〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月14日 『宮古の沖縄戦』

軍事拠点化された島の戦争 / 土地の強制接収 飢餓とマラリアとの戦い /

 

米軍の動向

沖縄から東京へ

日本は8月10日未明ポツダム宣言受諾を決定し、午前中には中立国を経由してアメリカなどに伝えられた。これをうけ、8月11日土曜日朝、バーンズ国務長官は日本の降伏を受け入れる覚書を送った。その日、世界は日本降伏のニュースに沸いたが、日本の国民には15日の玉音放送まで伏せられた。米軍は東京へ進駐する準備を整える。

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今度はどこだ?--ついに戦争が終わり荷物をまとめて出発の準備を整えた第1海兵師団の兵士。3年と1週間前、彼らは太平洋での最初の攻撃を行った。今日、東京への第1陣あるいは帰国第1陣の準備が整った。(1945年8月14日撮影)

WHERE NOW?--Marines of the First Division, now that the war has ended, are packed and ready. Three years and one week ago they made the first offensive in the Pacific war. Today, they're ready to be the first in Tokyo--or the first home.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

馬天港のバックナービルは米海軍の拠点となった。

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NOB Headquarters at Baten Ko, Okinawa. Enlisted men's quarters, Red Cross hut and chow hall.

沖縄本島の馬天港にある海軍作戦基地指令部。下士官用兵舎、赤十字用宿舎、食堂。1945年8月14日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

宮古島沖縄戦

軍事化された島 - 海上封鎖と空爆

日本軍は沖縄島の約1/8の面積の宮古島約3万人という数の将兵を送り込んだ。3つの飛行場建設のほかに、米軍の上陸を想定し、砲台や海上特攻艇秘匿壕も多く構築された。

日本軍は沖縄に15の飛行場を建設した。そのうち三カ所の飛行場が宮古島にあった。

10. 海軍 宮古島飛行場 (平良飛行場)

11. 陸軍宮古島中飛行場 (野原飛行場)

12. 陸軍宮古島西飛行場 (洲鎌飛行場)

しかし実際には、米軍は台湾や先島諸島を素通りし、慶良間諸島と沖縄島に上陸した。また、アイスバーグ作戦第三段階に計画されていた飛行場建設のための宮古島上陸作戦も、4月26日時点で中止され、伊江島と沖縄島の基地建設に集中化した。

英米の艦隊先島諸島を徹底した空爆で封じ込めているあいだ、宮古島3万の日本兵と6万人の住民は、またもう一つの沖縄戦を経験した。

英国海軍の記録にみる宮古島空爆*1

先島群島群の中で最大の2つの島、宮古島石垣島アイスバーグ作戦における英国太平洋艦隊の標的である。宮古島には野原、平良、洲鎌が、また石垣島には石垣、宮良、へぎなの 3 つの飛行場があります。

Royal Navy Research Archive: 1841 Naval Air Squadron

日本軍は住民を総動員し、決死で滑走路を補修していたが、英国海軍の記録では、滑走路が少しでも使用可能になれば激しく爆撃し、常に滑走路が使用できない状態を維持していたことがわかる。3月頃からは無差別攻撃が始まった。

Hirara airfield on Miyako Jima, its runways receiving their daily bombing strikes which leave them cratered and unserviceable.

宮古島平良飛行場。滑走路は毎日爆撃を受け、そのためクレーターだらけとなって使用不能な状態となっている。

Royal Navy Research Archive: 1841 Naval Air Squadron

昼の空爆、夜の修繕を繰り返すが、そもそも「洲鎌飛行場」は設計上の難点があり、1944年10月には完成するものの、対岸に来間島があるなどの地形上の理由から、ほとんど利用されることがなかった。

先島群島にある日本の飛行場。滑走路に爆弾による損傷が見られるが、画像はおそらくアイスバーグ作戦の初期段階で撮影されたもの。TF-57 には夜間飛行能力がなかったため、日本軍は通常、夜間に滑走路を修理することができ、航空機は毎日同じ目標に戻ることを余儀なくされた。

NAVY BLUE FIGHTER PILOT — Episode Three — Vintage Wings of Canada

以下、日本軍による飛行場用地の接収から武装解除に至るまでを辿っていく。

 

宮古島の日本軍

土地の強制接収 - 支払いなく国有地化

総務省による概要

昭和19(1944)年12月までに3万人の陸海軍人宮古島にひしめいた。急激な人口増加に加えて、平坦な地形を持つ農耕地は飛行場用地として接収され、甘藷、野菜などの植え付け面積は大きく削られた。「10・10空襲」のころから海上輸送は困難になり、軍部は残された農地を軍要員自給用農地としてさらに接収した。当初は現金による契約など一見合法的な動きがあったが、自分の所有する畑に、ある日突然"軍用農地"の看板が立てられ、入れなくなるという事態も起きた。いつ飛来するか分からない空襲に備えて、炊事のための焚煙は夜間だけに制限され、燈火管制下の平良町は夜ともなれば文字通り暗黒の町となった。

総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況 魚拓

日本が宮古島の土地を強制接収し国有地化したやり方。

飛行場用地に家屋敷畑を接収され、強制疎開を強いられた家族

生前、(栄丸遭難で亡くなった) 父はよく海軍飛行場用地にとられてしまった七原の土地代について、「入口から入って来て金を渡し、出ていくとき金をとりあげて出口から出ていく」ようなやり方だったと言っていました。地料は一応計算して渡しはしたが、その場でそっくり強制貯金をさせられ、一銭も手にはわたっていない。いわば土地は強制的にただどりされたとも言えます。

栄丸遭難 2『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 5 - Battle of Okinawa

 その年(1944年)の陸稲はとくに出来がよかったのです。それが、あと四、五日で収穫というときでした。「あと四、五日まってくれ」と頼みこみました。だが、強引にきりはらわれてしまいました。畑の主たちは涙を流していましたよ。それを眼のあたりにみた私は、あまりに残酷な仕打ちに、人間として許せることか、といかりがこみあげてきましたよ。… うちの人は、なやみぬきました。もったいない。あと四、五日で収かくできるよくできた陸稲をみすみすてるのかと。… 滑走路からだいぶはずれた処について、そこだけは何とか待ってくれと頼みこみましたが、それさえ全くききいれてもらえませんでした。… 土地代は形の上ではもらいました。だが、強制的に凍結貯金ですね。未だ、実質的支払いというのはうけていません

『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 1 - Battle of Okinawa

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宮古島北部の西原地区、宮古島にある数少ない山のひとつ、ピンフ嶺の中腹に、当時の島の様子を今に伝える戦跡があります。陣地壕、ピンフ嶺野戦重火器砲壕です。壕の奥行きは50メートル、アメリカ軍の艦砲射撃から日本軍の大砲を守るための要さいで、昭和19年ごろにつくられました。当時、貴重だったコンクリー卜がふんだんに使われています。宮古島には当時、3万人の兵士らが駐屯し、島全体を要塞としていました。本土決戦までの時間を稼ぐためアメリカ軍をくぎづけにする作戦の一環でした。

宮古島市 ピンフ嶺戦争遺跡群|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

特攻艇秘匿基地の建設

海軍部隊は、敵襲にさいしては海上からの特攻攻撃を企図し、約50隻の震洋型特攻艇を城辺町の友利海岸に秘匿していた。英艦隊の来襲にたいしては、日本側航空隊は、約20機の特攻機を出撃させ、英空母を攻撃、11機の艦載機を破砕したほか55名を死傷せしめた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 233頁》

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宮古島市の荷川取海岸に「特攻艇秘匿壕群」があります。日本軍は、アメリカ軍の本土上陸を食い止めるため、沖縄の各地に特攻艇を送り込みました。アメリカ軍が上陸しなかった宮古島にもひそかに特攻艇が配備されていました。爆弾を積んでアメリカの軍艦に体当たりして自爆する秘密の特攻兵器「マルレ」を隠すためにつくられたのが、秘匿壕群です。荷川取海岸の付近には、今も26の壕が残されています。宮古島の特攻艇「マルレ」は、出撃することなく、太平洋戦争は終わりました。

宮古島市 特攻艇秘匿壕|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

弾薬庫の建設

現在、自衛隊が大がかりな弾薬庫建設を進めている保良集落には、当時も日本軍が弾薬庫を建設、爆発事故で幼児を含む住民の犠牲がでている。

沖縄と自衛隊(7)宮古島と弾薬庫 住民犠牲の事故も – QAB NEWS Headline

木山壕には弾薬が入っていて、それを移動するため五、六人の兵隊が弾薬箱を荷車につんで運んでいた様です。… ごとごと押している荷車の安全ヒモがはずれ、弾薬箱が路面に落ち、爆発したのです。荷車のあとかたもなくふっとばされた現場は、道ばたの立木も黒くこげていました。現場から遠くはなれた所に、子守りと共にふきとばされて弘子はたおれていました。ぐったりした吾が子をかかえて、狂乱状態で家につれて来ましたが、 ほとんど即死だったのです。 子守の平良みつえちゃんも四、 五日してなくなりました。 … 娘が死んだ翌日、夫が帰って来ました。寝がえりをうちながら弘子弘子と呼びつづけるのです。やけ酒を飲み、墓に通いつづけるのです。気がふれた様になって、それがもとで、病の床にふし、 二十年五月には夫も死んでしまいました。シゲマツ、村山という二人の兵隊も即死したが、生き残った南軍曹という人が後日見舞に来て耳はきこえなくなり自分みたいに不具者 (ママ) になるよりはよかったかも知れないと慰めていた。いくら慰めても死んだ幼子は帰って来ない。ガタピシの悪い道路を危険物を運ぶのに子供たちを遠ざける事さえしなかった。部落のまんなかに弾薬を入れる壕を掘るくらいだから

「主婦」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 2 - Battle of Okinawa

 

食糧難 - 飢餓との戦い

島に3万人の日本兵がやってきた。その後、米軍の上陸なくして島は壊滅する。

宮古島には納見敏朗中将を長とする先島集団傘下に第28師団 (兵員約16,000名)のほか、多賀哲四郎少将が率いる独立混成第59旅団 (兵員3,360名)と安藤忠一郎少将指揮下の独立混成第60旅団 (兵員3,320名)、第32軍直轄部隊 (兵員6,700名)、それに村上重二大佐が率いる海軍部隊 (兵員1,714名)の計約27,000名が守備に任じていた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) / 230-233頁より》

封鎖され、補給経路をたたれた島で「飢餓との戦い」がくりひろげられた。

民間はもう生きるだけが精いっぱいの日々でしたが軍もひどかっ た。 空家になった民家に入って畳などをかっぱらっていく。まるで盗みあいでした。 それに芋や食べものを盗んでいく。 兵はみんな栄養失調になっていました。 添道にいた一般兵卒はみなひょろひょろ やせているのに、小隊長とか中隊長というのはふとっていてね。 そういうひょろひょろやせた兵卒をムチでたたいて壕掘りをさせてい ました。ムチでたたかれて盲目になった兵隊を、 使いみちがないか穴でも掘れといってね、手さぐりで穴掘りしているのをうしろか ピシピをたたく。 軍隊とはこんなにもこわいものなのかと、おそろしくなったこともあります。

添道には海軍の部隊もいたが、そこで沖縄特攻に行くんだという少年航空兵を何度もみました。 あすは特攻機で飛ぶんだといって酒盛りをしている。翌日の未明にはもう練習機みたいな飛行機がよろよろと飛んでいく。まったく頼りない飛び方で。下で見送っている兵隊は「沖縄島には敵機動部隊がたくさんいるそうだから、奴なんかはあと一時間のいのちだ。 つぎはぼくらの番かな」 とはなしたり していました。 食べものもろくになく、戦闘力ももう心細い。 気の毒なものでした。これでほんとうに戦争ができるのだろうか、これが日本の兵隊なんだろうかと思ったりしました。 だから上里医者が 「もう戦争は駄目だ」と言うのを聞いて、確かにこれでは頼りない なと思ったこともあります。… ところが参謀や連隊本部なんかは非常に強気でした。

「空襲さけ朝夕だけの分散作業」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 2 - Battle of Okinawa

水不足と食糧不足。基地建設で伐採された山林で、井戸の水が枯渇する。

軍に徴用された「女子報皇隊員」女性の証言

山林の乱伐がたたったのか、保水力がなくなって、島民と兵隊が汲み出す井戸の水が少なくなった上に、干ばつが続いたりして食概事情は益々恐くなりました。ヘビやとかげを、あげくのはては蝉の半焼にしたものまで食べ、アダン葉の白い若芽を抜いておつゆの実にして食べたりしました。極度の疲労と栄養失調、それに加えて、悪性のマラリアにかかり、班長をしていた、長山ハル、仲間ハツは戦争が終って間もなく二十歳くらいの若さで、死亡しました。

「女子報皇隊員」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 1 - Battle of Okinawa

 

日本軍と慰安所の建設

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 宮古島地区防禦配備図に慰安所があった位置 (赤丸で示す) を重ねた。

沖縄戦時、宮古島には少なくとも17カ所の慰安所があり、ほとんどが朝鮮半島から連れてこられた女性だったことが、研究者らの調査で分かっている。

旧軍文書に「慰安所」宮古島での存在裏付け | 沖縄タイムス

アリランガー (アリランの井戸)

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(マラリアから) 生命びろいしたのは慰安所の女たちのくれた薬だったんですね。終戦後二、三か月は、うちの隣のバラック慰安所に朝鮮出身の女たちがいましたが、その女たちが、うちの母と親しく交わっていたんですね。うちにあるのを何かあげたりしていた関係ですね。私がマラリアにかかっているというので、薬をくれたんですね。それで、何とか、いのちびろいしたんです。ありがたかったですね。

戦争証言 宮古島 ( 1 ) - Battle of Okinawa

 

宮古の学徒隊

鉄血勤皇宮古中隊: 県立宮古中学校

宮古中学校の生徒たちは、1943年には主に海軍飛行場の設営作業に当たり、44年からは陸軍に中飛行場、西飛行場の設営に動員されるようになった。中飛行場の設営作業では、作業中に土砂が崩れ落ちて4名の生徒が生き埋めとなる事故が起きたりもした。 

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 208頁》

当時、宮古中学校に神田某という配属将校がいました。6師団長の任命といって校長より権威がある様子でした。巾の広い革のベルトをしめ、その下には腹巻きをのぞかせて、胸を張りすぎて腹を突き出したような最大限のそっくり返りかたで歩いていました。…入学早々、教練の時間に私も頭にコブが出来るまでそのサーベルでたたかれたことがあるし、高学年の生徒は両手に持った二振りのサーベルでめちゃくちゃになぐられたりしています。

一般教練の授業が減らされ、軍事教練の時間が増えていきました。下級生は木銃、上級生は本物の小銃を使って戦闘演習をしました。夜間の外出禁止、集会をもつだけで重ければ退学、軽くても説論処分は受けるという重苦しい中学生の生活が強制されていた。運動会も一般体育よりも戦闘演習が大きな行事の一つだったし、兵隊の格好をした中学生たちに藁人形を銃剣で突かせ、運動場は小さな戦場を思わせるような硝煙の臭いが立ちこめていました。……

沖縄県教育委員会沖縄県史』10 沖縄戦記録2)

宮古高女学徒隊: 県立宮古高等女学校

昭和20年の年明けからは、空襲も度重なり、私たち3年生と4年生は、特志看護婦として、出身地域にある病院へ配属されるようになった。下地、城辺出身は、第1野戦病院 …で看護法を受講し、終了すると4年生と組合わされ、それぞれの任務に配置された。… 4月中は空襲に明け暮れ、負傷兵は毎日のように運ばれてくる。ついに5月4日には、艦砲射撃が宮古全島を震動せしめた。防空壕の中で息をひそめ、その夜第1野戦病院は、鏡原の細竹陣地へ移動した。

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 202-203頁》

丁度飯上げの時間帯で、当番の兵隊さんたちが集まっている、そのときだった。皆粉々だった。相思樹並木は人の内臓で覆いつくされた。放心して何の感情もなく、ただ細切れになって散乱している肉片と、臓器を26個の箱に分けて入れた。日時は別だが、学友の1人も爆風で下半身をやられ、戦後苦しみながら亡くなった。

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 201-202頁》

「八月は地獄」

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補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸焼きし宮古よ八月は地獄」

戦病死した日本兵は2,569人とされ、九割はマラリアと栄養失調が原因としている。

《東京新聞<「餓死」の島 戦争マラリアの悲劇>(上)飢えと病の地獄があった》

 

宮古島、生と死が隣り合わせの「もう一つの戦争」

瓦礫の島 - 空爆と機銃掃射

激しい空爆と機銃掃射のなか、軍の厳しい魚の供出のため「漁労班」は漁にでることを強いられた。

沖縄戦の絵】「銃撃を受ける漁船」

宮古島での米軍空襲の様子。港から1キロほど沖合で、宮古の民間漁船が米軍の艦載機から銃撃を受けていた。その後、漁船の乗組員が攻撃で亡くなったと聞いた。

宮古島 銃撃を受ける漁船 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

激しい空爆のために船を出すのを拒んだ住民は、軍によって厳しい制裁をうけた。

兵隊が五人程で、寝ている私を引きたてたのです。 夜道を物もいわさず学校南にあるタカヤマの陣地の中へつれて行かれました。 雑木林の中にある松木にうしろ手に縛りつけたまま放置したのです。 翌朝、早朝から始まった空襲機の機銃弾が目の前にある岩にはじけるのに、網をほどいてもくれず、逃げる事もできません。… 兵隊たちは島に来た初めの頃は、この島の人は文字は書けるかなどと質問したり、見下げた様な態度でいた。

「ありがためいわくな時代」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 2 - Battle of Okinawa

「10・10空襲」を皮切りに宮古島連日のように米軍機の空襲にさらされ、瓦礫の島へと化していった。昭和20(1945)年になり、3月までの宮古島の空襲は、主に軍事目標が狙われていたが、4月に入ると次第に市街地が狙われていく。時限爆弾や街を焼き尽くす焼夷弾も用いられるようになり、平良の街は廃墟と化した

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爆撃を受ける平良の軍事施設

その後の空襲は、10月13日にあって、年内はほぼ小康を保ち、明けて昭和20(1945)年正月早々から再び始まり、3月以降7月までは連日のように繰り返された。4月3日延べ140機、5日延べ200機、8日延べ300機と大空襲が終日続き平良のまちはあらかた焼失した。平良に限らず、連日の無差別爆撃で民家の密集地帯は全郡的に焼けてしまった。

廃墟と化した平良市街

総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)

島は飛行場など軍事目標を狙った空襲を受ける。爆撃の目標は次第に市街地へと変わり、猛烈な艦砲射撃も浴びせられ、日本兵や多くの市民が犠牲になった。さらに食糧不足による栄養失調やマラリアにも苦しめられ、大勢亡くなった。

元宮古島駐屯兵が語る「今も正気で話せない」沖縄戦の記憶 | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞 

空爆が続くなか、6歳の子どもまで飛行場建設に徴用される。

「モッコウを担いで、土の運搬、ザルを持って、整地作業などをさせられました。大変、つらい思いをしたことを覚えています」

悲劇は宮古島でも【司法が認めた沖縄戦の実態⑩】 | InFact / インファクト

 

飢餓と戦争マラリア -「八月は地獄」

軍事拠点化された島。土地を奪われ、徴用と供出に追われ、空襲下で、次に来るのは深刻な食糧難である。平良飛行場建設で土地を奪われ、移住するが、その移住先でも土地や食糧を供出させられ、飢餓とマラリアで消滅する集落もあった。

空襲中は、植えられたイモを掘りとって食うのが精いっぱいだったので、畑は荒れていました。その畑地を、「軍」は「自活」と称して、不当にもとり上げたのです。とり上げた土地のイモをほりとって食い、自分らでイモを植えています。… 自分の畑に行き、「軍」の掘りとったあとの土の中から、小さな残りものである草のイモをとってくるというあわれな仕儀です。

(戦後、米軍が DDT を撒く) … その時からです。袖山の里がマラリアの生き地獄になったのは。マラリア禍は一つのっていきます。そのうちに葬列に加わる人もいなくなりました。マラリアにおかされた家族同士で、借りた馬車に積んでいって形ばかりのとむらいをしました。金はない。医者はたのめない。食いものは足りない。一日に六、七人死ぬ日もでてきました。

「袖山部落考」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 5 - Battle of Okinawa

戦況が悪化するにつれ、宮古島では食糧不足が深刻化し、慢性の栄養失調は郡民の体力衰弱となり、マラリアの蔓延を来す。物資不足の中で衣類は米穀用麻袋がその材料となる。予告なき襲撃の前に脱衣して水浴することも人々の生活から失われ、空襲におびえるなかでシラミとの闘いも始まる。昼間の作業は死につながるようになり、月明かりなどで植え付けていた甘藷も照明弾投下の夜間空襲が始まるなかで食糧自給の道も閉ざされてくる。備蓄した非常食が底をつき、掘り残されて土中で芽を出した"草のいも"を掘り、処理を誤ると中毒死につながる蘇鉄採りが始まる生と死が隣り合わせる「もう一つの戦争」宮古島は巻き込まれていった。

総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況 魚拓

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宮古島の沖縄戦 ~ 戦争マラリアの悲劇 - Battle of Okinawa

 

宮古島の「戦後」

8月23日、納見敏郎中将(師団長)らが嘉手納の米軍司令部で停戦協定に調印。 25日、先島の部隊に対して戦闘行為停止命令が出され、翌26日米軍海兵隊宮古島に進駐し、宮古島測候所(現・宮古島地方気象台)広場で武装解除、集められた武器は海中投棄され、順火器などは爆破された。 31日、野原岳戦闘指令所において軍旗が奉焼された。 9月7日、嘉手納の米軍第 10軍司令部前広場において、陸軍を代表して納見中将が参加し、降伏調印苔に署名した。 B C戦犯に指名された納見中将は12月11日、自決。宮古戦死した将兵は2,569人その殆どが戦病死であった。戦死者の数もさることながら戦死率も沖縄本島に比べて低い。戦死原囚も被弾死は少ない。将兵の復員は10月20日から始まり、翌年の 1946年(昭和21) 1月に一応終了した。復員数は23,931人であった。

沖縄県「戦争遺跡詳細分布調査Ⅴ宮古諸島編」p. 23.

米国陸軍: Japanese count and stack weapons and swords to be turned over to the American Government, at Miyako Island. /  宮古島で、米国政府に引き渡される武器や刀剣を数えて積み上げている日本兵。1945年9月24日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍の監視の下で武装解除をおこなう日本兵。表情に注目。

米国陸軍通信隊: Japanese soldiers unload steel helmets from trucks to barges for dumping into the sea, Miyako Island. / 海に投棄するため、トラックからはしけに鉄製のヘルメットを積み込む日本兵宮古島。1945年9月26日     

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

 

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【戦後70年】「終戦の詔書」発布、一方で抗戦派は... 1945年8月14日はこんな日だった | ハフポスト

*1:沖縄公文書館における沖縄戦における石垣島宮古島の記録写真が沖縄島や他の離島に比べて少ないのは、ひとつには上陸作戦がなかったことと、また英国海軍が作戦を担ったことによるものと考えられる。