1945年4月2日『南北に分断された沖縄島』

姿を見せない日本軍

『米軍が実に簡単に上陸し、橋頭堡をあっけなく確保してしまったので、今度は、いったい日本の陸軍はどこにいるのだろうかということになって、噂は噂を呼んだ。そのなかで最も楽観的な見方は、日本軍は戦術で米軍に出し抜かれてしまったので、どこか他の島、たとえば台湾あたりにでもいて、そこで米軍に備えているのではないか、というものだった。いや、もしかすると、沖縄が第二のキスカ島にならなければよいがと考える者もいた。海兵隊が沖縄の南方海上で陽動作戦を展開したため、日本軍はそれに引きつけられて南部に移動したのかもしれない。陽動作戦は、ほんものの上陸部隊が朝霧や煙幕にかくれて迂回戦術で沖縄本島に近づいているとき、沖縄南方の海上において、海兵隊が、わざわざ日本軍に丸見えになるように近づいていたからだ。いや、そうではないかもしれない。日本軍は米軍が実際に海岸に上陸するやいなや、一大反撃を加えるために、勢力を貯えているのかもしれない。しかし、日本軍が、こういう反攻を試みる時期が到来し、それが去ってしまっても、なお日本軍は姿をみせなかった。敵はどこにいるのだろう。』(102-103頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 102-103頁より》

 

 北・中飛行場を制圧した米軍部隊

『沖縄守備軍の無抵抗に乗じ、一気に読谷(北)飛行場をおとしいれたのは、第6海兵師団の第4海兵連隊であった。第6海兵師団は、海兵隊学校の校長をつとめ、戦術の大家として名を知られたヴァージニア州生まれのL・C・シェファード海兵少将の指揮下にあった。第6海兵師団は、嘉手納村境界の比謝川北側に上陸し、北部方面へ進撃した。

一方、嘉手納(中)飛行場の占拠にあたったのは、A・V・アーノルド陸軍少将が指揮する第7歩兵師団であった。両部隊は、いずれも沖縄上陸の主力先陣部隊の一翼をになっていたが上陸開始から1時間後には1万6千人の兵員を上陸させることに成功。とくにシェファード海兵少将は、上陸するや素早く戦闘指揮所も陸地に移したが、指揮所が置かれたところは、なんと亀甲墓の前庭であった。(44頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 44頁より》

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沖縄島を南北に分断: 侵攻2日目

沖縄本島を進撃中の米軍は、上陸後2日目には、中城湾の沿岸付近まで進出沖縄を北部と南部に分断した。その途中、日本軍の抵抗を受け約100名の死傷者をだしたが、それでも本格的戦闘はまだだった。』(57頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 56、57頁より》

『2日の午後2時までに、第7師団の第17連隊は東部海岸にある中城湾一帯を見渡せる高地を確保し、さらに湾一帯の海岸に偵察隊を派遣した。この部隊の進撃があまりに早すぎたため、後続部隊は追いつかず、遙か後方に残されるほどだった。

同日、第32歩兵連隊は、戦車隊でコザ南部の強力な日本軍陣地を掃討してから、午後おそく進路を南へとった。一方、北部のほうでは、第1海兵師団がけわしい山岳地帯や補給問題に悩まされたため、本隊から5500メートルの距離ができてしまったが、これは第18歩兵連隊が埋め合わせた。

いまや沖縄は、二つに切断された日本軍は、北部と南部の二つに分轄されたのである。第96師団は、4月2日の朝、勢頭付近の田舎で進撃がおくれていた。ここには密林地帯があり、洞窟や塹壕が多く、また戦車の通れると思われる道には、地雷や対戦車壕が設けられていたからだ。夕方までに、第381歩兵連隊は、島袋を突破したが、桃原付近で日本軍にあい、前進をばまれてしまった。第383歩兵連隊も桃原地区で頑強な日本軍に遭遇し、厳しい応戦をくりかえし、空軍や砲兵陣、さらに戦車隊の支援を得て、ついに桃原南部の丘陵地帯を取り、普天間地区の北東部付近まで進撃することができたのである。その夜、米軍の戦線は、伊佐浜北方から、伊佐-普天間道路を通って普天間の北端にまでのびた。』(92-94頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 92-94頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-8.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 3]

 

第32軍の動向

軍司令部 

『港川海岸付近では4月1日以降、毎日のように多数の米軍上陸用舟艇が上陸するとみせかけては沖合にUターンをくりかえしていた。米軍によるこの陽動作戦はかなり成功した。日本軍の大砲の半数(第5砲兵司令部が保有する約200門)は首里周辺のトンネル陣地に集中的に配備されていたが、そのほとんどが4月7日までは南側(つまり港川方面)に向けられていたし、歩兵の約60パーセント(第24師団と独立混成第44旅団)は4月下旬になっても首里以南から動かなかった。作戦計画の面でも第32軍には北に攻撃にでる準備がなかった。45年1月に第9師団が台湾転進を完了して兵力が3分の2になって以来、第32軍は、陣地を首里の北方約5キロの牧港-嘉数-我如古-和宇慶を結ぶ線より南の丘陵地帯に集中して構築した。嘉手納方面に米軍が上陸した場合、北・中飛行場の確保はあきらめ首里を中心とする陣地地帯にたてこもって持久戦をおこなうことにしたのである。そうすることが米軍の本土侵攻を遅らせ、「本土決戦」準備の時間かせぎになると考えていた。』(74-75頁)
《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 74-75頁より》

『沈黙を保ったままの第32軍であったが、特設第1連隊と独立歩兵第12大隊の賀谷支隊だけは米軍と交戦、現地召集兵が多く、砲兵も持たない特設第1連隊は読谷山地区で壊滅した。賀谷支隊の任務は米軍の前進を遅らせ、主陣地に引き込むことだった。戦闘経験豊富で精強をもって鳴る賀谷支隊は米軍に痛い損害を与え、後退しながら主陣地まで敵を誘導することに成功する。その戦闘の際でも、歩兵第2旅団から支隊掩護の射撃開始を要請されるが、牛島は陣地の暴露を恐れ、許可しなかった。八原が練り上げた「戦略持久」を徹底的に遂行する。(156頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 156頁より》

 

62師団の独立歩兵第12大隊(賀谷支隊: 支隊長賀谷与吉中佐) (第11海軍砲台)

『2日は朝から、戦車を先頭に立てた米軍の猛撃がはじまる。第3中隊と歩兵砲中隊の中間を突破した米7師団は、山あいの喜舎馬北方にあった大隊本部陣地を攻撃してきた。死傷続出。ほとんど半数を失うほどの激戦だったが、第1中隊、第4中隊、第5中隊、機関銃中隊は協力して、南下しようとする米軍を阻止した。支隊長は、2日夜、各中隊を後退させ、新陣地につかせた。転進中、第3中隊と歩兵砲中隊は、包囲されていたため、敵中突破をしなければならなかったが、どちらも斬込みを敢行しながら血路を開き、目的を達成した。』(150頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 150頁より》

 

特設第1連隊第2大隊(中飛行場部隊)

『4月2日、陣地は米軍の攻撃を受けたが、奮戦してこれを確保した。ところが、その夜、特設警備工兵隊が、大隊長にも連絡せず、勝手に後退し、陣地は学生隊だけが守るという、妙なことになってしまった。野崎大隊長は、痛憤したが、学徒隊の尚少尉に、「学生隊を米軍の矢面に立たすわけにはいかん。ここは飛行場大隊で守備する。学生隊は解散せよ」といい、乾パン三日分を支給して解散させた。第2大隊は、翌3日、終日米軍と戦って、のち国頭の石川岳に転進した。』(148頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 148頁より》

 

 大本営の誤算

『…第32軍とは違い、もともと航空作戦を重視していた大本営陸軍部や第10方面軍(第32軍はこれに属している)、連合艦隊は、二つの飛行場が、上陸一日にして占領されてしまったことに大いに驚いた。これら上級機関の作戦構想がはやくも崩れそうになったからである。陸軍は沖縄の飛行場が本土空襲に使われることを何よりも恐れていた。また、攻撃の目標を空母機動部隊においていた海軍は、沖縄本島の飛行場を米軍が使いだせば空母を中心とする機動部隊は沖縄近海から去り、それに打撃を与えることができなくなってしまうと考えた。機動部隊をなるべく長く沖縄近海に張りつけておくために第32軍に何としてでも飛行場を守ってほしかったのである。また、容易に上陸を許したことにたいする天皇の強い不満も陸海軍首脳に大いに影響をあたえた大本営・第10方面軍・連合艦隊は、沖縄の第32軍にたいして、ただちに反撃に出て飛行場を奪回せよと強くせまった。』(75頁)
《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 75頁より》

 

そのとき、住民は・・・

チビチリガマに避難した住民たち読谷村よみたんそん)「集団自決」の日

前日の突撃で米軍の戦力の強さを思い知らされた避難民は一睡も出来ないまま2日を迎えた。前日に無血上陸を果たした米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった

その間にもいくつかの悲劇は起きていた。18歳の少女が母の手にかかり死亡したり看護婦の知花※※らのように毒薬を注射して「自決」した人々もいた。「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは14、5人ほどだったという。横たわる死体。

そこへ再び入ってきた米兵…。ガマの中の混乱は極限に達していた。そんな中ひもじさの余り米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと頑として応じない者もおり、避難民は生か死かの選択が迫られていた。煙で苦しんで死ぬより、アメリカーに撃たれて楽に死のうとガマを出た人もいた。しかし、大半はガマでの「自決」を覚悟していたようだ。

そして毛布などについに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった。』

『…チビチリガマの悲劇は、1945年4月2日に起きた。生か死か―騒然とする中、一人の男がふとんや毛布などを山積みにし、火を付けた。中国戦線での経験を持つその男は、日本軍が中国人を虐殺したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺されると思い込んで「決死」の覚悟だったようだ。当然のように壕内は混乱した。「自決」を決めた人々と活路を見い出そうとする人たちが争いとなったが、結局多くの犠牲者を出した。燃え広がる炎と充満した煙によって人々は死に追いやられた。』

避難民約140人のうち83人が「集団自決」という形で亡くなる

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

 

チビチリガマとシムクガマ 

youtu.be

RBC 【戦後70年の地平から】「2つのガマから見えるものは」

70年前の4月1日に読谷村一帯から上陸したアメリカ軍は、近くのチビチリガマとシムクガマに隠れていた住民に投降を呼びかけました。しかし、2つのガマの住民の結末は全く違ったものとなりました。今回は読谷村の2つのガマから見えてくるものを考えます。

2つのガマから見えるものは | 琉球放送

 

  

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www.qab.co.jp

 

「追いつめられた住民の集団自決」

www.nhk.or.jp

 

【戦争証言】チビチリガマの集団自決

www2.nhk.or.jp

 

【戦跡と証言】

www.nhk.or.jp

 

【戦世の証言】集団自決を伝える(読谷村)

www.nhk.or.jp

 

チビチリガマ外観】

http://www.yomitan.jp/sonsi/senseki/map/guide/img/0701.jpg 

右は「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」

7 チビチリガマ

避難民約140人のうち83人が「集団自決」という形で亡くなるというチビチリガマでの一大惨事だが、真相が明らかになったのは戦後38年たってからであった。全犠牲者の約6割が18歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。波平の人々が、知っていても語ることなく、口を閉ざしたのは、チビチリガマの遺族の人々自らが語り出すまでは、黙っておこうといった、地域の人々の思いを反映したものであったと言われる。真相が明らかになった1983年以来、遺族会が結成され、ようやく慰霊祭が開催された。そして「平和の像」の建立へと動き出した。「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」と命名されたそのモニュメントが序幕されたのは1987年4月2日であった。

 平和の像は同年11月右翼によって破壊されたが、8年後の95年3月修復が終わり、新たに設置された石碑と共に、戦争の悲惨さを今に語り継いでいる。
1995年4月以降は、チビチリガマ内部へ入ることは遺族会の意思により禁止されています。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm

 

 【読谷村史】「集団自決」体験記

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

 

【戦世の証言】シムクガマの記憶

www.nhk.or.jp

 

 【戦跡と証言】 シムクガマ

www.nhk.or.jp

 

www.okinawatimes.co.jp