米軍の動向
〝沖縄〟という米軍基地の建設
沖縄に最初に降り立った飛行機の中の一つ、第41爆撃群第48爆撃中隊ダグラスA-26インヴェイダー。(1945年7月8日撮影)
This Douglas A-26 ”Invader” was one of the first to land on Okinawa. 48th Bomb Squadron, 41st Bomb Group. Okinawa, Ryukyu Retto.
第32軍の敗残兵
捕虜になった日本兵
ハワイに送られた捕虜 ②
1945年7月7日ごろ、屋嘉収容所にいた捕虜たちの一部は、米軍のトラックに乗るよう指示され、たどり着いたのは、嘉手納の海岸だった。その後、沖に浮かぶ米軍の艦船に乗せられた捕虜たちは、甲板で海水のシャワーを浴びるよう命じられた。ところが、乗船した船が異なると、扱われ方が極端に違った。貨物船に乗せられた捕虜は家畜にように扱われ(証言 ①)、客船に乗せられた捕虜は、人道的な扱いを受けた(証言 ②)。
証言: ①
貨物船に乗せられた捕虜たちは、丸裸されたまま、窓もなく、蒸し風呂のような環境の船艙に閉じ込められた。そこは、甲板から15メートル下の船底に近い場所で、垂直のハシゴで登り下りする必要があった。ベッドや寝具、汗を拭くタオルなども与えられず、家畜のように床の上で寝起きした。
『翌朝、米兵に叩き起こされた。ひどい空腹を覚えた。その日から、水と食パン1切と牛肉とジャガいもの入ったのを、1日に2度与えられた。それは食事というほどのものではなく、生きるのに必要な最低限のものであった。食事のときは、パンや水をバケツに入れ、ハッチからロープで降ろしていた。
船艙の片隅にはカンカンが置かれ、そこに糞尿をした。それが一杯になると、交代でロープにつるして上げ、処理した。
そういうことで船艙内は空気がよごれ、それに、男の体臭がミックスされ、何とも異様な臭気がいっぱいであった。昼間でさえ、ハッチから入る明かりがあるのみで、何とかお互いの顔が判別できたが、夜はハッチが締められ暗闇となった。むし風呂に入った切りの毎日に、みんなは参ってきた。それにどこへ連れて行かれるのか分からぬままに、まるで「ドレイ」のような生活をしていた。』(72-73頁)
証言: ②
客船に乗せられた捕虜たちは、5段式のベッドがある船室に案内された。入口は見張りの米兵が監視していたものの、1日数分ほど外の空気を吸うため甲板に出ることを許された。
『船内での食事は1日2回で、レーション(野戦食)が支給された。朝10時と午後4時であった。レーションは防水加工が充分施され、ブレックファスト、ディナー、サパーと表示されており、中味は多少の差異はあるものの、およそ煙草(3本)、罐詰、コーヒー、砂糖、チーズ等が入っていて縦6センチ、横20センチほどの長方形をしていた。食べ屑は使役を2名出して海中に投棄した。水はいつでも飲むことができた。』(81頁)
《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 72-73、81頁より》
壕用に作られたKレーション。朝食、夕食、軽い夕食がセットになっている。新技術のおかげで長期間新鮮さを保てる。
Designed for foxhole use, K-rations point the way for pocket-size camping meals of the future. Packed in breakfast, dinner and supper units, they stay fresh for indefinite periods thanks to new methods of packaging.
そのとき、住民は・・・
民間人収容所
『6月中旬〜7月中旬にかけて、米軍の投降勧告に応じて、捕虜となった元兵士や地元住民や避難民たちは、各地区と各字に設けられた「収容所」に集められた。…現在の名護市域でみると、当時の収容所としては羽地の田井等地区、久志の瀬嵩地区・久志地区・大浦崎地区が設定された。これらの地区や周辺に仮住まいした住民を合わせると、一時期15万人の人々が収容所生活を送っていたのである(名護市史編さん委員会編–1988・83頁)。』(120頁)
米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。(1945年7月8日撮影)
Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
『…中部の収容所の住民の多くは、沖縄戦が事実上終了した後、7月から8月にかけて宜野座や金武、名護など北部に集中させられた。この地域に当時の沖縄本島住民の約3分の2にあたる20万人が集められた。これは日本本土侵攻作戦のために中南部や伊江島を利用しようとして住民を排除したからである。』(180頁)
《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 180頁より》
『これらの住民は、残っていた家屋に詰め込まれたが、それだけでは収容できず、テントや掘立小屋での生活を強いられた。狭い地域に多くの住民が詰め込まれたために、水の確保やトイレも深刻な問題になり、また食糧も足りなかった。』(180頁)
《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 180頁より》
『収容所では本籍地、氏名、生年月日、官等級などがチェックされ、軍人軍属と非戦闘員とはきびしく区別された。日本兵は「ジャパニー」、沖縄住民は「琉球人」と呼ばれ、そして米兵は「琉球人」に対しては比較的親切だった。長期占領政策の一環をなす宣撫活動が徹底していたのであろう。避難民には食料、水、衣服、医療品、テント小屋などが与えられた。これは厳密には無償配給というわけではなく、その代償として労務の提供が義務づけられていた。作業を休むと食糧の配給が受けられなかった。』(290頁)
『…軍政要員をふくめ、大多数の米軍人が「沖縄人は、日本人ではない」とほぼ断定的にとらえていたことである。しかもこのような断定的な見方は、若干の曲折や強弱の違いはあっても戦後20数年間の米治政下でも一貫して顔をのぞかせていた。ちなみに米海軍のF・B・ライン中尉は沖縄人について「アメリカ人がこれまで見てきた人種のなかで沖縄人ほどアメリカ人と異なっている人種はいない。沖縄人は、お互いが人間であるという以外はなんらアメリカ人との間に共通点はない」と述べている。ライン中尉に言わしめると、沖縄人は米軍によって家を焼かれ庭を道路にとられたうえ、生活のために寸土をも必要とする田畑まで飛行場に作りかえられたにもかかわらず「友好的」な態度をみせるのは驚きだ、という。つまり、沖縄人は、基地が作られ日々風物が変っていくのにまるで何もかんじないかのように動じる色もなく妻たちと一緒に働いている。アメリカ人からみれば「沖縄人には時間もなく、人生もないのだ」と結論づけている。』(186頁)
田井等(たいら)収容所
平良*に駐屯する米軍のために開かれた祭りで剣の舞を披露する少女たち。(1945年7月8日撮影)
(投稿者註: リンク先の和訳にある 「平良」は「田井等」であると思われる。)
Geisha girls shown doing the sword dance of soldiers during the dance festival held for American troops stationed at Taira.
『1945年4月8日には米軍は羽地に侵攻し、本部半島を分断した。すぐに田井等地区一帯は「民間収容所」とされ、多くの地元住民や本部・今帰仁などの住民、さらに中南部からの避難民が収容されてきた。田井等地区では一時期、7万2000人に人口が急増していた。田井等地区内には軍人収容施設、憲兵本部、裁判所、警察本部、食糧配給所、人事監督署、養老院、孤児院、学校などの諸機関が設置されていた(名護市史編さん委員会編–1988・453頁)。』(120-121頁)
田井等で開かれた祭りで地元の食べ物や酒を差し出される陸軍の将校達。写真は祭りが終わる頃、将校達に給仕する地元の少女。踊り手が島の踊りについての解説をした。(1945年7月8日撮影)
Guest officers of the Armed Forces on Okinawa are served native food and sake at a dance festival held at Taira. A native girl is serving the officers just as the fete concludes. Geisha girls interpreted the native dance of the Island.
『沖縄戦では各々捕虜になって収容所に入った日が終戦日だったのである。なぜなら、沖縄戦が終わりもなく続いている間に、一歩収容所の金網に入ってしまえばそこではとうに戦後の生活が始まっていたのであり、米軍占領下の生活は厳密にはその後27年におよんだのであるから。』(289-290頁)
ひめゆりや白梅、そして鉄血勤皇隊など、県内21の中等学校から学徒として動員された10代の若者たち。
戦前、首里にあった沖縄師範学校と県立一中の学徒隊はおよそ460人が死亡。
文部省は65年前のきょう東京で表彰式をひらき、その師範学校と一中の学徒たちを「学生の鑑」として表彰しました。当時の太田文部大臣は「国体護持のために全国の学校も二校の如くまい進せよ」と挨拶しましたが、沖縄からその表彰式に出席できた人などもちろんいませんでした。
沖縄戦で学徒隊として命を落とした若者はおよそ1130人。敗戦を目前にしながら、政府はその地獄を本土でも繰り返そうとしていたのです。