〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月28日 『軍事基地の確立』

米軍基地の建設 / 日本軍の軍隊内暴力と「処刑」 / 硫黄島からの軍医と衛生兵

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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沖縄戦のあいだ、米軍は前線では戦闘を、後方では民間人を収容所に移送しながら、11の飛行場約20の小飛行場、道路や港湾、兵站基地などその他の軍関連施設を次々と建設していった。

米軍が沖縄に侵攻したのは、日本本土上陸作戦に向けての軍事拠点の確保が目的だった。沖縄攻略作戦は「アイスバーグ作戦」と呼ばれているが、この「アイスバーグ作戦の目的」は、「日本本土ならびに周辺海域から接近する敵海軍及び航空隊を攻撃する」、「東シナ海海上を挟む地域における今後の作戦を支援する」、「大日本帝国、アジア大陸、台湾、マレー半島、オランダ領東インド諸島の間で行われている日本軍の海上及び航空通信を遮断する」という3つの事項を遂行し、「軍事基地を確立する」ことだった(『沖縄県史資料編12』46頁)

基地建設計画のなかでも飛行場の確保と建設は大きな柱だった。当初の計画では、読谷嘉手納牧港那覇泡瀬普天間テラ (糸満)、与那原の8飛行場を確保することが目指された。

《「暴力と差別としての米軍基地  沖縄と植民地ー基地形成史の共通性」(林 博史/かもがわ出版) 75-76頁》

日本本土への爆撃

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North American B-25 ”Mitchells” taking off for bombing mission to Sasebo Harbor, Kyushu. This was the first mission to use mark 13 torpedoes. 47th Bomb Squadron, 41st Bomb Group. Okinawa, Ryukyu Retto.

九州の佐世保港への爆撃任務のため離陸するノース・アメリカンB-25ミッチェル。13型魚雷を使うのはこれが最初の任務である。第41爆撃群第47爆撃中隊。沖縄。(1945年7月28日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊江島飛行場

伊江島を早期に占領した理由の一つは、攻撃を支援する戦闘機の飛行場がさらに必要だったからである。最初の戦闘機航空群は5月10日までにここに配備された。6月14日までには3つの戦闘機航空群と1つの夜間戦闘機飛行隊(Squadron)が伊江島に配備された。

《「暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地ー基地形成史の共通性」(林 博史/かもがわ出版) 79頁より》

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11/2 mi. fighter taxi strip built by 106 NCB on Ie Shima, Ryukyu Is.

第106海軍建設大隊が伊江島に建設した1.5マイルの戦闘機誘導路(1945年7月28日撮影)

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… 道路や飛行場の建設にあたって、「現地の資源」として、大量のさんごと砂、石灰岩が利用されたが、南部では村のガレキや首里城の石が使われたという。(84頁) … またハイウェイ、滑走路、弾薬集積所などの建設のためにブルドーザーで家々を破壊し、「ときには村全体が司令部の基地開発計画とその実施の犠牲になった」。また米軍が「住民が後に使用できたはずの住居を砲撃し焼却した」こともあり、住居不足と土地問題が深刻化した(『沖縄県史資料編12』46頁)。(85頁)

《「暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地ー基地形成史の共通性」(林 博史/かもがわ出版) 84、85頁》

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第106海軍建設大隊による伊江島での珊瑚掘削作業。掘削された珊瑚は、道路や滑走路の建設に使われる。(1945年7月28日撮影)

Operations at coral pit used by 106 NCB for roads and airstrips on Ie Shima, Ryukyu Is.

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道路と橋の工事は沖縄作戦の中で最も優先された。「上陸日より海辺と岸の集積所からの道路が改修され、その後、主要な力点は、師団や軍団の主要補給路、恒久的ならびに半恒久的な補給施設と建設中の飛行場への道路におかれた。港と海岸が開発されるにしたがい、そこへの道路も開発された」。

《「暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地ー基地形成史の共通性」(林 博史/かもがわ出版) 83-84頁》

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第106海軍建設大隊が伊江島に建設した通信事務所(1945年7月28日撮影)

Building built by 106 NCB at Ie Shima, Ryukyu Is. Communications office.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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第301戦闘機群が管理する兵舎。第106海軍建設旅団により伊江島に建設。(1945年7月28日撮影)

301st fighter group control quonset huts built by 106 NCB on Ie Shima, Ryukyu Is.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

那覇飛行場

那覇飛行場の早期の展開計画は変更され、ここは航空廠として整備することになった。再整備の予定は7月2日とされたが、工兵隊の不足によりできなかった。

《「暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地ー基地形成史の共通性」(林 博史/かもがわ出版) 82頁より》

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那覇飛行場の極東空軍第9兵站部事務局。この兵站部は沖縄の航空部隊の活動に必要な空軍設備を全て扱っている。那覇飛行場に隣接した地域は第933航空工兵大隊が片づけた。(1945年7月28日撮影)

Office section of the Far East Air Force Depot #9, located at Naha Airfield. This Depot handled all Air Force equipment needed for operations of Air Corps units on Okinawa Island. Area adjacent to the Naha Airstrip is being cleared by the 933rd Aviation Engineer Battalion.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊江島と沖縄島に基地建設が集約されたため、1945年の沖縄では、戦争そのものだけではなく、米軍の基地建設によって膨大な命が奪われた。

米陸軍公刊史書が記す沖縄の占領

計画段階で、第10軍は慶良間列島と沖縄島を占領した後、アイスバーグ作戦の第3段階として沖大東島久米島宮古島、喜界島、徳野島の少なくとも5つの島への侵攻を想定していた。これらはその後、空軍基地やレーダー前哨基地として開発されることになっていたが、しかし、攻撃段階での偵察により、これらの 5つの島のうち、そのような開発に適しているのは久米島だけであることが判明した。第三段階の中止は6月26日に行われた。

この中止は沖縄島と伊江島に多大な影響を与えた。… 当初これら2つの島に予定されていたのは10の滑走路であったが、この変更で沖縄に18の滑走路、伊江島に4つの滑走路が計画された。5月末までに、22の滑走路のうち10の滑走路が建設中だった。そして、沖縄の基地開発計画で求められた建設は戦闘終了までに完了していなかったが、その基地建設により占領面積はますます拡大し、住民の住居地は主に島の北部の劣悪な狭い範囲に縮小された。

Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950; Center of Military History U.S. Army, Washington, D.C., 1988. p. 57

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵 - 米軍野戦病院と衛生兵

米軍の衛生兵 (corpsmen) と日本人捕虜

私たちの幕舎の担当になっていたレインボウという赤毛衛生兵は親切な男であった。幕舎内のすべての患者に対して気をつかってくれた。彼はガダルカナル、ブーゲンビルから南太平洋の島々とフィリピンを経て沖縄戦に参加した。衛生兵とはいっても、一般の歩兵同様に完全武装をして上陸作戦にも参加したと話していた。それでも病院勤務の「コーア・メン」と呼ばれていた衛生兵たちはおとなしい人柄のものが多かった。

… いまひとりシィヴァソンという口髭をはやした衛生兵がいた。… あるとき、一つ星の将軍が病気を視察にきたらしく、私たちのテントの前を通った。入口の支柱に手をかけて将軍一行の通るのを見ていたシィヴァソンは挙手の礼をしなかった。変だと思ってあとできいてみると、「ここは戦場だ。将軍もないさ。おれは彼の部下ではないよ」といって彼は大げさにぺっとつばをはいた。私はおどろいたアメリカの軍隊は変わっている。とても日本の軍隊では想像もできないことである。日本では将軍のご入来となると、まるで皇帝でも迎えるような騒ぎになる。ところが、アメリカの民主主義というものか。

病院内での将校とコーア・メンとの間がらも日本の軍隊では考えられないことばかりであった。古参兵らしいのと新兵と、年配のものと若いものと、将校たちと、兵卒と、その関係は友だち仲間のようであった。いくら戦友といっても、日本の軍隊では「階級」がものをいった。このアメリカ軍ではそのような気配がまるでみえない。学校のクラスメート同士のつき合いのようである。

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 188-189頁》

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海兵隊: A far cry from the March of Death--this wounded Jap is placed in a stretcher by corpsmen and examined by Lt. Charles W. Stoops (MC) USNR ...
「死の行進」とはほど遠く、衛生兵によって担架に乗せられた日本人負傷兵と彼に質問するストゥープス海兵隊中尉。1945年9月3日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

※ 「死の行進」= 「バターン死の行進」(1942年4月9-17日)、「サンダカン死の行進」(1945年1月29日-2月6日) では多くの米兵とフィリピン人捕虜が、非人道的で残虐な移動を強いられ多数死亡した。このことから国内では日本兵捕虜をジュネーヴ条約に沿って人道的に扱う必要はないという世論も多かった*1

 

日本軍の軍隊内暴力と「処刑」

一方、日本軍の「しごき」という軍内暴力の体質は平時ですら陰惨なものであったが、戦況が絶望的なものになると歯止めを失った。民間人の虐殺だけではなく、軍隊内でも「処刑」が行われていたことは幾つか証言されている。

宮古島で現地召集された防衛隊員の証言

銃でなぐりつけないまでも、手でなぐる時、並ばせて二十人までは連続ビンタをはるのだが、あとは腕がつかれるのか、革の帯かくでなぐりつける。それが反対側の方向に巻きつき、それを引くと転倒させられる。なぐった方は忘れても、なぐられっぱなしになった者達は今でもその手きびしいリンチは忘れん。大浦部落南のフジ峯あたりも皆日本軍の陣地になっていた。そこに鈴木という中尉がいた。体は大きく顔の小さい男だった。部下の衛生兵が隣の島尻部落に転向していた部隊にマラリアにかかった兵隊に投薬しに行った。ものすごい雷雨の夜、苦しがる兵に投薬してこの雨にぬれたら自分も病気になると思ってたのか、そこで一泊して帰隊したという。連絡がなかったという理由で部隊逃亡の罪を着せて、その中尉は、半殺しになるまでなぐりつけた上、個人壕に入れて、水も飲まさず、食も与えず、上からカンカン箱をかぶせて、生きうめ状態で殺してしまった。泣きわめく声が部落にまで聞えていたが、だんだんその声が弱くなり、あとは聞えなくなってしまった。

『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 1 - Battle of Okinawa

慶良間諸島でも食糧を盗んで食べただけで処刑された兵士の例などがある。住民虐殺にも手を染めた赤松隊の一人の兵士はこのように証言する。

上官の命令は、そのいかんを問わず、天皇の命令も同じことですから、服従しなくてはなりません。沖縄戦についての本の中に、渡嘉敷で集団自決があったとか、虐殺があったとか、書かれていますが、それは間違いです。軍隊には、法というものがあります。それを犯すとしなくてはなりません。罰して殺す場合もありません。私は支那で四年も戦争して来ましたからよく知っています。敵に捕虜になることも、今いう法に触れることになります。前線では、夜間、誰何して、三回呼んでも返事がない場合殺してもよいことになっています。これも法です。

沖縄県史 戦争証言 渡嘉敷編「渡嘉敷島で起ったこと」

兵士たちはなぜ「処刑」されたのか。

67年前の太平洋戦争末期、フィリピンやニューギニアなどの南方戦線で補給が断たれた日本軍に“異常事態”が起きていた。飢えに苦しみ、食糧を求めてジャングルをさまよった日本兵たちが、部隊を勝手に離れたとして「逃亡罪」で次々に拘束され、処刑されたのだ。しかし、当時の記録は、ほとんどが軍によって焼却されたため、その詳細は今まで明らかになってこなかった。
今回NHKでは、その内実に迫る貴重な資料を入手した。戦場で開かれた特設の「軍法会議」で兵士たちを実際に裁いた軍の元法務官が、密かに残した内部文書と14時間に及ぶインタビュー・テープである。兵士たちは、なぜ処刑されたのか。そこで語られていた元法務官の証言は、衝撃的だ。軍紀を守るために厳罰を科し“見せしめ”を求めた軍上層部の意向で、本来なら死刑にならない罪でも兵士を処刑した、というのである。「法の番人」であるはずだった法務官たちは、なぜ、軍の上層部に抵抗し続けることができなかったのか。

戦場の軍法会議 ~処刑された日本兵~ - NHKスペシャル

 

沖縄に移送された硫黄島の軍医・衛生兵

6月10日頃、米軍は硫黄島で捕虜となった日本の軍医・衛生兵を沖縄島に移送した。

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米国海軍: Japanese doctors and corpsmen leaving Guam to go to Okinawa in Ryukyus to give medical care to civilian internees. Here they are in landing craft being taken out to a transport. On LCM.
民間人捕虜を治療するために、グアムから沖縄へ向かう日本人の軍医と衛生兵。輸送船へ移動するために、揚陸艇に乗っているところ。1945年 6月10日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

硫黄島で捕虜となっていた軍医6人と衛生兵20人がグアムから沖縄に移送され、6月27日から米軍の野戦病院で医療活動を開始。その後、田井等収容所の真喜屋病院に移されたとおもわれる。

さらに、特記すべきことは、硫黄島にて捕虜となり、グアム島の捕虜収容所に抑留されていた日本人軍医6人と衛生兵 20人が沖縄戦の渦中の6月に沖縄に派遣され、米軍野戦病院にて治療に携わったことである。

《保坂廣志『沖縄戦のトラウマ: 心に突き刺す棘』(2014年) 紫峰出版 27頁》

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米国海軍: Japanese doctors and medical corpsmen among the prisoners of war on Guam being transported in trucks from stockade to ship with Marine guards. They will leave for Okinawa to give medical care to civilian internees.
グアムで戦争捕虜だった日本人の軍医と衛生兵。海兵隊護衛兵の付き添いの下、捕虜収容所から船へトラックで移送されているところ。民間人捕虜の治療のために沖縄へと向かう途中。撮影地: グアム 1945年 6月 10日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍は第一次世界大戦から継続して戦闘疲労症に向きあってきた。沖縄に専門医を派遣して第87野戦病院を設立し、また田井等民間人収容所に精神科病棟が開設された。硫黄島から移送された捕虜軍医の一人は精神科医、またひめゆり学徒ら20名が看護に加わった。

収容後、真喜屋の病院で働いた宮良ユリ (ひめゆり学徒隊) 証言

真喜屋の病院では、 米兵と硫黄島で捕虜になった日本兵と沖縄の人達がいっしょになって働いていました。日本の兵隊たちは木麻黄が 3~4 本生えた砂浜の金網で仕切られたところで生活し、 勤務の時にはカービン銃を持った米兵に前後を守られて出勤し、 帰りも同じでした。 そのようすは見るも哀れに感じられました。真喜屋の病院には、 負傷した人より、 マラリアと栄養失調に犯された人がたくさんいました。

... 精神病棟で働くことに決めました。 戦前の那覇の商店街では、 よく精神異常者を見かけたものですが、 ああいった精神異常者たちが生きのびて収容されていたのです。 また、 戦争のショックで気が狂ってしまった人たちもいました。 暴れて手のつけられない患者は金網で仕切った独房に入れられていました。 「こわいよ、 こわいよ。 弾が飛んでくる」 とさけび、 うずくまる患者の姿を見るにつけ、 私は戦争を憎まずにはおれませんでした。

宮良ルリ『私のひめゆり戦記』二ライ社 (2003) pp. 171-180. from 當山冨士子、高原美鈴「沖縄における精神科医療の黎明」(2012) p. 95. 》

清水純一元軍医の証言

また、医療補助者として看護婦代わりに現地の娘さんたちが集められ手伝うようになりました。そこへ丁度、姫百合部隊生き残り20名が手伝いを志願して来ました。これら娘さんの話を聞くと、彼女らは自決した同級生に対し、自決しきれなかった自分たちを恥じ深くわびている様子で彼女らは、誰もがいやがる精神病棟の不潔な患者の始末を進んで引き受け、きびきびと動き、私たちは感動に胸がつまる思いでした。

《吉川武彦編『沖縄における精神衛生の歩み』 258頁》

 

そのとき、住民は・・・

沖縄本島北部 - 飢餓と敗残兵と米軍

7月には、国頭村大宜味村、東村などの北部で主に住民が (ブログ註= 読谷村の住民だけで) 129人亡くなっている。そのうち84人が栄養失調だった。山中をさまよい、7月になっても爆撃によって亡くなった人もいる。米軍による敗残兵の掃討に巻き込まれた可能性もある。ほかにも、読谷村近くの金武や宜野座、石川の収容所でも亡くなっている。こちらも病死、栄養失調が多い。

第2章 米軍は読谷を目指した - 沖縄戦デジタルアーカイブ「戦世からぬ伝言」

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大宜味村の山奥に隠れ住んでいた平良さんら住民は餓死から逃れるため山を降りる決心をします。それを止めようとしたのは日本軍でした。

平良さん「だから、敗残兵、つまり山奥にいる日本軍、当時は友軍っていったがのこのこ出入りしていることを知っているから米軍は何時にってね。そこでちょうど土手がありましてね、ねらい撃ちがきくわけですこうしてね、川があるでしょ、畑のほうへ橋の上で至近距離ですよ3メーター5,6メーターやったと。行くと鮮血がね、ドロドロとした血がいっぱいあったよ」

山にこもって三々五々ゲリラ戦を続行する日本兵。彼らにとってアメリカ軍と交渉しようとする住民は作戦上許せない存在と映ったのです。かつての友軍は恐ろしい存在になっていました。

平良さん「この時ごろじゃないか、うちのオヤジがひっぱられるんですよ米軍に。(なんでひっぱられたんですか?)山にいる日本軍と連絡取り合って、なにかするんじゃないかと疑い、嫌疑かけられたわけ。2、3日、1週間帰ってこないからもうやられたんだと思って」

その後平良さんは父親と再会を果たします。

平良さん「後から聞くと辺土名の豚小屋のところ、そこを仮に囲んで牢屋にいたらしい。(天井が)低いでしょ大変だったらしい日照りとか真夏でしょ。」

アメリカ軍には日本軍に協力していると責められ友軍にはアメリカの捕虜になるなと止められ、北部山中は7月もこれまで以上に厳しい状況が続いていました。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月28日(土)

数十日後、収容所で家族と再会できた平良さんが山で見たもの。それは弾を受け倒れ、栄養失調やマラリアで命を落とす人、敗残兵による食料の強奪、避難民同士の食べ物の奪いあい。それは想像を絶するものでした。

特集 島は戦場だった 80歳最後の同窓会への思い – QAB NEWS Headline

 

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*1:日本兵捕虜の扱いにおいて、内外の批判もありながら米軍が最後まで最低限ジュネーヴ条約に沿う基準を守った背景には、日本軍に捕らえられた米軍捕虜を同様に人道的に扱うことを日本側に求めてのことだったとされている。参照 中田 整一「トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所 (講談社文庫) 」(2010)