1945年 6月14日 『アブチラガマへの攻撃』

南進する米軍

西部〜中央戦線

国吉(くによし・くにし)丘陵

6月14日午前3時を期してE中隊とG中隊は進撃を開始したが、2時間後には、先頭の小隊はそれぞれ位置を確保したが、夜明けごろになって、とつぜん猛烈な砲火がおそってきて、米軍は進撃することができなくなってしまった。いまや全員が、前面や左翼から小銃弾、迫撃砲弾、機関銃弾を浴びせるかと思えば、後方の素通りした日本軍陣地からは猛烈な小銃弾をうけるという有様であった。

丘の上では、立つことはできなかった。さらに負傷者も、第7海兵連隊の戦闘でやったように防水袋に入れられ、引きずられて物資補給のためにきた戦車の下に、しばらく避難しなければならなかった。大隊がどうにか陣地を強化できるようになったのは、やっと暗くなってからだった。』(493-494頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 493-494頁より》

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第1海兵連隊E中隊による69高地と国吉丘陵の間の偵察活動。(1945年6月14日撮影)

E Co., 1st Regt., patrol activity between hill #69 and Kinushi[Kunishi] Ridge. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『6月も中旬になると、われわれの設営地点の南にある国吉(クニシ)丘陵という場所について、気になる噂が流れはじめた。その地では第1海兵師団のほかの歩兵連隊---つまり第7連隊とその後は第1連隊---が苦戦を強いられていて、われわれの救援が必要だというのだ。第5連隊はこのまま前線に出ずに済むのではないかという期待は、徐々にしぼんでいった。

偵察任務はまだ続いていた。私は日本軍が残していったホタテの缶詰を味わいながら、国吉丘陵などという場所がこの世になかったらどんなにいいだろうと思った。だが、避けがたいその日がやってきた。「装備をととのえろ。また移動だ」と上官の声が響いた。南に進むうちに、晴れ間が広がり、暑くなってきた。戦場に近づくにつれて、銃声や砲声が大きくなってくる。大砲の地を揺るがす轟き迫撃砲重い響き、機関銃のたたみかける連射音、ライフルの鳴りやまない単発音いつもながらの組み合わせだ。なじみのあの感覚がまたよみがえってきた。生き残れるだろうかという不安と恐怖。脳裏に焼きついた負傷者、死者、そして精神を狂わせた兵の、おぞましい姿。それは、いやでも刈り取らなければならない戦の産物だった。』(441-442頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 441-442頁より》

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数日間の休息後、国吉丘陵の向こう側の戦線へと進軍する第5連隊第2大隊E中隊。(1945年6月14日撮影)

E Co., 2nd Bn., 5th Regt., move up to lines opposite Kinsushi Ridge after a few days of well deserved rest.

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6月14日、われわれはふたたび修羅場へと突入した。午後、K中隊は道路南側の並木沿いに散らばって、野営の準備にかかった。前方の平野の向こうに国吉丘陵の砲煙が見え、銃声や砲声も響いてきた。われわれ迫撃砲班は道路のそばに壕を掘り、高い土手の上にかかる、まだ無傷の美しい橋の上空あたりに照明弾が打ち上がるよう調整した。

日暮れ前に、何人かでその橋を見にいった。幹線道路から分かれた小径をたどって、水辺に下りる。澄みきった水が流れ、小石の多いきれいな川底が見えた。心なごむせせらぎだった。苔むした高い土手にも、両岸の岩のあいだにも、シダが生い茂っている。私はむしょうにサンショウウオやザリガニを探してみたくなった。そこには美しく、涼しく、平和な---すぐ上の阿鼻叫喚の戦場とはまるで別世界の---場所だった。』(443頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 443頁より》

 

中央〜東部戦線

八重瀬(やえじゅ・やえせ): (米軍呼称: ビッグアップル)

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警戒しながら八重瀬岳(ビッグアップル・リッジ)の頂上目指す第10軍第96歩兵師団第381連隊第2大隊のライフル兵。(1945年6月14日撮影)

Riflemen of the 2nd Battalion, 381st Regiment of the Tenth Army's 96th Division, peer cautiously ahead as they advance across the summit of Yaeju-Dake escarpment (Big Apple Ridge) on Okinawa.

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後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためである。

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沖縄ではめったに見かけないロータリー。嘉手納飛行場近辺の軍用車両の渋滞を緩和するため米海軍設営部隊によって建設された。(1945年6月14日撮影)

One of the most unusual sights on Okinawa is this traffic circle, designed and built by the Seabees to lessen congestion of heavy military traffic near the Kadena Airfield.

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第32軍の動向

中央〜東部戦線

八重瀬(やえじゅ・やえせ)

八原高級参謀の回想:

6月14日には、第24師団からも、「数百の敵が八重瀬岳に進入しつつある。何故混成旅団はこれを放置しているのか? これでは師団の右側背が危険になり、正面の戦闘に専念することができない。已むを得ぬから、已当師団の作戦地境外ではあるが、与座岳南方方地区にある捜索第24連隊をして、これを撃攘せしめるとともに、万一を顧慮して、右翼歩兵第89連隊の陣地を、与座岳を拠点として、南方156高地に退け、守勢鈎形を取る準備をした。独立歩兵第15大隊には、師団捜索連隊に策応して進撃するよう慫慂するけれども、一向応ずる模様がない。実に不都合千万である」と木谷参謀長自ら電話に出て、その平素の悠容たる性格に似ず語気が荒い。これを聞いて私も憤慨した。通信連絡の関係上、混成旅団司令部を経ず、第24師団司令部経由で、軍司令官から直接独立歩兵第15大隊長に、「貴官は即刻八重瀬岳に向かい、攻撃前進すべし」との厳命が下達された。後刻鈴木少将から、旅団を無視したとの抗議が出たが、私はこうしなければ、状況に合しないと信じたので、この非常処置は豪も差し支えないと考えた。

後聞するに独立歩兵第15大隊長飯塚少佐は衰弱の極、歩行もかなわず、担架に乗り指揮していたとか。私は悪いことをしたと思ったが、我らは今や超人間となり、非情のことも強要しなければならぬのだ。』(395-396頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 395-396頁より》

 

独立混成第44旅団工兵隊壕

『九州で編成された同旅団は沖縄への配備途中、米潜水艦の攻撃を受けて多くの犠牲者を出した。昭和19年9月、名護市で現地召集など行い再編成。玉城村糸数城跡の陣地壕に布陣し沖縄戦を迎えている。

戦闘が始まってから糸数壕を出た旅団主力は識名方面に進出。首里をめぐる戦闘に参加したが、敗退。以後、南部を目指し、各地で抵抗しながら、最期の地・具志頭村安里の陣地壕にたどりついた。6月4日ごろだったという。…第3小隊の壕は日本軍が構築した陣地壕だったが、…第3小隊は、先に駐屯していた石野隊が異動した後でその壕に入った。壕は岩山をうがって北向きに造られ、高さ2.5メートル、幅もそれぐらい。奥行きは20メートルほどもあり、鍵型になっていた』(工兵隊壕・上)

『…悲劇の始まりは米軍攻撃前日・6月13日にのこのこと現れた敵の斥候兵に射撃を加えたことだった。…発見されたその日は何事もなく過ぎた。…14日、…の昼前、米軍は壕に通じる細いあぜ道を戦車3両を先頭にして押し寄せて来た。』(工兵隊壕・上)

『ズドーン、ズドーン。第3小隊に気づかれぬよう、壕のすぐ近くまで接近していた米戦車が火を噴いたのは午前10時すぎだった…。突然の砲撃で壕内から14、5人…が飛び出してきたが、壕入り口にピッタリ照準を合わせていた機関銃は容赦なく次々となぎ倒していった。まるでアリの子でもつぶすような光景だった』(工兵隊壕・下)

『そのうち、壕の上部が崩れ、…土石で埋まった入り口上部には、わずかながらも人の出入りできるようなすき間がありはしたものの、中で人が動く気配は感じられなかった。』(工兵隊壕・下)

第3小隊の日本兵の証言:

『「敵戦車がすさまじい砲撃を壕に浴びせかけている間、また、砲撃が終わってから米兵が引き揚げていくまでの間は全く生きた心地がしなかった」

こちらが壕にひそんでいることを敵は全然気づいていんかっただけに、斥候兵への射撃が文字通り小隊全滅の“引きがね”になってしまった。あれほどの戦だったから、あの時は生き長らえたとしてもその後どうなったかは分からない。でも何人かは生き抜いたにちがいない」』(工兵隊壕・上)

[10 独立混成第44旅団工兵隊壕(上)]いまだ30柱が眠る - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

[11 独立混成第44旅団工兵隊壕(下)]壕の入り口崩れる - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

 

そのとき、住民は・・・

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写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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多くの沖縄人がこのような状態で見つかった。日本軍は沖縄人を餓えさせ、敵と戦わせようとしたが、ほとんどの人はそれに従わなかった。(1945年6月14日撮影、場所不明)

This is the condition in which many of the Okinawans were found. The Japs starved them, and tried to make them fight, but most refused.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

アブチラガマへの攻撃

『アブチラガマ(糸数壕)は、6月2日で南風原陸軍病院の糸数分室としての役割を終えた。壕内に残っていたのは200名近い糸数住民、日本軍の大量の糧秣倉庫の責任者として上妻伍長と3名の監視兵、百数十名の重傷患者だった。』(108頁)

『6月3日以後、病院関係者のすべてがこの壕を撤退したあと、置き去りにされた重傷患者の食事の世話などは住民たちが行った。子持ちの避難民として井戸付近にいた糸数住民…も、重傷患者におにぎりを配って回った

「暗闇の中で誰が生きているのか死んでいるのかわからない状態で、ミージョウーキ(直径1メートルほどの円い平カゴ)いっぱいにおにぎりを持って重傷者の寝ているところに近づくと、暗がりのなかから手がいくつも伸びてきて、その手に渡していくだけでした。だから、手も伸ばせないような重傷患者は、そのままになったはずで、まもなく亡くなったと思います」

…3日後の6月6日、米軍がついにアブチラガマに対して「馬乗り攻撃」(地下壕・地下洞窟の出入口を封鎖し、天井にあたる地面からさまざまな方法で攻撃すること)をはじめた。』(113頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 108、113頁より》

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糸数アブチラガマ(南部観光総合案内センター) | 南城市公式Webサイト 

『まず、…糧秣倉庫を、昼夜24時間交代で見張りしていた3名の監視兵と乳牛が殺害され、糧秣に火が放たれた。…米軍がアブチラガマに迫ってきたとき、…住民の数はおよそ200名であった。…米兵に壕内から反撃があったので、米軍はこの壕を日本軍の巨大な洞窟陣地と思い込んだのか、さまざまな方法で壕内に攻撃を加えてきた。…米軍の攻撃開始は6月6日、8日には…黄燐弾攻撃、10日と11日にはガソリン攻撃13日と14日大砲攻撃をしてきた』(113-114頁)

『黄燐弾は、爆発して飛び散った火薬が人体に触れただけで大火傷をしてしまう強烈な爆弾である。爆弾の破片をまともに受けたら、人体は青白い炎をあげて燃える。』(116頁)

黄燐弾攻撃の被害をうけた男性の証言:

『「…空気穴から投げ込まれた黄燐弾を身体にかぶり、手の甲も火傷して大変でした。壕内にひまし油があったから、服を全部脱いでそれを塗ってなんとか治したが、火傷痕がケロイド状になりましたよ」』(116頁)

ガソリン攻撃を体験を体験した人たちの証言:

『①「米軍は、糸数集落の家屋から茅を抜き取ってきて、この茅にガソリンを染み込ませ、それを空気穴から投げ入れて、同時にガソリンを流し込んで火をつけたのです。米軍は、パッと壕内部で勢い良く燃えることを期待していたはずだが、大量のガソリンは壕内の土砂に染み込んでいき、くすぶるような状態でした。それでガソリンの匂いかガスが発生したのか、身体の弱っている老人や子どもが一晩で4〜5名もなくなりました」(117-118頁)

② 「…壕内は湿っていたので火はつかなかったが、空気穴付近の地面は乾燥していたようで、その付近だけ一日中くすぶったので臭いが立ち込めて大変でした。元気な若い者もフラフラになり、これでみんな死ぬと思いました。これが原因で、数日後まであいついで死んでいきました。…」』(118頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 113-114、116、117-118、118頁より》

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アブチラガマ(南城市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『米軍は、何度も壕内に投降を呼びかけた。しかし、アブチラガマの軍民はそれに応ずる気配をまったくみせなかった。洞窟内に投降を呼びかけても応じない場合はブルドーザーで土を寄せ集め入口をふさぎ、壕内にいる人間を生き埋めにするのが上陸間もないときから行っていた米軍の常套手段だった。

あの手この手を使ってもどうしても投降しないアブチラガマに手を焼いた米軍は、…大砲を引っ張ってきて1発ドカーンと砲弾を撃ちこんだ。壕内に轟音がとどろいた。だが、砲身が長すぎて壕内に照準を合わせにくい上に壕内は曲がりくねっていて大砲攻撃による被害者は出なかった。それどころか、米軍の大砲は壕入口の急傾斜地にずり落ちてしまった。米軍はそれを引き揚げようとしたが、急傾斜のために徒労に終わった。その日にちは6月13日、14日ということである。』(119頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 119頁より》

 

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