1945年 6月1日 『残存兵の戦場』

南進する米軍

『南部攻撃が6月初日にはじまったとき、海兵隊は日本軍を孤立化させるよりも壊滅させる計画であった。第3上陸軍団は、偵察隊を派遣させたところ、首里付近に残った日本軍の防備陣は、きわめて手薄であることが、すぐに判明したので、軍団長ガイガー海兵少将は、第1海兵師団をして小禄半島の基地封じ込みをさせるべく、まっすぐ南進を決断、さらに半島先端に第6海兵師団を海上から上陸させる作戦をたてた。』(451頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 451頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

6月1日の朝、厚い霧の層が沖縄南部をつつんだ。視界は2、3メートルしか利かない。泥は足音がそのまま没する深さである。この中を米軍は南進して、牛島軍勢を追撃していった。日本軍の残存部隊が新たな防備体制を確立する前に追いつかなければならないのだ。1日には日本軍は、米第7師団の前の2つの丘に陣取り、1日から2日にかけては南風原村の喜屋武近くの第96師団の作戦区域内で強固な陣地を確保していた。』(452頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 452頁より》

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沖縄侵攻の様子。日本軍がじりじりと撤退した後、起伏の激しい地形を勢いよく進む米陸軍と海兵隊の歩兵ら

Scenes during the invasion of Okinawa.
Up and down such rugged terrain U.S.Army and Marine foot soldiers charged after the slowly retreating Japs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

(投稿者注: リンク先に撮影場所および撮影日の記載なし。「日本軍の撤退後」と「米陸軍と海兵隊」が共にいる場所であるとの記述から、撮影時期は5月下旬以降と思われる)

 

西部〜中央戦線

海兵隊の2個連隊が5月末から国場川一帯に攻撃をかけていた。前日の5月31日から戦車を使った攻撃を開始した。

国場(こくば)

『砲火は一晩中、46高地を砲撃し、翌朝の6月1日には高地を占領し、識名地区の日本軍戦線を突破して、ついに96高地と国場北の丘に前線を確立した。』(406頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》

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小禄半島の北端の高台から北東を臨む。第6海兵師団が那覇を通って国場川に下りてくるのを日本軍が見ていたのはこの高台からであった。

A view to the northeast from the high ground along the northern fringe of Oroku Peninsula. It was from this high ground that the enemy watched the Sixth Marine Division move through Naha and down to the Kokuba Gawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

南部への移動

作戦成功とみた軍司令部

八原高級参謀の回想:

『退却作戦で軍司令官の最も注意されたのは2つある。第1は後退する各兵団の行動を的確に規制して、戦線に破綻を生ぜめないことであり、第2は持久抵抗に力を入れ過ぎて、新陣地への後退が遅れ、防御準備が疎かにならぬようすることである。

各兵団の抵抗すべき線、時間ならびに使用兵力は軍の退却命令で概要は統制した。しかし国場川以南の各抵抗線全般に亘り、退却の当初から細かくはっきりと決定するのは実情に合しない。また通信連絡が不良なので、日々命令してその行動を律するのも困難である。そこで臨時に第62師団に配属してあった薬丸参謀を津嘉山に残して、軍情報所長として、各兵団特に第24師団の残置部隊と第62師団主力との連繋調和に任ぜしめたのである。』(371頁)

『軍の退却作戦は、…紆余曲折があったが、予期以上の成功をもって完了、6月5日払暁までには全軍新陣地に集結を終わった。この成功の主因は、退却方針の決定が早く十分準備する時間の余裕がなしたことである。しかし、他面アメリカ軍の追撃が慎重を極め、知念山系を急追してきたアメリカ第7師団の一部のほかは、歩一歩前進の戦法をとり、わが軍もまたよくその要領を呑み込み、悠々秩序を紊さず、今なお大多数健在な中級以下の各指揮官が、よくその部下を掌握して後退したからである。

…我々日本軍首脳部は、首里戦線の推移を洞察し、アメリカ軍首将の思惟を越えて、すでに1週間も前から退却を決意し、その準備におさおさ怠りなかったのである。』(372-373頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 371、372-373頁より》

 

新たな陣地壕の実状

首里撤退と残存部隊の南部移動を「成功」と位置づけ、自画自賛した軍司令部の認識とは裏腹に、日本兵が置かれた環境は、撤退以前にも増して劣悪なものだった。

『日本軍の再編成は、主として聯隊や大隊の残存部隊の統合であり、書類上の作業が多かった。戦場では、沖縄本島の南端から2マイル足らずの最後の高地にいた第9師団の精鋭部隊のように、早い時期に配置された部隊を除いて、最後の決戦の準備にかかるのは遅すぎた。未完了の工事においても、補給品の不足は致命的だった。その他の場所でも、新陣地に工事を施し、適正な準備をするには、時間も材料も人力も足りなかった

南部の大部分は、最後の山やそこに至る稜線を除いて、防御の拠点としては平坦すぎた。野は焼き払われ、家屋は破壊され、夜間は照明弾に照らし出された。石灰岩珊瑚礁が、北部よりも多くの洞窟を作っていたが…牛島の残存兵にとっても、数が少なすぎ、小さすぎた

…旧王宮を憎んで成長した人間でさえ、今は懐かしんでいた。首里陣地の内外の主要な施設はコンクリート作りで、電気も通気装置もあるという安心感があった。それ以下のものでも、平坦な床、排水設備、貯蔵所を備えていた。』(251-252頁)

『ある者は、人間であれば10分以上はいられないと思われるこれらの洞窟に中に、何週間も住んでいた。泥は排泄物でだんだん厚くなった。その中で、彼らは押し合い、ほとんど埋まるようにして寝た。混雑は、不可能から、耐えられない、考えられないものへと変わっていった。ある者は文字どおり息が詰まって死んだ。ある兵士は考えこみながら言った。「これがわれわれの息の引き取り方なんだ---空気も水もなく、ひざまずく余地もない洞窟に閉じ込められて、最期の祈りもない…」』(254頁)

第18独立高射砲大隊にいた兵士の証言文より:

『私たちは与那原陣地の洞窟にはいった。…この洞窟は、入口から奥へしだいに深く掘っており、排水の便はまったくなかった。さながら穴倉らしいうっとうしさで、足下はいつもびしょびしょしていた。さらに困ることには、出入口はただ一つで通風がきわめて悪く、カンテラの灯さえ炭酸ガスで消えそうになる。

…人間の営みがかもし出すさまざまな悪臭と、油煙と、ガスと、湿気の充満する穴倉で終日息をひそめていることは、辛抱だけを武器として生き抜いてきた兵士にとっても、いかにもたえがたい苦行であった。たえていれば発狂しそうであった。「こんなところにあと何日もいなければならぬなら、そとに飛び出して死にたい」わずか2、3日でそう思った。』(252頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 251頁より》

 

残存兵の戦場

『天気が良くなると、撤退中の部隊は絶好の目標になった。ある輸送中隊は、アメリカ軍の戦艦の一斉射撃を浴びた。150台の車輛で出発したその中隊が、到着時には30台以下になっていた。部隊がまさに南の村に入ろうとした時、大きな爆発が起きた。爆発の瞬間の青みを帯びた明るい光が、兵士たちの姿を浮かび上がらせた。「兵士たちがいた場所にわれわれが着いた時は、誰一人見えなかった---戦友たちは、夢であったように地表から消えてしまった

独立混成第15聨隊の疲れ切ったある兵士が、6月1日、重傷の脚を引きづって歩いていると、聯隊長の美田千賀蔵大佐に出会った。シュガー・ローフの防御に功のあった指揮官は、「あたかも放心した」ように歩いていた。美田は我に返って、随行していた者すべてに、小銃がもてる間は戦い続けよと告げた。しかし、その負傷兵は、約5千人いた聯隊が約20人に減っているのを見て愕然とした。落伍した兵士がどこかに散らばっているとしても、独立混成第15聯隊の戦力は1パーセントしかなかった。』(251頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 251頁より》

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日本兵の死体。/ Dead Japanese.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『丘という丘は、ほとんどが、兵力はわずかとはいえ日本軍によって守られているか、あるいはまったく放棄された格好になっていた。それに彼らの戦術の未熟さは、出合った日本軍の反撃方法でもそれとわかっていた。

米軍が陣地に近づくと、日本軍は弾丸を撃ちはじめたが、それは米軍が非常に接近してもなかなか当たらないほどお粗末なもので、しかも兵は逃げるときでさえ、遮蔽物のない広場を横切って行くくらいだった。こういうのは、目も良く利き、技術的にも訓練され、また敵の戦意を見抜くカンにもすぐれている米軍の小銃兵や機関銃兵にとって格好の的だった。

こういうことがあった。ローウェル・E・マクスパッデンは第383歩兵連隊の曹長。彼は2人の日本兵のところに、それとさとられぬよう近づき、後ろから相手の肩を叩き、ふり返ったところを、このために借りてきた45口径のピストルで撃ち倒したのだ。彼は、見ていた部下たちに、これほど相手は弱いのだと歩兵のありかたを説明したのである。』(452-453頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 452-453頁より》

 

沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊(略称・沖縄一中鉄血勤皇隊): (隊長: 篠原保司陸軍中尉)

沖縄県立第一中学校の学徒らで構成された一中鉄血勤皇隊のうち、東風平村志多伯(こちんだそん したはく/現・八重瀬町)の野戦重砲第1連隊医務室第6中隊に配属された学徒らの任務は、激しい砲撃の中を識名宮(しきなぐう)付近にある司令部まで往復する伝令や医務室で手術中に切り取られた負傷兵の手足を捨てに行くなど、過酷なものだった。

一中鉄血勤皇隊学徒の体験談:

6月1日、負傷兵5、6人を乗せ、トラックで新城の分院に運んだことがある。トラックで行くのはありがたかったが、道という道は砲弾で大きな穴があいている。ちょっと進んでは穴に落ち立ち往生という始末だ。

そのトラックを追うようにりゅう弾砲が、ぬかるみの道にポコッポコッと落ちて来たから気が気でなかった。とうとうトラックがぬかるみにはまってしまった。勤皇隊員が押し、やっとのことで動き出したと思ったら至近弾。思わず全員が近くに伏せた。「痛い、馬鹿!何してんだ」とわれに返ったら、負傷兵の上に伏せている。「弾からかばおうと思いました」と弁解したが、バツが悪かった。

トラックから分院に運ぶのが、また大変だった。中腹にある壕入り口はかなりの傾斜だった。担架で担ぐ苦労を知らない負傷兵は、「しっかりしろ」と口だけは達者だった。やっと運んだ時はぐったり、壕入り口で休んでいたが、中に入って行った下士官が伝えた言葉は全身から力が抜けていった。「負傷兵は志多泊まで連れて帰る」。負傷兵を運んだのは、野重1連隊の撤退に備えてのものだったが、分院もまた撤退準備中。「われわれも撤退するのに何でここに運び込むんだ」と怒鳴られたという。

来た道を再び引き返す。坂道を担架で背負い、艦砲の穴に落ちたトラックを押しながら―。』(一中鉄血勤皇隊・9)

[78 一中鉄血勤皇隊(9)]初めて女学生に遭遇 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より》

 

廃墟と化した古都首里

『沖縄第2の都市首里は、完全に廃墟と化していた琉球のどの市町村も、これほどまでに完膚なく破壊されたところはなかった。…砲兵隊や艦砲射撃が首里に撃ち込んだ砲弾は、推定20万発。その上、無数の空襲で450トンの爆弾が投下され、さらに何千発という迫撃砲がアーチ型をなして首里に落下した。』(440頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 440頁より》

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これは第10陸軍歩兵部隊が首里にある敵の要塞を側面から攻め込むために通らなければならなかった泥だらけの戦地である。写真上端には寂しげな番兵のように陰を落とす枯れ木や爆破された壕が見える。台風から島を守る防風林の並ぶ景色はこの土地の特色である。

This terrain is the muddy battlefield over which foot-slogging infantryman of the 10th Army had to fight their way to out-flank the Okinawan fortress of Shuri. The ridge near the top of the picture shows blasted tree trunks standing like lonely sentinels silhouetted against the skyline. Caves mutilated by terrific explosions are visible to the eye. Marking the landscape are native homesteads with windbreaks for protection against the typhoons which sweep the Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

残っているのはただ2つの建物だけ両方ともコンクリート造りで、1つは首里の南西端にある中学校と、もう1つは首里のまん中にある1937年に建てられたメソジスト教会であった。その地は平べったく、地面にくずれさっていた。』(440頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 440頁より》

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首里にある教会。第1海兵師団の進行を遅らせる狙撃兵の隠れ家として使われた。

This church in Shuri was used as a snipers nest to slow up the advance of First Marine Div.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月1日