司令部壕の酒宴と女性達 / 総攻撃部隊の殲滅 / 八重山支庁
米軍の動向
南進する米軍
勢理客(じっちゃく): 第1海兵師団、第5海兵隊連隊
5月3日の戦闘も前日までと同じような戦いだった。海兵隊は海岸線ぞいの低地帯を進撃しつづけていった。だが、まもなく、もしそのまま進撃していけば、部隊は小銃や迫撃砲の攻撃を、東側の丘からうけることは必定であるということに気づいた。総攻撃をはじめるとすれば、その前に、海岸線から東にのびる高台にある陣地はすべて片づけておく必要があることが明らかになったので、5月3日以後の攻撃計画では、主軸を南東のほう、この高台に向けることにした。
仲間(なかま): 第307連隊
3日になって、同連隊の第1大隊は手榴弾戦で死闘をくりひろげたが、日本軍もまた、反対側の丘腹から手榴弾や機関銃弾を雨あられのようにそそいで激しく応戦し、加えて遠距離から81ミリ迫撃砲で攻撃してきたのである。それはまったく地獄絵図だった。帰ってきた兵隊は、「もう二度とあんなところへなんかいくもんか」と叫んだ。だが、小隊長の話によると、そういった兵隊自身、5分もたつと、ふたたび手榴弾をもって引き返していって、栓をぬくが早いか、日本軍めがけて投げつけたのである。
幸地(こうち)・翁長(おなが): 第17歩兵連隊
5月3日の未明のうちに予備砲撃を加えてから、第1大隊が東から、第3大隊が西側からそれぞれ進撃し、共同作戦をとってC中隊は翁長の南西、幸地丘陵の東にあるハウ高地に進撃した。しかし、日本軍が猛烈に機関銃や小銃をもって反撃するのに加えて野砲、迫撃砲弾多数を撃ち込んできたので、米軍のこの進撃もすっかりだめになってしまった。第7師団が幸地丘陵を奪ることもできずに失敗ばかりつづけているので、第24軍団長のホッジ少将は、しだいに不安の色を濃くしていった。
日本軍の奇襲上陸・特攻機対応と被害
…5月3日、西に陽が沈むとともに、日本軍は、…米軍前線に集中砲火をあびせ、各部隊はそれぞれの位置についた。3名ないし4名からなる少数の兵がグループをつくって〝偵察突進隊〟とか〝左翼突進隊〟として、米軍の前哨地や重機陣地、通信施設、集積所を攻撃し、煙筒を打ち上げて情報を後方の友軍に知らせよ、との命令をうけて進撃を開始した。日本軍の戦車第27連隊は石嶺に転がり込むように進んできたが、その途中、数輌が米軍砲火の前にやられてしまった。那覇の近くや与那原南の海岸には、海上輸送連隊が舟艇を集結して、攻撃準備をととのえていた。
米国空軍: Flak bursts over LST (Landing Ship Tank) in harbor at Okinawa, Ryukyu Retto. During landing operations of the 1878th Engineer Aviation Battalion on 3 May 1945, the Japs staged an attack; one plane was shot down and suicide dived into American cruiser causing serious damage.
沖縄の港で停泊中の上陸用舟艇上空で対空砲火が炸裂する。1945年5月3日の第1878工兵航空大隊による上陸作戦の最中に日本軍が攻撃をしかけた。一機が撃ち落とされ特攻機は米軍巡洋艦に突っ込み甚大な損害を与えた。
… 5月3日の夕暮れ、神風特攻隊が、米艦船団に襲いかかってきた。〝自爆機〟が1時間で5機も、アーロン・ウォード号に突入し、艦は炎上し、乗組員98名が死傷した。また別の3機は、爆弾をかかえたままリットル号につっこんで、これを撃沈させた。この急襲で、結局、米軍は軍艦2隻が沈没し、4隻が破損するという損害を出した。だが、米軍も飛行機や対空砲火で応戦して、日没までに特攻機14機と、ほかに22機を撃墜した。
Jap suicide torpedo plane hits destroyer during air raid at Okinawa, Ryukyu Islands.
沖縄への空襲作戦中に、駆逐艦に体当たりする日本軍特攻機。(1945年5月3日)
米国海軍 Ships at Kerama Retto, Ryukyu Islands putting up protective smoke screen as general quarters is sounded in early evening.
夕暮れに全員配置の防御用煙幕をはる米艦船 慶良間 1945年 5月 3日
第32軍の動向
軍司令部 - 戦勝前祝会の酒宴
5月3日、牛島軍司令官は総攻撃計画に際し次の訓示を行った。(筆 長参謀長)
皇国の安危懸かりてこの一戦にあり。全員特攻忠則ジン命の大節に徴し醜敵撃滅にばく進すへし。皇紀2605年5月3日 軍司令官 牛島満。
戦史叢書第011巻 沖縄方面陸軍作戦 (防衛研究所) 453頁
その夜、5月2日の夜にひきつづき首里の司令部壕では、逆上陸作戦の最中でありながら「戦勝前祝会」として華やかな酒宴がひらかれ壕内の「盛装の娘たち」が付き添った。もともと総攻撃に反対であった八原博通参謀は「前祝」として決行中の逆上陸作戦すら心配する気配のない様子を、皮肉を込めて「立派な態度、悠々たる将軍振り」と記している。
左右逆上陸隊が、粛々として暗夜の海上を、決死進撃の最中の5月3日夜、戦勝前祝会が牛島、長両将軍の居室になっている壕内で開催された。… 洞窟の中ではあるが、電灯は明るく、食卓の準備も綺麗にできあがり、酒も不足せず、ご馳走はかん詰め材料ながら本職の料理人の手になり、相当なものである。
各将軍はアルコールの回るにつれ、朗らかになり、明日の戦いを語り、必勝を論じ、談笑尽きない。盛装の娘たちが、華やかに酒間を斡旋する。自身に満ちた、和やかな楽しい空気が洞窟のすみまでゆきわたり、ご馳走にありつけぬ、幕外幾多の将兵もなんとなく楽しくなる。(274頁)
幕間にかいま見える将軍中、たれ一人として明日の戦い ー 否、すでに今夜、その先鋒は、東西両海岸に沿い、汐吹雪を浴びて、必死攻撃に移っている ー を憂うる気配は見えない。立派な態度、悠々たる将軍振りである。…歓談数刻、「天皇陛下万歳!第32軍万歳!」の唱和を最後として宴は散じた。(275頁)
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 274、275頁より》
特殊軍属 - 首里司令部壕の女性たち
首里の司令部壕には「特殊軍属」とよばれる女性たちがいた。
日本軍が芸者などを本土から沖縄に連れてきて設置した「偕行社」にいたとみられる女性らが、沖縄戦を指揮した第32軍司令部の「特殊軍属」として動員されていた…
琉球新報 2021年1月6日 『沖縄戦、32軍司令部に「特殊軍属」~ 留守名簿に記載 本土の女性ら動員、識者「慰安婦」と指摘』
司令部勤務の女性職員が司令官、参謀長、参謀に当番として配属されていたほか、さらに偕行社の芸妓十数人、那覇の花柳街辻町の料亭「若藤」の遊女 (注・じゅり) 十数人が居住していた。(児島襄『指揮官』1974年 38頁)
決死の逆上陸部隊 - 西も東もほとんど全滅
司令部壕で華やかな「戦勝前祝」の酒宴が開かれている頃、無謀な逆上陸作戦を命じられたおびただしい兵士が出撃、ほとんどが殲滅された。
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]
5月3日の昼間は、何一つ新しい動きは見えず、第1線で死闘を繰り返していたものが、日が落ちると同時に、日本軍は「爆発的に」行動を開始した。
総攻撃の口火は、まず、3日夜、陸軍舟艇部隊(船舶工兵1コ連隊基幹の逆上陸部隊2つ)の出撃で切られた。西逆上陸部隊は、約700名。大発約10隻、その他クリ舟、特攻艇多数に分乗、那覇付近を出、煙幕を張りながら約9キロの海を大山に向かい、東逆上陸部隊は約500名、与那原付近を出、約6キロの海上を津覇に向かい、それぞれ米軍第1線の後に回り、奇襲上陸しようとした。
しかし、小舟であっても、多数の舟艇が動けば、白波も立つし、夜光虫もキラキラする。その上、夜のことで、西逆上陸部隊は方向をまちがえ、米軍の防衛陣の中に突入した。2キロばかり進んだ小湾沖に接近中、陸上から米軍に発見され、猛烈な集中射撃を浴び、海上の艦艇からも照明弾を打ちげられ、射撃を受けるという最悪の事態になった。もはやこれまで。意を決した佐藤連隊長は、大発を海岸にノシ上げ、米軍と交戦、大部分は海岸で戦死。一部のクリ舟に乗った部隊約65名は、目的地大山を通り越して、伊佐まで行ったとき、米軍に発見され、上陸して交戦したが、ほとんど戦死。
一方、与那原を出た東逆上陸部隊は、目的地の3キロで米艦艇に発見され、照明弾の下で陸海から猛撃され、ほとんど全滅。期待された逆上陸は、こうして東西両海岸とも失敗に終わった。
逆上陸で使用されたものと同じ舟艇「大発」(発見場所: 那覇)
Some 48-foot folding landing craft, a type used by the Japanese in their attempted surprise landing during the night of 3-4 May, were found at Naha after its capture.
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 12]
日本軍はまた、読谷飛行場にも集中爆撃を行い、その他の海岸施設も攻撃した。船舶工兵26連隊の将兵数百名が対戦車砲、重機、軽機のほかに何千個の爆雷をもって、読谷と嘉手納両飛行場下方の上陸地点めざして煙幕をはりながら進んできた。ところが、彼らは方向を誤って、米軍が強固な防衛陣をしいている地点にきてしまった。
午前2時ごろ、小湾にいた第1海兵師団の兵が、護岸から、目ざとく10隻の舟艇が進んでくるのを発見して、ただちに集中攻撃をあびせかけた。海軍は照明弾を打ち上げて海面を照らし、1千発もの弾丸を撃ちまくった。
…ところが、米軍のこの攻撃にもかかわらず、かなりの日本兵が海岸にたどりついた。…小湾に侵入した兵たちは、後で海兵隊に掃討されてしまった。…わずかばかりの兵が、北谷から2キロほど南の伊佐浜に逆上陸して北谷に向かったが、難なく米軍包囲網にあい、翌日は殲滅されてしまった。
一方、沖縄東海岸での船舶工兵連隊は、なおみじめだった。数百名の兵が、各種各様のボートに乗り込み、なかには防衛隊にくり舟を漕がして北進し、米第7師団戦線の後方に上陸を試みたが、ほとんどが途中で、中城湾にいた米軍艦や第7師団の偵察隊、さらに、陸上の第776水陸両用戦車大隊の攻撃にあって、あえない最期をとげた。日本軍の海からの逆襲は、完全な失敗を喫した。…船舶工兵隊は、その後、二度とは逆襲はを試みなかった。生き残った兵は歩兵として、沖縄戦に参加した。
棚原高地への総攻撃
激しい攻防が続く前線では、前日に総攻撃命令を受け、夜中に突入を開始した。
首里平良(たいら)町: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)
3日夕刻、146高地と120高地の奪取を師団長が賞し、恩賜の煙草が連隊本部を通じて伊東大隊と第89聨隊第2大隊に贈られた。もとより聨隊本部は、奪取に成功しなかった第89聨隊第2大隊には渡さなかったと聞く。伊東は、最後の打ち合わせのために大隊本部を訪れていた工藤、岸、高井の各隊長たちと煙草を分けあった。4人とも言葉少なにそれぞれの感慨に浸りながら煙草を胸深く吸い込んでいた。(今となっては万難を排し、棚原高地を目指して突進するだけだ) 伊東は部下の各隊長をぐるりと見渡した。皆、黙っている。
24時、第3中隊(1個小隊欠)が第一線となって前進を開始した。…やがて前方から激しい銃声が聞こえた。…銃声に交じって擲弾筒の発射音がする。第3中隊が敵と銃火を交えているのだ。…「第1小隊はほとんど全滅、…中隊指揮班半減です」…「あそこまで出ると皆やられます。どうしても駄目です」
振り返ると、銃火に引き寄せられて各隊がどんどん前進してきている。狭いところに大隊の全兵力が集まってきてしまった。…空も白み始めてきた。ぐずぐずしていると全滅だ。足下には部下の屍が累々と横たわり、重症の兵が呻いている。…「もとの位置で防御配備につけ!」すると誰かが「退却!」と叫んだ。伊東は声を荒げた。「退却ではない!もとの位置につくのだ!」…大隊は各隊長や副官の指示に従い、迅速に昼間防御の態勢に移った。
そのとき、住民は・・・
八重山 (石垣) 支庁の停止
日本軍の飛行場が建設されていた八重山群島は英国艦隊が編入され、毎日のように激しい空爆で、完全に封じ込められていた。
5月3日、石垣島では県八重山支庁が空爆をうけ八重山における県の行政は完全に停止しました。
年明けからアメリカ軍の空爆と艦砲射撃にさらされていた石垣島。爆撃は4月からよりいっそう激しさを増していました。5月3日早朝、県八重山支庁の大桝久雄支庁長は、空爆が続く中、登庁。職員に指示をした後、官舎に戻りました。その後空爆はさらに激しくなり、大桝支庁長は避難しようと八重山支庁内の防空壕に向かいましたがそこはすでに職員で満杯。砲弾の降り注ぐ中を官舎へと引き返した大桝支庁長は官舎の壕に入りましたがその直後、爆弾が防空壕を直撃し大桝支庁長は即死。八重山における県の行政はこの日から完全に機能が停まったのです。
石垣島 - 平良飛行場
1942年9月に日本海軍は土地を強制接収し平得飛行場の建設を始めた。
「わたしたちが全く知らないうちに軍部と役所で測量がなされ、地主が調べられ、名薄までつくられていたわけです。早速、地主と部落の幹部が呼び集められ、今後の問題についていろいろと話し合いがなされたが、誰一人として反対する者はなく、表面的には仕事は順調に進められた。しかし、茶の間では土地を取り上げられた部落民の不満や怒りはかくしきれず、同時に深まりゆく戦争への不安が尽きなく話し合われたものでした。」
「わたしは、三町歩の土地を取り上げられました。やむなく川原部落近くに土地を求めましたが、その土地も大浜国民学校敷地の移転の予定地だということで取り上げられ、ほんとうに踏んだりけったりで、泣くにも泣けず、怒りに燃えつつも、何より恐しいのは軍のことで意見を述べることもできなければ、ぐちひとつ言えず、ほんとにつらい毎日でありました。」
多くの島民だけではなく朝鮮人労働者が連れてこられ働かされた。
ここでついでに、着工当時の模様を見てみると、まず工事請負いの責任者には本土業者の原田組が当たった。人夫はほとんど地元から雇っていたが、やがて朝鮮人が百人程送り込まれてきた。そして1943年(昭和18年)2月頃から、国家総動員法による平得海軍飛行場建設就役のために、八重山郡下に及ぶ徴用令が発動されたのであった。ここには60歳未満の男女がかりだされ、動員署から区長、隣組長を通じ徴用人名が連絡されてきた。遠く離島各地からも食糧を持参して、二・三週間も民家や部落会館を借りたりして、徴用の任務を遂げなければならなかった。
動員された数は一日平均二千人は越えていた。馬車も強制的に徴用されるし、作業用具も個人の負担で持参し、とても重労働であった。
作業中背をのばして休んだりすることは許されず、憲兵や軍の幹部が常に監視の目を光らし、少しでも仕事を休む者があれば、どなり、暴行を加えることさえあった。特に朝鮮人に対しては作業はたいへん厳しいものであった。危険な作業、たとえば爆発物の取り扱い等はほとんど朝鮮人にまかせるという状況であった。
(本土の) 原田組が工事を担当していたが、中に朝鮮人労働者がたくさんいて、大きな金槌を細い柄をたわませて、「サニヤー、サニャー」とかいうようなかけ声をかけて槌を振る。単調ではあるがその音が規則正しく響く。時々厳しい監督がやって来て、口ぎたなく罵り、鞭でびしゃりとやる音が今も私の耳に残っている。「生かさず、死なさずに使う」と言ったのはこのことと、実にひどいと思った。滑走路の真中で機銃掃射を受けた日の恐怖は今も忘れることができない。
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石垣市、国有地と交換案 陸自基地予定の市有地 元地主ら猛反発:東京新聞