本部半島の基地化と住民移送 / 捕虜収容所で / 終わらない戦場 / 粟国島の収容 / 米軍の「新しい軍道、新しい地」
米軍の動向
本部飛行場の建設開始
1945年の沖縄戦に米軍は11の飛行場と20あまりの小飛行場を建設した。
米軍は本部半島 (Motobu) の基地化のため、6月27日・28日頃にかけて本部町、今帰仁村の住民を辺野古・大浦湾の大浦崎収容所に強制移送し収容、そのうえで、7月1日から本部飛行場 (Motobu Airstrip) の建設に着手した。
Two landing strips were built at Motobu Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto; the work was done by men of the 1113th Hdq., Construction Group, the 822nd, 842nd, 183rd & 1897th Engineer Aviation Battalions. Construction was started on 1 July 1945 and on 6 August 1945, the first plane landed. This is an aerial view of one of the stages during the construction.【訳】本部飛行場に作られた2本の着陸用滑走路。建設工事は1945年7月1日に第1113司令部建設群、第822、842、183、1897工兵航空大隊によって始められ、同8月6日には最初の飛行機が着陸した。本部 1946年
住民が排除された後の本部半島では、本部飛行場のほかに備瀬や名護などにも小飛行場が建設され、補給基地や採掘場、そして保養施設などの建設がすすめられた。
米海兵隊: At their new home after the long dusty trip clear across the island. Relatives waiting for them at unloading grounds show them where their area is.【訳】 島の端から端までの長い旅を終え、新しい家に着く。道案内をするため(トラック)乗降所で待っている親戚に会う。1945年6月28日
このようにして建設された本部飛行場だが、不要になると放置され、原状回復もされないまま返還されて現在に至る。
泡瀬飛行場の使用開始
また、シモバル民間人収容所の住民を移送して、5月1日に建設開始された泡瀬飛行場は、7月1日に正式に使用を開始した。
米空軍: The Control tower at Awase Strip as it looked prior to completion by the 36th Naval Construction Battalion on 29 June 1945. Operation date for this 5000 foot strip was set for 1 July 1945.【訳】第36海軍建設大隊による泡瀬飛行場の管制塔建設。この5000フィート滑走路は1945年7月1日から操業予定。泡瀬 1945年6月29日
また、多くの補給基地、通信基地、保養施設が建設される。
7月1日、戦術部隊の需要は減少した。… 7月17日までに荷降ろし量は1日あたり35,000トンに増加した。これは6月に比べて1日あたり1万5000トンの増加だった。
Building the Navy's Bases in World War II [Chapter 30] p. 406.
Caterpiller Crane, 12th Service Bn., being used for the first time to load drums on trucks. These cranes are caled ”Cherry-pickers”. Okinawa, Ryukyu Retto.【訳】初めてトラックにドラム缶を積むのに使われる第12軍務大隊のキャタピラ・クレーン。これらのクレーンは「チェリー・ピッカー」と呼ばれる。沖縄。(1945年7月1日撮影)
日本本土襲撃のための出撃基地
1945年1月に大本営がつくった「帝国陸海軍作戦計画大綱」には、日本軍の作戦計画は「皇土特ニ帝国本土ノ確保」にあると記されている。したがって沖縄守備軍の任務は沖縄を守ることではなく、本土決戦の準備態勢をととのえるまでの時間かせぎにアメリカ軍を沖縄にくぎづけにしておくことで、いわば沖縄「捨て石」作戦にあった。一方アメリカ軍にとっても沖縄は、日本本土攻撃のための前線基地として欠かせない存在だった。
《「ガマに刻まれた沖縄戦」(上羽修/草の根出版会) 4-5頁より》
嘉手納飛行場から熊本へ。
米空軍: Eager ground crew men of this North American B-25 “Mitchell“ of the 41st Bomb Group anxiously await a description of the mission over an airfield on Kyushu. This was the first B-25 attack on the Japanese mainland since the daring Doolittle raid in April 1942. Okinawa, Ryukyu Retto.【訳】第41爆撃群所属ノース・アメリカンB-25ミッチェルの九州の飛行場上空での任務についての説明を待つ熱心な地上作業員。B-25による日本本土空襲は、1942年4月のドゥーリットル隊以来初めて。1945年 7月 1日
米軍の沖縄島の占領は、『日本本土襲撃のための出撃基地』というだけではなく、ヤルタ会議以降の覇権を狙う米国の薄暗い思惑が見え隠れするものであった。
Franklin D. Roosevelt, Winston Churchill and Joseph Stalin at the Yalta Conference【訳】フランクリン・D・ルーズベルト大統領とウィンストン・チャーチル首相、ヨシフ・スターリン元帥、ソ連クリミア半島ヤルタのリヴァディア宮殿にて。1945年2月9日
米国立公文書記録管理局博物館1945-02-09
一億総特攻を叫ぶ日本を目前に、世界はすでに1945年2月のヤルタ会議から既に次のフェーズに移行していた。
そればかりか1945年4月の段階ですでに、アメリカ軍司令官バックナー中将が「中国大陸への道筋として、ロシアの拡張主義に対抗する拠点として、排他的に支配することが不可欠」と日記に記したように、占領後の沖縄を世界戦略における軍事的要衝として確保しておこうとした。
《「ガマに刻まれた沖縄戦」(上羽修/草の根出版会) 5頁より》
第32軍の日本軍
置いてきぼりの負傷兵 - 歩兵第89連隊
多くの兵士が終わらない戦場を生きていた。
陸軍第24師団は、北海道出身者を中心とした部隊。最後の一兵まで、と徹底した持久戦を強いられ、捕虜となることは許されず、9割が戦死した。沖縄で現地召集された沖縄人も600名ほどいたと証言されている。負傷兵を追い出しながら、戦争が続けられる。
8月に捕虜となった歩兵第89連隊 (那覇市立商業高校繰り上げ卒) 負傷兵の証言
いや、捨てられというよりは大隊長に追い出されたわけです。与座にいるとき、師団司令部の壕にいるとき。負傷兵は戦闘の邪魔になるから出れと。もうアメリカさん、壕の入り口に来てるんですよ、昼は。夜は下がりますけどね。「出れ」と追い出されたわけです。そのときに、ああ、この大隊長は情けない人だな、こんな僕らを追い出させて、死ねということかなと。それで追い出されて、隣の壕に行けと言うんですよね。(中略) その間、もうずっと照明弾上がりっぱなしで、この迫撃砲の弾、もう24時間来ますからね、その間を縫って400メーターぐらい、一晩かかってたどり着いたんですよ。あのウジ虫のわいたあの壕ですよ。そのときに僕は、これ大隊長情けないと思った。本当はいい人だったんですね、いや、あとで考えたら。大隊長は、翌日、僕を追い出した、それ追い出したあと、全員北部に向かって行くということで、何か戦史見たら出ていって、与那原付近でほとんど全員戦死してるでしょ。だから、ああ、僕はそれで助かったなと思ったよ。もし元気であれば、死んでますよ、大隊長以下、みんな。何百名ぐらいいましたな、100名余りですか、何か資料見たらちょっとね書いてありましたが。最初は恨みましたよ、大隊長を。だけど、ああ、それで助かったんだなと思いましたよね。だから、6月の下旬ですよ、僕がこれ壕を追い出されて。そして次の壕にたどり着いたのが、まあ一晩かかって行って、その次の壕を出たのが8月の11日の晩ですからね、約一月余りでしたか、うん、ひと月余りね、その壕にいましたよ。負傷兵の壕。そこで水飲む設備もないでね、壕の上から岩か何かで、こうポタリポタリと滴落ちますでしょう。そこへ行ってね、あって口あけて、これがたまるのを待って、こうやった覚えもあります、水飲むの。滴をためてね。
長い長い戦争が続く。
10月に与座岳で捕虜となった歩兵第27連隊 (福島県出身) 負傷兵の証言
あの分隊長が「ここは死守陣地で、もう私たちはどこへ行ったって死ぬんだから、どうせ死ぬんだら、ここで隊長と一緒に死にたいから置かせてほしい」って、そう伍長が隊長にもう懇願したんです。「何とかここに置かせてほしい」と。そしたら隊長は、「だめだ、命令だ」って、もうただそれだけ。この命令というものは絶対だから、しかたなしに私たちは脱出する方法を考えた。
そしてこっちの後方の与座岳に向かって、這ったり、あるいは四つんばいになったり、そしたり中腰で走ったり、岩につまずいてひっくり返るやら穴ぼこに落ちてひっくり返るやら、もうさんざんな目に遭いながら、やっと与座岳にたどり着いたときは、もうお日さんが上がるぐらいの明るさになってて。そして大きな岩をぐるっと回った途端にガシャッて音がして、ひょっと見たら、日本兵が銃を俺のほうに向けてるのでびっくりして、「おい、撃つな!」って、急いでどなった覚えもありました。そして、そいつに「患者収容所ってどこだ?」って聞いたら、「知らない」って。「そんなものあるのか」って言われて、「もう明るくなってきたから、もうしょうがない、もうここに置かせてくれ」と言って、そこの隊に居候を決めさせてもらったの。それが何か工兵隊らしくて、この与座岳にいろんな洞窟を掘った工兵隊の中隊だったようです。そこで時たま恵んでくれる握り飯を食べながら、そこでしばらく過ごした。そしたら、この辺をもうべったりとつぶしてしまった米軍は、今度はこっちの与座岳に向かってきて、与座岳の似たような洞窟陣地をつぶしにかかって。… 中にはもうやり切れなくなって、外へ飛び出した兵隊もいたんですよ。何か2、3人出たらしいけども、すぐにカービン銃の音がして、ババーン、ババーンって音がして …
何日かしてる間に、そこでいた工兵隊の元気のいい者はみんな後方へ逃げちゃったわけです。そして残ってるのは、動けない兵隊たちばっかりが何十人か残っていました。そして、そういうやつらも、うめき声を上げたり唸ったり、何かこう「お父さーん」って言ってみたり、「お母さーん」って言ってみたり。もう寝言みたいなことを言うやつもあれば、気違いみたいになるのもあれば、もうさんざんな、いろんな形で次々と死んでいって、結局そこにどのぐらいいた、1か月ぐらいいたかなあ。もう5、6人もう残っただけで、あとみんな死んじゃって。私は、その与座岳にたどり着いて、そして友人も自殺していくのもいたし、ぼちぼちと覚えた者も死んでいく。だけど自分らもどうなるか分からない。で結局、5年でも10年でも長生きしようと。必ず日本軍は助けに来てくれると。だから、10年辛抱しようと。そういうように生きてる者同士で話し合って、その洞窟暮らしをやっていたわけです。そして、いろいろ食料集めたりなんかしてるうちに、その問題の日が近づいてきたわけです。それが、もう10月になっていたんですよ、そのときは。
捕虜になった日本兵
日本兵捕虜のなかに学生帽をかぶっている少年も見られる。
米海兵隊: Jap POW's in forward stockade drinking their first ration of water.【訳】前線の収容所で最初に配給された水を口にする日本兵捕虜。 1945年 6月
取り調べを受けたのちに、屋嘉捕虜収容所に送られる。多くの沖縄人捕虜や学徒兵がハワイの捕虜収容所に移送された。
沖縄人捕虜の証言:
昭和20年7月1日、わたしは、名護の米軍部隊で取り調べを受けた後、屋嘉の捕虜収容所に送られた。着いたのは夕方近くであった。
そこには、いわゆるジャパニー(日本軍捕虜)と沖縄人捕虜が別々のテントに入っていた。沖縄人の方は僅か14、5名ぐらいしかいなかった。それは、ハワイに捕虜として大勢の者が送られた直後だったからである。ジャパニーの方はどのくらいいたかは覚えていない。両方にはそれぞれ隊長がいた。…小さいテントの下には何も敷かれてなく、砂地だった。入所当時は着けてきたボロの着物姿のまま、頭をテントの中に突っこみ、足はテントの外に出し、砂を枕にして寝た。
しばらくして、「PW」の印の入った服を着けさせられた。上衣とズボンの前と後に「PW」と大きく印されていた。それは逃亡を防ぐためであったようだが、念入りなマークにはちょっとおどろいた。
《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 13頁より》
服のサイズの違いを笑う余裕もなく、ただ生還の喜びに浸った。(1945)
そのとき、住民は・・・
粟国島の民間人収容所
6月9日、尋常ならざる上陸で粟国を攻撃した米軍は、住民を一か所に強制収容し、通信施設を建設した。当初は住民を沖縄島の田井等民間人収容所に移送する予定であったが、7月1日、また島内の収容所に移動される。
米陸軍: Aguni Shima survey. Power plant and 270 DA radar antenna. 【訳】粟国島の調査。発電施設と270DAレーダーアンテナ。1945年7月28日
米軍は上陸すると村民を捕虜し、全部学校裏の東伊久保原に集容され集団生活をさせられていたが、さらに6月12日には全員浜部落に移動させられた。その理由は羽地村の捕虜収容所に移動の予定であったらしい。携帯品は衣類と味噌だけその他は一切持つ事は出来ないと注意され、村民は移動準備をして待機していたが、7月1日羽地への移動中止という命令が来たとの事で、村民は全員字西・東部落に移動させられた。食糧も不足してきたので各自も家畜を屠殺したり、又軍命により家畜を殺して村民に配給したりしたので村の家畜は全滅状態となった。
軍は島の生活基盤を破壊した。長期にわたる強制収容で島の豊かな家畜は全滅状態となり、住居は破壊された。
もっと困ったことは、せっかく焼けのこった家を、汚いからといって放火したり、新代用に壁板や柱をひっぱがして燃やしてしまって、これで全焼が39戸、半焼が202戸もでたということでした。粟国はもともと樹木の少ない島ですから、本島との往き来ができる22年ころまで雨露をしのぐのに困るありさまでした。
「新しい軍道、新しい地」
本部半島や金武町、粟国島のように戦地とならなかった場所ですら、基地建設計画のたびに米軍は住民を強制移動させ、サルベージとして材木を取るためだけに町を破壊した。米軍が語る「新しい地」や「新しい家」とは、運営が極めてずさんで犠牲者をつぎつぎとだす民間人収容所のことだった。
A mile long line of Okinawan men, women and children plods along a new military highway on their native island. They are moving their village, stick by stick, to a new location.【訳】地元にある新しい軍道路をゆっくり進む沖縄の男性、女性、そして子供たちの長い列。村を去り、新しい地へ向かう。(1945年7月1日撮影)
鳥取県育ちの海軍の情報将校スタンレー・ベネットは、それを次のように記している。
【訳】占領後にわが軍が行った住民移送で特筆すべきは、本部半島の北部と西部の住民の事例であり、そこでは地域の戦災は比較的軽微であり、激しい戦闘もなかったにもかかわらず移送が行われた。住民の大半は、4月上旬から中旬にかけて軍隊がこの地域を占領した際、村を離れて丘陵地帯に身を隠した。数日のうちに恐怖は過ぎ去り、多くの場合、軍が近くに野営していたにもかかわらず、彼らは自分の家に戻っていた。人々は村での生活を再開し、できる限りの種まきと収穫を行い、2か月半の間、侵攻前と同じように平和に暮らし、島で唯一幸運な共同体であったといえる。組織的な抵抗が終わった後、軍の保養施設をこの地域に導入する必要が生じ、それに応じて民間人は避難させられた。移送先での受け入れの準備はほとんど行われず、約2万人がトラックで東海岸に運ばれ、原野に放りだされた。彼ら全員に最低限の避難場所が与えられるまでには、さらに数日かかるありさまだった。
ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) - Battle of Okinawa
米軍は戦争難民の収容という名目で、組織的な戦闘が終わった以降も転々と住民を移送させ、また、そもそも「戦地」ですらなかった地域の住民すらも根こそぎ収容したが、それはすべて米軍の基地建設のためであり、その強制収容は、一年間、あるいはそれ以上続いた。劣悪な北部の収容所では餓死やマラリアで住民が次々と亡くなっていった。
アメリカ軍は占領した地域の住民を次つぎと北部の難民収容所に隔離した。戦争が終わって帰郷した住民が見たものは、アメリカの軍用地として取り込まれた古里だった。
《「ガマに刻まれた沖縄戦」(上羽修/草の根出版会) 5-6頁より》
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