〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月27日 『連合国軍の日本進駐』

日本進駐の開始 / 捕虜の驚き / 病院で行方不明

 

降伏文書調印式までの動向

日本進駐の開始

日本の8月10日ポツダム宣言受諾の決定は、11日には世界を駆け巡る。15日に敗戦宣言が行われた。27日、進駐部隊をのせた連合軍の艦船が、相模湾逗子沖に集結した。

1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、27日から連合国軍の日本進駐が開始されました。

外務省外交史料館 戦後70年企画 「降伏文書」「指令第一号」原本特別展示|外務省

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昭和20年8月27日午後1時過ぎ、戦艦・巡洋艦17隻よりなる先遣艦隊が集結した。

本土上陸のため相模湾に集結した米艦隊 横浜市

27日アメリカ第3艦隊は曇り空の下、鉛色にけぶる海上を日本本土に接近していた。ハルゼー大将座乗の戦艦「ミズリー」を中心とする艦隊が相模湾沖に姿を現したのは午前10時半である。戦艦、巡洋艦駆逐艦、運送艦を併せ、陸上から数えられる艦影だけでも60隻に達していた。それは水平線上を覆い、日本の海を圧する大艦隊であった。…相模湾一帯は、敵上陸の水際作戦に備え日本陸海軍が防衛線を布いた地域である。無数の銃眼を開き地下壕の走る江ノ島。海岸線に沿う低い松林に20ミリ対空機銃砲台が展開する茅ヶ崎砂丘には陸軍53軍の工兵隊が構築した掩体壕が隠れている。大磯照ヶ崎海岸の内陸部湘南平千畳敷は水際で敵軍を撃つ砲台であった。平塚も真鶴も、沿岸はことごとく武装していた。全滅しても後退はない、ハリツケ部隊の陣地であった。夏草が伸び土砂が崩れた海岸地帯に、もはや決戦部隊の姿はない。そして沖合に集うのは旭日の軍艦旗ではなく、星条旗を掲げるアメリカ艦隊であった。

「翌27日は時々にわか雨の降る日だったが、米第3艦隊は観艦式でも行うかのごとく、激戦のなごりとどめぬ堂々たる雄姿相模湾一杯にくりひろげた。茅ヶ崎の海岸から、この光景を見せつけられた筆者は、往年のわが連合艦隊を偲んで、新たな無念の思いに言葉を失った」高木惣吉著『自伝的日本海軍始末記  続編』光人社刊)

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 164-166頁より》

 

米軍の動向

米軍保養地区

古宇利島 (米陸軍)、瀬底島 (米陸軍)、平安座 (米海軍)、浜比嘉島 (米海軍)、藪地島 (米海軍)、久場崎 (米海軍) など多くの島や海岸が米軍保養地区となっていた。

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Boats bringing men to Recreation Island, Ryukyu Retto for recreation party. Men bring their own beer, refreshments and sporting equipment.

琉球列島のレクリエーション用の島にボートでパーティーにでかける米兵。彼らは、ビール、軽食、スポーツ器具を持参している。(1945年8月27日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

捕虜の生活

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1945年8月17日 『ぬちぬぐすーじさびら』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

米軍基地の物資運搬・港湾作業などを担うため捕虜収容所は巨大な軍事基地に隣接して設置された。航空局から小禄海軍飛行場に配属され、捕虜となり牧港の捕虜収容所で約1年半を過ごした技術者は広大な嘉手納飛行場をみて「納得」する。

嘉手納の飛行場を一望したときは、まさに驚天動地の驚きであった。あの広大な飛行場が何千のジープ、何百というトラック、何百という小型飛行機、大型輸送機、戦闘機でいっぱいで あった。すべてがわれわれの想像を超えていた。見渡す限り、戦闘物資があふれていた。三月二十三日の戦闘開始以来、想像を絶する艦船や砲弾や爆撃、照明弾、迫撃砲の攻撃にわれわれは反撃ひとつできなかった。数百倍の反撃があったから、手も足も出なかった。二桁も三桁も違うから無理もなかったのだ、と改めて納得がいった。この戦争を始めるにあたり、日本軍はいったい何を考えていたのか、馬鹿じゃないか! と 呆れた。

《上根保『生還 激戦地・沖縄の生き証人60年の記録』幻冬舎ルネッサンス (2008)》

また、真栄里の特攻艇基地に防衛隊員として召集された住民は、秘匿壕から海中まで毎日、べニヤ板の特攻艇を肩担ぎして運搬させられた。

そうしてこの船舶特攻隊は、巧いこというんですな、実際面では全く効果はないんですが、大きな法螺を吹いてですね、今日は戦艦を撃沈させたなどいって、朝がたに帰って来るんですな。この船を線路に上げることもできない、水がいっぱい入っていますが、船体は、ベニヤですから、底を突きほがして水を流してからまた担いで線路まで持って行って、それから防空壕に持って行って避難させる、そればかり毎夜繰り返しておるんです。

金城亀二『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 与座 - Battle of Okinawa

彼は沖縄防衛隊員であったため、捕虜となりハワイに移送されるが、その途中のサイパンで米軍艦隊をまじかに見る。

… 嘉手納の野国ですな、そこ (嘉手納捕虜収容所) へ連れられて行ったんです。そうしたら驚きましたのは、名城でわれわれを殴って船を担がした船舶特攻隊の下士官の連中がうろうろしてほとんど全部いましたよ。… 敵の戦艦を撃沈させたといっていた連中が、真先きに捕虜になっていたわけですよ。涙も出なかったですよ … サイパンでちょっと碇舶しましたが吃驚しましたな。あれだけ撃沈させたといったのにアメリカの船団見たら吃驚しました。それを見たら日本の宣伝はまるっきり嘘だったなと吃驚しました。

金城亀二『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 与座 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

胡屋の海兵隊野戦病院

米軍は胡屋十字路南側に海兵隊野戦病院を設置した。後に民間に移管され沖縄中央病院となる。

7月19日、知念地区の久手堅収容所が日本軍敗残兵に襲撃され、重傷を負った夫婦は胡座の海兵隊野戦病院に送られていた。

胡屋十字路の野戦病院に11月までいた女性の証言

しばらくして、伯母と私たち夫婦三人は、重傷で、百名の治療所では治療が困難とのことで、越来村胡屋のアメリ海兵隊野戦病院に移された。伯母は胸部に銃弾が残っていて毎日苦しそうに咳が出て、見るも痛ましいかぎりであった。手術をして摘出しなければ命が危いとのことだったが、私だちの知らないうちに宜野座の病院へ移されてしまった。家族だから一緒にしてくれと頼んだが、米兵には充分に言葉が通ぜずいらだちをおぼえた。それ以来、伯母は行方不明になり、何の消息も得られず残念に思う。テント張りの病室が幾棟となく続いている野戦病院には前線から護送されて来た多くの負傷者でひしめきあい、衛生兵や従業員がせわしそうに働いていた。目をそむけるような生々しい重傷者が毎日運びこまれた。火焔放射器で焼けただれ、顔形もわからなくなり、これが人間かと思えるようなむごたらしい姿になった者、両脚を切断され、血まみれになり目だけが異様に輝いている若い兵隊、艦砲の破片で下顎が切りおとされて食事のできない婦人、栄養失調で痩せ衰へ、虫の息になった老人、とその残酷さに目をおおいたくなり、激戦の傷あとの深さを物語る光景であった。毎日運びこまれる人だちを見て涙を流さずにおれない心境におかれた。南部の戦場から、次々と幼児だけがトラックで運びこまれた。親と死別したらしい乳幼児、放棄されて道端で泣きじゃくっていた幼児、幾日も親とはぐれて戦場をさまよい歩いていた飢えた子、裸のままベットに寝かされ、下痢をするたびに水で洗い流されているようすに胸が痛くなる。ほとんどの子どもが栄養失調と下痢のため短い生涯を閉じていった。

戦闘地から野戦病院に送られ、消息不明になる事例はとても多かった。

このおばは、その時妊娠八か月になっていましたが、体の三分の一くらい火傷していたそうで、すぐ病院へつれていかれたようで、宜野座の病院で見たという人もいますがはっきりしません。病院で不明です。この叔父の子に三つか四つくらいの女の子がいましたが、これも火傷で別れてしまって病院で、行方不明です。どこでどうなったかわからないんです。祖父は百名 (百名収容所) で死にました。これは捕虜二日目、もう疲れてですね、僕は捕虜になるのは一日後ですが、僕が行った時は、坐っていたんですよ。… 休んでいたところで、坐ったまま死んでいたそうです。祖母は元気で、トウキ (東喜) (瀬嵩収容所) まで行きました。トウキでマラリヤ亡くなりました。それで叔父の家、僕の母の実家は一家全滅です。

『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 真栄平 - Battle of Okinawa

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米海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island. A boy and his baby brother show some bewilderment.
米軍占領後、収容所内での日本人の生活の様子。困った顔をしている少年と弟。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米国海軍 G-6 hospital 61 at Koza, Okinawa, Ryukyu Islands. ComPhibPac #264.Primitive laundry.
コザにあるG-6区第61病院。原始的な洗濯施設。 コザ  1945年5月15日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

  

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