〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月8日 『沖縄人には時間もなく、人生もない』

地獄船 / 辺野古・大浦崎収容所 / 学徒不在の文部省表彰式

 

米軍の動向

日本本土への爆撃

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Seizure of the island provided bases from which 7th Air Force medium bombers and fighters could attack the Japanese home islands.

沖縄島の占領は第7空軍中爆撃機と戦闘機が日本の本土を攻撃できる基地を提供した。

Okinawa > National Museum of the United States Air Force™ > Display

P-47N (サンダーボルト) 戦闘爆撃任務を担った。

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米空軍: Lancaster during mission over Japan. Note damage to 50 cal machine gun and wing of plane. Ie Shima, Ryukyu Retto. 戦闘機でランカスター中尉が日本上空で任務に当たっていた。50口径機関銃と戦闘機の翼の損傷を見よ。伊江島。1945年7月8日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

A-26 (インベーダー) が配備され、日本本土の爆撃を担う。

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This Douglas A-26 ”Invader” was one of the first to land on Okinawa. 48th Bomb Squadron, 41st Bomb Group. Okinawa, Ryukyu Retto. 沖縄に最初に降り立った飛行機の中の一つ、第41爆撃群第48爆撃中隊ダグラスA-26インヴェイダー。(1945年7月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵 ハワイに送られた捕虜 ②

ハワイ移送第3期: 7月7日頃、学徒兵を多く含む沖縄出身の兵士が屋嘉収容所からハワイに移送された。目的も移送対象の選抜も曖昧であれば、移送もずさんであり、10代半ばで20日間近くも貨物船の船倉に詰め込まれ、奴隷のように移送された学徒も多く (証言 ①)、一方では米兵の帰郷に使用される大型輸送船に乗せられた捕虜もいた (証言 ②)。

移送船では捕虜の待遇が船によって違っていた。とりわけ捕虜を裸のまま船倉に押し込めて食事の際に食器も与えず、排泄行為も船倉に置いたまま集団の中で強いた船があった。病気になる者も続出したという状況下で、非人道的な扱いを受けた捕虜たちは、後に他の捕虜たちから「裸組」と呼ばれていた。

秋山かおり「ハワイの戦争捕虜収容所における沖縄文化の継承と創造―歌と芝居の事例から―」pdf

船のダンブル(倉庫)に押し込められてね。沖縄からハワイの真珠湾まで20日間、真っ裸でした。暑い時期に換気もなにもない、地獄の20日間でしたよ。

沖縄慰霊…元捕虜『地獄の20日間』|ドウスル?|news zero

米国陸軍通信隊: Prisoners of war on dock await LCM which will take them to ship to be evacuated to Hawaii. ハワイへ移送する中型揚陸艦に乗るため、波止場で待つ捕虜たち。1945年6月27日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

沖縄師範鉄血勤皇隊 古堅実吉さん証言

数ある移送船のうち、古堅さんたちを乗せた船は環境が最も劣悪な「地獄船」だった。到着までの約20日間、蒸し暑い船倉に押し込められた。バケツに入った食事1日2回手のひらを食器代わりにした。白米を先に載せ、その上に主菜を盛り付けると汁気がこぼれずにすんだ。顔をうずめ、家畜のように食べた。

ハワイの捕虜収容所に送られたウチナーンチュ - Battle of Okinawa

証言: ① 「裸船」「地獄船」

貨物船に乗せられた捕虜たちは、丸裸されたまま、窓もなく、蒸し風呂のような環境の船艙に閉じ込められた。そこは、甲板から15メートル下の船底に近い場所で、垂直のハシゴで登り下りする必要があった。ベッドや寝具、汗を拭くタオルなども与えられず、家畜のように床の上で寝起きした。「翌朝、米兵に叩き起こされた。ひどい空腹を覚えた。その日から、水と食パン1切と牛肉とジャガいもの入ったのを、1日に2度与えられた。それは食事というほどのものではなく、生きるのに必要な最低限のものであった。食事のときは、パンや水をバケツに入れ、ハッチからロープで降ろしていた。船艙の片隅にはカンカンが置かれ、そこに糞尿をした。それが一杯になると、交代でロープにつるして上げ、処理した。そういうことで船艙内は空気がよごれ、それに、男の体臭がミックスされ、何とも異様な臭気がいっぱいであった。昼間でさえ、ハッチから入る明かりがあるのみで、何とかお互いの顔が判別できたが、夜はハッチが締められ暗闇となった。むし風呂に入った切りの毎日に、みんなは参ってきた。それにどこへ連れて行かれるのか分からぬままに、まるで「ドレイ」のような生活をしていた。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 72-73頁 》

証言: ② 「客船」

客船に乗せられた捕虜たちは、5段式のベッドがある船室に案内された。入口は見張りの米兵が監視していたものの、1日数分ほど外の空気を吸うため甲板に出ることを許された。「船内での食事は1日2回で、レーション(野戦食)が支給された。朝10時と午後4時であった。レーションは防水加工が充分施され、ブレックファスト、ディナー、サパーと表示されており、中味は多少の差異はあるものの、およそ煙草(3本)、罐詰、コーヒー、砂糖、チーズ等が入っていて縦6センチ、横20センチほどの長方形をしていた。食べ屑は使役を2名出して海中に投棄した。水はいつでも飲むことができた。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 81頁 》

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Designed for foxhole use, K-rations point the way for pocket-size camping meals of the future. Packed in breakfast, dinner and supper units, they stay fresh for indefinite periods thanks to new methods of packaging.

壕用に作られたKレーション。朝食、夕食、軽い夕食がセットになっている。新技術のおかげで長期間新鮮さを保てる。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

辺野古 - 大浦崎収容所の記録

中部で基地建設を進めるため、中南部の収容所から次々と収容者を北部の収容所へと移送した。

6月中旬〜7月中旬にかけて、米軍の投降勧告に応じて、捕虜となった元兵士や地元住民や避難民たちは、各地区と各字に設けられた「収容所」に集められた。…現在の名護市域でみると、当時の収容所としては羽地の田井等地区、久志の瀬嵩地区・久志地区・大浦崎地区が設定された。これらの地区や周辺に仮住まいした住民を合わせると、一時期15万人の人々が収容所生活を送っていたのである

《名護市史編さん委員会編–1988・83頁》

辺野古の大浦崎収容所には、基地化される本部半島から多くの住民が移送され、また後にさらに中南部の収容所からの移送も始まり、粗悪な米軍の収容所運営はさらに破綻をきたした。

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辺野古、今も放置されたまま調査も許されぬ犠牲者の遺骨の上にさらに軍事基地を作るという醜業

7月8日、米海軍の撮影隊が辺野古の収容所の様子を記録している。

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米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。(1945年7月8日撮影)

Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

やがて、瀬嵩と大浦崎に米軍が駐屯した。瀬嵩地区では、久志国民学校に米国旗が掲げられ米軍が駐屯。下山後、住民には軍命による統治が行われ、東喜、大川、大浦、二見、瀬嵩、汀間、三原、安部、嘉陽の各区に市制が敷かれ、市長が置かれた。人口は同年8月現在で約3万人を数えた。市長の下に警察、教育、衛生、産業、労務、配給の各部を設置、業務に充てた。久志地区も同様に市制が敷かれ、ここには今帰仁、本部、伊江の3村の住民が収容されていた。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月15日掲載

…中部の収容所の住民の多くは、沖縄戦が事実上終了した後、7月から8月にかけて宜野座金武名護など北部に集中させられた。この地域に当時の沖縄本島住民の約3分の2にあたる20万人が集められた。これは日本本土侵攻作戦のために中南部伊江島を利用しようとして住民を排除したからである。

《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 180頁より》

米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。(1945年7月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

これらの住民は、残っていた家屋に詰め込まれたが、それだけでは収容できず、テント掘立小屋での生活を強いられた。狭い地域に多くの住民が詰め込まれたために、水の確保やトイレも深刻な問題になり、また食糧も足りなかった。

《「沖縄戦が問うもの」(林 博史/大月書店) 180頁より》

トイレは集落の端にドラム缶を置いただけのものだった。

11年かけ400人の証言集「やんばるの沖縄戦」 – QAB NEWS Headline

収容所に移された人々は、萱を拾って建て、地べたに寝る状態に呆然とする。

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米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。(1945年7月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

テントも足りず、萱を寄せ集めてテントの代わりにした。

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米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。(1945年7月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

久志の捕虜収容所にてさらに数十日が過ぎた。私たちはすでに餓死寸前であった。その時、住民は何月何日までにどこそこに集合せよ、という伝達が届いた。さもなければ掃討戦で殺されてしまうぞということであった。それで避難民は続々と山から下り始めた。私たちも山を下りて今帰仁の今泊に行き、そこからトラックで久志に運ばれた。

久志には七、八か月もいた。はじめは50人ずつ、あるいは100人ずつ大きなテントに収容された。中には敷物もなく、土の上に寝ろということであった。それで人々は、とりあえず草を刈りて来て敷き、その上に住んでいた。文字通り家畜同然の生活であった。だが、やがて私たちは、山から材木を切り出し茅を刈り集めて、自力で小屋を作って住まうようになった。

食糧もまた惨めであった。すでに区長も任命されており、配給主任を通じて一人何合、何個というふうに支給されてはいたものの、それだけではなんとしても足りず、誰もが栄養失調気味であった。働き手のいる家族はそれでもまだましな方で、実際に栄養失調で死んだ人々もたくさんいた。だから私たちは、久志から脱出して、羽地を経て健堅まで芋を掘りに来るようになった。帰りは羽地の川端で一息入れてから明治山を通って久志に向うのであったが、明治山付近まで来ると、日本の敗残兵らが道にはいつくばって恵みを乞うので、はるばる担いで来た芋などを少しずつ分けてあげたこともたびたびあった。

また、久志の入口にはCPが待ち構えていて、越境者を検査すると称して、荷物を取り上げる者もいた。私も二回取り上げられた。八里も九里も担いで来たものを奪われた時の悔しさは今もって忘れることができない。

沖縄戦証言 本部 - Battle of Okinawa

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米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。(1945年7月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

収容所では本籍地、氏名、生年月日、官等級などがチェックされ、軍人軍属と非戦闘員とはきびしく区別された。日本兵は「ジャパニー」、沖縄住民は「琉球」と呼ばれ、そして米兵は「琉球人」に対しては比較的親切だった。長期占領政策の一環をなす宣撫活動が徹底していたのであろう。避難民には食料、水、衣服、医療品、テント小屋などが与えられた。これは厳密には無償配給というわけではなく、その代償として労務の提供が義務づけられていた。作業を休むと食糧の配給が受けられなかった。

《「日本の空襲-9」(編者: 日本の空襲編集委員会、第九巻編集代表 池宮城秀意/三省堂) 290頁より》

 

 

なぜ「沖縄人には時間もなく、人生もない」のか

生き残った沖縄人の生きるべき土地すら奪っておきながら、沖縄人の苦しみは彼らにとって「異質な他者」のもう一つの満足そうな顔*1であった。

…軍政要員をふくめ、大多数の米軍人が「沖縄人は、日本人ではない」とほぼ断定的にとらえていたことである。しかもこのような断定的な見方は、若干の曲折や強弱の違いはあっても戦後20数年間の米治政下でも一貫して顔をのぞかせていた。ちなみに米海軍のF・B・ライン中尉は沖縄人について「アメリカ人がこれまで見てきた人種のなかで沖縄人ほどアメリカ人と異なっている人種はいない。沖縄人は、お互いが人間であるという以外はなんらアメリカ人との間に共通点はない」と述べている。ライン中尉に言わしめると、沖縄人は米軍によって家を焼かれ庭を道路にとられたうえ、生活のために寸土をも必要とする田畑まで飛行場に作りかえられたにもかかわらず「友好的」な態度をみせるのは驚きだ、という。つまり、沖縄人は、基地が作られ日々風物が変っていくのにまるで何もかんじないかのように動じる色もなく妻たちと一緒に働いている。アメリカ人からみれば「沖縄人には時間もなく、人生もないのだ」と結論づけている。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 186頁より》

生活基盤を奪われ、ありとあらゆる負担を押しつけられ、あっちもこっちも火の車。

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米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。(1945年7月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

有刺鉄線に囲まれた生活が始まる。

米国海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the islands. Part of barb-wire fence around compound.
沖縄本島の米軍収容所内にいる民間人の生活の様子。米軍占領時。収容所を取り囲む有刺鉄線の一部。 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

文部省が沖縄の学徒兵を「学生の鏡」と表彰式

沖縄には21の中等学校があった。政府は閣議決定を連発し、1944年の陸軍省沖縄県奄美諸島などに限定し1417歳未満(14歳以上)で「志願」学徒の「防衛召集」を強いたため、沖縄戦ではこれら21の中等学校の生徒たちが戦場に動員され、その半数以上が戦場で命を失った。(今に至ってもその正確な数値は不明のままとされている。)

1945年6月23日には「義勇兵役法」が制定され、正式に日本全土で15歳以上男子、17歳以上女子の義勇兵が可能となり、それを受ける形で7月8日文科省が東京で沖縄の学徒兵を「学生の鑑」と「顕彰」する表彰式をおこなったが、そこに実際の沖縄の学徒の姿はひとりもいなかった。

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ひめゆりや白梅、そして鉄血勤皇隊など、県内21の中等学校から学徒として動員された10代の若者たち。戦前、首里にあった沖縄師範学校県立一中の学徒隊はおよそ460人が死亡

文部省は65年前のきょう東京で表彰式をひらき、その師範学校一中の学徒たちを「学生の鑑」として表彰しました。当時の太田文部大臣は「国体護持のために全国の学校も二校の如くまい進せよ」と挨拶しましたが、沖縄からその表彰式に出席できた人などもちろんいませんでした。

沖縄戦で学徒隊として命を落とした若者はおよそ1130人。敗戦を目前にしながら、政府はその地獄を本土でも繰り返そうとしていたのです。 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月8日(日)

学徒の戦死者率は引率教師のそれを上回る。政治は日本の教育にいとも簡単に介入し、教育現場は軍と一体化した。

昭和13年、次官通牒「集団的勤労作業運動実施に関する件」が指令され、学徒らへの戦時体制が歩み始めた。そして日米開戦の年に「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要綱」が指令され、さらに「学徒戦時動員体制確立要綱」「緊急学徒勤労動員方策要綱」「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」と次々に学校現場を覆っていった。これにより「学生生徒の労働」が「教育の重要な一環」となり、「決戦教育」が徹底されていった。 

当時、県の教学課にいた真栄田義見さんは「今、振り返ってみると、思想的抵抗者になりきれなかった弱さを感じる。強い流れに教育者も流されていった」と話す。 同じ教学課にいた中山興真さんは「すべてのものが国を守るという立場から作られていき、疑問など何一つなかった。いや、疑問を持つことが許されなかった。疑問を持てば“非国民”として官憲につるし上げられたのだから―」と振り返る。 

比嘉徳太郎さん(当時、県立工業学校長)は「そのころの校長会生徒が軍務につくことに、職責が遂行できるとの考えがほとんどだった」と証言する。

「教育者」の沖縄戦 ~ なぜ「教育者は、戦争協力者になってしまった」のか ① 内政部教学課 - Battle of Okinawa

 

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沖縄の今日

1969年7月8日、知花弾薬庫 (現・嘉手納弾薬庫) で毒ガス事故

1943年7月8日 『サントス事件』 ~ 語られなかった過去、子孫のために証言する

*1:駐留米兵は沖縄人を gooks と呼んでいた。アメリカで長く続いた奴隷制の歴史では、アフリカ系アメリカ人は従順 (docile) で苦しみに無頓着 (carefree) で、奴隷制に満足している (content) 、というステレオタイプ (stereotype) が定着していたが (see. Racial Stereotypes of the Civil War Era) 同様なステレオタイプが沖縄人にも投影されていたようである。