1945年 7月19日 『陸軍病院配属兵の抵抗』

米軍の動向

日本軍陣地の調査

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/374380.jpg

墓の内部と壕を調べる第10軍の兵士。(1945年7月19日撮影、場所:糸満

Tenth Army soldiers inspect Jap burial vaults and caves at Itoman.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

高級参謀のその後 ③

第32軍の高級参謀の八原大佐は、組織的な戦闘が終わった後、民間人を装って投降した。しかし、目的は機会を見て沖縄島を脱出し、大本営に戦況を報告することであったため、米軍の動向を探る必要があった。米軍の管理下にある民家に置かれていた八原大佐は、7月17、8日ごろ、一緒にいた避難民から軍作業に出るよう誘われ、情報収集も兼ねて作業に出ることを決心した。軍作業当日、現場までの移動中に見た光景は、星条旗が翻り米軍の幕舎が建ち並ぶ様変わりした沖縄島だった。

八原高級参謀の回想:

『その後、暫く、私は自らの健康を顧慮するとともに、アメリカ軍の目を警戒して作業には出なかった。そして…米搗き、藁の芯抜き、縄ない---をして過ごした。』(475頁)

『国頭疎開の流説は、日を経るに従い、確実らしくなる。単独強行突破は、当分見合わせるべきだと考えるようになった。衣食も足るようになったから、危険を冒して、アメリカ軍の作業に出る必要もない。慎重に時日の経過を待てばよいのだ。

ところが、一度出て安全だったという経験が、私の好奇心を唆かし、その後2、3日おきに2回アメリカ軍の作業に出た。第2回目は津嘉山周辺。第3回目は知念半島突角部であった。3回目の作業ではちょっと問題を起こしたが、とにかく、いずれの場合も恙なく終わった。』(476頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 475、476頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/112-03-1.jpg

トラックに乗りこんでいる地元民。その日彼らの仕事先となる予定だった部隊が、トラックを支給した。沖縄本島の石川にて。

Natives boarding trucks supplied by outfits they are to work for during the day at Ishikawa, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦い続ける日本兵

沖縄陸軍病院の衛生材料科に配属されていた男性の証言:

『陸軍病院での業務は、機械、医薬品、衛生材料などを扱う仕事についておりました。略して「薬室」と呼んでおりました。』(357頁)

沖縄陸軍病院は、熊本病院から部隊長以下一部が来まして、開南中学校に本部が設置され、部隊受け入れ準備をいたしました。私は昭和19年6月5日に…召集を受けました。その後から看護婦や兵の召集、雇用が始まって人員が増え、6月下旬になってから病院の部隊本隊がやって来て、外科・内科・伝染病棟科にわかれました。第32軍が編成される前に、沖縄には中城湾司令部というのがあり、専属の病院がありました。それは与那原小学校で開設されていましたが、陸軍病院が出来た時点で吸収されました。

衛生材料は、手持ちを使いました。本隊は熊本から来る時に持って来なければならないものを、何も持たずに手ブラで来ました。そこで民間の薬局や薬店などからの徴発が唯一のものでした。

県内でも民間の開業の医薬品などは配給制で、医師会の需要をまとめて知事に申請し、ヨードチンキ20本、クレゾール10本などという具合にもらっていました。私は医薬品の卸業務に携わっていましたので、需要と供給の切迫した事情がよくわかりました。

陸軍病院開設後は、軍や病院の上官から「買い占めろ、買い占めろ」とせき立てられまして、軍と民間医療との板ばさみで、精神的に苦労が多くて困りました。10・10空襲の数日前に陸軍病院の器材が陸揚げされ、空襲の中を南風原まで運んでからは、医薬品、衛生材料の方は大分楽になりました。』(359頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 357、359頁より》

http://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0003275/kiji1Img.JPG?uid=20170719230757

国内第1号の戦争遺跡文化財沖縄陸軍病院 南風原壕群20号

沖縄陸軍病院 南風原壕群20号 | たびらい

『…丘陵の横腹を削りとり衛生材料を4、5ヵ所に分散し保管しました。壕らしい立派なものはつくれませんでしたから爆撃されたものもあります。各病棟に収容できるだけの材料は収容し、残りを分散し保管した形です。一番かさばるのがリンゲルでした。』(361頁)

『本隊が南風原を出たのが5月20日ごろです。私たちは衛生材料を移送するため後に残ったのですが、そこへ石部隊がやって来て状況はますます悪くなり、25日に残った12、3人と共に壕を出ました。山川ー友寄ー東風平へ出て東風平の三差路から右へ曲がり兼城へ出て与座岳へ出ました。夜が明けてくる頃でしたので、そこの「山」師団の司令部に泊めてもらい夜になってからそこを出ました。その頃はのんびりした田園風景で昼間も通れました。2週間はほっとして過ごせました。それから与座以南にも戦闘が押し寄せてきて、夜になると壕から出て食糧を漁るという具合でした。』(365-366頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 361、365-366頁より》

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022300216/files/DSC_7967.jpg

山城集落の東側に、地元住民が避難していたサキアブとよぶガマがある。沖縄線末期、南部に撤退してきた陸軍病院の本部の勤務者が、ここで傷病兵の治療にあたったことから陸軍病院本部壕ともよばれる。』

沖縄陸軍病院之塔 | 糸満市

『私たちは解散命令により、山城の壕を出てから1ヵ月間、喜屋武の海岸にいたんです。アメリカ兵が面白半分に毎日のように掃討にくるのですね。機関銃をもって応戦したのですが、あとは榴弾で応戦です。』(366頁)

6月19日から7月19日までです。』(手榴弾は)『5つ6つぶら下げていましたが相当重いですよ。戦死した方のも取って使いました。』(367頁)

『ある日の夕方、海岸でのんびり構えていたらすぐ近くに米兵が来ていて、そこへ飛行機も非常に低空でやって来て陸と空で連絡し合っているのです。危ないと思ったので、とるものも取りあえず、アダンのジャングルに逃げ込みました。その時、大事にしていた機関銃を持って行かれてしまいました

米兵は10人くらいでしたが、私共が食糧にしていた芋とサトウキビにガソリンをかけて焼いてしまい、そのため食べ物がなくなりました。仕方がないのでアダンの実も食べましたが、柿のようにおいしい部分もありました。

いつまでも海岸にいては餓死するかもしれないということで、…(第1外科看護婦)さんと一しょに北部へ突破すべく喜屋武の海岸を後にしました。』(366頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 366、367頁より》

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022300209/files/IMG_0235.JPG

喜屋武岬

喜屋武岬 | 糸満市

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月19日(木)