〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月1日 『日本本土襲撃のための出撃基地』

米軍基地 / 負傷兵の戦い / 戦死者45%の村 / 「新しい地」

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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1972年沖縄の施政権移行当時の沖縄島の米軍基地

1972年「沖縄返還協定」全基地リスト ~ 日本はどのように沖縄と向き合ってきたのか - Basically Okinawa

1945年の沖縄戦に米軍は11の飛行場20あまりの小飛行場を建設した。そのいくつかは日本軍の飛行場を接収し拡張したものもあるが、新たに建設したものもある。

本部 (もとぶ) 飛行場の建設開始

7月1日、米軍は本部飛行場建設を開始した。

Two landing strips were built at Motobu Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto; the work was done by men of the 1113th Hdq., Construction Group, the 822nd, 842nd, 183rd & 1897th Engineer Aviation Battalions. Construction was started on 1 July 1945 and on 6 August 1945, the first plane landed. This is an aerial view of one of the stages during the construction.
本部飛行場に作られた2本の着陸用滑走路。建設工事は1945年7月1日に第1113司令部建設群、第822、842、183、1897工兵航空大隊によって始められ、同8月6日には最初の飛行機が着陸した。撮影地 本部 1946年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍は本部半島を基地化するため、6月27日頃から主に本部町今帰仁村伊江村の住民を、辺野古大浦崎収容所に移送済みであった。

 

 

泡瀬飛行場の完成

5月1日に建設開始された泡瀬飛行場は、7月1日に正式に使用を開始した。

米国空軍: The Control tower at Awase Strip as it looked prior to completion by the 36th Naval Construction Battalion on 29 June 1945. Operation date for this 5000 foot strip was set for 1 July 1945.
第36海軍建設大隊による泡瀬飛行場の管制塔建設。この5000フィート滑走路は1945年7月1日から操業予定。泡瀬 1945年6月29日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

飛行場だけでなく、多くの補給基地や通信基地、保養施設が建設される。

7月1日、戦術部隊の需要は減少した。… 7月17日までに荷降ろし量は1日あたり35,000トンに増加した。これは6月に比べて1日あたり1万5000トンの増加だった。

Building the Navy's Bases in World War II [Chapter 30] p. 406.

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初めてトラックにドラム缶を積むのに使われる第12軍務大隊のキャタピラ・クレーン。これらのクレーンは「チェリー・ピッカー」と呼ばれる。沖縄。(1945年7月1日撮影)

Caterpiller Crane, 12th Service Bn., being used for the first time to load drums on trucks. These cranes are caled ”Cherry-pickers”. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

読谷残波岬 - ボーロー飛行場の通信施設

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This set of SCR 270 D radar, operated by the 2nd Anti-Aircraft Artillery Battalion on Okinawa, Ryukyu Retto, had a range of 132 nautical miles.

第2高射砲大隊が操作するSCR (ブログ注 Signal Corps Radio「通信隊無線機」) 270Dレーダーは132海里の探知有効範囲を持つ。(1945年7月1日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

「本土攻撃のための前線基地」として

1945年1月に大本営がつくった「帝国陸海軍作戦計画大綱」には、日本軍の作戦計画は「皇土特ニ帝国本土ノ確保」にあると記されている。したがって沖縄守備軍の任務は沖縄を守ることではなく、本土決戦の準備態勢をととのえるまでの時間かせぎアメリカ軍を沖縄にくぎづけにしておくことで、いわば沖縄「捨て石」作戦にあった。

一方アメリカ軍にとっても沖縄は、日本本土攻撃のための前線基地として欠かせない存在だった。

《「ガマに刻まれた沖縄戦」(上羽修/草の根出版会) 4-5頁より》

嘉手納飛行場

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米国空軍: Eager ground crew men of this North American B-25 “Mitchell“ of the 41st Bomb Group anxiously await a description of the mission over an airfield on Kyushu. This was the first B-25 attack on the Japanese mainland since the daring Doolittle raid in April 1942. Okinawa, Ryukyu Retto.
第41爆撃群所属ノース・アメリカンB-25ミッチェルの九州の飛行場上空での任務についての説明を待つ熱心な地上作業員。B-25による日本本土空襲は、1942年4月のドゥーリットル隊以来初めて。沖縄。 1945年 7月 1日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

伊江島飛行場 - 本土への空爆

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米国空軍: Lt. Lloyd R. Millett of Belleville, Illinois, puts a new set of equipment into the cockpit of his Republic P-47 ”Thunderbolt”; he lost his complete flight outfit at sea. Ie Shima, Ryukyu Retto.
リパブリックP-47サンダーボルトの操縦席に新しい備品のセットを置くミレット中尉。彼は飛行用備品一式を海でなくした。伊江島。 1945年 7月 1日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

1945年2月のヤルタ会議から世界は既に次のフェーズに移行していた。

そればかりか1945年4月の段階ですでに、アメリカ軍司令官バックナー中将が「中国大陸への道筋として、ロシアの拡張主義に対抗する拠点として、排他的に支配することが不可欠」と日記に記したように、占領後の沖縄を世界戦略における軍事的要衝として確保しておこうとした。

《「ガマに刻まれた沖縄戦」(上羽修/草の根出版会) 5頁より》

軍事演習のための基地 - M18.57ミリ無反動小銃が初めて沖縄で披露された。

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米陸軍: A white phosphorus bursts in a cane field during demonstration of new recoilless weapons conducted by Maj. Montgomery of the Ground Requirements Section, Infantry Branch, Army War College.

陸軍大学歩兵局地上軍需部のモンゴメリー少佐による無反動銃器のデモンストレーション中。サトウキビ畑にまき散らされた白リン(1945年7月1日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍基地の事故・事件 - 伊江島飛行場

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米空軍: Service group firemen and other Air Force personnel battle fire engulfing this Republic P-47 ”Thunderbolt” of the 464th Fighter Squadron, 507th Fighter Group. The pilot of the plane mistook a taxiway for a runway and crashed when he came in for a landing on Ie Shima, Ryukyu Retto.
第507戦闘機群第464戦闘機中隊のリパブリックP-47に燃えさかる火を消そうと奮闘するサービス群の消防士と空軍の地上作業員。この飛行機のパイロットは伊江島に着陸する際、誘導路を滑走路と間違え墜落した。伊江島 (1945年7月1日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の日本軍

捕虜になった日本兵

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米国海兵隊: Jap POW's in forward stockade drinking their first ration of water.
前線の収容所で最初に配給された水を口にする日本兵捕虜。 1945年 6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

沖縄人捕虜の証言:

昭和20年7月1日、わたしは、名護の米軍部隊で取り調べを受けた後、屋嘉の捕虜収容所に送られた。着いたのは夕方近くであった。

そこには、いわゆるジャパニー(日本軍捕虜)と沖縄人捕虜が別々のテントに入っていた。沖縄人の方は僅か14、5名ぐらいしかいなかった。それは、ハワイに捕虜として大勢の者が送られた直後だったからである。

ジャパニーの方はどのくらいいたかは覚えていない。両方にはそれぞれ隊長がいた。…小さいテントの下には何も敷かれてなく、砂地だった。入所当時は着けてきたボロの着物姿のまま、頭をテントの中に突っこみ、足はテントの外に出し、砂を枕にして寝た。

しばらくして、「PW」の印の入った服を着けさせられた。上衣とズボンの前と後に「PW」と大きく印されていた。それは逃亡を防ぐためであったようだが、念入りなマークにはちょっとおどろいた。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 13頁より》

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服のサイズの違いを笑う余裕もなく、ただ生還の喜びに浸った。(1945)

降伏/米軍おしきせのPW服をきせられ、点呼を受ける日本軍捕虜 : 那覇市歴史博物館

 

置いてきぼりの負傷兵 - 歩兵第89連隊

 多くの兵士が終わらない戦場を生きていた。

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沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken)

陸軍第24師団は、北海道出身者を中心とした部隊。最後の一兵まで、と徹底した持久戦を強いられ、捕虜となることは許されず、9割が戦死した。

第24師団歩兵第89連隊 (山3476) の生存者証言から。沖縄で現地召集された沖縄人も600名ほどいたと証言されている。

8月に捕虜となった歩兵第89連隊 (那覇市立商業高校繰り上げ卒) 負傷兵の証言

いや、捨てられというよりは大隊長に追い出されたわけです。与座にいるとき、師団司令部の壕にいるとき。負傷兵は戦闘の邪魔になるから出れと。もうアメリカさん、壕の入り口に来てるんですよ、昼は。夜は下がりますけどね。「出れ」と追い出されたわけです。そのときに、ああ、この大隊長は情けない人だな、こんな僕らを追い出させて、死ねということかなと。それで追い出されて、隣の壕に行けと言うんですよね。(中略) その間、もうずっと照明弾上がりっぱなしで、この迫撃砲の弾、もう24時間来ますからね、その間を縫って400メーターぐらい、一晩かかってたどり着いたんですよ。あのウジ虫のわいたあの壕ですよ。そのときに僕は、これ大隊長情けないと思った。本当はいい人だったんですね、いや、あとで考えたら。大隊長は、翌日、僕を追い出した、それ追い出したあと、全員北部に向かって行くということで、何か戦史見たら出ていって、与那原付近でほとんど全員戦死してるでしょ。だから、ああ、僕はそれで助かったなと思ったよ。もし元気であれば、死んでますよ、大隊長以下、みんな。何百名ぐらいいましたな、100名余りですか、何か資料見たらちょっとね書いてありましたが。最初は恨みましたよ、大隊長を。だけど、ああ、それで助かったんだなと思いましたよね。だから、6月の下旬ですよ、僕がこれ壕を追い出されて。そして次の壕にたどり着いたのが、まあ一晩かかって行って、その次の壕を出たのが8月の11日の晩ですからね、約一月余りでしたか、うん、ひと月余りね、その壕にいましたよ。負傷兵の壕。そこで水飲む設備もないでね、壕の上から岩か何かで、こうポタリポタリと滴落ちますでしょう。そこへ行ってね、あって口あけて、これがたまるのを待って、こうやった覚えもあります、水飲むの。滴をためてね。まあ、そしたら、もう歩けるようになってからは、外出て食料探しに行きましたがね。うん。

馬乗り攻撃

10月に与座岳で捕虜となった歩兵第27連隊 (福島県出身) 負傷兵の証言

あの分隊長が「ここは死守陣地で、もう私たちはどこへ行ったって死ぬんだから、どうせ死ぬんだら、ここで隊長と一緒に死にたいから置かせてほしい」って、そう伍長が隊長にもう懇願したんです。「何とかここに置かせてほしい」と。そしたら隊長は、「だめだ、命令だ」って、もうただそれだけ。この命令というものは絶対だから、しかたなしに私たちは脱出する方法を考えた。

そしてこっちの後方の与座岳に向かって、這ったり、あるいは四つんばいになったり、そしたり中腰で走ったり、岩につまずいてひっくり返るやら穴ぼこに落ちてひっくり返るやら、もうさんざんな目に遭いながら、やっと与座岳にたどり着いたときは、もうお日さんが上がるぐらいの明るさになってて。そして大きな岩をぐるっと回った途端にガシャッて音がして、ひょっと見たら、日本兵が銃を俺のほうに向けてるのでびっくりして、「おい、撃つな!」って、急いでどなった覚えもありました。そして、そいつに「患者収容所ってどこだ?」って聞いたら、「知らない」って。「そんなものあるのか」って言われて、「もう明るくなってきたから、もうしょうがない、もうここに置かせてくれ」と言って、そこの隊に居候を決めさせてもらったの。それが何か工兵隊らしくて、この与座岳にいろんな洞窟を掘った工兵隊の中隊だったようです。そこで時たま恵んでくれる握り飯を食べながら、そこでしばらく過ごした。そしたら、この辺をもうべったりとつぶしてしまった米軍は、今度はこっちの与座岳に向かってきて、与座岳の似たような洞窟陣地をつぶしにかかって。… 中にはもうやり切れなくなって、外へ飛び出した兵隊もいたんですよ。何か2、3人出たらしいけども、すぐにカービン銃の音がして、ババーン、ババーンって音がして …

何日かしてる間に、そこでいた工兵隊の元気のいい者はみんな後方へ逃げちゃったわけです。そして残ってるのは、動けない兵隊たちばっかりが何十人か残っていました。そして、そういうやつらも、うめき声を上げたり唸ったり、何かこう「お父さーん」って言ってみたり、「お母さーん」って言ってみたり。もう寝言みたいなことを言うやつもあれば、気違いみたいになるのもあれば、もうさんざんな、いろんな形で次々と死んでいって、結局そこにどのぐらいいた、1か月ぐらいいたかなあ。もう5、6人もう残っただけで、あとみんな死んじゃって。私は、その与座岳にたどり着いて、そして友人も自殺していくのもいたし、ぼちぼちと覚えた者も死んでいく。だけど自分らもどうなるか分からない。で結局、5年でも10年でも長生きしようと。必ず日本軍は助けに来てくれると。だから、10年辛抱しようと。そういうように生きてる者同士で話し合って、その洞窟暮らしをやっていたわけです。そして、いろいろ食料集めたりなんかしてるうちに、その問題の日が近づいてきたわけです。それが、もう10月になっていたんですよ、そのときは。

満山凱丈さん証言|NHK 戦争証言アーカイブス

いや、もう住民を守るとかなんとかじゃないですよ。自分がどう生きるかですよ。そんだけですよ。だから、先ほどから何回も申し上げるように、生きるか死ぬかです。そのときはね。何も考えてない。だから、戦争というのは怖いんですよ。残酷っていうのはそこですよ、生きるか死ぬか。みんなそうおっしゃるんじゃないですか、北海道の部隊、兵隊も。生きるか死ぬかですよ、それ以外考えたことはないです。

伊禮進順さん証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

そのとき、住民は・・・

真壁 - 戦死者44.9%の村

真壁東部は第24師団の残存部隊が最後まで立てこもった地域で、戦死者率は44.5%にのぼる。

戦没率が40パーセントを超えるのは高嶺村・真壁村・摩文仁村で、日米両軍の激しい攻防戦が行われた地域か、日本軍が最後まで立てこもっていた地域である。

総務省|一般戦災死没者の追悼|糸満市における戦災の状況(沖縄県)

真壁千人壕付近の壕で

それは七月に入って間もなく、お昼近くのことでした。壕の入口近くに陣取っていた地元の人たちが今数人のアメリカ兵が壕の入口をふさいでいる石をのけようと、ガサガサしているからみんな静かにするようにとの声が、さざなみのように奥の方まで伝わってきました。… ちょうどその時、あたかもその静かさを破るかのようにいきなりババン、ババンと物すごい反響した音がたて続けに一発、二発までは聞きましたが、もう後はどのようにそして何発さく裂したかもわからぬほど、壕全体が上を下への大騒ぎ、… 二の句が告げないとはまさにこのことでしょうか、と思うほどの地獄絵図です。見るのもおそろしいほどのまったくの修ら場です。ヤケドで熱いのか、のたうち回りながら着物をかなぐり捨てて暴れ回っている年輩の女の人、また起きあがることも出来ないまま転げ回りながら悲鳴とも助けを求めているかも分らないまま大声でわめき、叫び続けている人々。阿鼻叫喚とは・・・・・・まさにこのことです。でも、ほとんどの人が即死状態のようでした。奥にいたみんなはあまりの無残に力がまったく抜けてしまい、どうしようもなく、ただぼう然として見つめているばかりで、手のほどこしようもありませんでした。特に真ん中あたりにいた人たちは死体も分らないほどばらばらになり、あっちこっちの壁に肉切れが飛び散っていてその惨たんたるありさまはどう書き、どう表現したらよいのか、全く書き表わすすべもないほどの無残そのものでした。
… ケガをしてただ一人生き残り、奥まで助けを求めてきた人の話によりますと、アメリカ兵が壕の入口をふさいでいる石を取りはずし、向こうの方から何か投げ込む前に例の真壁の青年等二人、拾って来た手榴弾の安全栓をはずし、入口のアメリカ兵めがけて投げつけようとした瞬間、間一髪向こうの方から先に投げられたもんですから、持っていた手榴弾が持ったまま破裂し大惨事を引きおこす結果となったらしいんです。ですから、青年たちの近くにいた人たちがこっぱみじんの状態で吹き飛んでしまって、壕の壁といわず天井といわず血の固まりなのか、肉切れなのか見境いもつかないほど、べっとり惨たんたるありさまでした。入口近くにいた十四人の地元の方の中、九人までが亡くなりました。

島尻に後退して (神谷すみ子) 『沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 (1981年)』

 

新しい軍道路、新しい地

アメリカ軍は占領した地域の住民を次つぎと北部の難民収容所に隔離した。戦争が終わって帰郷した住民が見たものは、アメリカの軍用地として取り込まれた古里だった。

《「ガマに刻まれた沖縄戦」(上羽修/草の根出版会) 5-6頁より》

米軍が語る「新しい地」とは民間人収容所のことだった。

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A mile long line of Okinawan men, women and children plods along a new military highway on their native island. They are moving their village, stick by stick, to a new location.

地元にある新しい軍道路をゆっくり進む沖縄の男性、女性、そして子供たちの長い列。村を去り、新しい地へ向かう。(1945年7月1日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

 

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