1945年 7月1日 『日本本土襲撃のための出撃基地』

〝沖縄〟という米軍基地 

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第2高射砲大隊が操作するSCR(シリコン制御整流器)270Dレーダーは132海里の探知有効範囲を持つ。(1945年7月1日撮影)

This set of SCR 270 D radar, operated by the 2nd Anti-Aircraft Artillery Battalion on Okinawa, Ryukyu Retto, had a range of 132 nautical miles.

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初めてトラックにドラム缶を積むのに使われる第12軍務大隊のキャタピラ・クレーン。これらのクレーンは「チェリー・ピッカー」と呼ばれる。沖縄。(1945年7月1日撮影)

Caterpiller Crane, 12th Service Bn., being used for the first time to load drums on trucks. These cranes are caled ”Cherry-pickers”. Okinawa, Ryukyu Retto.

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日本本土襲撃のための出撃基地

『1945年1月に大本営がつくった「帝国陸海軍作戦計画大綱」には、日本軍の作戦計画は「皇土特ニ帝国本土ノ確保」にあると記されている。したがって沖縄守備軍の任務は沖縄を守ることではなく、本土決戦の準備態勢をととのえるまでの時間かせぎにアメリカ軍を沖縄にくぎづけにしておくことで、いわば沖縄「捨て石」作戦にあった。

一方アメリカ軍にとっても沖縄は、日本本土攻撃のための前線基地として欠かせない存在だった。』(4-5頁)

《「ガマに刻まれた沖縄戦」(上羽修/草の根出版会) 4-5頁より》

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第41爆撃群所属ノース・アメリカンB-25ミッチェルの九州の飛行場上空での任務についての説明を待つ熱心な地上作業員。B-25による日本本土空襲は、1942年4月のドゥーリットル隊以来初めて。沖縄。(1945年7月1日撮影)

Eager ground crew men of this North American B-25 “Mitchell“ of the 41st Bomb Group anxiously await a description of the mission over an airfield on Kyushu. This was the first B-25 attack on the Japanese mainland since the daring Doolittle raid in April 1942. Okinawa, Ryukyu Retto.

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九州の飛行場への攻撃を終え嘉手納飛行場に帰ってくる24機の第41爆撃群ノース・アメリカンB-25ミッチェル。32機の海軍戦闘機コルセアに先導され、1942年4月に大胆不敵なドゥーリットル隊が襲撃して以来初めてのB-52日本本土襲撃に参加した。(1945年7月1日撮影)

Planes returning from attack on an airfield on Kyushu approach Kadena Airfield. Twenty-four North American B-25 “Mitchells“ of the 41st Bomb Group, escorted by thirty-two Navy Corsairs, participated in the first B-25 raid over Japanese mainland since the daring Doolittle raid in April 1942. Okinawa, Ryukyu Retto.

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『そればかりか1945年4月の段階ですでに、アメリカ軍司令官バックナー中将が「中国大陸への道筋として、ロシアの拡張主義に対抗する拠点として、排他的に支配することが不可欠」と日記に記したように、占領後の沖縄を世界戦略における軍事的要衝として確保しておこうとした。』(5頁)

《「ガマに刻まれた沖縄戦」(上羽修/草の根出版会) 5頁より》

軍事演習

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陸軍大学歩兵局地上軍需部のモンゴメリー少佐による無反動銃器のデモンストレーション中。サトウキビ畑にまき散らされた白リン(1945年7月1日撮影)

A white phosphorus bursts in a cane field during demonstration of new recoilless weapons conducted by Maj. Montgomery of the Ground Requirements Section, Infantry Branch, Army War College.

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無反動57mmライフル(1945年7月1日撮影)

Okinawa-Guns & Weaons Recoiless Rifle 57mm.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

沖縄人捕虜の証言:

昭和20年7月1日、わたしは、名護の米軍部隊で取り調べを受けた後、屋嘉の捕虜収容所に送られた。着いたのは夕方近くであった。

そこには、いわゆるジャパニー(日本軍捕虜)と沖縄人捕虜が別々のテントに入っていた。沖縄人の方は僅か14、5名ぐらいしかいなかった。それは、ハワイに捕虜として大勢の者が送られた直後だったからである。

ジャパニーの方はどのくらいいたかは覚えていない。両方にはそれぞれ隊長がいた。…小さいテントの下には何も敷かれてなく、砂地だった。入所当時は着けてきたボロの着物姿のまま、頭をテントの中に突っこみ、足はテントの外に出し、砂を枕にして寝た。

しばらくして、「PW」の印の入った服を着けさせられた。上衣とズボンの前と後に「PW」と大きく印されていた。それは逃亡を防ぐためであったようだが、念入りなマークにはちょっとおどろいた。

入ってきて、まず最初に奇異に感じたことがあった。みんな一列に並んで箱の上に座っていた。悠々として西の方に向き、沈む夕日を眺めている、とばかり思っていた。ところがそうではなく、アメリカ軍の、あの野戦用トイレに座って用を足していたのであった。』(13頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 13頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

『アメリカ軍は占領した地域の住民を次つぎと北部の難民収容所に隔離した。戦争が終わって帰郷した住民が見たものは、アメリカの軍用地として取り込まれた古里だった。』(5-6頁)

《「ガマに刻まれた沖縄戦」(上羽修/草の根出版会) 5-6頁より》

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地元にある新しい軍道路をゆっくり進む沖縄の男性、女性、そして子供たちの長い列。村を去り、新しい地へ向かう(1945年7月1日撮影)

A mile long line of Okinawan men, women and children plods along a new military highway on their native island. They are moving their village, stick by stick, to a new location.

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先島諸島沖縄戦

遭難した疎開民 ②

前日の6月30日、台湾疎開する石垣島住民を乗せた第一千早丸(友福丸)と第五千早丸(一心丸)は、7月1日午前2時ごろ西表島(いりおもてじま)の船浮(ふなうき)港に入港した。

台湾疎開は昭和19年から行われており、疎開先では急ごしらえの学校も開設されていた。距離的に近いこともあって、戦前は台湾へ就職、出稼ぎ、就学で行くものも多く、つながりは深かった。

昭和20年6月24日、石垣島の住民に対し、24回目となる台湾疎開希望者の募集がなされており、今次の疎開で約200人が乗船した。 (尖閣諸島遭難・1/石垣市議会要請文)

八重山群島には、独立混成第45師団が配置されていた。同師団は、『米軍の制空下にあった石垣―台湾間のルート確保のため、昭和20年春に水軍隊(隊長・長川小太郎陸軍少尉)を創設、漁船を徴用して第一千早丸、第三千早丸、第五千早丸の3隻からなる船団を組織した。船長、機関長、船員は丸ごと軍属とされた。船には軽機関銃が据えられ、地元出身者を含む兵隊が乗り組んだ。』

水軍隊は石垣島から尖閣諸島を迂回し、台湾の基隆(キールン)港へ向かう航路を開拓し、5月には、食糧や武器弾薬の輸送に成功している。(八重山の戦争/尖閣諸島遭難・1)

『次回の航海に備える間、3隻は(西表島の)船浮(ふなうき)港に沈没している船の引き揚げ作業に従事した。ところが、空襲により第三千早丸が炎上沈没した。そのため、石垣港に帰港した。』

前日の30日、2隻となった船団は、台湾行きの空船に疎開民を乗せることになり、午後9時過ぎに石垣港を出港し舟浮港へ向かったのだった。(八重山の戦争/尖閣諸島遭難・1)

《 [69 尖閣諸島遭難(1)]無人島で飢餓地獄 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース 、

八重山の戦争」(大田静男/南山舎) 214頁 および 石垣市議会「台湾疎開石垣町民遭難事件「尖閣列島戦時遭難事件」に係る遭難者の遺骨収集等の実現を求める要請決議」

http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/500000/500100/img/pdf/426_6k_g9_K.pdf

より抜粋、一部要約》

 

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