1945年 4月22日 『伊江島の集団自決』

米軍の動向

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沖縄視察中の米海軍ニミッツ元帥と高官。(1945年4月22日撮影)

Adm. Chester W. Nimitz, USN and high officials on tour of Okinawa, Ryukyu Is.

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周辺離島の制圧

伊江島(いえじま)

伊江島占領が宣言されて後の5日間は、第77師団の各部隊は、日本軍の残存部隊掃討やトーチカの封じ込めや、地雷撤去作業に従事し、戦死者を埋葬した。この最後の掃討戦でも幾千の日本兵が城山周辺や村落内、海岸沿いの洞窟で殺された。地雷撤去作業は飛行場使用のこともあるので、まず滑走路周辺からはじまった。

掃討戦でのめぼしい抵抗といえば4月22日の夜から翌朝にかけてのそれだった。兵隊や民間人、それに婦人もまじった一群が、小銃や手榴弾をもち、爆薬箱をかかえて城山の洞窟陣地から、第306連隊の散兵線に突入してきたが、米軍機は一兵の損失もなく相手を殲滅した。』(177-178頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 177-178頁より》

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『悽愴をきわめた伊江島の六日間の戦闘で、米軍は4706名の日本軍を殺し、149名を捕虜にした。戦死した多くは民間人だった。彼らは戦闘中、ぜんぜん兵隊と見分けがつかなかったからだ。しかも戦いすんで、死体を点検してはじめて、民間人であったことがわかったのである。軍服を着せられ、日本軍の兵器を持った民間人はおよそ1500と推定された。おそらく戦死した米兵から取ったものだろうか、中には、米軍の軍服を着たまま死んでいる民間人もいた。』(178頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 178頁より》

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『掃討戦がすむとともに基地建設工事がすみやかに行われた。最初は敷設地雷が無数にあったため、なかなかはかどらなかったが、工兵隊の迅速な作業で飛行場が修理され、滑走路がつくられた。民間人は慶良間列島渡嘉敷島に移された。』(178-179頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 178-179頁より》

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伊江島の滑走路建設 - 極東空軍の日本本州攻撃基地として新しく滑走路と誘導路が大至急建設される中、伊江島石灰岩の地面を掘る航空工兵隊。

DIGGING CORAL FOR IE SHIMA AIRSTRIPS - Aviation engineers operate coral pits at Ie Shima as work goes ahead full speed on new air strips and taxiways from which Far East Air Forces planes will strike at the Jap homeland.

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伊江島の戦闘がすんで第77師団はつぎのように報告した。

「わが軍は比較的少ない犠牲と時間で、西太平洋地域で最も重要な17.6平方キロの土地を確保せり」と。』(178頁)

『こうして、基地作業ははかどり、5月10日までには、1戦闘機大隊が伊江島に基地をもつようになったのである。予想にたがわず伊江島は、沖縄戦や日本本土攻撃に理想的な基地となった。』(179頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 178、179頁より》 

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小さな伊江島で新しい滑走路と誘導路の建設が迅速に進められる。誘導路の一つに並ぶのは極東空軍のP-47戦闘機。

P-47s LINE A TAXIWAY AT IE SHIMA--At tiny Ie Shima, where construction work on new air strips and taxiways proceeds apace. P-47s of the Far East Air Forces line up on one of the taxiways.

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南進する米軍

『日本軍の首里外郭防衛線は、中城和宇慶から牧港東方を北西に走る山脈の山塊にそって、根をおろしていた。この山脈の向こう側に、日本軍防衛陣西のとりでといわれるおそるべき浦添丘陵があるのだ。あたりをへいげいするように連丘がそびえ、それが自然の防衛陣ースカイライン丘陵、最高峰の178高地、棚原、西原、嘉数の山々ーを形づくっていた。これらが山脈の連絡峰にそって日本軍の防衛の〝核〟をなし、しかもそこにいたるまでに、数多くの前哨陣地がうまく地形を利用して構築されていた。』(235頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 235頁より》

 

城間(ぐすくま): 「アイテム・ポケット」

4月22日、…アイテム・ポケットの日本軍陣地に対して猛烈な空爆を試みたが、これもたいした効果はあがらなかった。そこで偵察が強化された。…日本軍の残兵は全部掃討され、米軍砲兵が砲陣をしいて、いかなる土地もふたたび奪回はされまいとがんばっていた。偵察機が帰ってきた。その持ち帰った日本軍陣地の情報により、米軍は翌日の作戦計画をたてた。』(225-226頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 225-226頁より》 

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米軍が「アイテム・ポケット」と呼んだ城間の一帯(1945年7月10日撮影)

投稿者註:  右端に写るのは当時の牧港飛行場(戦後: 牧港補給基地/キャンプ・キンザー)

ITEM POCKET AREA (photographed 10 July 1945), which the 27th Division spent nine days in taking.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

伊祖(いそ)

4月22日、第106連隊の第1大隊は、ブルドーザーがならした道を通って運ばれてきた第106野砲中隊の自動操縦砲の支援砲撃を得て丘の後方にそって日本軍陣地を探り、これに攻撃を加えた。西の峰にはどこかに日本軍がかくれ、ここを観測地点ならびに重砲指揮所として使用していた。だが、この戦線後方にかまえていた日本軍の機関銃陣地は撃滅されていたので、米軍ははじめてはげしい砲火にあうこともなく伊祖村落への道を進撃することができた。(267頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 267頁より》

 

嘉数(かかず)

『4月21日から22日にかけての夜、第105歩兵連隊の前線に、猛烈な砲撃が襲いかかってきた。そして夜明け前、日本軍は連隊左翼に対して攻撃を開始した。これに対して米軍は、海軍がまず照明弾を打ち込んで前線を照らし、ついで攻撃を阻止するため、艦砲射撃を加えた。

4月22日の午後、グリンナー将軍は嘉数陣地の日本軍は少なくとも1個大隊はあるとみて、第24軍団に予備軍1大隊の派遣を要請、ホッジ将軍は第17連隊の第3大隊に命令して、第7師団作戦地区からただちに嘉数方面に向かわせた。

…グリンナー将軍は、4月22日の午後、第102工兵大隊に牧港入江に結集を命じた。歩兵になるのだ。

4月22日の夜になって、第24軍団長のホッジ少将は、嘉数陣地の日本軍を一気につぶすため、特攻隊を編成することを決意した。第27、第7、第96師団から選りすぐった強力な4個大隊に、戦車隊、火炎放射装甲車、自動操縦砲150ミリ臼砲が加わって、嘉数高地と村落占領の使命があたえられた。(270-272頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 270-272頁より》 

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嘉数村落(北側から撮影、奥は浦添の急斜面)

KAKAZU VILLAGE, center of Kakazu Pocket, looking south to Urasoe-Mura Escarpment

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

我如古(がねこ)浦添西原

『第383連隊は、西原丘陵に向かって攻撃体制をとり、窪地の〝入口〟めざして進撃を開始した。この入口の左側(東)には棚原高地につづく稜線がそびえていた。

第383連隊の第2大隊は、右翼のほうで午前11時、丘陵を攻めくだって、〝入口〟のほうへ向かった。前日まで喧噪をきわめていた西原村落は、この日、E中隊がなんの苦労なく占領し、G中隊も143高地に対面する高台を奪った。F中隊は丘陵前面に向かって進撃したが、日本軍の猛烈な砲火にあい、わずか半時間で指揮官4名の戦死傷者を出した。爆薬箱が投げつけられ、手榴弾が飛び迫撃砲弾が中隊めがけて撃ち込まれてきたため、米軍は砲弾のとどかぬ後方の岩山まで退却せざるを得なかった。

第3大隊は〝入口〟を攻撃したが、前進らしい前進もできなかった。…軽戦車が救援に来たが、丘腹がけわしくて登れず、そのまま居すわって丘の陣地に何千発もの弾丸を撃ち込んだが、それでも日本軍の機関銃を沈黙させることはできなかった。』(258-259頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 258-259頁より》

 

千原(せんばる)

『…第31野砲大隊のB中隊は、千原岩山から750メートルの地点に155ミリ曲射砲をひっぱってきて、東部から、7回にわたって砲撃を加えた。巨岩が崩壊し、大きな岩の塊が飛び散った。日本軍はこの曲射砲めがけて機関銃をあびせ、米兵の砲手2名が撃たれて即死、他の兵は地面に這いつくばった。

…戦車隊と歩兵が一緒に進撃を開始し、丘の西側の広場を横切った。火炎砲戦車が炎ともえる液体を吹きつけて丘の前面を焼きつくした。すると、8名の日本兵爆雷を抱えてこの戦車めがけて飛びこんできた。だが、とどかないうちに火炎放射にあって殺されてしまった。

火炎放射器の真っ黒い煙が消えると同時に、戦車の背後にくっついてきた米軍歩兵は、さっと丘のふもとにかけよった。だが、あちこちの山にかくれていた日本兵が、ふたたび現れ、機関銃や迫撃砲をうちまくり、手榴弾で応戦、先発小隊は、9名をのぞく全員が、2、3分後には負傷した。また、近くで他の端を攻めていた別の小隊も、至近距離で手榴弾戦を展開したあと、後方に退却せざるをえなかった。戦車1輌は大砲の直撃弾をうけて燃え、ついに正午、マーフィー大尉は攻撃を中止させ、改めて午後4時に、攻撃を再開するために中隊を再編し、負傷者を後方へ運んだ。』(250-251頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 250-251頁より》

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背中に80ポンドの火炎放射器を背負い、険しい崖を駆けのぼり、トームストーン・リッジ(西原町千原から宜野湾市森川に広がる高地と思われる)の日本軍トーチカを焼き払った第96師団のルースター上等兵。彼の助手は崖を登り始めたときに戦死した。(1945年4月22日撮影)

Pfc. Irvin Roester, Route 2, Marion, Ill., a member of the 96th Division, charged up a steep hill with an eighty pound flame thrower on his back and burned out a Japanese pill box on Tombstone Ridge. His assistant was killed as they started up the ridge.

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『その日の午前中は、あまりにも激しい日本軍の機関銃弾のために、移動は不可能だった。155ミリ曲射砲は、煙幕にかくれて他の陣地に移動し、ふたたびその威力を発揮することができた。43発を発射し、各弾とも目標に的中した。珊瑚礁の丘は形を改め、こなごなになった岩が白い肌をむきだしにしている

午後4時、2個小隊が丘の西側にそって再び攻撃を開始、中型戦車3輌、火炎砲装甲車3輌が先頭にたち、岩山の陣地に砲撃を加え、目標を焼きつくしながら進撃していった歩兵もつづいて進撃、日本軍が弾を装填するときのカチャッという音が聞こえるところまで肉迫した。

反撃はいよいよはげしくなり、砲弾や迫撃砲、手榴弾が、ふたたび雨あられのように頭上から降りそそいできた。米軍はこの戦闘で31名のうち18名も犠牲者を出し、また戦闘に耐えうる者はわずか6名しか残らなかった。

4月22日、この日、日が暮れるまでに第17連隊B中隊の兵力は、丘の2日間にわたる戦闘の結果、40パーセントに減らされた。時を同じくして、第184歩兵連隊のほうでも、日本軍陣地の砲火網にさえぎられて、まったく進撃することができなかった。』(251252頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 251-252頁より》

 

和宇慶(わうけ):「スカイライン丘陵」

『第7師団の前に、おおいかぶさるように突ったっているのがスカイライン丘陵(宜野湾村千原方面から中城村和宇慶にいたる丘陵)である。これが海岸に通ずる道を阻んでいた。』(235頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 235頁より》

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米軍が「スカイライン丘陵」と呼んだ一帯

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

4月22日、第32歩兵連隊は、…偵察隊を出して 南側山腹をかなり広範囲に探らせた。偵察隊は178高地まで行き、その東側を偵察したが、そこに少数の日本兵がいるのを発見した。スカイラインの南側山腹には3つの塹壕があり、1つは山頂につくられていることもわかった。迷路のように洞窟がいくつもあって、多くは壊されて入口が閉ざされていたが、その他は調べてみなければわからないものがいくつもあった。

スカイラインの下のほうにあった壕の中で、200名もの日本兵が死んでいるのがあった。そして、別の壕では100名、第三番目の壕では50名、四番目の壕の中では45名が死んでいた。死体はきちんと並んでいた。全部でおよそ500体の日本兵の死骸がスカイライン丘陵だけで数えられた。死体のほとんどは大砲や迫撃砲でやられた痕があり、またなかにはきれいに小銃弾の穴のあいているものや、火炎放射器で焼かれたものもいた。

およそ200梃の小銃、四梃の重機関銃、そのほかに多数の迫撃砲が壕のなかにうず高く積まれていたが、これは明らかに戦闘で放棄されたものにちがいなかった。またこうしたいろいろな状況から推して、日本軍は戦死者を埋葬してから、その武器を使うつもりで集めてあったのだろう。』(248頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 248頁より》

 

沖縄島北部の米軍

米軍は沖縄島の北部地域を制圧した後、掃討戦を展開した。

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本部半島で——(左)後方に見える小屋にいた8人の日本兵を(射)殺。ここは、沖縄侵攻作戦で熾烈な戦闘が展開された場所である(1945年4月22日撮影)

On Motobu Peninsula---8 Japs were killed in hut seen in B. G. This was scene of heaviest fighting in the operation.

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沖縄特有の地形を進軍。(1945年4月22日撮影)

Moving forward showing typical Okinawan terrain.

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第32軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島名護(なご)周辺: (国頭支隊・宇土大佐)

八重岳が米軍に占領され、多野岳に後退することになった「宇土支隊」。中島大尉の指揮下で総勢1千人の隊列で移動するも、途中、何度も米軍の攻撃を受ける。別々に出発していた宇土大佐ら数名の将校とも合流し、多野岳を目指していた。

22日、夜明けとともに宇土支隊は、疲れた足を引摺りながら多野岳に到着した。八重、真部を手放してから一週間目、敵の目を逃れるようにして、戦闘力の全く欠けた敗残部隊は、あたかも宇土大佐の観念しきった手足のように、ゾロゾロと五里の行程を突破、新しい悲劇の地点に辿りついたのであった。』(308頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 308頁より》

 

野岳(たのだけ/タニューだけ): (第3遊撃隊、別称: 第1護郷隊・村上大尉)

野岳には、大本営の直接指導を受けて行動する隠密部隊の第3遊撃隊がいた。同隊は、地元の青少年を義勇兵として募るも、実際はゲリラ兵士として教育していた。

『多野陣地は22日、全面的に、敵に暴露された。山中に多くの避難住民や、宇土部隊の将兵が入りこんだからである。その中には、中部読谷村の飛行場から撤退してきた、飛行場特設第1連隊長青柳中佐以下、連隊の将兵もまじっていた。宇土部隊は、防衛隊に解散を命じ、彼らの持っていた武器弾薬を取りあげた。中島大尉は、羽地山中に分散してあった食糧を、山中の将兵に分配した。玄米800袋、乾パン350缶に、わずかの副食物だった。

義勇隊の村上大尉は、宇土大佐の兵隊がぞくぞく、山に入りこむために生ずる、住民との微妙なあつれきと、北部守備軍全軍にひびの入るのを極度に怖れた。羽地山中に貯えた軍の食糧に、飢えた住民がたかり、さらにこれを宇土部隊の将兵が奪い合うような騒ぎが、山中のいたるところに、演じられていることを知った村上大尉は、部下の照屋軍曹を呼んで「敗残兵立入るべからず」と大書した貼紙を、本部近傍の立木の幹へ貼りつけるよう命じた。宇土大佐を中心に、今後の遊撃態勢を一応打ち合わせたものの、宇土部隊の将兵は既に敗残兵も同様だった』(312頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 312頁より》

 

伊江島(いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

米軍は前日の1945年4月21日に伊江島を占領したことを宣言した。

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防衛隊員にいた男性の証言:

『「数人ずつに別れて本隊に合流せよ」との命令、すなわち実質的には“部隊解散”命令が出た時から…戦闘意欲を失った。張りつめていた気持ちが一遍に消えた。「今の今まで死ぬことだけを考えていたのが、ウソのようだった。拍子抜けするとはあのことを言うのだろうか」と当時の心境を話す…。200人ほどに減っていた防衛隊員は小人数ずつになって別れたが、…それからの行動は「生」を求めてのものに変わった。

伊江島タッチューのふもと、…「学校台地」の争奪をめぐって死闘を繰り広げる井川部隊への合流思いもしなかった。島の北西部・真謝地区へ逃げ、北海岸の絶壁にあった自然壕で2日ほど過ごした22日タッチューに翻る星条旗を見た。

中国での戦争に参加した経験から、「やがて掃討戦が始まる」と…島の西端の灯台付近へ仲間と一緒に移動。捕らえられるまで島を逃げまどった。』(169-170頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 169-170頁》

 

中南部戦線

軍司令部

『米軍が総攻撃を開始した4月19日の時点では、沖縄守備軍はまだ相当の兵力を保持していた。攻撃の矢おもてに立たされていた藤岡中将麾下の第62師団は兵力が半減していたが、島尻地区の沿岸に配備されていた雨宮中将指揮下の第24師団主力は健在であったし、ほかに独立混成第44旅団の残存部隊、和田中将配下の第5砲兵隊、大田少将の率いる海軍根拠地隊も戦力を温存していた。そのためこれらの南部に配備された兵力を首里戦線に投入すれば、たとえ米軍を海中に追いおとすことはできないまでも、一大通棒をくらわせることは可能だと考えられた。

守備軍首脳は、敵が背後からあらたに上陸することはないと判断し、思い切って4月22日から軍主力の第24師団と独立混成第44旅団を北上させ首里攻防戦に突入した。増援部隊は、夜陰を利用し、二、三日もかかって防衛線全域に送り込まれた。』(118頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 118頁より》

八原高級参謀の回想:

『4月21、22日と…右翼の拠点南上原の高地帯は中城湾沿岸より漸次崩壊せんとし、左翼も伊祖48高地付近の突破口が拡大しつつあった。
すでに我々の承知した敵の上陸兵力は、6個師団で、なお1、2個師団は随時沖縄の戦場に投入し得る余力あるやに察せられる。

果たして、敵はわが側背に新たな上陸を行わぬであろうか。我々は、作戦開始後はもちろんのこと、作戦開始以前より、敵が主力をもって北方陸正面より来攻する場合、その攻撃を容易ならしめるために、機を見て島尻南部海岸に新たに上陸し、北面して戦うわが軍の背後に殺到、南北鋏撃の作戦に出ることを極度に警戒し、絶えず不安に襲われていたのである。

すでに軍は北方戦線に1か月の激闘を続け、第62師団は戦力2分の1以下に低下している。今後この戦線を保持せんとすれば、依然島尻沿岸に配置しある軍主力第24師団、独立混成旅団その他の諸部隊を急遽北方に転用しなければならぬ。しかしこのことたるや、軍としては一大決心を要する

海正面にある軍主力を北方に転用すれば、敵の新上陸を誘致する恐れがある。もし上陸されれば直ちに側背から殺到されるので、現在の首里戦線をそのままに維持することは不可能だ。どうしても、あらかじめ準備してある石嶺、弁ヶ岳、139高地、識名、松川、末吉の円形複郭陣地に拠らねばならぬ。この場合、島尻全域に分散集積してある莫大な軍需品も、急速にこの複郭陣地内に輸送することを要する。ところが、輸送機関の自動車車輌の大部はすでに破壊され、馬匹はほとんど全部戦死している。よく輸送し得たとしても、これら莫大な軍需品を格納するに足る洞窟設備はない。なお生存を予想せられる7万以上の兵員をさえ収容するに足る洞窟陣地がないのだ。

以上のような最悪の場合を忍んでも、軍主力を北方に転用するか、あるいは現在の戦線は、第62師団を基幹とする諸部隊をもって戦えるだけ戦い…第24師団は喜屋武半島地区、混成旅団は知念半島地区の現根拠地に拠り、三点防衛方式を採用するか、今や軍としては、まさに一大決心を要する秋であった。』(256-257頁)

『…躊躇逡巡しておれば、日ならずしてわが主陣地帯は崩壊するのだ。私は意を決して、参謀長に…状況判断を具申した。…参謀長は、実にずばりと軍主力北上に断を下された。
…かくして4月22日ごろから、軍主力の思い切った首里戦線への投入が始まった。』(259頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 256-257、259頁より》

 

第24師団第32連隊第2大隊: (大隊長・志村常雄陸軍大尉)

4月22日、大城森の連隊本部に命令受領者が集められ、第32連隊主力は25日天明までに首里南東側地区に前進せよとの命令が下された。』(175頁)

《「私の沖縄戦記 前田高地・ 60年目の証言」(外間守善/角川学芸出版) の「志村大隊「前田高地」の死闘(抄)」175頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

沖縄島

首里(しゅり)

15歳少女の体験談:

『母と浦添・勢理客の実家を捨てて首里・末吉の壕に避難してきたのは、20年4月初めのこと。避難壕といっても岩山の中腹にある古い亀甲墓で、持ち主も定かでない

そこには、先に避難してきていた…祖母…、姉…(長女)…と乳飲み子を含む5人の子ども、妹で六女…の計8人が肩を寄せていた。これに…加わったものだから、わずか四畳半ほどの墓の中はにわかに窮屈となった。

この末吉に嫁いでいた姉…(二女)が、直撃弾で死んだ。4月22日ごろのことである。夫が止めるのを振り切って「おむつだけ洗ってくる」と出かけ、やられた。目を半ば開いた状態の即死だった。右足が吹き飛ばされていて、その右足を捜し回ったが見つからなかったという。

祖母は遺体を見て半狂乱になった。肉親が身近で亡くなったのは初めてのことだったので、…一家の落胆はひどかった。戦火が迫っていることを肌に感じ、島尻へ移動するための準備が始まった。』(301-302頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 301-302頁より》

 

今帰仁(なきじん)

ある母親の体験談:

『…米兵の戦車が列をつくって走って来るのが森の中から見えました。お隣の壕にいる叔父さんから、米兵は若い女性を連れて行き、老人と子供は殺すとの悪いうわさを聞いていたので若し米兵に見つかったら家族一緒に自殺する覚悟をしていました。』(70頁)

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 70頁より》

 

伊江島の集団自決

アハシャガマ

4月22日、米軍は掃討のため、島の北東部にある「アハシャガマ」に戦車で迫った。壕内の住民20世帯120人は米軍に投降を呼び掛けられ、恐怖の極みに達した。防衛隊員の急造爆雷をみんなで囲んだ。「集団自決」し、およそ100人の命が消えた。』(102頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 102頁より》

 

ユナパチク壕 (4月23日)

生存者の証言:

『私なんかあまり、これは何か、手りゅう弾って、まあ弾っていうことはわかりますよ、人を殺すものだとはわかりますけど、これをもらわないと損する、いけないんじゃないかねっていうような感じで、配られたらもうみんな、あっちもこっちもみんな手を出してもらったような感じですね。』

日本軍が。配って出ていったわけなんですよ。で、もう日本軍はもういなくなりました、あの時に。ヨナパチク壕はですね。』

『そのあと3日ぐらいしたんでしょうかね、自決が始まったのは。誰かの話ですけどね、これは、誰かがこの壕の中に入っていくのを米軍に見られちゃったらしいんです。それで弾を撃ち込まれたんですね。でも手りゅう弾とかそういうのじゃなくて、弾を撃ち込まれても、掘り下げられていますでしょう、だから人には当たらないわけですよね、壁に弾はいっているわけなんですね。そうすると結局、もう中で誰かが、おとなの大声が出てもう始まったんですよ。各家庭、家族ごとにこうしてやったと思うんですけどね。』

『家族は家族でこうまとまっていてやるわけですよね。だいたい手りゅう弾の自決の場合は、だいたいそういうふうに教えられていましたよ。』

これは直接軍のほうからじゃないですか。その方法はみんな知っていました。』

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月22日

 

【戦跡と証言】アハシャガマ(伊江村)

www.nhk.or.jp

 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 伊江島での集団自決を伝える記念碑が建立

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