1945年 4月5日『沖縄にできた米軍政府 〜アメリカ世(ゆ)のはじまり〜』

米軍の動向

北進する米軍

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畑を抜け、田んぼのそばを通り進軍する海兵隊員。(1945年4月5日撮影)

Marines advancing thru fields and past rice paddies.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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進軍するジープと戦車。(1945年4月5日撮影)

Jeeps and tank advancing.

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名護郊外で、狙撃兵が掃討されるのを待つ海兵隊員。埃まみれで疲れている彼らは日本兵を捕えようとしている。(1945年4月5日撮影)

On the outskirts of the town of Nago, waiting for the snipers to be cleaned out, the Marines are dusty and tired and trying to catch the Japs.

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日本軍が撤退する際に放った火で炎に包まれる村を見つめる海兵隊員。(1945年4月5日撮影)

Marines gaze at the village the Japs left in flames.

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軍政府

沖縄には住民がいるということで、アメリカの作戦立案者側には、軍政をしくというもう一つの問題が出てきた。これには2つの問題がふくまれている。かれらを前線から退かせるということと、もう1つは、その後の世話をみなければならないということである。これは作戦遂行をスムースに行うためばかりでなく、占領軍に労力や物資源を利用させるという意味においても必要だったのである。沖縄の住民はおよそ30万人が南部に住み、残りは北部やその近くの島に住んでいる。こんなに多数の敵の民間人を取り扱うことは、アメリカにとって太平洋地区ではじめてのことであった。』(46頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 46頁より》

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p416a.jpg

島袋に置かれた軍政府司令部

MILITARY GOVERNMENT set up headquarters in Shimabuku at beginning of the Okinawa campaign. 

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-16.html 

『この占領された日本の島での軍政の基本的責任は海軍がとり、ニミッツ提督琉球軍政長官の地位につくことになった。しかし、守備隊のほとんどが陸軍の部隊である関係上、ニミッツ提督はその責任をバックナー中将に代行させる。バックナー中将は、沖縄侵攻をつづけるかたわら、各戦闘部隊の司令官を通じて行政区域を設けさせ、軍団長、師団長がその責任者となって、行政部において、前線後方の民間人に関するプランをたてたり、組織をつくったりさせる。戦闘が進展し民間人の数が多くなるにつれ、今度は第10軍軍政本部付各チームが責任をとり、収容所をつくって全島的な計画を進めていく。守備隊が行政区域の責任をとっているあいだは、バックナー中将の命令により、地上軍司令官が全軍政府職員に指揮権を行使する。これには軍政副長官W・E・クリス准将を通じて、フレッド・C・ウォレス少将があたるということになった。』(46-47頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 46-47頁より》

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米軍の沖縄上陸をラジオで伝えるニミッツ元帥。

Fl. Adm. Chester W. Nimitz, USN, announcing on the radio that U.S. forces have landed on Okinawa, Ryukyu Islands.

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アイランド司令部司令官ウォレス陸軍少将、第10軍戦術航空軍マルケイ海兵隊少将、第10軍工兵隊将校ノルド准将、ウォレス少将の部下ビセット准将

Army Major General Fred C. Wallace, Commanding general of the Island Command at Okinawa, Marine Major General Francis P. Mulcahy, commanding general of Tenth Army Tactical Air Force, Army Brigadier General George J. Nold, Engr. Offr. for the Tenth Army

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『すでに慶良間上陸のさい「軍政布告第一号」を公布していた米軍は、沖縄本島へ上陸すると改めて同布告を公布日本政府のすべての権限を停止して、じかに軍政をしいた。軍政要員たちは、上陸前に沖縄についての情報を網羅的に要約した小冊子を手渡されていたので、知識としては比較的によく知っていた。が、実際にみる沖縄の姿は、驚くほど貧しく映ったようである。

かれらの記録は、異口同音に沖縄の土地がやせ、作物も悪く、住居は貧弱で住民は短小なうえ、いづれも栄養失調に陥っていると述べている。そして軍政下の住民はだれもが恐怖におののいているが、そこには「一つの不吉な特徴がはっきりと目立った」と指摘、「それは、若い青年が一人もいないことであった。そして若い女性もはなはだ少ないことであった。」、「彼らは全部6歳以下か、もしくは60歳以上」という。そこから若い世代がすべて軍隊に召集されたことを悟ったのである。』(58頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 58頁より抜粋》

 

日本兵と民間人捕虜の収容

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スローター中尉が学生と話している間、民間人捕虜の相手をするスミス一等兵。捕虜は日本軍の軍服に似た学生服を着ている。(1945年4月5日撮影)

Private First Class R. A. Smith is covering the civilian prisoner while First Lieutenant Glen Slaughter questions the student. The prisoner wears a student's uniform which resembles a Jap soldier's uniform.

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自傷した民間人の治療にあたる米海軍予備役部隊所属インローズ医師。我が子2人の命を奪った後、地元の女性たちは自分の命を絶とうとした。(1945年4月5日撮影)

Doctor B.H. Inloes, USNR of Maryland, treating civilians with self-inflicted wounds. After killing their children (2) the native women tried to take their own lives.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『最初、民間人用の収容所として選ばれたのは、主に石川、勝連半島、コザ、島袋、泡瀬であった。軍政府としては、住民がまず生きていく上に最小限度必要な食料品、水、衣服、小屋、医療品をあたえ、衛生環境の整備をした。二週間から四週間分の貯蔵食料がみつかり、これに畑でとれる作物を加えたが、作物の取り入れは、米軍の監督のもとに、共同体単位にやることにした。馬牛、豚、山羊、ニワトリなど、沖縄上陸とともに逃げて野放しになっていたのを、かり集め、民間人のキャンプに引き渡した。』(443頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 443頁より》 

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/80-G-K-05000/80-G-K-5168/_jcr_content/mediaitem/image.img.jpg/1457060572843.jpg

島袋の民間収容所 (写真の下部、木々の間に見えるのが収容テント)

Near the Shimimuku Camp for Japanese Civilians, circa April-May 1945. Note tents in lower foreground.

80-G-K-5168

 

  

日本軍の動向

二転、三転する作戦計画

大本営と上級司令部は、米軍に沖縄島無血上陸と北・中両飛行場の占拠を許した第32軍に対し、攻勢に出るよう要請した。それを受け、4月7日に総攻撃を開始すると決定した第32軍であったが、前日の4日夜半に沖縄島南方に米軍の船団を発見したという報告を受けたことで、急遽、7日の攻勢開始を中止した。

 

第32軍司令部第10方面軍

『4日夜半この大攻勢を延期することにした32軍の電報は、5日午前7時20分に打たれている。5日朝から米軍が全面攻撃を加えはじめ、それによって北正面に通せんぼをしてくる前のことである。攻撃は、刻々に困難となり、成果が収めにくくなっていく。この5日の延期を受けとった台湾の10方面軍では、愕然とした。このままではいけないと痛感した。』(165頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 165頁より》

前日4日に第10方面軍の安藤軍司令官は、台湾から沖縄への兵力と武器輸送に関し調査せよと命じていたが、空輸では航空機が足りず、舟艇輸送では成功しないという調査結果が報告された。その後に「7日の攻勢は中止」という一報が入った。

『安藤軍司令官は、目をつぶって深沈と考えこんでいたが、「これは、この際、方面軍から踏ん切りをつけてやらねば動けんだろう。参謀長。電報を打ってやれ」と命じた。諫山参謀長は、すぐに電報を起案、32軍の攻勢延期が、全般の作戦指導に重大な関係があることを説き、「コレガタメ地上作戦発起ヲ四月八日夜ト予定シ攻撃ヲ実行セラレタシ 命ニ依リ」と結び、決裁を受けて、午後5時15分に発信した。

5日夜半この電報を受けた32軍では、上級司令部の命令には服さねばならぬ。そこで、軍司令官は、さほどの船団が湊川に上陸するおそれもなくなったことではあり、4月8日に攻勢を再興することに決意し、関係部隊に電報した。』(166頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 166頁より》

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日本軍の防衛陣地(1945年4月1日)Map No. 9: Japanese Defensive Positions

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 4]

『このように軍司令部の意志が二転、三転したことは、32軍各部隊に、けっしていい影響は与えなかった。…これでは、士気が低下する。しかし、北方方面では、そんなことをいっていられない火急の状態が起っていた。5日朝から、前線にわたって、米軍の本格的な攻勢を受けていたのだ。』(166頁)

『4日、米軍が動き出したころから、湊川方面に米軍が上陸してくるのに備えていた強力な軍砲兵主力は、4日から8日にかけ、北向きの新陣地についた。その間、首里北東にあった砲兵1コ大隊は、北方に向かって射撃を開始した。』(167頁)

『ここでも、タイミングの遅れが出た。沖縄主陣地の出城である62師団の第一線陣地は、担当正面の幅が広く、それに見合う兵力が少ないので、出城と出城の間にどうしてもスキ間ができる。そのスキ間を戦車が通りぬけて、出城を包囲してくる。本来ならば、そのスキ間は、重砲の射撃で埋めるのだが、使用弾薬を制限された1コ大隊の砲兵ではそれができない。突破されたのは、二カ所だった。それ以外は、多くの戦死者を出しながら、それにひるまず、善戦して第一線をもちこたえた。(168頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 166、167、168頁より》

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4月5日の晩に第382歩兵連隊第2大隊の司令部地区に潜入しようとして殺された住民。その時持っていた刀を抱いている。

The Japanese civilian was killed the night of April 5th when he tried to infiltrate the command post area of the 2nd Bn., 382nd Inf. Regt. He holds the sword he was carrying at the time.

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 海軍

4月5日、晴。…小磯内閣が総辞職し、大命は鈴木貫太郎海軍大将に降下した。全力をあげた特攻作戦ー「菊水1号」作戦の準備が成った。連合艦隊は、第1遊撃部隊(「大和」、第2水雷戦隊)にたいし、沖縄突入攻撃(特攻)を下令した。』(163-164頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 163-164頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

『自分たちの島が侵略されるまえに、はげしい爆撃に見舞われ、しかも米軍の迅速な進撃に茫然となった幾千の沖縄の人たちが、着のみ着のままで、どっと米軍政府当局の管理下に入ってきた。住民は最初、戦争の邪魔にならないように柵内に入れられたが、その後ただちに戦災を免れた村落に移動させられた。4月5日までに、嘉手納南部の金網内にいた1500名の住民は島袋にトラックで運ばれ、ここで彼らは、MPのきめた境界線内での行動の自由を認められた。』(101頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 101頁より》

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Cレーション(配給食)を受け取る民間人(1945年4月5日撮影)

Jap Civilians get ”C” rations.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月5日