〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月22日 『伊江島の集団自決』

飛行場建設伊江島の集団自決日本軍のオトリ飛行機

米軍の動向

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沖縄視察中の米海軍ニミッツ元帥と高官。(1945年4月22日撮影)

Adm. Chester W. Nimitz, USN and high officials on tour of Okinawa, Ryukyu Is.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

伊江島の制圧と飛行場建設

4月21日伊江島の戦いは完了し占領が宣言されたが、決死の自爆攻撃が続いた。

雷撤去作業は飛行場使用のため、まず滑走路周辺からはじまった。伊江島での最後の注目に値する抵抗は、4月22日夜からから23日にかけて、日本兵女性を含む民間人が、小銃や、手榴弾、爆弾箱で武装し、伊江グスクの洞窟から第306連隊の戦線にむかい斬りこんできた。それらはすべて、米軍に何の損失も与えることなく殲滅された。

Chapter VII: The Capture of Ie Shima

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伊江島での6日間の戦いで、米軍は4,706人の日本人を殺し、149人を捕虜にした。戦死した多くは民間人だった。戦闘中やその後の遺体の検査中に、兵士と民間人を区別することは非常に困難だった。1,500人の民間人が武装し、日本軍の制服を支給されたと推定される。他の何人かは米軍の軍服を着ていた。

Chapter VII: The Capture of Ie Shima

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伊江島飛行場の建設。

掃討戦がすむとともに基地建設工事がすみやかに行われた。最初は敷設地雷が無数にあったため、なかなかはかどらなかったが、工兵隊の迅速な作業で飛行場が修理され、滑走路がつくられた。民間人は慶良間列島渡嘉敷島移された。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 178-179頁より》

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DIGGING CORAL FOR IE SHIMA AIRSTRIPS - Aviation engineers operate coral pits at Ie Shima as work goes ahead full speed on new air strips and taxiways from which Far East Air Forces planes will strike at the Jap homeland.

伊江島の滑走路建設 - 極東空軍の日本本州攻撃基地として新しく滑走路と誘導路が大至急建設される中、伊江島石灰岩の地面を掘る航空工兵隊。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊江島の戦闘がすんで第77師団はつぎのように報告した。

「わが軍は比較的少ない犠牲と時間で、西太平洋地域で最も重要な17.6平方キロの土地を確保せり」と。…こうして、基地作業ははかどり、5月10日までには、1戦闘機大隊が伊江島に基地をもつようになったのである。予想にたがわず伊江島は、沖縄戦や日本本土攻撃に理想的な基地となった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 178、179頁より》 

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小さな伊江島で新しい滑走路と誘導路の建設が迅速に進められる。誘導路の一つに並ぶのは極東空軍のP-47戦闘機。

P-47s LINE A TAXIWAY AT IE SHIMA--At tiny Ie Shima, where construction work on new air strips and taxiways proceeds apace. P-47s of the Far East Air Forces line up on one of the taxiways.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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南進する米軍

城間-伊祖-嘉数-我如古-西原-千原-和宇慶

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

日本軍の首里外郭防衛線は、中城和宇慶から牧港東方を北西に走る山脈の山塊にそって、根をおろしていた。この山脈の向こう側に、日本軍防衛陣西のとりでといわれるおそるべき浦添丘陵があるのだ。あたりをへいげいするように連丘がそびえ、それが自然の防衛陣ースカイライン丘陵、最高峰の178高地、棚原、西原、嘉数の山々ーを形づくっていた。これらが山脈の連絡峰にそって日本軍の防衛の〝核〟をなし、しかもそこにいたるまでに、数多くの前哨陣地がうまく地形を利用して構築されていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 235頁より》

城間: 「アイテム・ポケット」

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

4月22日、…アイテム・ポケットの日本軍陣地に対して猛烈な空爆を試みたが、これもたいした効果はあがらなかった。そこで偵察が強化された。…日本軍の残兵は全部掃討され、米軍砲兵が砲陣をしいて、いかなる土地もふたたび奪回はされまいとがんばっていた。偵察機が帰ってきた。その持ち帰った日本軍陣地の情報により、米軍は翌日の作戦計画をたてた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 225-226頁より》

伊祖(いそ)

4月22日、第106連隊の第1大隊は、ブルドーザーがならした道を通って運ばれてきた第106野砲中隊の自動操縦砲の支援砲撃を得て丘の後方にそって日本軍陣地を探り、これに攻撃を加えた。西の峰にはどこかに日本軍がかくれ、ここを観測地点ならびに重砲指揮所として使用していた。だが、この戦線後方にかまえていた日本軍の機関銃陣地は撃滅されていたので、米軍ははじめてはげしい砲火にあうこともなく伊祖村落への道を進撃することができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 267頁より》

嘉数 (かかず)

…グリンナー将軍は、4月22日の午後、第102工兵大隊に牧港入江に結集を命じた。歩兵になるのだ。4月22日の夜になって、第24軍団長のホッジ少将は、嘉数陣地の日本軍を一気につぶすため、特攻隊を編成することを決意した。第27、第7、第96師団から選りすぐった強力な4個大隊に、戦車隊、火炎放射装甲車、自動操縦砲150ミリ臼砲が加わって、嘉数高地と村落占領の使命があたえられた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 270-272頁より》 

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p246a.jpg

嘉数村落(北側から撮影、奥は浦添の急斜面)

KAKAZU VILLAGE, center of Kakazu Pocket, looking south to Urasoe-Mura Escarpment

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

我如古 (がねこ)浦添西原

第383連隊は、西原丘陵に向かって攻撃体制をとり、窪地の〝入口〟めざして進撃を開始した。この入口の左側(東)には棚原高地につづく稜線がそびえていた。

第383連隊の第2大隊は、右翼のほうで午前11時、丘陵を攻めくだって、〝入口〟のほうへ向かった。前日まで喧噪をきわめていた西原村落は、この日、E中隊がなんの苦労なく占領し、G中隊も143高地に対面する高台を奪った。F中隊は丘陵前面に向かって進撃したが、日本軍の猛烈な砲火にあい、わずか半時間で指揮官4名の戦死傷者を出した。爆薬箱が投げつけられ、手榴弾が飛び迫撃砲弾が中隊めがけて撃ち込まれてきたため、米軍は砲弾のとどかぬ後方の岩山まで退却せざるを得なかった。

第3大隊は〝入口〟を攻撃したが、前進らしい前進もできなかった。…軽戦車が救援に来たが、丘腹がけわしくて登れず、そのまま居すわって丘の陣地に何千発もの弾丸を撃ち込んだが、それでも日本軍の機関銃を沈黙させることはできなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 258-259頁より》

千原

…第31野砲大隊のB中隊は、千原岩山から750メートルの地点に155ミリ曲射砲をひっぱってきて、東部から、7回にわたって砲撃を加えた。巨岩が崩壊し、大きな岩の塊が飛び散った。日本軍はこの曲射砲めがけて機関銃をあびせ、米兵の砲手2名が撃たれて即死、他の兵は地面に這いつくばった。…戦車隊と歩兵が一緒に進撃を開始し、丘の西側の広場を横切った。火炎砲戦車が炎ともえる液体を吹きつけて丘の前面を焼きつくした。すると、8名の日本兵爆雷を抱えてこの戦車めがけて飛びこんできた。だが、とどかないうちに火炎放射にあって殺されてしまった。

火炎放射器の真っ黒い煙が消えると同時に、戦車の背後にくっついてきた米軍歩兵は、さっと丘のふもとにかけよった。だが、あちこちの山にかくれていた日本兵が、ふたたび現れ、機関銃や迫撃砲をうちまくり、手榴弾で応戦、先発小隊は、9名をのぞく全員が、2、3分後には負傷した。また、近くで他の端を攻めていた別の小隊も、近距離で手榴弾戦を展開したあと、後方に退却せざるをえなかった。戦車1輌は大砲の直撃弾をうけて燃え、ついに正午、マーフィー大尉は攻撃を中止させ、改めて午後4時に、攻撃を再開するために中隊を再編し、負傷者を後方へ運んだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 250-251頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/331903.jpg

背中に80ポンドの火炎放射器を背負い、険しい崖を駆けのぼり、トームストーン・リッジ(西原町千原から宜野湾市森川に広がる高地と思われる)の日本軍トーチカを焼き払った第96師団のルースター上等兵。彼の助手は崖を登り始めたときに戦死した。(1945年4月22日撮影)

Pfc. Irvin Roester, Route 2, Marion, Ill., a member of the 96th Division, charged up a steep hill with an eighty pound flame thrower on his back and burned out a Japanese pill box on Tombstone Ridge. His assistant was killed as they started up the ridge.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

その日の午前中は、あまりにも激しい日本軍の機関銃弾のために、移動は不可能だった。155ミリ曲射砲は、煙幕にかくれて他の陣地に移動し、ふたたびその威力を発揮することができた。43発を発射し、各弾とも目標に的中した。珊瑚礁の丘は形を改め、こなごなになった岩が白い肌をむきだしにしている。

午後4時、2個小隊が丘の西側にそって再び攻撃を開始、中型戦車3輌、火炎砲装甲車3輌が先頭にたち、岩山の陣地に砲撃を加え、目標を焼きつくしながら進撃していった歩兵もつづいて進撃、日本軍が弾を装填するときのカチャッという音が聞こえるところまで肉迫した。

反撃はいよいよはげしくなり、砲弾や迫撃砲、手榴弾が、ふたたび雨あられのように頭上から降りそそいできた。米軍はこの戦闘で31名のうち18名も犠牲者を出し、また戦闘に耐えうる者はわずか6名しか残らなかった。

4月22日、この日、日が暮れるまでに第17連隊B中隊の兵力は、丘の2日間にわたる戦闘の結果、40パーセントに減らされた。時を同じくして、第184歩兵連隊のほうでも、日本軍陣地の砲火網にさえぎられて、まったく進撃することができなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 251-252頁より》

和宇慶(わうけ):「スカイライン丘陵」

第7師団の前に、おおいかぶさるように突ったっているのがスカイライン丘陵(宜野湾村千原方面から中城村和宇慶にいたる丘陵)である。これが海岸に通ずる道を阻んでいた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 235頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p221a.jpg

米軍が「スカイライン丘陵」と呼んだ一帯

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

4月22日、第32歩兵連隊は、…偵察隊を出して 南側山腹をかなり広範囲に探らせた。偵察隊は178高地まで行き、その東側を偵察したが、そこに少数の日本兵がいるのを発見した。スカイラインの南側山腹には3つの塹壕があり、1つは山頂につくられていることもわかった。迷路のように洞窟がいくつもあって、多くは壊されて入口が閉ざされていたが、その他は調べてみなければわからないものがいくつもあった。

スカイラインの下のほうにあった壕の中で、200名もの日本兵が死んでいるのがあった。そして、別の壕では100名、第三番目の壕では50名、四番目の壕の中では45名が死んでいた。死体はきちんと並んでいた。全部でおよそ500体の日本兵の死骸がスカイライン丘陵だけで数えられた。死体のほとんどは大砲や迫撃砲でやられた痕があり、またなかにはきれいに小銃弾の穴のあいているものや、火炎放射器で焼かれたものもいた。

およそ200梃の小銃、四梃の重機関銃、そのほかに多数の迫撃砲が壕のなかにうず高く積まれていたが、これは明らかに戦闘で放棄されたものにちがいなかった。またこうしたいろいろな状況から推して、日本軍は戦死者を埋葬してから、その武器を使うつもりで集めてあったのだろう。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 248頁より》

 

沖縄島北部 - 続く掃討戦

米軍は沖縄島の北部地域を制圧した後、掃討戦を展開した。

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沖縄特有の地形を進軍。(1945年4月22日撮影)

Moving forward showing typical Okinawan terrain.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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本部半島で——(左)後方に見える小屋にいた8人の日本兵を(射)殺。ここは、沖縄侵攻作戦で熾烈な戦闘が展開された場所である(1945年4月22日撮影)

On Motobu Peninsula---8 Japs were killed in hut seen in B. G. This was scene of heaviest fighting in the operation.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍のダミー作戦

沖縄本島に無血上陸したアメリカ軍。北部では、占領した地域に潜む敗残兵を一掃する作戦を進めていました。65年前のきょう4月22日、本部半島のこの民家に隠れていた日本兵8人が、アメリカ海兵師団によって殺されました。

この時、沖縄本島中部・北部を歩いたアメリカ軍が目の当たりにしたのが予想外の日本軍の作戦でした。これは、板製のオトリ戦車。少しでも弾を無駄にさせようとしたようです。こちらも、石を積み丸太を差し込んで戦車にみせかけていて、それをあきれた表情で見つめるアメリカ兵。飛行場の周辺には竹製のオトリ飛行機が数多く配置され、圧倒的に軍事物資が不足している日本軍の実情を露呈しています。

またアメリカ軍がもっとも恐れていたのが、死を覚悟した特攻攻撃です。腰にコンクリート・ブロックを縛りつけた特攻兵海上に不時着しても捕虜にならず、海に沈むようにした残酷さはアメリカ軍には理解できないものでした。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月22日

日本軍は住民にダミーの飛行機を作らせ、米軍の弾を浪費させようとしたと思われる。

CONTACT--Marines on captured Okinawa airfield burlesque Japanese efforts to fool attacking American fliers. In fact, although highly inflammable the dummy planes apparently deceived no one.
接触--攻略した飛行場で、アメリカ人パイロットを欺くための日本軍の努力を茶化す海兵隊員。実際、かなり燃えやすい疑似戦闘機は誰もだませていない。撮影日: 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Marine First Lieutenant Richard C. Galbraigh, of 514 N.W., Third St., Pendleton, Ore., tries, with the aid of a bulldozer, to get a dummy Jap plane off the ground on Yontan airfield, Okinawa. The dummy, made of bamboo and a woodedn frame, was one of many found on Yontan.
ブルドーザーを使って、疑似日本軍機を読谷飛行場から“離陸”させようとしている海兵隊ガルブレイ中尉(オレゴン州出身)。竹と木の枠で作られたこの疑似飛行機は、読谷で数多く発見されたうちの1機である。撮影日: 1945年 4月

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Diving plane. Pilot attacking under fire might be fooled. Photo interpreters would identify this as a dummy immediately.
急降下する戦闘機。砲火の中を攻撃するパイロットはだまされるかもしれない。写真解析兵はすぐにこの戦闘機が模型だと気づくだろう

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日の丸が描かれたワラの飛行機。

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Dummy s traw airplanes found by US troops on Kadena airfield at Okinawa in the Ryukyus.

嘉手納飛行場で発見された擬装用のわら製飛行機。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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A Dummy gun position along the eastern border of Oroku Peninsula. This log protruding out of the vertical surface would cast a shadow in an aerial photograph that would cause interpreters to consider it a gun. An actual gun position was located approximately 20 yards away.
小禄半島の東側沿岸部にある疑似砲座。垂直な面から突き出たこの丸太は、解析者にそれを銃砲だと思わせるような影を空中写真に落とす。実際の砲座は約20ヤード離れた場所にある。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

北部戦線

本部半島(国頭支隊・宇土大佐) - 多野岳に敗走

八重岳が米軍に占領され、多野岳に後退することになった「宇土支隊」。中島大尉の指揮下で総勢1千人の隊列で移動するも、途中、何度も米軍の攻撃を受ける。別々に出発していた宇土大佐ら数名の将校とも合流し、野岳を目指していた。

22日、夜明けとともに宇土支隊は、疲れた足を引摺りながら多野岳に到着した。八重、真部を手放してから一週間目、敵の目を逃れるようにして、戦闘力の全く欠けた敗残部隊は、あたかも宇土大佐の観念しきった手足のように、ゾロゾロと五里の行程を突破、新しい悲劇の地点に辿りついたのであった。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 308頁より》

野岳: (第3遊撃隊=第1護郷隊・村上大尉)

住民から食料を奪いながら敗走する宇土部隊は多野岳に到着する。

多野陣地は22日、全面的に、敵に暴露された。山中に多くの避難住民や、宇土部隊の将兵が入りこんだからである。その中には、中部読谷村の飛行場から撤退してきた、飛行場特設第1連隊長青柳中佐以下、連隊の将兵もまじっていた。宇土部隊は、防衛隊に解散を命じ、彼らの持っていた武器弾薬を取りあげた。中島大尉は、羽地山中に分散してあった食糧を、山中の将兵に分配した。玄米800袋、乾パン350缶に、わずかの副食物だった。義勇隊の村上大尉は、宇土大佐の兵隊がぞくぞく、山に入りこむために生ずる、住民との微妙なあつれきと、北部守備軍全軍にひびの入るのを極度に怖れた。羽地山中に貯えた軍の食糧に、飢えた住民がたかり、さらにこれを宇土部隊の将兵が奪い合うような騒ぎが、山中のいたるところに、演じられていることを知った村上大尉は、部下の照屋軍曹を呼んで「敗残兵立入るべからず」と大書した貼紙を、本部近傍の立木の幹へ貼りつけるよう命じた。宇土大佐を中心に、今後の遊撃態勢を一応打ち合わせたものの、宇土部隊の将兵は既に敗残兵も同様だった。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 312頁より》

 

伊江島: (国頭支隊・井川少佐)

米軍は前日の1945年4月21日に伊江島を占領したことを宣言した。

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防衛隊員にいた男性の証言:

「数人ずつに別れて本隊に合流せよ」との命令、すなわち実質的には“部隊解散”命令が出た時から…戦闘意欲を失った。張りつめていた気持ちが一遍に消えた。「今の今まで死ぬことだけを考えていたのが、ウソのようだった。拍子抜けするとはあのことを言うのだろうか」と当時の心境を話す…。200人ほどに減っていた防衛隊員は小人数ずつになって別れたが、…それからの行動は「生」を求めてのものに変わった。

伊江島タッチューのふもと、…「学校台地」の争奪をめぐって死闘を繰り広げる井川部隊への合流は思いもしなかった。島の北西部・真謝地区へ逃げ、北海岸の絶壁にあった自然壕で2日ほど過ごした22日タッチューに翻る星条旗を見た。

中国での戦争に参加した経験から、「やがて掃討戦が始まる」と…島の西端の灯台付近へ仲間と一緒に移動。捕らえられるまで島を逃げまどった。』(169-170頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 169-170頁》

 

中南部戦線 - 第24師団の投入

米軍が総攻撃を開始した4月19日の時点では、沖縄守備軍はまだ相当の兵力を保持していた。攻撃の矢おもてに立たされていた藤岡中将麾下の第62師団は兵力が半減していたが、島尻地区の沿岸に配備されていた雨宮中将指揮下の第24師団主力は健在であったし、ほかに独立混成第44旅団の残存部隊、和田中将配下の第5砲兵隊、大田少将の率いる海軍根拠地隊も戦力を温存していた。そのためこれらの南部に配備された兵力を首里戦線に投入すれば、たとえ米軍を海中に追いおとすことはできないまでも、一大通棒をくらわせることは可能だと考えられた。守備軍首脳は、敵が背後からあらたに上陸することはないと判断し、思い切って4月22日から軍主力の第24師団と独立混成第44旅団を北上させ首里攻防戦に突入した。増援部隊は、夜陰を利用し、二、三日もかかって防衛線全域に送り込まれた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 118頁より》

八原高級参謀の回想:

… 躊躇逡巡しておれば、日ならずしてわが主陣地帯は崩壊するのだ。私は意を決して、参謀長に… 状況判断を具申した。… 参謀長は、実にずばりと軍主力北上に断を下された。… かくして4月22日ごろから、軍主力の思い切った首里戦線への投入が始まった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 259頁より》

第24師団第32連隊第2大隊: (大隊長・志村常雄陸軍大尉)

4月22日、大城森の連隊本部に命令受領者が集められ、第32連隊主力は25日天明までに首里南東側地区に前進せよとの命令が下された。

《「私の沖縄戦記 前田高地・ 60年目の証言」(外間守善/角川学芸出版) 「志村大隊「前田高地」の死闘(抄)」175頁》

 

そのとき、住民は・・・

伊江島、アハシャガマの集団自決

4月22日、米軍は掃討のため、島の北東部にある「アハシャガマ」に戦車で迫った。壕内の住民20世帯120人は米軍に投降を呼び掛けられ、恐怖の極みに達した。防衛隊員の急造爆雷をみんなで囲んだ。「集団自決」し、およそ100人の命が消えた。

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 102頁より》

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伊江島は、戦時中、東洋一の規模の飛行場が建設され、日本軍の重要な軍事拠点でした。沖縄戦では、この飛行場をめぐり、本土攻略の足がかりにしたいアメリカ軍と、日本軍との間で6日間にわたって、住民を巻き込んだ激しい戦闘が行われました。

伊江島の港から車で10分あまりのところに、砲弾が飛び交うなか、住民が避難した壕の1つ「アハシャガマ」があります。アハシャガマは、奥行きが20メートル余り、広さはおよそ100平方メートル、住民らおよそ120人から150人が身を潜めていたとされています。この壕で、生き残ったのは20人あまりでした。亡くなった人の遺骨の収集が行われたのは戦後になってでした。

アハシャガマ(伊江村)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

第二次世界大戦中の防空壕で、1945年の激戦の末、爆雷で自爆し村民約150人の尊い命が失われました。爆発で埋没したままになっていましたが、1971年に発掘され、遺骨は芳魂之塔に合祀されています。

アハシャガマ | 伊江ナビ 伊江島観光アプリ

当時14歳の少年の証言

他の人びとは、捕虜にとられたら、体を一寸切りにされるといって、自分から爆雷で吹っ飛んだんです。自分は、このくらいの爆雷では死にきれないと思い、奥の方へ下がっていました。皆、壕の中心により集まって、家族ごとに並んで......。自分らのばあいでしたら、妹をおばあさんがだっこするようにして、自分はこうして、弟はここで......。おばあは、いざ、という時になると、兄弟のところがいいといって、兄弟の方に向いて、自分たちとは姿勢を別にしていました。それから、防衛隊の人が爆雷の信管をパーンと押しました。すると、壕の上の壁がくずれて、石などがバラバラ落ちてきて、皆、もう死んだと思いました。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》 

沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

女子救護班(17歳)の証言

アメリカ軍の上陸後、地上での戦図で負傷した兵隊の看護と炊事に明け暮れし、また、射撃の訓練も受けましたが、何しろ、わずか一週間くらいのことですから、多忙だったという実感は残っていません。そのころのことでは、重傷者が「水をくれ」といってわめくのを居たたまれない気持で聞いていたこと、また、重傷者が壕に帰ってくると、上官が、「どうして死ななかったんだ、どうして生きて帰ったんだ」と怒鳴りつけていたこと、また分隊長が重傷者を壕の外に出して自決を命じたこと、など、戦闘のむごたらしさ、日本軍の非人間的行為が強烈な印象として残っています。

今の中学校のあるところで、激しい戦闘がありました。アメリカ軍がそこを占領したのを、一時は日本軍がとりかえし、それを、飛行機の爆撃に助けられたアメリカ軍がまた占領するなど、激しい攻防がくりかえされました。そのため、その周辺はおびただしい屍体の山でした。そのころからは、壊から出撃した兵隊は一人も帰って来ませんでした。

最後の晩は、兵隊も看護班員も全員壕の前に集合させられ、幾組かに分けて「玉砕」することになりました。私は、手投弾二個を与えられ、飛行場方面攻撃の班に加えられました。月夜でした。この月が沈んだら、その時刻を期して、一斉に攻撃を始める手筈でした。グシク山を出て、赤顔の池の辺りまで来ると、うっすらと夜が明けかけてきました。すると私たちをめがけて、集中射撃を受けました。私たちは木の茂みにかくれましたが、そこへ空襲と砲撃がおそってきました。ここで殆んどが死にました。私と手をつないでいた二人の友人も、砲弾で吹きとばされて、着物の切れはしが木の枝にかかっている程度でした。生き残ったのは私一人で、不思議なことにかすり傷一つないのです。

そのまま、そこにかくれていると、飛行場部隊の中沢という中隊長が、お尻に負傷して這ってこちらへやってきました。二人で、ひそんでいるところへ、近くに砲弾が落ちました。その時、這っている私の背中にどしーんと土の塊が落下しました。私は、てっきり砲弾の破片だと思い、思わず「やられたー」と悲鳴をあげました。中隊長は、私にピストルを向けて、「殺してあげようか」といいました。私は、背中に手をやってみるとそれが土だとわかったのでことわりました。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》 

沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

 

住民の南下

15歳少女の体験談:

母と浦添・勢理客の実家を捨てて首里・末吉の壕に避難してきたのは、20年4月初めのこと。避難壕といっても岩山の中腹にある古い亀甲墓で、持ち主も定かでない。そこには、先に避難してきていた…祖母…、姉…(長女)…と乳飲み子を含む5人の子ども、妹で六女…の計8人が肩を寄せていた。これに…加わったものだから、わずか四畳半ほどの墓の中はにわかに窮屈となった。この末吉に嫁いでいた姉…(二女)が、直撃弾で死んだ。4月22日ごろのことである。夫が止めるのを振り切って「おむつだけ洗ってくる」と出かけ、やられた。目を半ば開いた状態の即死だった。右足が吹き飛ばされていて、その右足を捜し回ったが見つからなかったという。祖母は遺体を見て半狂乱になった。肉親が身近で亡くなったのは初めてのことだったので、…一家の落胆はひどかった。戦火が迫っていることを肌に感じ、島尻へ移動するための準備が始まった。

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 301-302頁より》

 

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