1945年4月2日『南北に分断された沖縄島』

米軍の動向

沖縄島を南北に分断: 侵攻2日目

沖縄本島を進撃中の米軍は、上陸後2日目には、中城湾の沿岸付近まで進出沖縄を北部と南部に分断した。その途中、日本軍の抵抗を受け約100名の死傷者をだしたが、それでも本格的戦闘はまだだった。』(57頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 56、57頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-8.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 3]

『…2日の午後2時までに、第7師団の第17連隊は東部海岸にある中城湾一帯を見渡せる高地を確保し、さらに湾一帯の海岸に偵察隊を派遣した。この部隊の進撃があまりに早すぎたため、後続部隊は追いつかず、遙か後方に残されるほどだった。(92頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 92頁より》

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沖縄の平野を横断する海兵隊員。(1945年4月2日撮影)

Marines moving across fields at Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『同日、第32歩兵連隊は、戦車隊でコザ南部の強力な日本軍陣地を掃討してから、午後おそく進路を南へとった。一方、北部のほうでは、第1海兵師団がけわしい山岳地帯や補給問題に悩まされたため、本隊から5500メートルの距離ができてしまったが、これは第18歩兵連隊が埋め合わせた。』(92頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 92頁より》

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前進する部隊(1945年4月2日撮影)

Troops move up.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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喜納集落(読谷村)を走るいくつもある狭い道のうちのひとつを歩いて、避難地である喜名集落へ入っていく海兵隊員。(1945年4月2日撮影)

Marines coming into evacuated town of China on Okinawa walking along one of the many narrow roads that run through China.

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狙撃兵を警戒しながら集落を調べる海兵隊員。(1945年4月2日撮影)

Marine looks over part of village--taking precautions against snipers.

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いまや沖縄は、二つに切断された日本軍は、北部と南部の二つに分轄されたのである

第96師団は、4月2日の朝、勢頭付近の田舎で進撃がおくれていた。ここには密林地帯があり、洞窟や塹壕が多く、また戦車の通れると思われる道には、地雷や対戦車壕が設けられていたからだ。夕方までに、第381歩兵連隊は、島袋を突破したが、桃原付近で日本軍にあい、前進をばまれてしまった。』(93頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 93頁より

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狙撃兵の攻撃で脚と頬を負傷した第7海兵連隊第2大隊のコルヴィチ1等兵(ペンシルベニア州出身)。(1945年4月2日撮影)

Marine Pfc Ted Kolvich of 2nd Bn, 7th Mar, wounded in leg and cheek by sniper fire. Kolvich is from Shamokin, Penn.

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『第383歩兵連隊も桃原地区で頑強な日本軍に遭遇し、厳しい応戦をくりかえし、空軍や砲兵陣、さらに戦車隊の支援を得て、ついに桃原南部の丘陵地帯を取り、普天間地区の北東部付近まで進撃することができたのである。その夜、米軍の戦線は、伊佐浜北方から、伊佐-普天間道路を通って普天間の北端にまでのびた。』(93頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 93頁より》

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司令部を設置する海兵隊(1945年4月2日撮影)

Marines set up C.P.

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日本兵と民間人捕虜の収容

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左から:海兵隊戦闘広報係のレーン3等軍曹(ケンタッキー州出身)と通訳のマーフィー3等軍曹(アイダホ州出身)。2人は道路下の排水溝で日本兵上等兵に尋問中。(1945年4月2日撮影)

Left to right: Sgt. Elvis C. Lane, 3322 W. Broadway, Louisville, Ky., MC Combat Correspondent, Sgt. Jack E. Murphy, St. Maries, Idaho, interpreter, questioning Jap superior Private found in culvert under roadway.

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壊れた橋を渡る沖縄の人々に手を貸す第1海兵師団。海兵隊駐留のもう一つの理由は、民間人を戦闘地域から移動させ、収容することである。(1945年4月2日撮影)

A Helping Hand. Okinawan civilians are helped across a broken bridge by Leathernecks of the First Marine Division. Another reason for the presence of the Marines is that these civilians are to be interned while fighting is in progress.

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民間人に天願川を渡るよう指示するシュワルツ一等兵。米海兵隊上陸日の翌日。(1945年4月2日撮影)

Pfc. Carl K. Schwartz of St. Louis, Mo. directs Okinawan civilians across river Tengankowa on Okinawa Island D. plus 1.

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食糧を与え医療措置を施すため、弱りきった老女を海岸まで運ぶ第1師団の海兵隊員。撤退する日本軍に置いていかれた彼女は壕の中で発見された。(1945年4月2日撮影)

A Marine of the 1st Div carries an old feeble woman civilian to the beach for food and medical aid. She was found in a cave, left there by retreating Japs to die.

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水陸両用軍用トラックで、楚辺から海岸近くの米海兵隊営倉に送られる沖縄人。(1945年4月2日撮影)

A group of Okinawan civilians from Sobe are taken to a Marine stockade near the beach in a Duck.

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地元民に食べ物を与える海兵隊(1945年4月2日撮影)

Marine feeding natives.

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沖縄の少年に配給缶の正しい開け方を教える海兵隊憲兵。年少の者(中央、カメラ正面)は開いた缶の中身に興味があるようだ。開け方を見た後でも、少年らにはこのような[米国では]ありふれた缶を開ける仕組みがわからない。(1945年4月2日撮影)

How to Make Friends and … A Marine MP demonstrates the correct way to open a ration can to a group of youthful Okinawans. Junior (center, facing camera) seems more interested in his own already opened can. Few of the natives on Okinawa were able to fathom the mystery of opening the common can--even after demonstrations.

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米軍の兵器

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155mm曲射砲(1945年4月2日撮影)

Okinawa-Guns & Weapons Hewitzer 155mm Div. 96th Inf. O/S.

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第32軍の動向

沖縄島

軍司令部 

『港川海岸付近では4月1日以降、毎日のように多数の米軍上陸用舟艇が上陸するとみせかけては沖合にUターンをくりかえしていた。米軍によるこの陽動作戦はかなり成功した。日本軍の大砲の半数(第5砲兵司令部が保有する約200門)は首里周辺のトンネル陣地に集中的に配備されていたが、そのほとんどが4月7日までは南側(つまり港川方面)に向けられていたし、歩兵の約60パーセント(第24師団と独立混成第44旅団)は4月下旬になっても首里以南から動かなかった。作戦計画の面でも第32軍には北に攻撃にでる準備がなかった。45年1月に第9師団が台湾転進を完了して兵力が3分の2になって以来、第32軍は、陣地を首里の北方約5キロの牧港-嘉数-我如古-和宇慶を結ぶ線より南の丘陵地帯に集中して構築した。嘉手納方面に米軍が上陸した場合、北・中飛行場の確保はあきらめ首里を中心とする陣地地帯にたてこもって持久戦をおこなうことにしたのである。そうすることが米軍の本土侵攻を遅らせ、「本土決戦」準備の時間かせぎになると考えていた。』(74-75頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 74-75頁より》

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那覇市の一部。護衛空母マキン・アイランド (CVE-93)の艦載機により、約2500フィート上空から北西方面を撮影。(1945年4月2日撮影)

Portion of city of Naha, Okinawa in Ryukyus. Looking northwest. F.L. 6 3/8”. Alt. about 2500'. Taken by plane from USS MAKIN ISLAND (CVE-93).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『沈黙を保ったままの第32軍であったが、特設第1連隊と独立歩兵第12大隊の賀谷支隊だけは米軍と交戦、現地召集兵が多く、砲兵も持たない特設第1連隊は読谷山地区で壊滅した。賀谷支隊の任務は米軍の前進を遅らせ、主陣地に引き込むことだった。戦闘経験豊富で精強をもって鳴る賀谷支隊は米軍に痛い損害を与え、後退しながら主陣地まで敵を誘導することに成功する。その戦闘の際でも、歩兵第2旅団から支隊掩護の射撃開始を要請されるが、牛島は陣地の暴露を恐れ、許可しなかった。八原が練り上げた「戦略持久」を徹底的に遂行する。(156頁)

《「沖縄に散った最後の陸軍大将 牛島満の生涯・魂還り魂還り皇国護らん」(将口泰浩/海竜社) 156頁より》

 

第62師団・独立歩兵第12大隊(賀谷支隊: 支隊長賀谷与吉中佐) (第11海軍砲台)

2日は朝から、戦車を先頭に立てた米軍の猛撃がはじまる。第3中隊と歩兵砲中隊の中間を突破した米7師団は、山あいの喜舎馬北方にあった大隊本部陣地を攻撃してきた。死傷続出。ほとんど半数を失うほどの激戦だったが、第1中隊、第4中隊、第5中隊、機関銃中隊は協力して、南下しようとする米軍を阻止した。支隊長は、2日夜、各中隊を後退させ、新陣地につかせた。転進中、第3中隊と歩兵砲中隊は、包囲されていたため、敵中突破をしなければならなかったが、どちらも斬込みを敢行しながら血路を開き、目的を達成した。』(150頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 150頁より》

 

蚊蛇平(がじゃんびら)台地・小禄(おろく)飛行場付近: 独立高射砲第27大隊第1中隊

通信班・陸軍二等兵の回想:

『…嘉手納に上陸した米軍は、その日のうちに北中飛行場を占領した。基地を手に入れた敵機の攻撃は、日本軍の昼間の行動を不可能にした。夜が明けると、私たちがトンボと仇名した小型の偵察機が、決まったようにブーンという音を立てて低空を飛び回り、間もなく艦砲や迫撃砲が集中落下してくる。私たちはこのトンボを怖れて、昼は壕の中で眠り、日暮れとともに起き出して崖下の炊事場で食事を受領し、切断された通信線を補修、夜明けとともにまた横になるのである。

爆弾は頭上に敵機さえなければ避けることは出来る。だが艦砲と迫撃砲はいつどこから飛んで来るか予測が出来ない。ことに艦砲は軍艦攻撃用なので破片が大きく、これに触れたら最後、体は真っ二つに吹っ飛んでしまう。迫撃砲は砕けた鉄塊が飛散し、兵隊は苦しみながら死んで行く。』(70頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 70頁より》

 

嘉手納飛行場

嘉手納飛行場 (別称: 中飛行場)・御殿敷(うどんしき)高地・倉敷(くらしき): 特設第1連隊第2大隊

4月2日、陣地は米軍の攻撃を受けたが、奮戦してこれを確保した。ところが、その夜、特設警備工兵隊が、大隊長にも連絡せず、勝手に後退し、陣地は学生隊だけが守るという、妙なことになってしまった。野崎大隊長は、痛憤したが、学徒隊の尚少尉に、「学生隊を米軍の矢面に立たすわけにはいかん。ここは飛行場大隊で守備する。学生隊は解散せよ」といい、乾パン三日分を支給して解散させた。第2大隊は、翌3日、終日米軍と戦って、のち国頭の石川岳に転進した。』(148頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 148頁より》

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カモフラージュされた防壁の中にある日本軍機。地上で破壊された。(1945年4月2日撮影)

Airplane in camouflaged revetment, destroyed on ground.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

部隊本部付有線分隊長の回想:

4月2日、…ひどい疲れのために糧秣箱の上で死んだように仮眠をむさぼっていた私たちの耳元に、突然、ドカーンという至近弾の音がして壕を揺すり、坑木がメリメリッと音を立てた。と、壕の入口の方が急に騒がしくなり、そのうち歩哨に立っていた菊地兵長が「斬り込み隊が還ってくる」と叫んだ。

私は自分の耳をうたぐった。だが、まぎれもない眼がギョロギョロ光っている一隊がドヤドヤと入ってきて、私たちの眼前に姿を現わした。

…「飛行場には戦車がウヨウヨしておりましたが、われわれが近づくと照明弾がうち上り、忽ち機銃の猛射をうける始末で、とても警戒が厳重で滑走路に潜入することすらできませんでした・・・」

「うん、ご苦労」全員無事の姿をみて、灯油に照らされた野崎大隊長の頬がぬれていた。』(148頁)

『…一つの異変が起こった。それは私たちの160高地東面下を走る縦貫道路を挾んで、東方の山地一帯に布陣していた特設警備工兵隊と要塞建築隊の総勢1千名余が、野崎大隊長にも連絡せず、いつの間にか勝手に島の北部、国頭郡の山中に後退して陣地は農林学校生徒隊2、3年生の170名だけが守るという妙なことになってしまったのである。

…学徒隊からこの報告をうけた野崎大隊長は痛憤したが、学生隊の尚少尉に、

学生隊を米軍の矢面に立たすわけにはいかん、ここは飛行場大隊だけで守備し、米軍の北部進攻を玉砕を以って阻止する。学生隊は国頭に退避して解散せよ

といい、乾パン3日分を支給して転進させた。

嘉手納飛行場の敵使用を極力妨害する厳命であったが、効果のない飛行場斬り込みより、敵の北部侵攻を、たとえ一日でも喰い止めることを望んでいた野崎大隊長は、ここを死場所と決めていた。』(149-150頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 148、149-150頁より》

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上空から見た読谷飛行場。

Aerial view of Yontan Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…2日の夜半ごろ、北飛行場(第1大隊)の負傷した伝令が、野崎大隊長を囲んで作戦会議中の将校たちのいる壕に転がり込んできて、

4月2日の10時ごろ、北飛行場部隊は激しい弾雨下を喜名山の海軍壕に布陣しているところを急襲されて、黒沢大隊長以下、900名が全滅し、連隊長、青柳中佐は軍からの最後無電により、国頭郡の山中に転進した」らしいという、正に青天の霹靂ともいうべき悲報が伝えられたのであった。

連隊本部、北飛行場部隊の潰滅は、特設第1連隊のなかでひとり健在である…第2大隊にとって寝耳に水の衝撃であったが、将校会議の結果、

「北部転進の軍命令が下っているとせば、わが大隊だけでもいますぐ北部に転進して、戦闘を続行すべきだ」

との意見が多数となったが、日中の行動は状況が許さない。

死にもの狂いで一日を頑張る

という、将校たちの意見を野崎大隊長は黙ってきき入り、

「陣地が今日、一日保持されたら、夜、敵の包囲を突破して石川岳から恩納岳に立籠る友軍部隊に合流する

という決意が…固められ…た。』(158-159頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 158-159頁より》

 

 

 大本営の誤算

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大破した日本軍機を読谷飛行場滑走路の外へよせている建設大隊のトラクター。(1945年4月2日撮影)

C. B. tractor pushing wrecked Jap plane off Yontan Air Strip.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…第32軍とは違い、もともと航空作戦を重視していた大本営陸軍部や第10方面軍(第32軍はこれに属している)、連合艦隊は、二つの飛行場が、上陸一日にして占領されてしまったことに大いに驚いた。これら上級機関の作戦構想がはやくも崩れそうになったからである。陸軍は沖縄の飛行場が本土空襲に使われることを何よりも恐れていた。また、攻撃の目標を空母機動部隊においていた海軍は、沖縄本島の飛行場を米軍が使いだせば空母を中心とする機動部隊は沖縄近海から去り、それに打撃を与えることができなくなってしまうと考えた。機動部隊をなるべく長く沖縄近海に張りつけておくために第32軍に何としてでも飛行場を守ってほしかったのである。また、容易に上陸を許したことにたいする天皇の強い不満も陸海軍首脳に大いに影響をあたえた大本営・第10方面軍・連合艦隊は、沖縄の第32軍にたいして、ただちに反撃に出て飛行場を奪回せよと強くせまった。』(75頁)

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 75頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

沖縄島

投降した住民たち ①

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隠れていた山から所持品を持って出てきて、海兵隊に投降する地元の人々。(1945年4月2日撮影)

Native Okinawans carry their possessions as they come out of their hiding places in the hills and surrender to the Marines.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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沖縄の少年(1945年4月2日撮影)

Native Okinawan boy.

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家を追われた沖縄の人々はアメリカ製のタバコを吸い、飯を食べ、中にはサトウキビをかじる者もいた。(1945年4月2日撮影)

Okinawan civilians driven from their homes smoke American cigarettes and cram rice down their throats, some chew sugar cane.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

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壕から出るよう海兵隊員に説得された親子。海兵隊員は危害を加えないことを納得させるのに苦労した。(1945年4月2日撮影)

A native mother and child are persuaded to leave their cave hiding place by Marines who had a difficult time convincing them that the Marines would not harm them.

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チビチリガマに避難した住民たち読谷村よみたんそん)「集団自決」の日

前日の突撃で米軍の戦力の強さを思い知らされた避難民は一睡も出来ないまま2日を迎えた。前日に無血上陸を果たした米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった。

その間にもいくつかの悲劇は起きていた。18歳の少女が母の手にかかり死亡したり看護婦の知花※※らのように毒薬を注射して「自決」した人々もいた。「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは14、5人ほどだったという。横たわる死体。

そこへ再び入ってきた米兵…。ガマの中の混乱は極限に達していた。そんな中ひもじさの余り米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと頑として応じない者もおり、避難民は生か死かの選択が迫られていた。煙で苦しんで死ぬより、アメリカーに撃たれて楽に死のうとガマを出た人もいた。しかし、大半はガマでの「自決」を覚悟していたようだ。

そして毛布などについに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった。』

『…チビチリガマの悲劇は、1945年4月2日に起きた。生か死か―騒然とする中、一人の男がふとんや毛布などを山積みにし、火を付けた。中国戦線での経験を持つその男は、日本軍が中国人を虐殺したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺されると思い込んで「決死」の覚悟だったようだ。当然のように壕内は混乱した。「自決」を決めた人々と活路を見い出そうとする人たちが争いとなったが、結局多くの犠牲者を出した。燃え広がる炎と充満した煙によって人々は死に追いやられた。』

『避難民約140人のうち83人が「集団自決」という形で亡くなる』

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

 

チビチリガマとシムクガマ 

youtu.be

RBC 【戦後70年の地平から】「2つのガマから見えるものは」

70年前の4月1日に読谷村一帯から上陸したアメリカ軍は、近くのチビチリガマとシムクガマに隠れていた住民に投降を呼びかけました。しかし、2つのガマの住民の結末は全く違ったものとなりました。今回は読谷村の2つのガマから見えてくるものを考えます。

2つのガマから見えるものは | 琉球放送

 

クニー山壕に避難した住民たち読谷村伊良皆 よみたんそん・いらみな)

『クニー山壕は日本軍が掘った壕。松の木でしっかりと枠が組まれ中はかなりの広さ。ぐんたいが壕を捨て退却したあとに、住民らがわずかばかりの家財道具を手に入ってきた。』(34頁)

『米軍が本島に上陸した翌日の20年4月2日、クニー山壕の〝悲劇〟は始まった。壕の中には伊良皆区民を中心に近くの楚辺、大湾の住民らも加わっていた。その住民らの不幸を大きくしたのは、部隊からはぐれた日本兵が2人交じっていたことだ。

2日の夕方、クニー山壕も米兵によって発見された。包囲された住民らは、ただ沈黙で時間がたつのを待つだけ。そのうち米兵が中のようすをうかがいに入ってきた。

…壕内の住民は緊張して暗闇に潜んだまま。その時突然だ。日本兵の1人が銃を発射、米兵1人を射殺した。米軍はすぐに退却、その後は重苦しい時間が壕内で過ぎていき、翌朝を迎える。』(34-35頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 34、34-35頁より》

 

投降した住民たち ②

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英語の話せる地元民はかつてハワイで働いた経験がある。(1945年4月2日撮影)

English speaking native formerly worked in Hawaii.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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母親は、海兵隊が住民に危害を加えないことを知り、ようやく、壕内にはまだ病気の子供がいることを告げた。海兵隊は後日、その母親が、自分たちの潜んでいる場所が子供の泣き声で発見されないよう、子供の首を死に至らしめる寸前まで絞めたことを知った。(幸いにも)その子供は生き残った。(1945年4月2日撮影)

After learning that the Marines meant them no harm the native mother finally told them she had still another child who was sick inside the cave. The Marines later learned that she had choked the child almost to death to keep it from crying and disclosing.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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海軍所属の戦闘機が飛行するのを見上げる沖縄の子供たち(1945年4月2日撮影)

These two Okinawa children look skyward as two Navy planes fly over.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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第2日目の終わり。洗濯や水浴びをする地元民(1945年4月2日撮影)

Native civilians washing and bathing end of second day.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

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www.qab.co.jp

 

「追いつめられた住民の集団自決」

www.nhk.or.jp

 

【戦争証言】チビチリガマの集団自決

www2.nhk.or.jp

 

【戦跡と証言】

www.nhk.or.jp

 

【戦世の証言】集団自決を伝える(読谷村)

www.nhk.or.jp

 

チビチリガマ外観】

http://www.yomitan.jp/sonsi/senseki/map/guide/img/0701.jpg 

右は「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」

7 チビチリガマ

避難民約140人のうち83人が「集団自決」という形で亡くなるというチビチリガマでの一大惨事だが、真相が明らかになったのは戦後38年たってからであった。全犠牲者の約6割が18歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。波平の人々が、知っていても語ることなく、口を閉ざしたのは、チビチリガマの遺族の人々自らが語り出すまでは、黙っておこうといった、地域の人々の思いを反映したものであったと言われる。真相が明らかになった1983年以来、遺族会が結成され、ようやく慰霊祭が開催された。そして「平和の像」の建立へと動き出した。「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」と命名されたそのモニュメントが序幕されたのは1987年4月2日であった。

 平和の像は同年11月右翼によって破壊されたが、8年後の95年3月修復が終わり、新たに設置された石碑と共に、戦争の悲惨さを今に語り継いでいる。
1995年4月以降は、チビチリガマ内部へ入ることは遺族会の意思により禁止されています。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm

 

 【読谷村史】「集団自決」体験記

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

 

【戦世の証言】シムクガマの記憶

www.nhk.or.jp

 

 【戦跡と証言】 シムクガマ

www.nhk.or.jp

 

www.okinawatimes.co.jp