(Q.用久さんが生きていた証を残したかった?) そうですね。これは何もおじだけではなくて、石垣島から飛び立った31名の皆さんも一緒にこれ(事実)をずっと残したいと

慰霊の日リポート(1) 石垣島に残る 特攻の記憶 – QAB NEWS Headline

26日午前4時、「慶良間群島周辺の敵機動部隊ヲ攻撃シ之を覆滅スヘシ」との命令を受けると、4機を率い、掩護の独立飛行第23中隊の6機と共に出撃、同群島西方洋上の敵空母群に全機で突入、2隻を撃沈破した。沖縄航空特攻の第一陣だった。

《「特攻に殉す 地方気象台の沖縄戦」(田村洋三/中央公論新社) 132頁より》

伊舍堂さんは午前5時50分ごろ、慶良間諸島沖の機動部隊に突入して亡くなりました。第8飛行師団は空母1隻を撃沈し、2隻の空母と1隻の戦艦に被害を与えたと発表されました。しかし、連合軍側の記録には、この日に艦艇の被害があったとは記されていません*3

死の間際も家族に会わず 沖縄戦、ふるさと石垣島から最初に出撃した特攻隊長 - 未来に残す 戦争の記憶

沖縄戦では石垣島の飛行場から伊舎堂隊をあわせ計31名が特攻出撃した。しかし翌日27日からの米英連合艦隊の先島群島封じ込め空爆で、石垣島宮古島の飛行場の使用が困難となる。

3月26日開始された慶良間(けらま)列島海域への特攻作戦は、沖縄本島石垣島宮古島から出撃しましたが、4月1日沖縄本島に上陸後は、九州及び台湾から出撃するようになりました。

知覧特攻平和会館 | 航空特攻作戦の概要

 

そのとき、住民は・・・

「玉砕」とは

日本政府は「玉砕」(玉とは「たましい」を表す「魂」 (タマ) と同源とされ、「玉が美しく砕けるように」(広辞苑) いさぎよく死ぬ表現)、「自決」「散華」(仏教用語。「仏に供養するために花を散布すること、法会で、読経しながら列を作って歩き、はすの花びらにかたどった紙をまき散らすこと」 (広辞苑) 。)「悠久の大義といった宗教的・感傷的なレトリックで国家のための死を理想化 (romantisize) し、国民を誘導した。

大本営が「全滅・殲滅」ではなく「玉砕」という語を公に使用したのは1943年5月29日アッツ島の殲滅からといわれている。バックアップ部隊もなく全滅したアッツ島の敗北を隠蔽するため、大本営は「玉砕」という表現を使用。こうした集団死の宗教的隠喩化は、「死」自体が戦いの目的になるような倒錯状態を生んでいくことになる。

  • 1941年1月 -「生きて虜囚の辱めを受けず」『戦陣訓』
  • 1943年5月29日 - 大本営によるアッツ島の「玉砕」
  • 1944年11月 -「軍官民共生共死の一体化」『県民指導要綱』

1943年5月29日大本営は初めてアリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊の全滅を玉砕として報じる。玉のように美しく砕け散る、という表現で揃って死ぬことを理想化し、やがて「一億玉砕」という言葉で、国民に対しても集団的な死の覚悟を求めるようになった。《参考 NHKスペシャル | 玉砕 隠された真実

徹底した皇民化教育のなか、兵士や住民すら捕虜となることを絶対的に許容しない日本軍の方針は、負傷兵や住民たちが集団的に「自決」*4 を強制されるという状況を次々と生み出していく。集団的に強制された死を「集団自決」と表現することは、言語的に矛盾し実際的に正しくない表現であるため、強制集団死とも表現される。

 

慶良間列島における「集団自決」

この日から数日間にわたって慶良間列島に強制集団死が連続しておこる。

米軍の慶良間諸島上陸をきっかけにその日、1945年3月26日に、座間味島および慶留間島において住民が集団で命を断つ、悲惨な事態が起きた。(86頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 86頁より》

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2] に加筆

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《AIによるカラー化》Navy corpsmen administer first aid to a poorly-clad and middle-aged native woman who was injured when American invasion forces poured ashore at Aka Shima prior to the main assault at Okinawa, Ryukyu Islands. 海軍の衛生兵が、貧しい身なりの地元の中年女性に応急処置を施している様子。沖縄本島への本格的な侵攻の前に、米軍が阿嘉島へ大挙して上陸した際、この女性は負傷した。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

座間味島「集団自決」

梅澤隊のいた座間味村では177人が集団自決の犠牲となった。25日の晩に「忠魂碑の前に集まれ」という連絡がまわされたことは複数の証言に共通してみられる。忠魂碑 (天皇とその国家のために魂を捧げた人を英霊として祀った碑) の前に集まれ、という伝令は記号として機能し、単に集合場所を示す意味以上のことを意味する。

座間味村の当時16歳の女性の証言

25日の晩、忠魂碑の前で玉砕するから集まれ、との連絡を受けたため、今日は最後の日だから、と豚を一頭つぶしみそ煮をして食べたが、なまにえあったにもかかわらずひもじさも手伝ってか、あの時の味は何とも言えないおいしさでした。食事を終えてからきれいな着物をとりだし身づくろいをしてから、忠魂碑の前まで家族で行ってみると誰もいない。しょうがないので部落民を探して近くの壕まで行ってみると、そこには部落民や兵隊らがいっぱいしている。私たちの家族まで入ると、あふれる状態でした。それでも無理につめて、家族はまとまってすわれなかったが適当にあっちこっちに座ることにした。中にいる兵隊が、

「明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい」榴弾が渡された。その頃から兵隊たちは頭に日の丸のはちまきをしめている。しかしたとえ手榴弾を手にしても、こわくて死ぬ気なんかなれない。その時の時間は午前4時頃と思われた。私達はいつでもここに残っていてもどうしようもないので自分たちの壕で玉砕しようと再び引き返していった。私達姉弟三人は父母の後をただ言われるままについていった。

夜明け方、なんとなく外が騒がしいので、朝鮮人でもいるのかなと思って耳を澄ませてみると、言葉が何となく違う感じがする。もしかするとフィリピン人かもしれないと思い入り口をあけてみると、米兵が壕の前にずらりと並んでいる。あまりの数に私たちはびっくりして、さっさと死ななければ、と思い、まず父がかたい縄で私達四人の首を絞めたが、なかなか死ぬことができない。これではダメだと思い、今度は父が南洋から持ってきたカミソリがあったため、それで首を切ることにした。まずはじめに、母の首を切り、次に私の首を切った。私は何かノド元に触ったかなと思うと同時に生暖かい血が胸を流れ始めたため、その時首が切れたんだな、と思った。そして次には弟妹という順で切っていくと、母が、「まだ死ねないからもう一度切ってごらん」というので父は、それではと、再び母の喉元を切りつけた。その時に弟は、「おとうさん」という一言を発してそのまま倒れてしまい出血多量で死んでしまった。最後に父も自分の首を切っていた。

昼に近い時間と思われた頃、米兵と父の友人が私の壕の中に入ってきて、その人が父の名を呼びながら「どうしてこのようなことをしたのか」というのが夢うつつに聞こえていた。

 《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)pp. 746-747》

座間味島には、座間味、阿佐、阿真の三つの集落があったが、「集団自決」がおきたのは、島の中心であり港や役場があった座間味だけである。その犠牲者は177人とされている。その詳細がわかっている135人のうち、12歳以下の子どもが55人13歳以上では女性が57人を占めている。合わせると83%にのぼる。一部は手榴弾の爆発で亡くなっているが、多くは大人の男たちによって殺されている。犠牲が出た34世帯中20世帯で、家長によって直接手を下されたという(宮城晴美「同化政策の結末」54頁)。(30頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 30頁より》

米軍の上陸で壕に逃げた住民は極限状態に追い込まれていた。手りゅう弾を持っていた教師は「一緒に自決してもよいと思う人は、先生の後ろにおいで」と呼び掛けた。

「もうだめだ」米軍の上陸、島民を襲った恐怖 「集団自決」を生き延びた女性が証言する75年前に島で起きたこと - 琉球新報

 

慶留間島における「集団自決」

野田隊のいた慶留間では53名が集団自決の犠牲となり、うち13名が子どもだった。

山の中に逃げ込んだ島民たちは1中隊の壕の方に行こうとしたが、米軍の攻撃で近づけない状況にあった。島民のなかから「兵隊たちは玉砕している。私たちも自決しないと」という声があり、島中央部のサーバルの壕で「自決」が始まった。その「自決」の話が伝わり、ほかでも「自決」がおこなわれた。…慶留間ではひもを使って首を絞めたり首を吊って「自決」が行われたケースが多かった。「自決」しようとした人たちはみな、島民たちは全員死んだと思い込み、「島に生き残ったのはきっと自分たちだけなんだ」と思っていた(宮城恒彦 247頁)。(32-33頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 32-33頁より》

 

阿嘉島の混乱

26日午前8時ごろ、米軍が戦車40台と兵員300人で上陸すると、住民の間には、日本兵にもらった手榴弾で「集団自決」を試みようとした者や、山中を彷徨しながら「集団自決」の場所を探し求めていた家族もいた。また、同日夜、日本軍が米軍への斬り込み攻撃に出た後に、将兵が機関銃を住民に向けて待機し、住民の間でも「集団自決」の気運が高まった。

《「証言 沖縄「集団自決」ー慶良間諸島で何が起きたか」(謝花直美 / 岩波新書) 16-17頁より》

日米両軍による地上戦が始まると、住民が避難したシジヤマにも、野田山の日本軍陣地周辺で炸裂する米軍の迫撃砲弾の破裂音や、応戦する日本軍の機関銃などの発射音が、終日、間断なく響きわたった。しかし、戦況が全くわからない住民は、「日本軍は玉砕したかもしれない」「間もなく米軍がシジヤマにやって来る」など、いろいろ憶測が飛び交い、米軍の攻撃と捕虜の恐怖におののいた。それでも、ほとんどの住民は、同避難所を逃げ出すことはなく、玉砕を覚悟でそこに留まった。そんななか、「集団自決」を促す声が、避難所のどこからともなく聞こえてきた。住民の中には、自決用のヒモ(首を絞めるための)やカミソリなどの凶器を準備する者など、「集団自決」の危機は目前に迫っていた。だが、いざ実行となると、そう簡単に事は運ばないもので、家族のなかでも死の恐怖(本能的な)のあまり、その場を逃げ出す者などが続出した。(106-107頁)

 《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 106-107頁より》

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A Jap boy and his mother hold in their hands rations given them by US infantrymen who discovered them in the hills of Geruma Shima during their invasion. The attack was a preliminary to the main assault on Okinawa in Ryukyu Is. 日本人の男の子とその母親は米歩兵部隊からもらった糧食を手にしている。部隊が親子に遭遇したのは、慶留間島の丘陵地帯を進攻しているときのことである。本格的な沖縄侵攻の序盤に行われた攻撃だった。(1945年3月26日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄島、北に逃れる避難民

北谷村屋良国民学校の教員だった女性の体験談:

…私は主人の両親に相談し3歳になる末の息子をおぶって北部へ疎開することに決めた。

3月26日、北谷村を後に羽地村へ向けて出発した。孫思いの姑は涙をいっぱいためて県道近くまで見送ってくださった。
…県道に出たら、日がくれかかっているのに、家族連れや、荷馬車にいっぱい積んだ荷の上に年よりや子どもを乗せた一団、母子づれなど避難民が大きな川のように北部へ流れていく。私もその流れにはいりこんで歩いた。

嘉手納に着いた時、… 声をかける人がいた。屋良国民学校の児童の母親であった。「名護方面までご一緒しましょう」と、いってくれたので勇気百倍した。恩納村にさしかかると、海岸に沿った集落は艦砲でやられたのか家も並木も炎をあげて燃えているのが見えた。大きな福木や瓦屋根のパチパチと燃える音が、火を避けて通る私に「戦争」を実感させた。私は防空頭巾をま深にかぶって人の流れの中を歩き続けた。背中の子は時々「母ちゃんまんま、まんま」と泣く。私は手さげから黒砂糖のかたまりを出してちょっとしゃぶらせる。泣きやむと砂糖を袋にしまうということをくり返した。行きつくまで飢えをしのぐためである。(97-98頁)

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 97-98頁より》

 

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  1. 恒久平和、不戦誓う 座間味、住民らが祈り 米軍上陸71年 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
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*1:戦死者の数は不正確である。海上挺進隊の被害は、座間味島の第一戦隊(梅澤隊)は戦死70名。阿嘉島の第二戦隊(野田隊)戦死41名。渡嘉敷島の第三戦隊(赤松隊)戦死22名。どちらも隊長は捕虜となった後、復員。

*2:尚謙少尉は最後の琉球国王の孫

*3:3月27日の戦艦ネバダの損傷は翌日27日に読谷飛行場から出撃した誠第32飛行隊「武剋隊」の特攻攻撃によるもの

*4:自決とは、「1. みずから決断して自分の生命を絶つこと 2. (self-determination) 他人の指図を受けず自分で自分のことをきめること」(広辞苑)