〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月14日『やんばるのゲリラ戦』

兵站と戦略 / ナバホ・コードトーカー / 混乱の特攻 / 護郷隊の少年兵 / 田井等収容所の建設

 

米軍の動向

北進する米軍 - 本部半島・八重岳の攻略

包囲される国頭支隊 (宇土部隊) 。

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Chapter 06 | Our World War II Veterans

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PUSHING TO YAE-TAKE, infantrymen of the 6th Marine Division pause on a mountain top while artillery shells a Japanese position. 第6海兵師団の歩兵が山の頂上で八重岳を臨み、砲兵が日本陣地を砲撃する。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 6]

シャプレイ大佐の率いる海兵3大隊は、4月14日八重岳の東部を攻撃し、夕方までには山の第一稜線を完全に確保した。ここでは退却する日本軍が機関銃や小銃で撃ちまくってきたが、その数はたいしたことはなかった。だが、日本軍は海兵隊の行動をよく観察していた。接近路を機関銃や迫撃砲で待ち構え、いつもの戦法で、二、三の部隊を素知らぬ顔で通過させ、その背後から射撃してくるのだった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 134頁》

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《AIによるカラー処理 (註) AI では火炎の色の再現がされていません。》A U. S. Marine truck runs a gauntlet of fire as it dashes through the street of a burning Okinawa village. 炎上する集落の通りをすばやく突っ切り、火の海を脱出する海兵隊のトラック。(1945年4月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

周辺離島の制圧 - 伊江島上陸2日前

伊江島 - 上陸前の爆撃

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

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Aerial view of Ie Shima, Okinawa Gunto, Ryukyu Islands. Taken with a package camera installation on F6F-5 plane from USS RANDOLPH (CV-15). Fires burning on island. 伊江島の空中写真。空母ランドルフ(CV-15)の艦載機(F6F-5)に搭載されたカメラで撮影。同島で火災が発生している様子。(1945年4月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

4月に入ってはじめの10日間は、海軍の戦闘機や軽爆撃機が、洞窟や建物、施設などを爆撃した。4月の10日から12日まで悪天候がしばらくつづいたが、その後の空襲は熾烈さを増していった。13日から15日までに延べ292機によって54回の攻撃が行われ、ロケット弾830発、爆弾35トンが投ぜられ、50ミリ口径機関砲が空中査察や写真で判別できるありとあらゆる目標物を狙って撃ちまくられた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 146-147頁》

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Dive bombers operating during pre-invasion bombardment, Ie Shima, Ryukyu Islands. Taken by USS TEXAS (BB-35). Speed Graphic 15” lens, 1/200” F6.3 K-2 Filter. 伊江島上陸前の急降下爆撃の様子。戦艦テキサス(BB-35)から撮影。15インチレンズ付きのスピード・グラフィック・カメラで撮影。(1945年4月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

東洋一の航空基地を誇りながら、いざとなると島は標的にされるがままだった。

この空襲や、海上からの砲撃が行われている間に、海軍の水中爆破隊は、4月の13日と14日の両日、日中、伊江島の全海岸を偵察した。西海岸の偵察では、爆破隊は日本軍の射撃をほとんど受けることがなかった。この爆破隊の偵察のおかげで伊江島に関する報告、あるいは海岸後方の地形に関する報告を得ることができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 147頁》

 

南進する米軍 - 偵察と補給

圧倒的な米軍のロジスティクス (兵站) 戦略

ホッジ少将が、「この戦争は90パーセントが補給で、あと10パーセントが戦闘だ」と述べたとおり、海岸では、昼夜の別なく陸揚げ作業がつづけられ、おもな補給路はブルドーザーをかけて拡張し、弾薬や補給物資を積んだトラックや水陸両用車が、夜を日についで海岸から列をなした。戦闘で重きを置かれたのは火炎放射機である。これは4月19日の戦闘で沖縄ではじめて使用されることになっていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 185頁》

海兵隊: As fast as LCT's and LCVP's can carry supplies ashore they are unloaded into trucks immediately. Jap gas drums can be seen at left. Yellow Beach #3. 揚陸艇と車両兵員上陸用舟艇が補給物資を岸に運ぶとただちにトラックに積み込まれる。左側に日本軍のガソリンドラム缶が見える。“イエロービーチ3”にて。1945年4月3日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

嘉数 - 日本の防衛陣地に直面し、偵察と通信に集中する。

4月14日から19日までは、米軍散兵線には実質的な変更はなかった。偵察隊が出て日本軍の防衛陣地をさぐり、砲兵隊や艦砲や飛行機が目標を選んで、迫撃砲、砲兵陣地、基地施設を破壊した。地上軍も偵察隊や、飛行偵察隊は、第24軍団前方の陣地を調べ、19日の予備砲撃作戦で破壊すべき洞窟、塹壕、補給地、砲座などを報告した。米軍前線の後方では絶え間ない作業が行われていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 184-185頁》

 

ナバホ・コードトーカー

海兵隊は日本軍の暗号解読に語学兵や日系人兵士を用いる一方で、米軍内の通信は長年の米同化政策で民族の言葉を禁じられ絶滅危惧言語となっていた先住民の言葉をもとに暗号システムを構築、「史上一度もクラックされることのなかった暗号」*1 を担ったのはナバホなど先住民によって構成されたコードトーカーであった。彼らは無線等を介して様々な連絡や指令、情報を伝達した。4月12日のルーズベルト大統領の死を伝えたのも彼らであった*2

故郷の保留地を思い出すのか、恩納村万座毛でたたずむサンドバル。 

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米海兵: Private First Class Samuel Sandoval, of full blooded Navajo indian extraction, relaxes under the Tori Gate in a former Jap park and surveys the scenic beauties of Okinawa. かつて公園だったところの鳥居の下にたたずむサンドバル一等兵。彼は生粋のナバホインディアン (1945年4月14日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

  

日本軍の動向

航空特攻の相打ち、混乱の特攻「桜花」

成功率の低い特攻は、補給不足でますます精度が落ち、日本の横糸なき組織のありかたがさらに足を引っ張る。相打ち、有人の重い桜花が帰還できず投下される事例も。

4月14日 第四回神雷桜花特別攻撃隊出撃(陸攻7・桜花7)。全機喪失。第六建武隊出撃(機数不明)、戦果なし・6機喪失。

米軍にバカ爆弾とよばれた人間ロケット弾について - Battle of Okinawa

4月14日、連日の出撃となると、偵察機の整備が間に合わなくなり、つぎつぎに故障を起す。数字では、35機の「彩雲」がいるはずであった。動けないはずはないと、連合艦隊参謀長みずから調査に出かけたが、どうにもならない。結局、「彩雲」4機出撃。機材がよくなくて、どうしようもない、という結論になった。

やがて偵察機が沖縄の東方洋上に米機動部隊の一部を発見、新鋭戦闘機「紫電」と零戦あわせて125機を制空隊とし、特攻部隊として爆戦21機、「桜花」7機が発進した。

紫電」隊と零戦隊が別々に行動しており、零戦隊の指揮官機が途中故障を起し、引返してきたのもよくなかった。目標まで、あと約半分の距離というところに来たとき、何をどう間違えたのか、喜界島上空(奄美大島の東)で、紫電」が零戦隊を攻撃した。味方射ちだ。おどろいた零戦隊は、すぐ、いっせいに増槽を棄て、戦闘体制をとったが、よく考えてみると、増槽 (長距離用燃料タンク) を棄てたので、このまま機動部隊を攻撃したのでは、九州に帰りつけない。その上、味方射ちを受けたショックは、戦場ではたいへんなもので、零戦隊は、そのまま無二無三に引返してしまった。残った「紫電」は後続距離が短く、沖縄まではいけないので、爆戦、「桜花」隊は、結局裸にちかい姿で、グラマンの蝟集するなかに突入、爆戦21機中19機未帰還、「桜花」隊7機全機未帰還

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 215-216頁》

 

北部戦線 - 八重岳の宇土部隊

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Chapter 06 | Our World War II Veterans

アメリカ軍は、… 4月10日ごろよりまず本部半島の攻撃を開始した。国頭支隊は、質装備ともに十分でなく、兵力もわずかに1個大隊半に過ぎず、案外に早く敵に一蹴され、4月14日支隊長宇土大佐から、「支隊主力は、14日夜暗、八重岳を放棄し、第3遊撃隊の根拠地名護市東北方タニヨ岳に転進し、遊撃戦に移行す」との報告が到達した。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 225頁》

北部戦線において、日本軍守備隊(宇土武彦大佐が指揮する国頭支隊)主力は本部半島の八重岳にたてこもった。米軍はそれ以外の主要な地域を電撃的に占領、4月14日には第6海兵師団の主力により八重岳の攻撃を開始した。

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 77頁》

 

護郷隊 - 「アメリカの銃は軍服を通さない」

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広報おんな 425号 (2016)

沖縄本島北部に布陣していた日本軍は、亜熱帯の森林が広がる「やんばるの森」でゲリラ戦を展開し始める。そこには、主力部隊のほかに「護郷隊」と呼ばれた少年兵部隊が編成されていた。

軍は、護郷隊をまさに主力部隊とは別の、「遊撃」=ゲリラ戦に特化した部隊として位置付けていた

《「僕は少年ゲリラ兵だった 陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊」(NHKスペシャル取材班/新潮社) 24頁》

 

第1護郷隊(別称: 第3遊撃隊 / 隊長 村上治夫大尉)

護郷隊の少年兵 - 沖縄北部には陸軍中野学校の出身将校が率いるゲリラ部隊があった。その構成員は多く10代半ばの沖縄の少年たちで、アメリカの銃は服を通さないなどと信じさせられていた。

護郷隊とは、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年から、沖縄北部に存在した遊撃隊(ゲリラ戦闘部隊)である。およそ1000名の部隊の大多数が、まだ10代の少年たちーつまり子どもたちが兵士として戦場で戦っていたのだ。もちろん、ゲリラ戦を専門とする少年兵の部隊としては、日本軍唯一。史上、他に類を見ない特異な部隊だ。…本島北部に広がる亜熱帯のジャングルのなかで、少年たちはゲリラ戦を繰り返した。今で言えば中学生から高校生にあたる少年たちだ。ジャングルで寝起きし、泥とシラミにまみれ、飢えに苦しみながら、戦闘を続けた。圧倒的な戦力差のあるアメリカ軍を敵として、目の前で友人が命を失っても、泣くことも、逃げ出すことも許されず、戦い続けていたのだ。(17頁)

4月14日、第1護郷隊の隊員…は、名護市羽地村へ5人の仲間とともに斥候に出た。すると、田んぼを歩いてくるアメリカ軍の斥候3人と遭遇。10〜20メートルの距離で、木イチゴの茂みから99式小銃を撃った。「向こうのはバリバリという音で、機関銃。アメリカの銃は弱いから軍服は通さないと聞かされており、怖さはなかった」。

このとき、少年たちはアメリカ兵たちを射殺。しかし、味方も2名が亡くなり、…自身も胸を撃たれ、肋骨4本を砕かれる大けがを負った。少年たちがいたのは、殺し殺される戦場だった。数で圧倒するアメリカ軍は、多野岳周辺の村々を占領。敵軍の陣地となった村に対し、第1護郷隊は、繰り返し奇襲攻撃をしかけた。しかし、こうした攻撃は、少なくない戦死者を出し、時に村への焼き打ちをともない、結果的に少年兵たちのふるさとを破壊することになる。(43-44頁)

《「僕は少年ゲリラ兵だった 陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊」(NHKスペシャル取材班/新潮社)》

 

 

 

そのとき、住民は・・・

田井等収容所の建設

4月7日に名護に到達した海兵隊は、田井等に軍政府を設置、収容所を建設した。

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建設中の田井等収容所

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View of Taira Okinawa where the Military Government is setting up civilian relocation center. 軍政府が民間人収容所を建設しているタイラ(田井等)の様子。1945年4月14日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

田井等収容所: 羽地村に米軍部隊本部が設置されて住民の収容が始まるのは4月7日のことだった。田井等、親川、川上、振慶名一帯に住民が収容され、この一帯に田井等村が組織された。4月15日には池宮城永錫が田井等村長に任命されている。四月下旬、本部半島への避難民が集まって古我知山にできた昭和村から、米兵に促されて約一〇〇〇人の住民が田井等村に移動した(仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』)

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

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Okinawan families crouched in a truck just after being brought down from hills to be established in a new home.トラックの荷台にしゃがみこむ沖縄の人々。新しい家に住まわせるために山から連れてきた(1945年4月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

男性はより厳重な収容がなされ、住民はそれをカンパン (compoundのこと) と呼んだ。

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Okinawan men working on a fence to be strung up surround the men's compound for Okinawans between ages 17-47. 7歳から47歳の男性用収容所の柵を作る沖縄の人々 (1945年 4月14日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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Tent half completed at men's compound. 男性用収容所のテント。半分完成 (1945年4月14日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

民間人収容所 - 脅しではない銃

収容所は、強制収容所であり、逃げようとすれば老人や女性でも射殺された。

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A Navy Engineering Officers attached to military government listens while a Jap interpreter tells a group of Okinawans that they are liable to be shot by Marines if they wander out at night. 日本軍の通訳が、夜間に外を歩き回ると海兵隊員に撃たれる恐れがあると住民たちに告げるのを聞いている軍政府所属の海軍工兵隊の将校。(1945年4月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

島袋 (民間人収容所) では、とても苦労しました。島袋の部落は無傷で残っていましたけれど、沢山の避難民が集められたので、食糧不足だったんです。それから、アメリカーが乱暴するので、こわくてですね。年寄りでも男の人がいるところは、いくらかよかったんでしようが、私は親子二人だけですから......。長男(十九歳)は兵隊にとられていましたし、あとの次男、三男、四男はばらばらになって逃げていなくなっているし、私はおんぶしていた五男(四歳)と二人きりでしたから。

私は子供をおんぶして毎日イモ掘りに出かけました。一軒の家に何十人も詰込まれて、窮屈でしたけれど、外出は割合に自由でした。ただ若い娘は、道を歩いていても、アメリカーから無理矢理に引張られてつれて行かれていました。ほんとうにこわかったんですよ。一緒にイモ掘り作業に行っても、若く見える女は、すぐ引っぱられていました。助けてーしても、男の人も誰も助けることができませんでした。もし男の人が助けようとすると、アメリカーは銃を持っていて、撃つんですから、どうにもなりませんでした。ほんとに撃ち殺すんですよ。

北谷砂辺篇《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

沖縄戦証言 北谷町砂辺 - Battle of Okinawa

民間人は (田井等) 収容所の施設の作業に駆り出されたが、脱走すると収容所近くで射殺されたという。島袋さんはその光景を3度、目にした。「かわいそうだった。やっと生き延びたのに」。収容所では炊事班として働いていた父親と再会することができた。

米軍拘束恐れ 壕を転々/収容所脱走で射殺「3度見た」/名護・田井等の島袋さん | 沖縄タイムス

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/110-05-1.jpg

Civilians lined up for allotment of rice and salt in the village of China [Kina], south of Yontan Airfield on Okinawa in Ryukyus. 米と塩の配給のために並ぶ民間人。読谷飛行場から南にある喜名の村にて。(1945年4月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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左: Fields of sweet potatoes being leveled off so that shelters can be made. 収容所建設のため、さつもいも畑の整地が行われている。(1945年4月14日)

右: Marine Pvt. O. C. Griffith, USMCR, Route 4, Box 303, Phoenix, Arizona, operates bulldozer on Okinawa, as fighting continued. 戦闘が続く中、ブルドーザーを操縦している海兵隊予備役のグリフィス二等兵。(1945年4月14日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

捕虜となった医師

米軍に捕らえられた医師は、捕虜収容所や民間人収容所で医療活動を行った。

捕虜収容所で日本兵捕虜を治療する日本人の軍医

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米海軍: A Jap doctor treating a Jap in a prison camp on Okinawa in Ryukyus. Serious cases are taken to U.S. first aid stations. 沖縄本島捕虜収容所で、日本兵を治療する日本人医師。重体の場合は、米軍の救護所に搬送される。(1945年4月14日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

民間人収容所で住民を診察する沖縄人医師

海兵隊: Native doctor at work.  診察中の沖縄人医師 1945年 4月14日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

「軍政府」military government とはすなわち民間人収容所のことである。

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Military Government examining people. 軍政府による住民検診(1945年4月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

Okinawan mother and her injured child.

沖縄の母親と怪我をした子供(1945年4月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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